再建主義者いわく、狭義の再臨と広義の再臨?
前から指摘しているとおり、「再臨」はThe Scond Coming、定冠詞がつくのだ。再臨の次は再々臨、The Third Comingである。と、二度の「再臨」がナンセンスであると言っているが、今度は「狭義の再臨」と「広義の再臨」と言い出した模様。「広義の再臨」は霊的なものであると・・・。今回の記事からは「再臨」がAD70のものを含めて何度もあるような印象である。
また七つの教会が当時の断面的教会であると主張している。私は今回のメッセでも少し触れたが、二千年にわたる時系列的教会のあり方を啓示している解している。
現代の教会が再臨として提示しているものは、完全な聖書の誤読であり、間違った神学に基づくものです。
それは、「広義の再臨」とも呼べません。
狭義の再臨は一度限り、紀元70年に起きたのです。
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それゆえ、それを文脈を離れてわれわれの時代もしくは未来の時代に適用することはできません。
繰り返しますが、マタイ24章で「再臨の前兆はこの時代に起きる」とイエスは明言されています。
それゆえ、再臨もこの時代、すなわち、紀元1世紀に起きたはずです。
黙示録も、紀元1世紀の小アジアの7つの教会に向けて記された手紙であり、これらの教会のクリスチャンたちにヨハネは「すぐに起きるべきこと」と言っているので、それは紀元1世紀に起きると解釈しなければなりません。
では「広義の再臨」とはどのようなものでしょうか。
それは、「紀元1世紀におきた状況と類似した状況のもとで起きる世界の堕落とそれに対する裁き」です。
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当時と同じサタンが当時と同じ悪霊を使って行うのですから、似てくるのは当然です。
偽メシアに、偽預言者、偽神の国、民の背教、戦争、洪水、飢饉・・・
紀元1世紀に起きたことが繰り返される。
宗教改革直前にも起きたことです。
このような堕落の中で「主は再臨される」。
しかし、それは、紀元1世紀の時のような「物理的再臨」ではなく「霊的な再臨」すなわち、御霊を通じたキリストによる裁きです。
このような「広義の再臨」は、神の国の拡大に伴って、世界中でどの時代においても起きます。
御国の拡大は、麦と毒麦の成長と刈り取りもしくは焼却という過程の繰り返しだからです。
世界の終末(歴史の終焉)におきる再臨は「新約世界を裁くための来臨」です。
再臨は2度必要であり、一つは旧約世界を、もう一つは新約世界を裁くために起きます。
これは旧約律法における清めの原則が「2度の聖めで完了する」であることから来ています。
世界は紀元70年に、イエス・キリストによって父なる神に献上されました。
しかし、これでは「完全に聖められた状態で献上されたことにはなりません。」
なぜならば、キリストのニュー・ワールド・オーダーはあくまでも「法的なもの」でしかないからです。
新約時代における大宣教命令の漸進的成就により、徐々に世界の民族が弟子化されていくことなしに「完全な聖め」はあり得ません。
宣教が進み、世界の諸民族が弟子化されていき、ついに完成するときに「第二の再臨」があり、イエス・キリストは、「実際的」にも聖められた世界を父なる神に献上されます。
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