ニュークリーチャーとはYHWHの生命意識共有体

聖書は宗教本ではないことはすでに繰り返し、繰り返し強調している。いわゆるキリスト教なるマトリックをエクソダスせよとも。

見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう、「イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる」と言わず、「イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる」と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。-Jer 16:14-15

エジプトはファラオ(世の君)が支配するこの世、追いやられた国々(捕囚の地)とは宗教である。どこへ帰還されるのであろう。先祖に与えた良き地(カナンの地)、すなわちキリストご自身である。そのキリストは十字架の死において、その血をもってわれわれのすべての罪々(sins)を洗い清め、古い私を終わらせ、その復活において新しい在り方となられた。

「最初の人アダムは生きる魂(Gk)となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。-1Cor 15:45

旧創造であるアダムは生きる魂(a living soul)となったが、最後のアダムにして、第二の人であるキリストは命を与える霊(a life-giving spirit)となられた。魂次元から霊の次元への跳躍である。もちろんキリストは肉体をもって復活し、今や天に上げられているが、同時に肉体に制限されない在り方を得たのである。ゆえに聖霊が来られるとき、キリスト・イエスご自身が私のうちで命となられる。

あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。-Col 3:4

それが新創造であるエロヒム属である。YHWHエロヒムの命を分与された存在。

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。-1John 4:13

さらにわれわれはキリストの思い(マインド;nous)を得ている。

「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。-1Cor 2:16

われわれは自分の魂由来の思いを聖霊から独立して用いることはしない。魂を否み、聖霊のもたらすキリストの思い、すなわちキリストの言葉とわざをもって意識するのである。

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。・・・あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。・・・しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。-John 14:23-26

聖霊が来られるとき、父と子が来られるのである。すなわちYHWHエロヒムの全パースンが私たちのうちに内住される。この聖霊はイエスの言葉とわざを証しし(実体化)、イエスが私のうちに実感をもって生きられる。そしてそのお言葉を意識に上らせ、私たちはその言葉によって、すなわちキリストの思いによってすべてを意識するのだ。これを聖霊のメモリーと呼ぶ。

聖霊はちょうどOSのような存在であり、ご自分を証しされることはなく、聖霊にあって、ちょうどアプリのようにイエスが生き、イエスは御父の言葉とわざを証しされる。こうしてYHWHエロヒムが私を通してエミュレートされるのだ。

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神をエミュレートする者となりなさい。-Eph 5:1

ここの子供とは養子ではなく、生み出された者、すなわち命を共有している存在(Strong)、さらに「倣う」とある原語の本来の意味はエミュレートである。Windowsマシンにエミュレーターをインストールすれば、Mac iOSを走らせることができるようになる。無骨なWindowsマシンで洗練されたMacのソフトが走るのである。これと同様に、無骨はわれわれの肉体を魂を通して、霊のうちにおられるYHWHエロヒムがエミュレートされる。ゆえに

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子の信にあってです。-Gal 2:20

肉にあって(=体と魂)生きているわたし(自己意識)は、自分の資源によって生きるのではなく、神の子のフェイスにあって生かされるのである。フェイスとは霊的実体(サブスタンス)であり、その現出である(Heb 11:1)。かくして霊のリアリティが私の肉体と魂を通して五感の領域へと実体化される。こうして五感で感知できない霊のリアリティ(サブスタンス)が、五感で感知できるようになる。あたかも目に見えない電波に乗せられた映像や音声やメールがスマホにより五感の領域に現わされるのと同様である。

この時、私たちは五感の領域における事実や経験を自己意識で判断したり、評価したり、意思決定したりしないようになる。すなわちキリストの意識とバイブスが共鳴することにより、キリストの意識によって処理することが可能となる。地上におられたキリストの内的経験が私の魂と体に再現されるのである。この意味で私たちはキリストの意識の追体験をする。

これはすなわちYHWHエロヒムの命(Zoe)の増殖であり、キリストの自己形成である。

わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで・・・-Gal 4:19

キリストが私のうちにモルフォー(形成)される。すなわちキリストがエクレシアとして増殖するのだ。ゆえに

エクレシアはキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満です[1]満ちておられるところとか場ではない。ところや場に満ちるといった考え方がキリスト教を生む。キリストの充満である。。-Eph 1:23

神の成長を成長する[2]あるいはエロヒムの増殖を増殖する。。-Col 2:19(岩波訳;田川訳)

かくしてエクレシアとはキリストである! 人間が組織した宗教団体などでは毛頭ない。それは生ける有機体であり、YHWHエロヒムの命と意識を共有する存在である。エクレシアはオーガニックに成長する(Mark 4:26-29)。

聖書は生命現象の書である!

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1 満ちておられるところとか場ではない。ところや場に満ちるといった考え方がキリスト教を生む。キリストの充満である。
2 あるいはエロヒムの増殖を増殖する。

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