なぜ刺身は美味しいのか、なぜ大吟醸は美味いのか、なぜ美しい音楽は甘美なのか、それはブレインにそれを感じるセンサーがセットアップされているからだ。われわれのいわゆる五感は光、音、触、匂、味という要素に反応する。主はそれを楽しみのために備えて下さった。もちろんその放縦は害毒となる(☞老子いわく「幸福は肉体の穴を塞ぐこと」-ウェーバー・フェヒナーの法則)。

霊の機能は、直覚交わり良心の三つの機能があることはウォッチマン・ニーが指摘している(☞霊の機能と魂・体との相互作用について)。直覚はフォティーゾ(☞フェイスはフォティーゾー(霊的感光))の結果として霊的光の照射を受け、魂の思いを用いて御言葉と照合され、言動によりワークアウトされるとき、五感の領域で経験することができる。理由は分からないが、ただ分かる。I KNOW THAT I KNOW.

交わりは個人的祈りやワーシップの中で主の愛が聖霊により流れ込み、その甘さに浸ることができる。神の愛は単なる標語ではなく、実際に感じることができる実に甘美なものである。ブラザー・ローレンスはこの経験を極めたひとりであり、その証も実にスウィートである(☞神の愛に満たされたい時に)。

良心は現代用語であり、岩波訳は「内奥の意識」と訳している。これについては☞言語マトリックスの罠-御言葉を現代的意味でとらえてはならないを参照されたい。

主は御自身の体を食べ、血を飲めと言われた。食べ飲みすることは主のなされた十字架による贖いの経験を五感で確認することである。だから「食べることにおいても主の栄光のために」と勧められている。主を食べ飲みすること。なんというトンデモだ!!!と当時の民衆も律法学者たちも憤った。

しかしこの霊的リアリティーを文字通りに味わう、つまりテイスティングができるのだ。これが新約のわれわれの特権である。主の血も肉もまさにA5である✨それはおいしいのだ😊宗教儀式に堕して久しいキリスト教とはこれを知らない。主が甘美であると言ってもポカーン???ブラザー・ローレンスは言っている、「主の甘美が溢れてきて叫びたくなる」と。

クリスチャンとキリスト教徒は微妙に異なる。エクレシアとキリスト教界も同様だ。エクレシアがキリスト教のマトリックスに幽閉されているゆえに、二度目のエクソダスをせよ(@YouTube)ともう20年来語っている。これがどうもそう簡単ではないようなのだ。キリスト教の中で自分の何かを確立してしまった人は特にである。

神はつねに善である。GOD IS ALWAYS GOOD!!! ヨブ(☞欺かれたマインドは言う、「神は理不尽な苦難を与える」と)やエゼキエル(☞エゼキエル・トラウマに陥ることなかれ-その妻はなぜ取り去られたか?)の例から、いわゆる神が訓練するために悲劇を与えると言ったトラウマ・メンタリティーに陥ってはならない。主の十字架は赦し、癒し、慰め、回復し、建て上げ、健やかに繁栄するため、呪いと祝福を交換する場なのだから。

A5の肉と熟成の酒を享受せよ!主はそれらをもって私たちを楽しませてくださると言われるのだ。もちろんそれはジーザスの体と血の予表である。セレブレーションはこの実体験の場、つまりスピリチュアル・バスである。浸るだけで聖霊のペネトレーションを内からも外からも受け、魂は健やかに、この死ぬべき体にすらいのちが与えられるのだ✨

LET’S ENJOY CHRIST!!!

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