iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ


ジーザスの愛にとどまるとき、希望が生まれ、希望は信(フェイス)にスーパーインポーズされ、それは願うサブスタンス。こうして信・希望・愛は有機的に五感の領域において経験し得るのだ。

TODAY’S CELEBRATION Dec 26, 2021:GPS-ゴッド・パッション・システム-YHWHエロヒムのパッションフルな愛に生きる
引用聖句:Luke 1:5;36;Eph 2:1;1Cor 1 …
- 引用聖句:Luke 1:5;36;Eph 2:1;1Cor 15:45;Gal 4:19;Eph 5:1;1Tim 3:16;John 14:10-12;Eph 1:23;Col 2:19 etc. (チャートはこちらをどうぞ☞①、②)
- 次回:2022年1月9日(日)(1月2日はありません)
- 場所:鶴見駅前ホール第一・二会議室
- 時間:13:00-16:00
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

ヴィドゲンシュタインの結論は「語り得ぬことは沈黙すべきである」だった。ゆえにYHWHのサブスタンスそのものであるロゴスがこの五感の領域に出現する(エビデンス)必要があったのだ。すなわち御子はYHWHエロヒムのフェイスである。
今、フェイスとは願われるサブスタンス、観測されていないことのエビデンスである。-Heb 11:1(私訳)

繰り返すが、ジーザスはキリスト教の教祖でもないし、聖書はキリスト教の経典でもない。キリスト教なる宗教体系はすでにYHWHエロヒムの啓示から外れていることに注意せよ! 正統神学や伝統などに騙されることのないように。
しかし今思うに、あれだけの大規模事件をオウム真理教なる宗教団体だけで行えるのだろうか。ソ連製の軍用ヘリを入手したり、武装したり、サリンを合成したりと。リチャード・コシミズ氏の指摘通り、某国の仕掛けがあったとしても何ら不思議ではない感じがする。

TODAY’S CELEBRATION Dec 19, 2021:GPS-ゴッド・プロミス・システム-フェイスによりYHWHエロヒムの約束を実体化する
引用聖句:Ps 107:19-32;Acts 20:27;Ro …

その際の記事はこちらです。
今年彼は召されました。その際のCelebration Of Lifeのヴィデオです。
Without him, no me now. R.I.P.

我々が五感の領域で経験するあれこれ、それは何によって生み出されているのだろう。「あれこれ」とはアイオン(αἰών)、Strongによればこうある:
From the same as G104; properly an age; by extension perpetuity (also past); by implication the world; specifically (Jewish) a Messianic period (present or future): – age, course, eternal, (for) ever (-more), [n-]ever, (beginning of the, while the) world (began, without end). Compare G5550.
Vincentはこう解説している:
Lit. the ages. The world or worlds as the product of successive aeons.
つまりわれわれの時系列的経験、五感によって感知される諸事象を意味する。そしてヘブル書はアイオンは目に見えるものから生じるのではなく、見えないものから生じると証言する:
信仰によって、この世が神の言葉によって造られたこと、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。-Heb 11:3(岩波訳)
Through faith we understand that the worlds were framed by the word of God, so that things which are seen were not made of things which do appear. (KJV)
「言葉」はレーマ、「造られ」はフレーム化あるいはレンダー、すなわち五感の領域にあらしめるの意味(田川訳では「整える」)、「理解している」の原意はヌース(思い)により把握する、である。信仰という単語は不適切であるとすでに繰り返しているが、フェイスとは五感を超えたシックスセンスであり、スーパーナチュラルなスピリチュアル・パワーである。
現代量子論によると、量子は波動でもあり粒子でもある。ド・ブロイは物質は波であるとして、λ=h/mv=h/p (p=mv)とした。λは波長である。これを波動方程式に組み込むことによりシュレディンガー方程式が構成され、それは実験結果ときれいにフィットした。ところがその意味が問題となった。波動関数φとは何か。ボーアやアインシュタインとの論争の中で、それは粒子の発見確率を意味するとされた[1]φの絶対値の二乗|φ|2が確率密度関数を表すとするもの。。つまり波動は局所的実在としての波ではなく、確率分布という情報であるとするのだ。
これは局所的実在を否定するペル不等式の破れと言う形で証明されることになった。詳細は省略するが、二つの波動関数を共有する量子は距離に関係なく一方のスピンが決まると他方のスピンが決定してしまう。すなわち光速を超えて情報が伝達するという、相対性理論と合致しない現象の存在が証明されてしまったのだ。これをエンタグルメントと呼び、アインシュタインはspooky(不気味)な現象と呼んだ。
つまりこの量子は「五感で感知される時空間を超えて存在する何か」とするしかなくなるわけだ。このことを「局所的実在性が否定された」と言う。なんとも不思議ではないか。この世界を造る物質を分解していくと、分子→原子→電子・中性子・陽子→クオーク→弦となるのだが[2] … Continue reading、その電子などの量子は局所的実在ではない何かなのだ。では私たちの体はいったい何なのだ? 確かに五感によって知覚されているではないか、しかしその究極的構成要素は五感の領域を超える何かであるとは???
まさに「見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解」せざるを得ないのだ。それはレーマすなわち言葉すなわち情報がフレーム化したもの、あらしめられた(レンダーされた)ものなのだ。パワーポイントで投影された映像は、もとをただせば0と1の集合体、あるプロトコル(規則)に従って構成されたマトリックス、すわなち情報である。それがPCとプロジェクターによりフレーム化(レンダー)されたものである。0と1の集合体はわれわれはその意味をすぐには理解できないが、フレーム化(レンダー)されるとき、五感で感知し得る意味が生じるのだ。これと同じことをヘブル書は説いてる。
さらに、もっと原意に正確に訳すと
By faith we are apprehending the eons to adjust to a declaration of God, so that what is being observed has not come out of what is appearing.(CLV)
アイオンは神の宣言に適合するようにあらしめられるのだ。神の宣言とは語り出されたロゴス、ヘブル語ではダバー(dabar)、それは実質・実体そのものである。われわれが五感の領域で感覚/知覚して経験する事象はYHWHエロヒムの発出したロゴスそのものに適合するあり方とされたアイオンである。
そしてヘブル書は宣言する:
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって(の中で)、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって(を通して)、もろもろの世界を造られた。 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質(ヒュポスタシス)の真の姿であって、その力ある言葉(レーマ)をもって万物を保っておられる。-Heb 1:1-3
御子とはYHWHエロヒムのロゴス(John 1:1)、すなわちダバー(dabar)、実質・実体である。ここで大切な点は、YHWHエロヒムは御子にあって語られた(アオリスト)ことである。すでに語られた(過去形)。つまりYHWHエロヒムは御子にあってすでに宣言されたのである。何を?
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。-1Cor 2:9
五感では知覚できない、思いにも浮かばないことである。そしてそれは
なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって(あって)「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ(確立し)、油をそそいで下さったのは、神である。-2Cor 1:20-21
For as many promises as are of YAHWEH, in Him they are yes, and in Him are Amen, for glory to YAHWEH through us. But He confirming us and anointing us with you in Messiah is YAHWEH, even He having sealed us, and having given the earnest of the Spirit in our hearts.(HRB)
旧約において提示された神の約束はことごとくキリストにあって「アーメン」とされた。これは単に「アーメン」というセリフを唱えることではなく、その原意「アマン(אָמַן)」、すなわち「現わしむる・レンダーする」ことである。キリストこそはYHWHエロヒムの約束の成就された実体そのものなのだ。その方は死と復活を経ていのちを与える霊となられ(1Cor 15:45)、われわれのうちに聖霊により内住され、われわれもその方にあって確立される。
キリストの内に〔こそ〕神性の全き充満が形態化して宿っており、あなたがたはキリスト-すなわちあらゆる支配と権威の頭-にあって満々と満たされているのだから。-Col 2:9-10(岩波訳)
For in Him the whole fullness of Deity (the Godhead) continues to dwell in bodily form [giving complete expression of the divine nature]. And you[f] are in Him, made full and having come to fullness of life [in Christ you too are filled with the Godhead—Father, Son and Holy Spirit—and reach full spiritual stature]. And He is the Head of all rule and authority [of every angelic principality and power]. (Amplified)
ここの[f]の注としてVincentはこう説いている:
Rev., made full…. Not, ye are made full in Him, but ye are in Him, made full. In Him dwells the fullness; being in Him, ye are filled.
YHWHエロヒムの充満であるキリストが内住されるゆえに、われわれもその方の充満とされているのだ。詳訳ではこう訳されている:
というのは、彼のうちにこそ神性の全充満<神という方>が肉体の形をもっていつまでも宿られる<神性の完全な表現がなされている>からです。そしてあなたがたは彼のうちにあり、満ち満ちた者とされる<満ち満ちたいのちになる>のです<<キリストにあってあなたがたもまた、神、すなわち父、子、聖霊に満たされ、霊的に完全な身たけに達するのです>>。また、彼は、すべての支配と権威<あらゆる天使的主権と力>のかしらです。
かくしてわれわれを通してその神のすべての約束が「アーメン」とされる、つまり実体化されるのだ。キリストがなされたことをわれわれも再現、あるいは追体験するのである。ゆえに主は言われた:
わたしを信じる者はわたしのわざをなし、さらに大いなる業をなす。わたしが父のもとに行くからである。-John 14:12
ジーザスは父の元に行かれ聖霊をわれわれに注がれた。そしてその内住の聖霊はキリストの御霊としてわたしたちのいのちとして充満する。キリストの御霊はわたしたちの霊から魂へと浸透し(ペネトレーション)、わたしたちの魂をキリストの魂の形へと再構成し、死ぬべき体にすらいのちを与え、われわれはキリストの再現となる。われわれのうちにキリストが構成(モルフォー)されるのだ(Gal 4:19)。ゆえに―
この教会(エクレシア)はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているもの(Gk.充満)に、ほかならない。-Eph 1:23(口語訳)
新改訳などにあるように満ちておられる「場所」とか「ところ」ではない(口語訳はまだ良心的に訳している)。充満そのものがエクレシアである(岩波訳では正確に訳されている)。すなわちキリストである。われわれの体と魂はいわばガンダムスーツ、それは本質ではなく、キリストの充満そのものがエクレシアなのだ。白いキリスト教の神学などは捨てよ!
お分かりだろうか? YHWHエロヒムはご自身のいのちをまずキリストにあって実体化し、この五感の領域にあって現わされた。キリストは死と復活をとおしていのちを与える霊となられ、物理的存在に拘束されない霊としてわたしたちのうちに時空間を超えて内在される。そのキリストの成就されたすべてが五感の領域にある私たちの体と魂をとおして再現されるのだ。これがエロヒムをエミュレートすることであり(Eph 5:1)、その増殖である(Col 2:19)。
エロヒムの成長(増殖)を成長(増殖)する。-Col 2:19(原意、田川訳と岩波訳は正確)
かくして地上においても天になるとおり御旨(=五感で知覚できない意志のサブスタンス)が現出するのだ(=実体化されて知覚されるリアリティーとなる)。天には罪も病も貧困もトラブルもない! われわれはそのリアリティーを<今・ここで>享受する。フェイスはそのサブスタンスであり、エビデンスである(Heb 11:1)。それは永遠のNOW体験。PTL✨

TODAY’S CELEBRATION Dec 12, 2021:GPS-ゴッド・ポッシビリティ・システム-フェイスは可能性を実体化する
引用聖句:Rom 5:12;1Cor 15:22;2Cor 1 …

ついに厚労省が心筋炎の副作用を認めたが、今後自己免疫疾患が起きてくる可能性を内科医が指摘している。
シンプルに怖い。何者なのか?味方なのか?
— トスターダ (内科医) MD PhD (@tostadas_Md_PhD) December 10, 2021
mRNAワクチンの重い全身副反応は自己免疫疾患の可能性
mRNAワクチンによる抗体は、自然感染に比べ
• 補体や修飾等だけでなくIgGサブクラスが違う は?え?涙
• 接種者はIgG1, IgG3が多い
• 重い全身副反応者もIgG1, IgG3が多いhttps://t.co/Yc49WL5Wms pic.twitter.com/2pNCzxAurJ
そして、その場合、ブースターは
— トスターダ (内科医) MD PhD (@tostadas_Md_PhD) December 10, 2021
毎月接種しなければならない程度にしか効果が無いばかりか、
抗RBDIgG1/3に病原性があるのなら、益々IgG1/3 への偏重を促進するだろう。
自己免疫疾患は発症までに時間がかかる。
何もなければ良いが…

量子情報理論のHotta先生のツイに僭越ながら一言。量子論では量子の本質を把握することができない。かといってその存在がないとは言えないと先生は言われるわけです。理論は現象(シニフェ)のモデルの構築(シニフィアン)であり、言語化できないことが即不存在だとは言えないわけです。
逆に存在していてもサイエンスでは五感のレベルに還元できなければ感知不能、つまりわれわれの主観的な経験となり得ないわけです。まさにスピリチュアル・エンティティなどはその典型です。存在しているが、センサーである霊が機能していないならばそれはその人には意味がありません。
量子論や時間論はそんな問題を提示しているわけです。
- 科学と信仰@KF_Site
ヴィトゲンシュタイン的に「言語は世界の映像」即ち言語化は存在の鏡像構成だから、鏡の前に認識論的障害/限界があれば鏡像は構成不可。逆に物理理論は存在のモデルつまり現象の記述である以上、最終的には五感レベルに還元できなければ単なる言語内存在に過ぎない。シーニュの問題となるのだろう。 https://t.co/ZVOZssuizx
— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) December 10, 2021


石原裕次郎の『みんな誰かを愛してる』の出だし-時の移ろいは悲しみを忘却の彼方へと連れていく・・・なかなかシブイ😎
2021年も終わりに向かっている。まことに時(クロノス)の流れは速いと感じる昨今ではある。ひたすら青春のエネルギーをもてあまし、浪費していたあの焦燥の日々。青春の蹉跌で渇き切り殺伐としたあの時。今の方がはるかにしっくりと満ち足りている。古の白楽天もこう詠んでいる、洒脱な世界観である。人生は、是れ遊びの究極の境涯。


早夏遊宴 白居易
慵ものう)しと雖(いえ)ども 興 猶(なお)在り,
老いたりと雖えども老心 猶健やかなり昨日
山水に遊び、今朝は花酒に宴す山榴(さんりゅう)は豔(えん)にして火に似、
玉蕊(ぎょくずい)は飄(ひるがえ)りて霰(あられ)の如し
榮落は瞬を逐いて遷(うつ)り、炎涼は刻に隨いて變(へん)ず未だ木綿の褥(じょく)を収めず、
已に蒲葵(ほき)の扇を動かす且つ
物を喜び人と興じ、年年 相見(あいみ)を得る
若いころは膨大な人生の時間が重かった。今はどんどん軽くなっている身軽になるほどに挙げられる日が近くなる。思へばとほくへでございます。今東光の言葉がしみじみと:
人生は冥途までの暇つぶしじゃ、だからできるだけ高級な暇つぶしをせんとならん。
よってぼくは一生遊び人でいるつもり
ただし、これはクロノスの世界のお話。この世界は量子論的には「実在」はないのだ。あるのは情報のみ。それが創発して来ているだけ。聖書も言う-
信(フェイス)によって、わたしたちは、この世界(アイオン)が神の言葉(レーマ)によって創造(フレーム化)され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。-Heb 11:3
われわれエロヒム属、ニュークリーチャーはカイノスに生きる存在。フェイスは永遠のNOWの経験。アインシュタインも、時間は幻想である、しかもしつこい幻想であると言っている。神の業は天地創世の時に完成しており(Heb 4:3)、ジーザスも天地創世の時に十字架につけられていたのだ(Rev 13:8)。そのスピリチュアル・リアリティーがYHWHエロヒムのフェイスにより現出したのが、あの二千年前の十字架である。まことにDerek Princeが言う通りである-

あなたの人生において時間の事柄から、永遠の世界、神の言葉に、そして永遠の真理と永遠の慰めに転機する瞬間あるいは瞬間瞬間が訪れるであろう。-Derek Prince

量子物理学の専門家Hotta先生との対話を採録しておく。真の実在とは何か? もちろんYHWH、すなわちI-AMなるお方である。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ・・・・Exo 3:14
面白い。五感における一種の「像」に過ぎないということだろうか、それを実在と思い込まされている、と。ぼくは浮世狂言と言ってきているが。 https://t.co/u3z7oGAaIt
— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) December 2, 2021
醒めると消えてしまう夢とは違って、生まれてから死ぬまで量子VRゴーグルはスイッチを切ることも外すこともできず、その「実在」は消えない連続性を持つという点を踏まえて頂ければ、その通りです。
— Masahiro Hotta (@hottaqu) December 2, 2021
覚めない夢と。なるほど、ありがとございます。
— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) December 2, 2021

神の選びと人の自由意志の関係はいわゆる「カルバンVSアルミニウス論争」として知られているが、われわれサイエンティストから観るとナンセンスであることをすでに何度も指摘している。そもそも自由意志なるものが幻想であることも(☞参照)。われわれは聖霊のプロンプトに応じただけなのだ。


ここで想起するのがエサウとヤコブの選びであり、諸葛孔明と司馬懿の選びである。
主はエサウを憎みヤコブを愛した(ロマ9:13)
ヤコブ、まさに狡猾さの極みの男。なぜだ?
三国志でも天は劉備ではなく曹操を選んだ。彼ら亡き後、諸葛亮の計略により胡盧谷で火に囲まれる司馬懿、亮が「司馬懿は炎の中で死を免れぬ。先帝よ、ついに大漢再興の時が来た!」と感涙の声を上げるも、なんと豪雨が。天は諸葛亮を退け、司馬懿を選んだ。なぜだ?
諸葛亮は言う:事を謀るは人にあるが、事を成すは天にある、と。
ソロモンも言う:人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。-箴言16:9
もしあの時雨が降らなかったなら、その後の歴史はどうなっていたのか? 歴史に”IF”はないのだが、つい考え込んでしまう。しかし往年の司馬懿は諸葛亮恐怖症に陥る。ことわざにいわく:死せる孔明、生ける仲達を走らせる、と。かくして常に思うのだ、俺はエサウとヤコブ、劉備と曹操、そして諸葛亮と司馬懿のどちらだろうか? なぜだ?
なぜ? という問いにはサイエンスは答えられない。否、哲学も、神学も、あらゆる学問も答えられない。そもそもなぜ自分が生きているのか?という原点の問いにも解答はないのだから。
人は、何故?と問う故に苦しむのだ-Dr.Luke-
まことにわれらは陶器、主は陶器師、かくしてソロモンの箴言に戻る:
すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。