iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
年: 2022年

- 引用聖句:2Tim 2:8;Heb 8:10;Ps 1:2;19:14;Gen 6:5;11:6;Eph 3:20;Rom 4:17 etc.
- 次回:2023年1月8日(日)(1月1日のセレブはお休みです、よいお年をお迎えください)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

これ、ニューエイジでは「引き寄せの法則」などというが、真理である。いわゆるキリスト教の方が霊的法則に関しては無知というか、あえて避けている傾向がある。それで●●神学やxx神学でオツムだけの空転現象を起こしている。
主イエスの言葉はこうだ:あなたの信じたとおりになるように(Matt 8:13)。今の私たちが今の状態であるのは自分の信じていることの投影である。ヨブはそう証言している:自分の恐れていたことが起こった、と(Job 3:25)。よくガンに罹る人が言う言葉がある、恐れていたとおりになってしまったと・・・[1]FEARとはFalse(偽りの) Expectation(期待が) Appearing(現れて) Real(実際となる)である。。まことにネガティブなフェイスの実体化だ。神がヨブを試みたのではない。すでに彼のフェイスに穴が空いていた。そこにサタンが付け入ったのだ。そこで神はむしろヨブを保護した。神はなぜこんなに正しい人を試みるのか、とか、この人が癒されないのは信仰がないというのか、とか・・・これらの告発はその人のフェイスの穴を証明していている。
では、何をどう信じるのか。一生懸命「使徒信条」を告白してもそれは意味がない。あなたのサブ・コンシャス(無意識)の層で信じていることがあなたのホントのフェイスなのだから。いわゆる聖書勉強をしたところで、この層に変革がなされないのであれば、裏切られるだけであろう。よく、自分はこんなに一生懸命に聖書を学んでいるのに、そしてそれを一生懸命告白ているのに、思わしい結果が得られない、とつぶやく向きがある。はっきりと言うが、あなたは本当には信じていないのだ。イエスの打たれた傷により癒された、と何度も繰り返しても、あなたのサブ・コンシャスの層がそれを信じていない。そこにフェイスが生きていない。ゆえに癒しは現れない。まことに
人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。-Luke 6:45
あなたのフェイスは何気に、ふと口にするその言葉に現れている。むしろ意識のタガが外れたとき、あなたのフェイスは現れる。だから真に信じている人は、ふと意識が離れるとき、癒しを受けるのだ。癒されるのはいつか、いつか・・・と絶えず意識している人は、逆になかなか癒しが現れない。あなたの意識がむしろ邪魔をしているのだ。自分にとっての世界は自分自身のフェイスの投影である。あなたが、世の中はこうこう・・・・とつぶやくとき、それはあなたの内的世界を表現しているのだ。あなたはあなた自身に向かってつぶやいているにすぎない。今のあなたの状態、あなたの人生、あなたの健康・・・これらはすべてのあなたの自身のフェイスの投影である。まことに信じたとおりになっているのだ。
では、そこから抜ける鍵は。すでに何度も繰り返しているが、アイデンティティー、ポジション、アビリティ、インヘリタンスに覚醒すること。
意識の層だけでなく、無意識の層にまで聖霊のタッチを受けること。自然と、力を抜いている、何気な状態のときの自分の感情や言葉をよく観察すること。果たしてそれは御言葉の啓示にマッチしているかどうか。もし、いなかったら?ただちに、イエスの血をとり、悔い改めること。悔い改めとは後悔することではない[2]正確にはメタノイアとは思いを改めること。「悔い」の意味はない。「思い改め」が正確な訳である。。意識の向きを変えること。まずは意識的に御言葉の真理を選ぶ。このときに少なからず葛藤はある。が、聖霊に頼るのだ。このとき御霊は肉を処理してくださる(Gal 5:16-17)。それはスーパーナチュラル。究極的にサブ・コンシャスの層において御言葉が生きるとき、それは私のフェイスとなり、それが外側に反映される。まことにみ言葉どおりであると経験することになるのだ!
あなたの魂が繁栄しているようにあらゆることで恵まれ、繁栄するように-3John 1:2

天皇制は共産党の造語らしい。制度は変えることができる。が、馬渕氏などは天皇は憲法も超越すると。国家は憲法により規定されるが、天皇が総べる国体はいわゆる近代西洋思想的国家ではないのだ。天と地を結合する霊的存在だとも。この点、われわれのフェイスとコンフリクトが起きる。
すなわち馬渕氏らにとっては国家は単なる箱物としての地的機関であるが(憲法学者の宮沢は天皇機関説を唱えたが)、国体は霊的な存在なのだ。左翼は前者的スタンス、右翼は後者的と言える。精神病理的には国体は集合的無意識に基づくもの、それが日本神話だ。だから天皇がいないと国家は存立し得ても、国体は消失する。
ニッポンは国家のフレームで、日本は国体において定義され、成立する。極私的にもニッポンは嫌いだし、ニッポンキリスト教などはGHQの置いていった置物に過ぎない。だから日本人の精神性とは相容れない。なにがしかの嘘臭さを人々は感知しているのだ。興味はあるが遠巻きに見てるだけ。
が、ジーザスは日本人の深層心理には浸透し得る。だから僕もクリスチャンでいるのだ。要するに人工的なニッポン国家が生来の日本国体を覆い隠してきた戦後70年、国家のフェイク性が明らかになってきて、人々は国体に覚醒しつつあると言える。というか、自分が何者であるのか、自分のアイデンティティーとルーツ探しをせざるを得ない時代なのだ。そんな中で例の『日本国紀』などが爆発的に売れているわけ。
ニッポンキ業界の一部では、天照はジーザスのことであり、日本神話は聖書の書き換えであるとか、天皇家はダビデの血統であるとか、何とかクリスチャン・フェイスと国体を両立させようとするむきもある。これは日本人としての抑圧されている集合的無意識と霊的真理を妥協させんとすることだ。まあ、すでにニッポンキ業界をガチで相手するのもあほらしのだが。ご勝手にどうぞではある。
聖書ははっきりと言っている:血肉は何の意味もない。エクレシアはニュークリチャー、新創造であって、地のものではないのだ。さらに、魂(精神)のものでもない。だからクリスマスなどは騒ぐものではないし、ジーザスが地上に生まれたことを祝うのも極私的には違和感だ。大切なのは割礼の有無(=地的在り方)ではなく、新しく造られること。そしてこの法則によって生きることなのだから。
「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」-ガラテヤ6:14-16
クリスチャンは国体でもなく、国家でもない、別の権威の系統と領域に生きる存在である。

放射能汚染土の再利用:原発基準の80倍|まさのあつこ 地味な取材ノート @masanoatsuko #note https://t.co/Gf1aCNoJeX
— ふくしま30年プロジェクト (@info_fukushima) December 20, 2022
この状態で汚染土を薄く広くまいてしまおうと言うわけだが、大衆はもはや放射能にはほとんど反応しない。福島については私の調査結果を参照されたい。
一方、コロナウイルスはセオリー通り弱毒化して、致死率もインフルエンザよりも低くなっているのに、ワクワクと大衆は踊らされている。

その結果、超過死亡数は次のとおりである。


- 引用聖句:Gen 1:2;Ps 19:1-5;Job 4:15;32:18;Dan 5:12Rom 8:16; 1Cor 6:17;14:15;32;John 13:21;2Tim 1:7 etc.
- 次回:2022年12月25日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

霊的エンティティがわれわれのマインドにコンタクトできることは聖書の啓示するところである。
同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。-Gal 4:3
しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。-Gal 4:9
諸霊(ストイケイア)は私達のマインドに種をまき、それを思想に育て、実行化する。マルクスが使徒行伝(Acts 2:44-45)の記述からヒントを得て、共産主義を打ち立て、政治形態として実行し、1億近くの人々を虐殺したことは歴史が教えるところである。現在も一部の国々でこの政治形態は継続する。
昨日のTV番組で櫻井よしこさんが、中国は日本国内に警察を置き、諸々の情報を集めるとともに監視を行い、制空権、制海権のみならず、制情報権、そして制脳権を主張していると指摘していた。制脳権とは初めて知ったが、なるほどである。まさにジョージ・オーウェルの『1984』の世界である。
この世界ではビッグブラザーと呼ばれる独裁者が大衆を監視し、その統治下に素直に従えばいちおう食えるが、逆らうと、たとえそれが思考の領域においても、処罰される。
そのスローガンは『寡頭制集産主義の理論と実践』の各章の題名に従い-
- 戦争は平和である
- 自由は屈従である
- 無知は力である
つまり為政者側にとっての価値観であり、大衆はこの矛盾した命題を否応なく飲まされるのだ。4つの省により大衆は思考まで監視され、支配されている。その構成はまさにピラミッド型であり、上位の2%の指導者が大衆をコントロールする。
ここで注目すべきは、その支配の3つの手法である(以下WIKIより抜粋)。
- ニュースピーク (Newspeak、新語法)は、思考の単純化と思想犯罪の予防を目的として、英語を簡素化して成立した新語法である。語彙の量を少なくし、政治的・思想的な意味を持たないようにされ、この言語が普及した暁には反政府的な思想を書き表す方法も考える方法も存在しなくなる。
- ダブルシンク(doublethink、二重思考)は、「1人の人間が矛盾した2つの信念を同時に持ち、同時に受け入れることができる」という、オセアニア国民に要求される思考能力である。「現実認識を自己規制により操作された状態」でもある。
- ダブルスピーク(doublespeak、二重語法)は、矛盾した二つのことを同時に言い表す表現である。『1984年』作中の例でいえば「戦争は平和である」や「真理省」のように、例えば自由や平和を表す表の意味を持つ単語で暴力的な裏の内容を表し、さらにそれを使う者が表の意味を自然に信じて自己洗脳してしまうような語法である。他者とのコミュニケーションをとることを装いながら、実際にはまったくコミュニケーションをとることを目的としていない。
ダブルシンクにより2+2が5にもなり、さらに、歴史(過去)が常に書き換えられることにより、現実認識ができなくなる。心理学的にはダブルシンクやダブルスピークは認知的不協和と言われる。ヒトは自分の世界モデルや価値観に相反する認知をすると、内側に落ち着かなさを覚え、不安と緊張を覚える。二つのものにより心(特にマインド)が引き裂かれる状態である。
この不安と緊張を解消するためには、自分の側に間違いがあるとするか、その認知の対象が間違いであるとするしかないが、しばしば自分の思い、意志、感情を書き換えることにより、不安と緊張から解かれようとする。こうして認知の対象に自分を合わせていく。これがフェスティンガーの唱えたカルトなどによるマインドコントロールの原理である。詳細はこの論文をどうぞ。
ワクチンや統一教会にハマル人々も同じ心理状態である。当初得体の知れないワクチンや文鮮明に違和感を覚えつつも、自分の内面を書き換えることにより、相手に合わせるのだ。かくして一度ワクチンを打つと、たとえどんな副作用や障害が生じようとも、それを認めることはできなくなり、何度も自ら打つことになる。統一教会に献金や奉仕する人々も同じである。彼らは一度そちらに自分を誘導したために、方向転換(メタノイア)ができない。
実は、このような現象はいわゆる「正統キリスト教」においても起きていることである。彼らは神学用語の中に神を閉じ込めようとする。特にニッポンキリスト教において、「信仰」、「教会」、「牧師」、「悔い改め」、「恩寵」、「聖化」、「敬虔」などの単語により、聖書のオリジナルな真理は隠蔽される。そしてこの日本語の意味に基づいて思考が誘導され、そこにある種の価値観(意義)が付与され、集団において共有されるとひとつの宗教体系としてのニッポンキリスト教が構築される。究極的にそのような集団が何をなしたかはWW2当時の日本基督教団を見ればわかる。
そしてその世界の中で生きるほどに、その体系(マトリックス)に即したアイデンティティを確立し、同時に自己努力を注ぐほどにプライドが育つ。自らそのマトリックスに自分を馴らしていくわけである。いわゆる教派とか宗派なるタコツボ・キ業界の中のサブ・ユニットも同様のメカニズムで形成される。それは全体の相似図形としての部分、つまりフラクタルである。
中国の提唱する制脳なる手法は、まず言葉を統制すること、それにより思考を誘導する。邦誤訳を後にして聖書の純粋な言葉へと常にターン・トゥする必要があるのだ。ヘブル人とは渡る人。古いものを脱ぐ捨て、新しい領域へと絶えず渡りゆく人である。そのためには言葉を改めること。
いわゆる「聖化」と言われるプロセスは、マインドのトランスフォームから開始される(Rom 12:2)。昆虫が脱皮を繰り返して、蛹になり、いったん内部が溶解して、新しい姿へと変態し、ついにあの蝶の姿へと変わる。うちにロゴスが撒かれ、内在化されたエロヒム属のうちにキリストが構成され(モルフォー)、同時に私達の魂(特に思い)のうちに霊が染み込み(Eph 4:23)[1]原語は「思いの霊において新たにされる」。、私達の魂もキリストのそれと同型化されていく。これがメタモルフォーシスである。
References[+]
↑1 | 原語は「思いの霊において新たにされる」。 |
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- 引用聖句:Zeph 3:9;1Cor14:14-15;Exo 30:6;Heb 9:3-4 etc.
- 次回:2022年12月18日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

箱根のイタリアンホテルから諏訪の同級会と、ぐるっと回ってまいりました。そして昨日はKFCの懇親会。中華料理が実に美味しく楽しめました。あとはクリスマスのスタイリスティックスのライブが残っております✨

前回のポストでこの二つがあることを紹介した。どう違うのですかとのご質問をいただいたので軽く触れておこう。
わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。-1Cor 14:14-15
ウォッチマン・ニーはこのふたつをこう譬えている。石油などを缶からくみ出すシュポシュポするポンプをご存じと思う。

これを使う際、最初は力を入れてシュポシュポするが、石油が流れ出すとサイフォンの原理で手を放しても、つまり何の努力もなしに石油は流れる。つまり法則が働き出すのだ。この最初の力を入れる部分がちょうど知性による祈りに相当し、自然と流れる部分は霊の祈りであると。いのちの御霊の法則に乗った祈りである。異言であれ、言語化されたものであれ、霊が生き生きと活動していることが分かる。
ここで大切なのは、祈りを象徴する幕屋における香壇の位置である。出エジプト記ではこうある:
あなたはそれを、あかしの箱の前にある垂幕の前に置いて、わたしがあなたと会うあかしの箱の上にある贖罪所に向かわせなければならない。 -Exo 30:6
一方でヘブル書では:
また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。 そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり-Heb 9:3-4
お分かりだろうか? 出エジプトでは幕の前、つまり聖所におかれ、ヘブル書では幕の後ろ、つまり至聖所におかれている。この違いは何か? そう、イエシュアが十字架で亡くなる際、幕は上から下へと真っ二つに割かれたのだ(Matt 27:51)。方向が大切、人が割くならば下から上である。つまり神ご自身が裂いたのだ。
幕屋の外庭は体、聖所は魂、至聖所は霊を象徴するが、ユダヤ人は霊にはいまだにベールが掛かったまま魂の領域で祈る(2Cor 3:15)。
彼らにとっては香壇はいまだに魂の領域にあるわけだ。しかし霊のベールが外されたわれわれニュークリーチャー、新人類は香壇は至聖所におかれ、したがって霊の領域で祈ることができる。もちろん魂でも祈ることができるが、それはちょうどポンプを作動させる初期作用と言える。これがウォッチマン・ニーが述べている譬えの意味である。
しかしながら、経験的に言えば、知性による祈りは努力というか気力が要る。何を祈るべきかもわからず、言葉もなかなか出てこない事はよくある。ところが異言による祈りは実に単純だ。両手を挙げて主にフォーカスし、口を開くといくらでも出てくる。ポンプを力を入れてシュポシュポする必要がない。そして気持ちがいい。
一方で問題を抱えたり、圧迫を受ける時には、御霊がうめきをもってとりなしてくださる(Rom 8:26)。この際も、言葉は出ない、つまり祈りの内容が言語化はされないが、内なる霊が祈っていることは分かる。聖霊と私の霊が共に作用(sunerugero)しているのだ(スピリチャル・シナジー効果)。
そのうめきの意味は御霊がご存じであり、天の父に直接に届いて受理される。つねに祈りなさいとは、言語化された祈りではなく、霊による祈り、もっと言えば霊の呼吸である。
このようにして魂(知性)から始まるにせよ、霊から直接にせよ、祈りは私の霊と聖霊がブレンドされて香として主の御座に立ち上る。私たちの必要の満たしや問題の解決を超えて、主の渇きを癒し、主の御心を祈る。これを私は「プレイバック」と呼んでいる。Play Backではなく、Pray Back。
主はご自身の心を汲んで、それを祈ってくれる相手を求めている。ちょうどアダムにとっての助け手エバのように。なぜかYHWHはご自分だけでわざをなさることを好まないようだ。私たち、もっと言えばキリストにとっての肉の肉、骨の骨のエクレシアと共にわざを進められることを願われる。人間関係でもお互いに気持ちを汲み取りあいつつ、それに応え合う関係では幸いであろう。
まことに主が「人がひとりいることはよくない、それにふさわしい助け手を与えよう」と言われたのは、主ご自身のつぶやき、つまりhiggâyônであったと極私的には思われるのだ。魂(知性)でも祈り(ソウル・プレイヤー)、霊でも祈る(スピリチャル・プレイヤー)。それはいわゆるキリスト教の「お勤め」ではなく、私たちのスピリチャル経験を豊かにかつ深くする、まことの喜びなのだ。

わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。 –Ps 19:14
邦語訳訳では原語に含まれる豊かな意味が抜け落ちることは常に指摘している。時にはまったく邦誤訳であるが。ここの「思い」と訳された単語は、KJVなどの英訳はほとんど”meditation”と訳している。CLVは”soliloquy ”、すなわち「独り言」である。
実はこのヘブライ語は”הגּיון”であり、英語表記では”higgâyôn”となる。そしてその意味は-
Strong-a murmuring sound, that is, a musical notation (probably similar to the moder affettuoso to indicate solemnity of movement); by implication a machination: – device, Higgaion, meditation, solemn sound.
では、つぶやき、あるいは独白であるが、音楽、音響を伴うのだ。
EBD-in Ps. 92:3 means the murmuring tone of the harp. In Ps. 9:16 it is a musical sign, denoting probably a pause in the instrumental interlude. In Ps. 19:14 the word is rendered “meditation;” and in Lam. 3:62, “device” (R.V., “imagination”).
では、ハープのつぶやくような音、また黙想、さらに音を出す装置を意味する。R.V.では「イマジネーション」である。
ISBE-The meaning of this word is uncertain. Two interpretations are possible; the one based on an allied Arabic root gives “a deep vibrating sound,” the other derived from the Greek versions of Ps 9:16, where we read higgayon Celah, takes it to mean an instrumental interlude.
では、ふたつの解釈が可能とする:アラブ語源的には「深いバイブレーション・サウンド」、もう一つは詩編9:16のギリシャ語から読むと、ミュージカルの間奏。
AHLV-A murmuring or soft speech while in a continual contemplation over something.
では、何かを熟考する時につぶやくようなソフトな音とする。
以上から分かるように、単に「思い」とすると真の意味が落ちている。それはむしろサウンド、バイブレーションに伴う想念、あるいは想念に伴うサウンド、バイブレーションを意味する。私たちのブレインには一日に数万の想念が去来する。普通は無意識的に流れていくが、こちらに何かのフック(Gk.トポス、足場)があると、特定の想念をつかみ、それに思いを集中する。その結果、不安になったり、恐れたり、焦ったり、喜んだり、楽しく感じたりと感情の反応が続く。
そして祈りに入ると霊が反応し、フェイスの霊がブレンドされるようになる。フェイスはスピリット、霊である(2Cor 4:13)。コリント書のこの聖句についてVincentは次のようにコメントする:
Spirit of faith: not distinctly the Holy Spirit, nor, on the other hand, a human faculty or disposition, but blending both; faith as a gift of the Spirit of God.
フェイスの霊とは聖霊のことをだけを指すのでもなく、また人の霊のことを指すのでもない、神の霊の賜物としての両者の混合(ブレンド)を意味する、とする。つまり私の霊と聖霊がブレンドしたときにフェイスが生まれるのだ。これは通常、”The Inner Witness Of The Spirit”、「聖霊の内的確証」と言われる。これが内に生じるとき、「得た」と分かる。これは理屈ではなく、ただ分かる。よく、”I Know That I Know”と表現される。
ヘブル書にはこうある-
けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。-Heb 4:2(新共同訳)
ここはもっと正確には永井訳が一番よろしい-
されど〔彼等は〕聞きし言(Gk.ロゴス)に信仰を混ぜざりしかば、その聞ける言も彼等を益せざりき。
ギリシャ語は”sugkerannumi”であり、その意味はStrongによると
to commingle, that is, (figuratively) to combine or assimilate: – mix with, temper together.
まさに混ぜることである。私はこれを
<主観的経験=客観的事実×フェイス>あるいは<レーマ=ロゴス×フェイス=霊=いのち>
と表現している。私たちがロゴスに霊を混ぜるとき、霊的な事実は私の主観的経験となり、益となる。
いまフェイスとは望まれるサブスタンス(実質、実体)であり、見ていない(なされた)事実(プラグマ)のエビデンス(現出)である。-Heb 11:1(私訳)
この霊的領域においてYHWHエロヒムがキリストにおいて成就されたリアリティ(サブスタンス)は、ロゴスにフェイスの霊を混ぜるときに、<今・ここ>において私の経験となる。永遠の霊的リアリティが五感において現出するのだ。
かくしてこのブレントする過程において私たちは異言を用いる。祈りは知性によるそれと、霊によるそれがある。
わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。-1Cor 14:14-15
ここの異言とは”glossa”、それは、使徒行伝2章の他国の言語ではかならずしもない。
異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。-1Cor 14:2
お分かりだろうか。パウロは霊でも知性でも祈り、また歌うと証ししている。特に異言は霊によって誰にもわからない神秘を語るものであるする。つまり別に地上にある他国の言語を言うのではない。時に、天使の言語と言われる。この際、天的な音楽的が奏でられるのだ。ゆえに、異言はよく聖霊派でやるような「バラバラバラ、ダダダダ」といった汚いサウンドではなく、美しいメロディを奏でる。まさに詩編にあるヒガイヨン(הגּיון;higgâyôn)である。
それはまたスピリチュアル・バイブレーションでもある。つまりすでに医学的に証明されている通り、異言で祈るとは、言語野をバイパスして霊のバイブレーションをそのままサウンドとして口から発散することである。霊は躍動し、実に気持ちの経験でもある。またどう祈ってよいかわからないときに御霊は呻きをもって祈ってくださるが(Rom 8:26)、この際も、口から文字通り呻きが出るのだ。
かくして、私たちの思いと霊がブレンドされて、音楽的サウンドと口から発散されるとき、それは天の御座の前で炊くかぐわしい香として主の御前に立ち上る。主はそれをかいで満足され、金の壺に蓄えられ、時至ると地にこぼたれる。これが祈りがかなう具体的経験となる(Rev 5:8;8:3-4)。つねに私たちの思いを御前におき、主に願いを捧げつつ、霊の祈りを口に唱えること。時至るとそれは地上に何かを現出させる。
かなえられる祈りのコツは何か? 主はこう言われるのだ-
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉(Gk.レーマ)があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。-John 15:7
そこで私たちにパウロは奨励する―
キリストの言葉(Gk.ロゴス)を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。-Col 3:16
ここでもカギはロゴスと霊の歌のブレンドである。

- 引用聖句:Col 3:1-5;Matt 16:19;Ps 16:7;17:3;19:15;139:2;Luke 2:19;John 14:13;Eph 3:20;John 11:41;1John 5:14-15;2Cor 10:4-6 etc.
- 次回:2022年12月11日(日)(12月4日の配信はありません)
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すでに主のからし種が育ってどんな野菜よりも巨大になり鳥が巣を作る樹木に至ることの意味を説いた。これは啓示録2-3章の七つのエクレシアが歴史的展開を予言していることとも関係することも指摘した。
軽く復習しておくと―エペソ(=好ましい)においてニコライ派(教団教職制度)の行いが入り、スミルナ(=苦難)で迫害を経験し、ペルガモ(=結合)で世との混合がなされてニコライ派の教えが確立、サタンの座が設定される。続くテアテラ(=香の祭事)でイゼベルが仕切る仰々しい儀式が確立、そこにはサタンの深みが存在し、サルデス(=残りの者)でいわゆる宗教改革がなされるも、実質は死んでおり、フィラデルフィア(=兄弟愛)においてわずかの力でも証しを守り、ラオデキヤ(=民衆の意見)では豊かになった、目が見えるとしつつ、実体はその逆であり、イエシュアを追い出している。
見かけは立派でも、そこには邪悪な鳥や獣が自分のよすがとして集まる場、まさに現在の世のひとつの組織・機関と堕したキリスト教の姿である。この様を私はエジプト・バビロン化していると言ってきている[1]バベルの塔の動機は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」であった(Gen … Continue reading。その最期は次のように啓示されている:
天使は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。
すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって富を築いたからである。」
わたしはまた、天から別の声がこう言うのを聞いた。「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
彼女がおごり高ぶって、ぜいたくに暮らしていたのと、同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』
それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある主だからである。」-Rev 18:2-8
物を隠すのにもっとも発見しにくい場所はどこか? それは大衆の目が置かれる公衆の場である。サタンが隠れてその仕業をするには、まさかのキリスト教の中がもっとも適していることは分かるであろう。キリストはキリスト教なる宗教を作るためにロゴスが肉体を取られたのでもないし、聖書はキリスト教の経典でもない。キリスト教の偽善を告発したニーチェは、キリストとキリスト教を同一視したためにあのような最期を遂げたのだ。見事にサタンに騙された末路である。
これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。-2Cor 2:11
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。-Eph 6:11
この新改訳における「策略」とある原語は、前者はnoema、後者はmethodeiaである。noemaとは意図・動機・思惑であり、methodeiaは方法・手法・姦計である。つまりサタンはその意図や思惑を具体的手法や方法によりこの世界に実体化する。その拠点として、まさにキリスト教は絶好の場である。
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。-Eph 4:26-27
この「機会」とある原語はtopos、それは足場・手がかりの意味である。サタンはこちらの心の中のtoposをフッキングする。つまりこちらに何か聖霊による以外の意図や動機や思惑がある場合、サタンはそれに応じたエサを投げてくるのだ。決して彼は無理強いはしない。そのエサに喰いつくときも、私たちは自由意志で選んだと思わされるのだ。カルトによるMCやセールスの巧妙なやり方も同様である。そもそも自由意志なるものは幻想である。
同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。-Gal 4:3
さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。-Eph 2:1-2
つまり諸霊が我々のマインドに働きかけ、それに応じて意思決定をさせられていたのだ。だから奴隷である。クリスチャンであっても、動機や意図に不純なものがあれば、そこにピンポイントで働きかけてくる。「自分は自分の人生を自分で選んで、誰にも縛られず自由意志によって生きている」などという錯覚に陥ることは致命的である。
イエシュアと物理的に接していたユダもなんの動機や意図だったのかはわからないが、サタンは彼のうちに裏切る「思い」を入れた(John 13:2)。マインドはストイケイア、アイオーン、さらにサタンなどの霊的エンティティとの接点である。それに従って意志決定した彼の末路は言うまでもない。

マルクスも使徒行伝の兄弟姉妹が物を共有し、資産を分かち合っていたとする記述から共産主義の着想すなわち種を得て、それを成長させて思想とし、共産党として政策により実行したのだ。その末路は人類史上最大の虐殺を行ったことは言うまでもない。
エペソでニコライ派の種がまかれ、ペルガモで育ちサタンの座が据えられ、テアテラで中世の暗黒時代、サルデスでその娘たちとも言えるプロテスタント諸教派が生まれたが、まさにキリスト教の巨大樹木化と共産主義の成長は同じプロセスを再現している[2]ニッポンキリスト教とニッポンが合わせ鏡であるように、キリスト教と共産主義も同じと言えるかもしれない。共産主義は立派な宗教である。。どちらもその中で自己の生存の担保(=生活の保障と食い扶持の確保)とアイデンティティおよびプライド(=自己価値の確立)のよすがとする。これが鳥や獣が集まる動機である。

この図はエクレシアの実質(野菜)が諸霊と人間の肉により修飾されて巨大化する過程を描いたものである。現在の問題はエクレシアが巨大化したキリスト教の中に幽閉されていること。キリストと聖書がキリスト教の専有物であるかのようにみなされていることだ。巨木は虚木である[3]これは善悪を知る知識の木の成長した姿とも言える。対してエクレシアはいのちの木の増殖であり(Col … Continue reading。主は「わたしが地に戻るときに地上に信がみられるであろうか」と言われるのだ(Luke 18:8)。

この意味で私は20年以上にわたり、キリスト教をエクソダスせよと訴えている。それはエレミヤ書16章においてイスラエルに呼びかけられているとおりである。啓示録の七つのエクレシアで言えば、フィラデルフィアである。彼らは力はわずかであったが、主によって御名と御言葉を否まなかったとして賞賛され、叱責の言葉はスミルナとともにまったくない。そして神の名と、神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、主の新しい名を書き記していだけるのだ(Rev 3:7-13)。
References[+]
↑1 | バベルの塔の動機は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」であった(Gen 11:4)。まさに現代のボクシたちの切望するところであろう。サタンはこの自分の住処を暴かれることをもっとも嫌うであろう。ゆえに私の指摘にはキリスト教徒からの聖書の論理を無視した感情的反応がなされるであろう。 |
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↑2 | ニッポンキリスト教とニッポンが合わせ鏡であるように、キリスト教と共産主義も同じと言えるかもしれない。共産主義は立派な宗教である。 |
↑3 | これは善悪を知る知識の木の成長した姿とも言える。対してエクレシアはいのちの木の増殖であり(Col 2:19)、それはブドウの園であり、また一粒の麦の増殖である麦畑である。 |

- 引用聖句:Ps 82:1-8;1John 2:27-29;Exo 27:1-8;2Cor 2:11;Eph 6:11;Col 3:1-5;Matt 16:19;Prov 16:10 etc.
- 次回:2022年11月27日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

すでに東北大の研究によるとCovid-19が人為的な要素によって遺伝子がいじられている可能性が出ている。
今回、さらに筑波大が次のような報告をしている。
これは、オミクロン株のスパイクタンパク質の変異が、人工的な遺伝子組換えなどの、自然界にない何らかのプロセスを経ている可能性を強く示唆しています。
よってこれに対するmRNAワクチンとは何?ってことを、たとえばこのグラフなどを見て考えるべき時であろう。


ワクチン接種数世界NO.1、マスク着用率世界NO.1、そして感染数世界NO.1。その意味は猿でもわかるでしょう。分からない人は分かりたくない人である(認知の選択的透過性という)。そしてなんと次のような論文が出ている(査読済み)。ワクチン未接種車よりもワクチン接種者の方が感染力価が高い、つまりウイルスをばらまき易いことのである!(図C)
かくして台湾では接種者死亡数がコロナ死亡数を超えたとのことだ。
🇯🇵日本で基礎疾患の男性死亡とニュースになっているが、お隣の🇹🇼台湾ではワクチンによる死亡者がウイルス感染による死亡者を上回っていると報道されている。pic.twitter.com/h08vghJZzf
— ワクチン後遺症の被害を防ぎたい (@Novaccinekita11) November 18, 2022
オーストラリアでは子供において台湾と同様の事態になっている模様。
🇦🇺オーストラリア
— ワクチン後遺症の被害を防ぎたい (@Novaccinekita11) November 18, 2022
⚠️ワクチンで死亡した子供の数がコロナウイルスで死亡した子供の数より多いことが判明
ワクチン後遺症pic.twitter.com/6qbuConzDz
本日、友人のワク接種者の御父上が心不全で逝かれたとの連絡が。ぼくより若い方だ。ご家族に慰めがありますように。

またバスの運転手が意識不明になると言った事故も多いし、スポーツ選手が心臓で逝くケースも増えている。極利的にも昨日、健診に行ったクリニック前の道路上で人が大の字に倒れていた。そこにはERがないために、救急車を呼んだがなかなか到着せず、なんと消防車が来たのだ。車を運転していると分かるが、とにかく救急車がよく走っている。
お互いのためにワク接種を~、で、かえってウイルス拡散。国の借金を減らすためPB黒字化~、で、みんなで貧困化。さあ、いつもニコニコボクシ顔。ニッポンもニッポンキ業界もバ〇と〇ホの絡み合い。この国、ほんとうに実にオメデタイ、というより、将来が消えつつある感じだ。
追記:当初言われていた通りだ。わが国のファクターX、これがワク接種で消去されたようだ。☞BCGが本物コロナワクチンです(@niko video)

このポストは先のこの記事の続編として具体的事例を紹介する。天下のニッポンキリスト教の象徴たる日本基督教団の歴史である。
ここで主はあえてどんな野菜よりも大きくなると指摘する。考えてみよ、なぜあえてどんな野菜よりもと言われるのか。比較対象として野菜はまことにふさわしくない。なぜなら野菜は決して巨大化はしないからだ。ここで主が指摘されたいことは巨大な木へと変質することである。その木には鳥が安全な場所、つまり自己の生存の担保を求めて集まるのだ。John Darbyは次のようにコメントする:
That which had been sown as a grain of mustard-seed becomes a great tree; a symbol that represents a great power in the earth. The Assyrian, Pharaoh, Nebuchadnezzar, are set before us in the word as great trees. Such would be the form of the kingdom, which began in littleness through the word sown by the Lord, and afterwards by His disciples. That which this seed produced would gradually assume the form of a great power, making itself prominent on the earth, so that others would shelter themselves under it, as birds under the branches of a tree. This has, indeed, been the case.
We next find that it would not only be a great tree in the earth, but that the kingdom would be characterised as a system of doctrine, which would diffuse itself — a profession, which would enclose all it reached within its sphere of influence. The whole of the three measures would be leavened. I need not dwell here on the fact that the word leaven is always used in a bad sense by the sacred writers; but the Holy Ghost gives us to understand that it is not the regenerative power of the word in the heart of an individual, bringing him back to God; neither is it simply a power acting by outward strength, such as Pharaoh, Nebuchadnezzar, and the other great trees of scripture. But it is a system of doctrine that should characterise the mass, pervading it throughout. It is not faith properly so called, nor is it life. It is a religion; it is Christendom. A profession of doctrine, in hearts which will bear neither the truth nor God, connects itself always with corruption in the doctrine itself.
(DeepL訳)一粒のからし種として蒔かれたものが大樹となり、地上の大きな力を表す象徴となったのです。アッシリア、パロ、ネブカデネザルは、このみことばの中で、大きな木として私たちの前に描かれています。主が蒔かれ、その後弟子たちが蒔いた言葉によって、小さなうちに始まった王国は、そのような姿をしていることでしょう。この種が生み出すものは、次第に大きな力を持つようになり、地上で目立つようになり、他の人々は木の枝の下に鳥がいるように、その下に身を隠すようになる。実際、このようなことがあった。
次に、この王国は地上の大木となるだけでなく、教義の体系として特徴づけられ、それ自体が拡散し、その影響力の範囲内にあるすべてのものを取り囲む職業となることが分かる。3つの対策全体が澱んでしまうのです。しかし、聖霊は、澱という言葉が個人の心の中にあって、その人を神のもとに連れ戻す再生力ではないこと、ファラオやネブカドネザル、その他の聖書の巨木のように、単に外側の力によって作用する力ではないことを私たちに理解させてくれるのである。しかし、それは大衆を特徴づけるべき教義体系であり、大衆全体に浸透している。それは、いわゆる信仰でもなければ、生命でもない。それは宗教であり、キリスト教である。真理も神も信じない心で教義を公言することは、常に教義そのものの腐敗と結びついているのです。
まことにこの指摘通りのことがニッポンキリスト業界に起きたのだ。すなわち戦中の日本基督教団である。ちょっと調べればわかることだが、その欺瞞の度合いは唾棄すべきレベルである。以下、WIKIからの引用:
その始まりは伊勢神宮への参拝からだ―
・1941年:6月24日に、日本基督教団が成立する。11月24日附で宗教団体法に基づく宗教団体として文部大臣より認可。教派ごとに部を構成して11部制を採る。
・1942年:教団統理、富田満が伊勢神宮に参拝して日本基督教団の設立を報告し、発展を希願する。12月15日、第1回日本基督教団総会にて部制廃止、皇軍将兵に対する感謝を決議。
まさに自己欺瞞の極み、精神分裂病である。その主義はなんとこうある!(よくもまあ、ぬけぬけと言えるものだが)
公会主義(こうかいしゅぎ)とは、いかなるキリスト教の教派にも属さないキリスト教無教派の理念、理想。日本基督教団は公会主義を継承する唯一の団体である。
いやビックリ。これで柏手叩いて、主にある兄弟を官憲に売ったのだ。自己欺瞞の極致。そして日本基督教団統理富田満曰く、「われら天皇の臣民は自己を否み、自らの十字架を負うて八紘一宇、大東亜共栄圏の建設に邁進すべし」と。柏手を打つ。


忌まわしき教団、戦後はGHQにすり寄って生き延び、靖国反対、九条改正反対と左傾化して自己欺瞞を正当化し、種々の利権を得て今日に至る。天皇制廃止、靖国反対、平和憲法維持、九条改正反対と振り子が左へ振れた。自我分裂の典型的症例、根底にあるのは自己欺瞞。自己欺瞞を隠蔽するために表向きは「正義」を掲げ、同じことを繰り返す強迫反復に陥る。まさに白い墓である。対して異端であるエホバの証人などは自身の信条にあくまでも忠実であったため迫害を受けたのだ。
一応彼らの言い訳を聞いてあげましょう―
そもそもニコライ派(教団教職制度)はイエシュアが憎みかつ自ら戦うと言われる。彼らの立つところは恐るべき場なのだが、無視するか、自己正当化するか、真にメタノイアするかが問われるわけ。彼らはすでに主の裁きの元に置かれている。重々しいガウンをまとい、キリストの名を盾に講壇に立ち、自分勝手な説教をする度に主の裁きの燃える炭火を自らの頭の上に積む商売人が牧師なる連中だ。
まことに現在われわれが見ているニッポンキ業界(のみならず世界的にも)の光景は、世において大きな木へと変質し、邪悪な(特に動機において)鳥が自己のアイデンティティやプライド、そして生存の担保を求めて集まる光景そのものである。
だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。-Matt 23:8
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」-Mark 23:38-40
表向きの看板とその内実が見事に乖離している、まさに白く塗られた墓である。このふたつの絵がニッポンキリスト教の本質を表している。


岸田秀氏の指摘通り日本は自我分裂しているが、その集約的縮図がニッポンキ業界である。その病理については真のメシア・家シュアを否定して自己欺瞞に堕ちたユダヤ人と似ているが、詳細は私の論文を参照されたい。
現在、日本基督教団の牧師たちが嬉々としてワク接種を受けていることから、かつての事態が再現されるであろうことは容易に分かる。彼らは世との結婚(ペルガモ)により、世の価値観とシステムにはめ込まれているのだ。心ある兄弟姉妹よ、忌まわしき者からは自らを分離せよ。キ業界において分離主義者だとかラベルを貼られることは幸いである。なぜなら主はこう言われるからだ-
また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。-Rev 22:10-12

また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、 それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。-Matt 13:31-32
この譬えは何を意味するのだろうか。いわゆるキリスト教が全世界に拡大し、神の国が地上に出現することを言うのだろうか? しかし、イエシュアはこう言われている:
しかし、人の子が来るとき、地上に信が見られるであろうか。-Luke 18:8
ああ、主よ、なんという不信仰なお言葉・・・。このふたつの聖句のコントラストはいったい何であろうか。カギは聖句は聖句によって解き明かすことだ。
まず、マタイの聖句は、天の国に毒麦が混じる警告の文脈にあり(Matt 13:24-30)、続いてからし種→野菜→木→鳥が宿る、と展開する。カギは野菜が木に変質することだ。野菜は食することが可能であるが、木は不可能である。つまり生命を支える養分となるか否かの違いである。エクレシアは神の国の地上における派出所のような存在であり、それは新しい生命体である。その生命を保つためには養分が必要である。木はそれにふさわしくない。
次に鳥である。聖句を見ると-
種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。-Luke 8:5
道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。-Mark 4:15
鳥が何を意味するか明らかであろう。また啓示録には
倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。 すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである。-Rev 18:2-3
つまり大バビロンは鳥の巣窟である[1] … Continue reading。それはエクレシアを養うどころか、汚れた霊どもの巣窟である。そもそもこの主の譬えはダニエル書に起源がある。ネブカドネザルのこの夢についてダニエルはこう解き明かす―
あなたがご覧になった木、すなわち、生長して強くなり、その高さは天に届いて、地のどこからも見え、その葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があり、その下に野の獣が住み、その枝に空の鳥が宿った木、王さま、その木はあなたです。あなたは大きくなって強くなり、あなたの偉大さは増し加わって天に達し、あなたの主権は地の果てにまで及んでいます。-Dan 4:20-22
まさにバビロンである。ネブカドネザルはこの後、7年間狂気に落ちる。ちなみにScofieldはこの譬え話についてこう注釈している―
The parable of the Mustard Seed prefigures the rapid but unsubstantial growth of the mystery form of the kingdom from an insignificant beginning Act 1:15; Act 2:41; 1Co 1:26 to a great place in the earth. The figure of the fowls finding shelter in the branches is drawn from Dan 4:20-22. How insecure was such a refuge the context in Daniel shows.
(DeepL訳)
「からし種のたとえは、王国の神秘的な形態が、取るに足らない始まりから(使徒1:15;2:41;1コリ1:26)、地上の大きな場所へと急速に、しかし実体のない形で成長することを予言するものです。鳥が枝に隠れ家を見つけるというのは、ダニエル4:20-22から引用したものです。そのような避難所がいかに不安定であったかは、ダニエルの文脈が示しています。」
これこそ現代の社会化された世の組織としてのキリスト教の姿である。エクレシアはからし種から成長し(エペソ=好ましい)、ローマの迫害を受けて(スミルナ=苦難)後、コンスタンチンが公認し、さらにローマ国教会として政治形態と結合し(ペルガモ=結合)、カトリックによる中世の暗黒時代を経て(テアテラ=香の祭事)、いわゆる宗教改革でプロテスタントの諸教派が生じ(サルデス=少数者)、分裂を繰り返して現代に至る(フィラデルフィア=兄弟愛からラオデキヤ=大衆の意見へ)。そして今やあらゆる宗教を統一しようとするNew World Religionへと突き進んでいる。
エペソにはニコライ派の実行があったが、ペルガモではニコライ派の教えへと組織化され、そこにはサタンの王座が置かれ、宗教としてのキリスト教が確立する。この後は世界史に言われる通りのキリスト教史が展開する。ニコライ派とは「ニカオ(民)+ラオス(支配・管理)」の合成語、つまり今で言う教団教職制度にほかならない。主は「あなたがたはみな兄弟だから先生と呼ばれてはならない」と戒めた(Matt 23:8)。エクレシアの関係性はいのちのつながり、兄弟性にある。対して教団教職制度は組織として、ちょうど官僚制度におけるキャリアとノンキャリアのような相を設定するものであり、主はこれを憎みかつ戦うとまで言われるのだ(Rev 2:6;16)。

かくして七つのエクレシアは当時の断面的エクレシアのあり方のみでなく、時系列的なあり方をも提示しているのだ。イエシュアはキリスト教の教祖でもなければ、聖書はその経典でもない。教団教職制度に基づくキリスト教なる宗教は世に組み込まれた大バビロンの構成要素である[2] … Continue reading。世から救い出されたらそこはキリスト教なる宗教の捕囚地だったと。エクレシアは生命に満ちたみずみずしい野菜なる存在、人目には立派な木へと変質してはならない。かくしてセコンド・エクソダスを勧める次第。
References[+]

現代では「キリスト教の会」はちんまりと社会化されて、無害無益なる世のひとつの宗教組織に堕している。「正統」なる看板を掲げて、ぼくのオリジナル標語「エホバ、統一、モルモンとは関係ありませーん」、「あなたの街のお気軽な教会へどなたでも歓迎します~」とね。
「そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった」(19:23)。
「さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります」(24:5)。
まことの福音を宣べるなら必ずただならぬ騒動を起こし、疫病のような人間、異端者の烙印を押される。今のように、いつもニコニコボクシ顔、なんでも愛して赦してみんなでおててつないで仲良くね~ってなものではない。
この点、かつての不敬事件を引き起こした内村鑑三などはその模範である。対して世に迎合した日本基督教団などは柏手を叩き、それにどころか主にある兄弟姉妹たちを官憲に売ったのだ。まことに主の目に忌まわしき存在である。
「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」。-ルカ16:15
時代も相当に煮詰まり、各分野において倒錯現象が起こり、善を悪、悪を善とする世相が当たり前になっている中で、真の福音を語るには官憲に売られるリスクすらあるのだ。
まことに腹をくくる時代である。