セルフコンシャスからボディコンシャスへ

エクレシアと何か? その原意は”ek(=from)+kaleo(=call)”、つまり呼び出された存在である。教会なる訳語はまったく不適。よって私はエクレシアとそのまま称している(時に不本意ながら便宜的に「教会」も使うが・・・)。そしてその定義は

  • 可視的には:コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。-1Cor 1:2(口語訳)
  • 霊的には:この教会はキリストの体、すべてのものを、すべてのものの中に満たす方の充満である[1]岩波訳では、この方はキリストであると注をしている。-Eph 1:23(岩波訳)

可視的な定義は、イエスの御名を呼び求めている人々にして、キリストにあってきよめられ、聖徒として召された方々。お分りだろうか? 教団や教派、あるいはナントカ同盟だの、カントカ宗教法人ではない。また罪赦された哀れな罪人の集まりでもないのだ。

霊的には、いつも指摘しているが、その方が満ちておられる場所とかところではない。充満(plerooma)そのものだ。つまりたい焼きはアンコの充満であると言ったら、その本質はアンコであろう。皮はその入れ物に過ぎない。たい焼きの本質は皮ではなく、アンコ。エクレシアとはキリストの充満、すなわちその本質はキリストである。

エバはアダムが眠らされている間にその脇腹の骨からビルドアップされた。アダムは創造されたが、エバはアダムの成分からビルドアップされたのである。

And Jehovah God buildeth up the rib which He hath taken out of the man into a woman, and bringeth her in unto the man; -Gen 2:22(YLT)

そして

人は言った、「これこそわが骨の中の骨、わが肉の中の肉。彼女は妻(イッシャー)と呼ばれよう、夫(イーシュ)から取られたのだから」。-Gen 2:23(岩波訳)

つまりエバはアダムの成分によって構成されており、ある意味、アダムの分身である。さらに、続ける―

このゆえに、人はその父と母とを見捨てて、妻と結び合う。彼らは一つの体となる。-Gen 2:24(岩波訳)

パウロはこれは奥義であるとする。

事実、自分の肉〔体〕を憎んだ者はいまだかつて一人もおらず、反対にそれを養い、いわたわるものである、キリストもまた教会を〔養い、いたわる〕ように。私たちはキリストの体の肢体である。それゆえ、人は父と母のもとを去って、その妻と固く結ばれ、二人は一つの肉〔体〕となる。この奥義は偉大であり、私は〔このことを〕キリストに、そして教会に関連づけて言っている。 -Eph 5:29-32(岩波訳)

すなわち、キリストがエクレシアを養いいたわるのは、自分の肉体を養い、いたわることであり、アダムとエバが一つの肉体になることは、キリストとエクレシアのことであるとする。お分りだろうか?

キリストが眠らされている間にその脇腹の血と水から、霊により生み出されたエクレシアはキリストの成分そのものであり、キリストと一つである。つまり葡萄の枝は葡萄であるように、まことの葡萄の木であるキリストの枝であるエクレシアも葡萄、つまりキリストである。

あるいは一粒の麦が撒かれたら、コメがなるのではなく、多量の麦がなるように、一粒の麦であるキリストが撒かれたら多量のキリストがなるのである。当たり前であろう? 事実、パウロは言う-

あなたがたのうちにキリストが形造られるまで・・・-Gal 4:19(岩波訳)

「形造られる」の原語は”morphoo”である。英語では”form”。母の胎内で受精卵が分裂を繰り返して、徐々に分化しつつ、具体的な形を構成することである。かくしてキリストはエクレシアとして増殖するのだ。ゆえに-

神の増殖を増殖する。-Col 2:19[2]田川訳と岩波訳は正確に訳しているが、他の邦誤訳は全滅

神、正確にはYaHaWeHエロヒムはご自身のいのち(Zoe)をこの地上において増殖することが当初の意図であった。これがいのちの木であるが、アダムはそれを摂り損ね、彼から絶縁された[3] … Continue reading。これを人としてリバースしたのがイエシュア・ハ・メシア、つまりキリスト・イエスである。

またパウロはこう言っている-

なぜならば、からだが一つでありつつも多くの肢体を持つように、また〔逆に〕からだに多くの肢体がありつつも一つのからだであるように、キリスト〔自身〕もまたそうだからである。-1Cor 12:12

お分りだろうか? 体における肢体の多様性を指摘している文脈で、パウロは「キリストの体もまたそうだ」とは言っていない。「キリストもまたそうだ」と言っている。つまりパウロは体とキリストを完全に同一視している。ゆえにここは「それぞれの多様性を認め合いながら、一致を保ちましょう」といった牧師の説教課題などではなく、体であるエクレシアとキリストの同一性を論じる節である。頭と体が分離されたら死である。これがキリスト教なる宗教。

事実、続いてパウロは論じる―

というのも、私たちすべては、一つの霊において(en)一つのからだ〔になるように〕とバプテスマを受けたのだから・・・・。-1Cor 12:13(岩波訳)

カギは、一つの霊の中で。この霊とはもちろん聖霊であるが、聖霊は今やキリストの御霊とも言われ、いのちを与える霊となられた(1Cor 15:45)キリストを私たちの内に臨在される。たい焼きで言えば、これがアンコであり、エクレシアの本質である。

わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。・・・わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見るわたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 –John 14:16-20

聖霊が来られるその日にはキリストが私たちのうちで生きられる! 聖霊派のように父・子・聖霊をバラバラにしてはならない。この三者は有機的に働いておられる。譬えれば、父はプログラマー、聖霊はOS、そして子はそのOSにおいて機能するアプリである。その聖霊は―

けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。 –John 16:13-15

つまり聖霊はキリストのメモリを私たちに伝達する。それはキリストを追体験すること。キリストの体性メモリが私たちにおいて再現されるのだ。こうしてキリストが私たちをとおしてワークアウトする。

かくしていずれ御子が現れる時には―

愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。 –John 3:2

この「似る」の原語は”homoios”、つまり「同形質の」である。父・子・聖霊、つまりYaHaWeHなる最も高きエロヒムとはパースンとしては異なるが、われわれはその霊的DNA(種)を継承する家族として、同質の形質を有するのである。そしてついには-

この彼はすべてのものを彼に従わせることのできる力によって、私たちの卑賎のからだを〔も〕、彼の栄光のからだと同じ形に変容してくださるであろう。-Eph 3:21(岩波訳)

この「同じ形」の原語は”summorphos”、つまり”sum(=with)”+”morpho(form)”である。共に構成すること。かくして私たちの霊はすでにエロヒムの霊を分かち与えられた存在、魂はキリストのそれと同様に再構成されつつあり、ついにこの体もキリストの体と同形化される。まことにYaHaWeHエロヒムのいのちの本質がわれわれにおいて地上で再現されるのだ。

もともとアダムはYaHaWeHエロヒムの形と様に似せて造られている。それは地上において彼をご自身のイメージとするため。Dr.Heiserは”imager”と呼ぶ。そして地上をご自身の代理として統治すること。これがYaHaWeHエロヒムの目的である。

キリストはご自身の体をビルドアップされる。つまりキリストはボディビルダーである!

食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし神は、それもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。-1Cor 6:13

自意識から諸々の苦悩が生まれることはすでに言うまでもないであろう。その自己(セルフ)からの解放こそ自由への道である。そのためにキリストがご自身のボディコンシャスであるように、われわれも聖霊の宮としてボディコンシャスに生きること。セルフコンシャスからボディコンシャスへの転換を!

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References

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1 岩波訳では、この方はキリストであると注をしている。
2 田川訳と岩波訳は正確に訳しているが、他の邦誤訳は全滅
3 なぜ、YHWHは分かっていたのに、それを阻止されたなかったのか、なぜ善と悪を知る知識の木などを植えたのか、といった疑問を持つむきが多いが、これは主を有責者とすることである。主は人類の運命をpredestine(定めて)いないが、foresee(予知)されていたのだ。この違いは重要である。あくまでも人類の失敗はアダムの意志によったのだ。

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