iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

- 引用聖句:John 10:34-36;Rom 8:14-17;Gen 1:26;2:22-23;Eph 5:30-32;1Cor 15:45;Gal 2:20;John 14:19;Eph 5:1;1Tim 3:16;Eph 1:23;Rev 22:2 etc.
- 次回:2022年10月2日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:09:00-12:00(ご注意ください)
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

すでに書いた記事群とかぶるかもしれないが、重要な論点なので繰り返しておく。前に次のような記事を書いた:
人類の悲惨はすでにYHWHエロヒムの型と様に創造されており、あとはいのちの木(非受造のZOE)の実を食すれば、ちょうど手の型と様に作られた手袋に実体なる手が入るように、アダムは完成されたはずだった。しかし蛇はその”すでに”に対して疑問を持たせ、善と悪を知ることによりYHWHエロヒムのようになれると誘惑したのだった。サタンは常に不足を訴える。対してスピリチュアル・リアリティに生きるフェイスは満足を得る。
キリスト教なる宗教はつねに、もっときよく、もっと善行をなし、もっと信仰に励み、もっと奉仕をし、もっと伝道し、もっと大きな会堂を建て、もっと、もっと・・・とニンジンを鼻先にぶら下げられた馬のごとくに煽るのだ。それはまさに善と悪の知識の木の道にある宗教マトリックスである。

モーセを通して律法が与えられたが、これも善と悪を知る道の上においてであった。それはアブラハムに種(単数形)の約束が与えられて430年後であり、その約束は律法により無効とされなかった(Gal 3:16-17)。すなわちYHWHエロヒムの意図は当初より、律法ではなく種=キリスト=にあったのだ。そのキリストはご自身の肉体を裂いて封鎖されていたいのちの木への道となられ(John 14:6;Heb 10:20)、フェイスする者はこの道へリープ(跳躍)する。すると律法ではなく、いのちの御霊の法則が働き、この新しい法が内在化されてそのうちに生きるとき、律法の要求は自ずと満たされる(Rom 8:2-4)。
ある人が言っていた:地獄への道は人の善意で舗装されている、と。この点、あのオウム事件で活躍した上祐史浩氏が面白い指摘をしている。
「ストイックな価値観・生活をしたいと考えている人は一定数いるが、しかし、今の若者たちがそんな修行に耐えうるかと考えると、やはり時代が変わり宗教の必要性は薄れているのだろう」
「人類の脳構造から、善悪の概念を考えすぎると、悪を正して善を行うという善悪二元論が生まれる。しかし、それは時に逆転して、戦争が正当化されてしまうことさえある」
「“自分が善人になりたい”という過度な欲求を持ちすぎない方が良いのだろう」
この「自分が善人になりたい」という過度な欲求こそキリスト教をはじめとする宗教の動機である。それはすなわち不足の感覚。自分の状態がどうであるか、これが神に受け入れられる測り縄と勘違いしているのだ。プロテスタントの根本的誤りは自分をセンターにおいて、「律法を行うことによるのではなく、御子を信じる信仰によって救われる」と説く。主語は誰か? そう、私である。よって常に自分の信仰、自分の正しさ、自分の信条、自分のきよさ、自分の忠実さ・・・と絶えず自分を外なる法(しばしば聖句)に照らして測り続ける。自分が恵みから落ちていることに気が付かないのだ。
恵みとはそれに値しない者が無代価で得ることができるものである。それは自分から意識が離れるときに働く。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。-Rom 5:15-21
ここには「私」の要素は全くない。ロマ書7章と比べてほしい。7章においてパウロは律法を行いたいとする思いの法則に従って私がしようとすればするほどできないと叫ぶ。ゆえに罪々を犯すのは私ではなく内なる罪であることを見出し、罪と死の法則に拘束されていることに気づく。この三種類のLawsにパウロは閉じ込められていた。そして彼は叫ぶ、誰がこの死の体から救ってくれるのか?と。
ついに8章に至り、彼はいのちの御霊の法則が彼を罪と死の法則から解放することを見出す。それ以降、彼の文章には「私」がどうのは出てこない。まさに私がどうのこうのではなく、法則が彼を引き上げるのだ。
私(セルフ)からの解放-道元はいのちのレベルこそ異なるが(彼はアダムのいのちのレベルである)、こう言っている:
仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
自己から離れ法に委ねることを心身脱落と言う。そして
人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
初信者は法を外に求めてその周囲をぐるぐる回るだけだが、法と一体となりその中に生きるようになるとき法がその人になってくれると言う。法の実体とはまさにキリストである。ゆえに―
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の(属格)信(フェイス)のうちに(en)生きているのである。-Gal 2:20[1] … Continue reading
かくしてパウロはキリストとエクレシアを同一視する。
そしてこう証しする―
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。-Phil 1:21
キリストのために生きるのではない。生きることそのものがキリストなのだ! それはいのちの木の路線にあってスーパーナチュラルに生きること(上図参照)。
この時、善と悪の感覚が洗練され、キリストの判断が私の魂のうちに再現する:
固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
-Heb 5:14
感覚はもちろん生命現象であり、これは上祐氏が指摘するように、しばしば倒錯へと至る善と悪の概念などではない。YHWHエロヒムの的を得た感覚による判断である。対して、たとえ人間的に善と見えるものであれ(例えばPCなど)、YHWHエロヒムの基準にハマらないものは罪である。人は肉によっても善をなし得るのだ。これがキリスト教を含む諸宗教である。
善と悪を知る知識の木の実を摂る誘因は、「神のようになれる」という蛇のささやきであった(Gen 3:5)。この誘惑は今日においても強い。カルトへの誘いもここにあることを上の上祐氏との対談相手もこう指摘する:
人間の深層心理や善悪二元論の盲点については、統一教会問題みならず現在の世界が抱えるさまざまな課題に通じるものがありそうだ。また、酒生氏は住職としての立場から「人間が自分自身を神だと拝ませる“偶像崇拝”にも問題点がある」と指摘。文鮮明や池田大作のようにカリスマ性と絶対的な権力を持つ創始者がいると「盲信・狂信の信仰に陥りやすくなる」と断じた。
この誘惑に対してニュークリーチャーであるわれわれはいかに対応すべきであろうか。回答はすでに明らかであろう:
わたしたちはYHWHエロヒムの型と様に従って創造されており、しかもいのちを与える霊となられたキリストが聖霊によって私の実質として内住され、すでにエロヒム属とされているのだ。
宗教の誘惑は「まだこれから」モード、フェイスは「すでに」モードである。Not-Yet-modeからAlready-modeへの転換こそ、まことのメタノイア=思い改め=である。

しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。
この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。
そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子
に対するの信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。-Eph 4:7-13
ここにある使徒、預言者、福音宣教者(伝道者)、牧者/教師を五役とするカウントするむきがあるが、「ある人」は何回出現するか。四回である。つまり牧することと教えることは重なっているのだ。すなわち四役である。しかも牧者はリストの末席である。現在の牧師をトップとするキリスト教のあり方はまったくのハマルティアだ[1]ニッポンキリスト教では伝道師は牧師見習いの立場であるようだが、とんでもない誤りである。リストの順番をよく確認されよ!。
しかも邦誤訳ではギリシャ語の「ポイメン」を「牧師」とするが、これは誤訳である[2]「メタノイア」に「悔い」の意味はなく、「思い改め」とすべきことと同様に日本語に変換したときにズレが生じている。。歴史的に組織化されたキリスト教なる体系においては教職-信徒関係(=教職制度)が採用され、ちょうど公務員のキャリアとノンキャリアのような線引きが行われるが、このシステムに組み込まれると「師」が付与される。事実、伝道者は伝道師とも言うが、システム化されるか否か微妙だからだ。かくして正確には牧者(=世話人)である[3]英語の”Pastor”も”牧する者”の意味であり、これを「牧師」と訳すのは誤訳である。。教師も教える者。そこには線引きがない!
学校において教師と生徒の関係は一線を画した垂直関係であり、一方生徒間における役割分担、たとば級長、風紀員、図書係などは水平関係である。エペソ書で言う役割はこの生徒間における水平な関係性における役割分担であって、教職-信徒の垂直な関係性のそれではない(☞エクレシアの機能について)。この垂直関係を啓示録ではニコライ派の教えと実行と言う:
だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。-Rev 2:6
同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。-Rev 2:15-16
この「ニコライ」と言う単語は「ニカオ(νικαν=conquer)+ラオス(λαός=people)」からなる。つまり「人々を支配・管理する」ことだ。当初のエペソ(=好ましいの意味)では単なる「行い」だったが、ペルガモ(=結婚・結合の意味)では「教え」として確立されている(☞エクレシアの歴史について)。
そして、これは牧師など教職制度に立つ者たちに対しての警告であるが、主ご自身がそれを憎みかつ戦うとまで言われているのだ! なぜか? われわれはみな兄弟姉妹であり、師はただお一人だから![4]エクレシアにおける諸事については長老がその任を執るが(使徒14:23)、ここでは詳細は触れない。
だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。-Matt 23:8[5]ここは「呼ばれてはならない」だから、呼ばれたい人には呼んであげればよろしい。責任は呼ぶ側にあるのではなく、呼ばれる側にあるから。
お分かりだろうか? 師を名乗ることは主の立場を侵害するとんでもない重罪である! 先生と呼ばれたいですか? それとも主に憎まれたいですか? これは有名どころの牧師たちやその家族の末路が幸いなものではないことにより証明されている。
さて、予型としての幕屋の立て板は四本の可視的棒で連結されたが、それでは全体をまとめられない。不可視の一本が貫いてひとつにされる(Exo 26:26-29)。見える四本は四役、見えない一本はもちろん聖霊だ。

幕屋の立て板がひとつに結合されるのは四役によるのではない。まして教団同士の一致でもない。御霊が貫いているゆえである[6]幕屋はキリストとエクレシアの象徴である。☞至聖所について。
壁板の中央の高さに位置する横木は、壁板の端から端まで渡す。-Exo 26:28
平和のきずなで結ばれて、御霊によるひとつを守り続けるように努めなさい。からだはひとつ、御霊もひとつである。-Eph 4:3-4

いわゆるニッポンキリスト教での神学校を出て、牧師按手を受けて、牧師に任職されるという制度は聖書にはない。新改訳は意図的な誤訳が頻繁に見られるが、中でも問題なのはこの箇所である。
何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。-2Cor 3:5-6
この「資格」なる誤訳がある意味で諸悪の根源である。この単語は”hikanos”であり、「十全性」あるいは「資質」と訳すべきである。いわゆる免状なのではない![7] … Continue reading 各奉仕を行う十分なる能力あるいは資質であり、その目的は教団や教派の教勢を伸ばすことなどではなく、キリストの体を建て上げること、それにより御子のフェイスと知識の一体性にあって成長し、キリストの充満の規模に至るためである(cf.岩波訳)。
そもそも邦誤訳の中で真理を考えることはニッポンキリスト教を生み出すだけと指摘している。統一教会が取り沙汰される昨今において、「教会」なる単語もそろそろ年貢の納め時であろう。原語はエクレシア。それはエク(から)+カレオ(呼ぶ)、つまり呼ばれた人々、直訳すれば「召衆」である。その定義は―
キリストの体、すべてにおいてすべてを満たす方の充満である-Eps 1:23(岩波訳、霊的定義)
至る所で私たちの救い主イエス・キリストの御名を呼び求めている人々-1Cor 1:2(物理的定義)
今日、牧師や神父を世における職業とされており、世において食うための手段となっていることが深刻な問題である。聖書は確かに福音を宣べ伝える者は福音によって生きるべきこと(1Cor 9:14)、またその権利を有すること(1Cor 9:12)を語るが、パウロは兄弟姉妹に負担をかけまいとしてそれを行使しなかったのだ(1Cor 9:15)。その権利とは教団や教派が担保するものではない。あくまでも主とその人との関係において確立するものである。互いの間での支え合いあるいは捧げ物も愛の関係である。
かくしてキリスト教なる宗教体系(マトリックス)にエクレシアが幽閉されているのだ。エジプト(世)からエクソダスして呼び出された者たちが、実は良き地なるキリストご自身ではなく、宗教の捕囚とされている。ゆえに二度目のエクソダスが必要であると私は20年以上訴えてきている。
見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう、「イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる」と言わず、 「イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる」と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。-Jer 16:14-15
聖書の真理に無知の間にはエクレシアを迫害したパウロのように許されているが、一度真理を知ったならば責任が生まれる。責任とは”responsibility”、応答性だ。いかに応えるか。しかしこれもワクチンと同じで、一度マトリックスにハマルと、見ても見えない、聞いても聞こえない、読んでも読めない症候群となる。いや、認めたくないがホンネであろう。なぜなら「食えなくなる」が一番の理由なのだ。ここがキリスト教という体系の根本的病理の根っこである。ニコライ派の行いと教えは忌むべきものである。
References[+]
↑1 | ニッポンキリスト教では伝道師は牧師見習いの立場であるようだが、とんでもない誤りである。リストの順番をよく確認されよ! |
---|---|
↑2 | 「メタノイア」に「悔い」の意味はなく、「思い改め」とすべきことと同様に日本語に変換したときにズレが生じている。 |
↑3 | 英語の”Pastor”も”牧する者”の意味であり、これを「牧師」と訳すのは誤訳である。 |
↑4 | エクレシアにおける諸事については長老がその任を執るが(使徒14:23)、ここでは詳細は触れない。 |
↑5 | ここは「呼ばれてはならない」だから、呼ばれたい人には呼んであげればよろしい。責任は呼ぶ側にあるのではなく、呼ばれる側にあるから。 |
↑6 | 幕屋はキリストとエクレシアの象徴である。☞至聖所について |
↑7 | そもそも免許は禁止されている行為を許される資格である。人の体は傷つけてはならないが、医師免許があれば可能。公道は車では走れないが、免許があれば可能。しかるに聖書の言葉を説くことはそもそも禁止などされていない。まあ、カトは別にしてだが。いや、プロでも教団内のタコツボしきたりではあるかもね。ともあれ牧師の資格とか免許のナンセンスさが分かるであろう。 |

私たちのセレブは中止としましたが、英国Kingdom Faithのライブをどうぞ。

みなさま
主を賛美いたします。
史上最大規模と言われている台風14号が列島に上陸する模様です。中心気圧930HP、暴風域半径500キロですから尋常ではありません。
昨日FBならびにブログ&サイトでお知らせいたしました通り、本日午前10時の様子を見ますと、午後から関東地区でも局地的に大雨が予想され、交通機関の乱れもあるようです。今後の状況はカオスの理論によれば予測ができません。


そこで慎重を期しまして、本日のセレブは中止といたします。霊拝はいつでもどこでも、です。
ちなみに一部のニッポンキリスト教では這ってでも出て来いとするところもあるようですが、基本的にデフォルト・ネットワーク・モード(脱力系)の私はド根性物語は苦手です😅
くれぐれも屋根に登ったり、水路の様子を見に行くなどはやめて家の中でじっとしていましょう。
取り急ぎご連絡にて
Dr.Luke
090-1760-6840
https://blog.dr-luke.com

大きな台風14号が列島を縦断する予報が出ており、関東圏でもあすの午前中から大雨が予想されております。そこでセレブの実施は午前10時時点での様子を見て判断します。中止の場合はサイト&ブログ、またメーリングリストでお知らせ致します。



もともとアダム(人)はYHWHエロヒムの形と様に創造された(Gen 1:26)。エバはアダムの成分からビルドアップされたアダムの骨の骨、肉の肉だった(Gen 2:22-23)。両者は同じ成分をシェアするひとつの有機体であり(Gen 2:24)、【すでに】YHWHエロヒムの似姿だったのだ。後はいのちの木の実(I-AMの実体)を内在化させればよかった。人と創造主はひとつとなれたはずだった(Eph 5:32)。
が、蛇は善と悪の木の実を食べればエロヒムの【ようになれる】と誘惑した。【すでに】YHWHエロヒムが人をご自分の似姿に創造されていたのに、何か不足があるかのように示唆したのだ。こうして人類は蛇のウソを飲みこみ、偽のアイデンティティ(不足してる~と叫ぶあり方)に落ち、延々と知識を増大し(Dan 12:4)、「神のようになる」ことを追求している。
キリスト教なる宗教も同じ、つねに不足してる、まだ十分でない、もっと清くされ、奉仕伝道、信仰に励め~と煽られる。外なる「善と悪の物差し」で常に自分の不足を測り続けるわけ。道元も言っている、
「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」-正法眼蔵現成公案。
最初、法は外にありその周囲を回るだけだが、フェイスにより物差しは内にいのちの御霊の法則として内実化(Gk.ginomai;Hb.haya)される。いのちを与える霊となられたキリスト(1Cor 15:45)は私の霊と「ひとつの霊」としてブレンドされている(1Cor 6:17)。
もはや生きるのはわたしではない、肉(五感領域)にあって生きるわたし(ソウル&ボディ・ハイブリッド)は御子【の】フェイスの中で生きる(Gal 2:20)。イエシュアが生きるので私たちも生きる(John 14:19)。これがYHWHのエミュレータ(イミテートではない)になることだ(Eph 5:1;1Tim 3:16)。
フェイスのカギは御子に【対する】ではない! キリスト【を】信じまーすは分離状態、これがキリスト教。フェイスは御子【の】フェイスのうちに生かされる。これが一体化(Oneness)。「使徒信条告白~、我はナントカ・カントカを信ず~」なんて延々とやってるから明治時代からこのキ業界成長しないわけ。戦後GHQのバックアップでキリスト教は社会化されてすでに地の塩ではなくなってしまった。もはやお笑いでしょう。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実体・実質)、まだ見ていないことのエビデンス(証拠・現出)である。-Heb 11:1(私訳)
客体と主体は溶け合う。精子と卵子が一体になることはその型(タイプ)である。神と人がともに住む(Rev 21:3)。人が神殿そのものなのだ(Eph 2:21)。だから新エルサレムにはもはや神殿は不要(Rev 21:22)。[1]一部のキリスト教徒は新エルサレムを物理的都市と思ってるらしいが、子羊の花嫁なのだよ(Rev 21:2)、都市が花嫁になれるかな?それはYHWHの臨在そのもの(シェキナグローリー)、拡大した立方体であり(至聖所の形)、かつては幕屋や神殿の奥に隠されていたが、いまや隠されていないキリストの充満なるエクレシア(Eph 1:23)の完成体(前田護郎訳など)。祈りを象徴する香壇は新約では至聖所にあるのだ!(Heb 9:4、出エジプト30:6と比較せよ!☞幕屋の秘密@YouTube)。
取り損ねたいのちの木の実体として私たちのうちに内在化されたキリストとエクレシアの究極、YHWHと人の究極的Onenessの奥義である[2]現代物理学の用語でいえば、波動関数(バイブレーション)を共有することによるエンタグルメントだ。。かくしてエデンの園の二本の木々で始まった神と人類の物語は、新天新地において一本の木として完成するのだ[3]Rev 22:2、ここは「両岸にある」とあるが、木は単数形だ。。

Anyone who becomes seriously involved in the pursuit of science becomes convinced that there is s spirit manifested in the laws of the universe, a spirit vastly supelior to that of man. -Albert Einsten
「科学を真剣に追求する者たちはみな、宇宙の法則の中にはある霊が存在することを確信させられる。それは人間の霊をはるかに越える霊である。」-アルバート・アインシュタイン
All matter originates and exists only by virtue of a force. We must assume behaind this force is the existence of a couscious and intelligent Mind. This Mind is the matrix of all matter. -Max Planck
「あらゆる物質はある力によって生み出され、存在するに至った。われわれはこの力の背後に意識的かつ知的なマインドの存在を認めなくてはならない。このマインドはあらゆる物質のマトリクスである。」-マックス・プランク
聖書にはこうある:
・初めに(=時間)神は天(=空間)と地(=物質)を創造された。-創世記1章1節[1]創世記の「初め」は時空間の開始点としての初めであり、ヨハネ福音書の「はじめに」は時空間を超えた永遠の領域におけるはじめである。
・神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。-ローマ書1章20節
・神は霊である。-ヨハネ福音書4章24節
・託宣/イスラエルについての主の言葉。すなわち天をのべ、地の基をすえ、人の霊をその中に造られた主は、こう仰せられる。-ゼカリヤ書12章1節
・信によって、わたしたちは、この世界が神の言葉(=レーマ)で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 -ヘブル書11章3節
最近の『超弦理論』では11次元時空間における膜構造をなすスーパーストリングの振動、バイブレーションが宇宙を構成していると言う[2]アイキャッチ画像は11次元のうち、丸まっている6次元空間。カラビー・ヤウ空間と呼ぶ。その性質はまだほとんどわかっていない。。聖書はすでに紀元前千年頃にこう言っている:
・その響き(=弦)は全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。-詩篇19篇4節
現代物理学の最前線では神の存在を認めざるを得ないのだ。この神とはYHWHエロヒム、エロヒムの中の最も高き存在Elyon、日本のアニミズム的「八百万の神」ではない[3]これらの神々も世界に配置されたエロヒムとも言える。。宇宙のクリエイター、創造主そのもの。最近は「サムシング・グレイト」によるID理論(インテリジェント・デザイン説)が欧米のサイエンティストに流行しているが、この存在は誰か。私の著書『神の新創造』ではこれらのアインシュタインやプランクの発言に応答する内容となっている。

あなたがたはこの世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであれ、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2(岩波訳)
メタノイアはメタ+ノウス、メタは「超越的」あるいは「ある方向へ」の意味、ノウスはマインド、思いである。すなわち主の方向にマインドの方向を変えることだ。この意味で「悔い改め」は不適であると何度も指摘している。「悔い」の意味などはない。
神のみこころに添った悲しみは、【悔いのない】、救いに至る【悔い】改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。-2Cor 7:10
って、自己矛盾でしょう。正確には「悔いのない思い改め」だから。新改訳は田川さんの言う通りなのだよ。
自分の生き方や信条や個性や感じ方などをあくまでも主張する人々がいる。オレはオレ、私は私であることが大切だと・・・。彼らを見ているとひたすら種々の活動や主張に次から次へと没頭し、それはある種強迫的ですらある。それに没頭していないと自分のアイデンティティーが保たれないかのように・・・。一言で言えば、霊的に空疎なのだ。
私たちは絶えず自分の十字架を負う必要がある。それはまずマインドを絶えず変えること。電子マネーの意味が理解できないおじいちゃんのように、現ナマのマトリックスに絡め取られていると電子マネーが使えない[1]薬剤師の奥さんいわく、あるおじいちゃんが電子マネーで支払うと言うので、3千円チャージしてもらったら、お釣りをくれと求められたと。。理解もできない。これが自分を自分のマトリックスに幽閉する人々のあり方だ。自ら捨てない者は決して霊的富を得ることはない。そしてその空疎さは周りにはわかってしまう。霊のあり方は決してごまかせないのだ。彼らは活動することによってその空疎を補償しようとするのだが、かえってそれが空疎さを証明していまう。
神のバイブレーションと共振すること(Ps 19:1-3)。これは神の声を聞くことであるが、魂(Soul)―特にナチュラルなマインドが邪魔をする。いわんや、自分を主張すればするほど、神との距離が離れる。まことにジーザスの声を聞く者は生きるのだ(John 5:25)。私たちの霊的有用性は、活動ではない、聞くことだ。聞けばフェイスが息吹かれる。それは霊を受けることである。そして語り出すのだ。その語り出された言葉は無意味に返ることはなく、必ず言い送ったことを成し遂げる(Isa 55:11)。それは神の業である。ジーザス自身がそのように生きたのだ。
神に属する者は神の言葉(レーマ)を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。-John 8:47
マルタはジーザスの足元に座るマリアに憤りを覚え、ジーザスに訴えた。が、彼は、マリアは大切なことをしているのだと言われた(Luke 10:40-42)。それは―ジーザスの声を聞くこと。聖霊は自分勝手に語るのではなくジーザスの言葉を語り、ジーザスを栄光化する(John 16:13-14)。かくして、私たちの有用性はどれほど聞くことができるかにかかっている。

- 引用聖句:2Cor 3:6-18;Rom 1:3-4;Luke 1:34-38;James 1:18;John 3:6;17:3;2Cor 5:19; etc.
- 次回:2022年9月25日(日)(通常通り)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-17:00
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

今晩は中秋の満月だ。美しく月が光っている。ちょっと宇宙に思いを馳せてみた。

一部のクリに「宇宙は存在しない」とか、「地球が平らだ」とかのたまうむきがある。ほぼ相手にするまでもないのだが、これまでサイエンスの先人に対する冒とくである。またキリストの名を貶めることにもなる。
さて、もっと突き詰めると、「存在って何か」ってことにぶち当たる。量子論のレベルで、ベルの不等式がアスペにより否定されたことによって、局所的実在性が否定された。いわゆるエンタグルメント現象である。量子コーチなるものはせめてこの程度の知識は得てからにしてほしい。
すると次のような主張も重みが出るのだ。
EMAN氏はこう述べている(https://eman-physics.net/quantum/bell.html):
舞台裏に何がある
我々の生存,いや我々だけでなく,全ての存在の舞台となっているこの宇宙.その舞台裏に,離れた 2 点間の状態を「同時」に操る仕組みが存在している.この「同時」というのは,我々が考える時間の概念を超越した意味での「同時」だ.なぜなら時間は,現在の理解の枠組みでは,この宇宙という舞台の一部であるから.・・・
個人的な思索
私は物理を離れたところでふと思う.私は宇宙の片隅にいるちっぽけな存在に過ぎないが,私が取った行動,決断,思いの全てが,即座に全宇宙のあらゆる場所に何らかの影響を与えているのではないだろうか.この宇宙は巨大で複雑な「生き残り頭脳ゲーム」のようなもので,私は普段の生活で何の気も無しに重要なレバーを引っ張っていることがあるのかも知れない.
あるいはこんなことを思ったりする.
私は今ここにいて,この小さな身体が私の全てだと思っているが,この私という存在は,全宇宙が複雑な組み合わせによって,この場所に作り出した影のようなものに過ぎないのではないだろうか.私をここに生かすために全宇宙規模で複雑な計算が行われている.私の本体は全宇宙であり,私の意志はどこか別のところで全宇宙を用いて決定されているのかも知れない.
この「仕組み」とは何か?聖書ではこう答えている:
” Through faith we understand that the worlds were framed by the word of God, so that things which are seen were not made of things which do appear. ”-Heb 11:3(KJV)
「信によって我々は、此の世が神の言葉によって整えられたのだ、と理解している。すなわち見える事象は(表面に)現れた現象から生じたわけではない。」同田川訳
「 信によって、この世が神の言葉によって造られたこと、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。」同岩波訳(信に訂正)
世とはアイオン、言葉はレーマだ。つまり神のレーマは時空間を超える存在(サブスタンス)。これが時空間においてフレーム化(物質として実体化)されたと言うわけ。
まさにベル不等式のほころびはこの時空間を超える「仕組み」-マトリックス-を想定せざるを得ないのだ。
なお、フェイス(pistis)を「信仰」などとすることなかれ。それは五感を超えるスーパーナチュラルにしてスピリチュアルなシックスセンスである。「使徒信条告白~、われはナントカを信ず~」なんてものではないからさ。私たちニュークリーチャーは時空を超えたスピリチュアル領域でキリストとエンタグルメントしているのだ。


神に倣いなさい(エペソ5:1)。これを聴いて無理だと思う人は正直な人、これを実行しようとする人はクルシチャンか、偽善者になるでしょう。この図によってイミテートとエミュレートの本質的相違をご理解すれば、楽になれるはずです。

先に世界経済フォーラムのサイトの2017年時点の記事においてCovid-19という名称を用いているとの報告を紹介した。
今回、この記事では2017年時点でモデルナがワクチンのテストを開始していたと告発されている。
これが何を意味するかは明らかでしょう?
なお、イスラエルがコロナ回復者から抗体を分離し、デルタとオミクロンに有効であることを確認したとのニュースも紹介しておく。RNAワクチン接種が打ち損にならないことを願う次第。

どうも最近の情報ではこのウイルスは人工的である可能性が高いですね。東北大学の発見はすでに紹介しているが、彼らは
・・・しかもゲノムの2つの領域に集中していることから、単なる偶然ではなく、何らかの未知の仕組みによる可能性がある。・・・研究グループの東北大学大学院医学系研究科の赤石哲也助教(漢方・統合医療学)は「10塩基以上の挿入と欠失が、偶然とは思えないほど同じ領域に高頻度に起こっていたのは意外なことだった。
と指摘しているのだ。
さらに次のような指摘もある。
Over the weekend, Dr. Richard Ebright of Rutgers University laid out what I can only describe as a damning chronology of circumstantial evidence supporting the case for Covid-19 emerging from a lab in Wuhan, instead of via natural origins.
わが国のノーベル賞受賞のイベルメクチン開発者の大村先生も同様の指摘をされている。
ええ。こういう特徴を見る限り、このウイルスが自然にできたとはなかなか考えにくいんですね。人工的につくられたのではないかと思われるフシがいっぱいあります。実際、エイズウイルスの発見者リュック・モンタニエ博士は「遺伝子配列の4か所がエイズウイルスと同じというのはどう考えても不自然だ」とはっきり指摘しています。
そして驚くのは、世界経済フォーラムで2017年時点でCovid-19についての記事があったことだ(すでに削除されている)。サル痘についても時系列プラン表がリークされているが、それらは”計画されていた”と思わざるを得ないのだ。
おかしいね。
— 🧠Brainmemox(キッカケ&ヒント) (@Brainmemox) November 30, 2020
2017年。
COVID-19という名は2020年2月11日にWHOが命名したのに。 pic.twitter.com/nMyAueQNIe

そして現在、すでに終わっているBA-1系列と武漢の二価ワクチンを一日100万ショットせよと岸田が叫んでいる。そもそもワクチンをこんな短期間が何度も接種などは医学的にはあり得ない。社会的にも異常事態であると言わざるを得ないのだ。
専門家見解
— You (@You3_JP) September 6, 2022
「オミクロン株ワクチンは、型が古く、最新のウィルスには対応できないことが分かっている。その反面、安全性は検証されていない。日本はボランティアとして実験に参加することになった。医学的にはあり得ないことが推進されている。政治的な背景を考える必要がある」 https://t.co/niCAtKSCfO pic.twitter.com/c8rGlMXDZj
ジャスティン・ビーバーが接種後、奇病にかかって苦しんでいるそうであるが、わが国もVAIDSなどの発症で、今後やばい状況になるという悪寒がする次第。

TODAY’S CELEBRATION Sep 04, 2022:YHWHをエミュレートする-レビ系からメルキゼデク系への相転換
ワクチンの規制に引っかかり、YouTubeは削除されましたので …
ワクチンの規制に引っかかり、YouTubeは削除されましたので、サイトから配信します。
- 引用聖句:Eph 5:1;1Cor 6:20;Rom 6:5;8:16;9:1;Jas 2:22-23;Eph 4:16;5:30-31;1Cor 12:12 etc.
- 次回:2022年9月11日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-15:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

人の営みとはエデンの園で喪失したものを自力で再獲得する試みである-ニッポンキ業界の根本的病理-
人はマズローの理論によれば五段階の欲求を満たされる必要がある。 …
人はマズローの理論によれば五段階の欲求を満たされる必要がある。

これらはエデンの園で喪失したIPPAを自力で獲得する試みとなる。人の営みとはこの喪失を補填することなのだ。これが家庭、社会、国家、そして歴史を形成する。私の言うIPPAとはIdentity(自己同一性)、Provision(生存のための備え)、Protection(生存のための保護)、そしてAsignment(委託=生きる意義)だ。これを主の愛にあって働くフェイスにより実体化(経験化)すること。
私たちは主の愛にあって、これらのすべてをキリストのうちに再獲得している。ところがこれが実体化されないために、キ業界なるマトリックスの中で自力でこれらを獲得しようと努める罠に陥る。これがボクシであれ、シントであれ、いわゆるバーンアウト症候群を生み、ニッポンキ業界に鬱病が多いことで証明される。
だからボクシの説教は金太郎飴、模範シントもほぼ同じ匂いを醸す。その違和感をまず認め、自分を取り戻すこと。キ業界からのエクソダスはそこから、ね!
セコンド・エクソダスはまず各人の内的経験において開始される。ニッポンキ業界における達成によって受容され、承認されようとする罠を抜けること。それはキリストにあって完全に得ているのだから。私たちのすべての働きはまず満たされることから開始される。もしあなたのうちに何かの欠乏感や渇望があるのであれば、それが敵が付け込むトポス(土台)あるいはチャネルとなる。何かをすることへと誘惑されることがないように。私たちのすべては主の甘い愛の中に生きることだ。
ブラザーローレンスの証を紹介しておく:
この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。-John 4:13-14

科学と宗教[1] … Continue readingの関係を議論するとき、人々はしばしば二極化した立場を取ります。 彼らは信じるか信じないかのスタンスを取ります。 多くの悲しみは、どちらか一方が間違っている、または無意味であると主張することから生じます。
実際、宗教と科学は重なっています。 それらは、人々の心、人生の選択、そして社会が直面する困難な道徳的課題の中で交差しています。 困難な生活の中でアイデンティティと目的の感覚を求めながら、何十億もの人々が多様な信仰に従っている世界で宗教の力を厳しく否定することは、ひどく素朴で、率直に言って残酷です.
いわゆるか科学万能の時代に「神」とか「霊」とかは迷信とする立場は本当の科学を知らない[2] … Continue reading。逆に聖書と科学は矛盾するといった聖書原理主義者は聖書の真の意味を知らない。いずれにしろ、われわれニュークリーチャー・エロヒム属は物理領域と霊領域の双方に生きる存在としてマージナルにしてデュアリティな者なのだ。主と同じに世にはいるが世のものではない(John 17:11-16)。
And no man hath ascended up to heaven, but he that came down from heaven, even the Son of man which is in heaven. –John 3:13
天から下って、天にいる者? そう、これがデュアリティ。量子ですら、あちらにあるし、こちらにもあるのだ。そして私たちは地上にいるが、同時にすでに―
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、-あなたがたの救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。-Eph 2:5-6
地上に生きるがすでにキリストと共に御座におる存在(これから天国に行くのではない)。キリスト教はこれからモード、フェイスはすでにモードである。
問題はこの”信じてること”が狂うと人生を失う。昨年コロナで亡くなった再建主義の富井氏は、生き方にはリスペクトするも、その信奉していた『再建主義』については狂気を感じていた。彼はまさに、何を信じて、何に殉じたのであろうか? ニッポンキ業界のボクシの教えとかマジ受けすると彼らと同じ末路を辿る。
純粋な御言葉を食べ飲みすること、キリストのボディコンシャスに生きること。
これが若さと健康の秘訣。つねにその”こと”=belief=を御言葉と照合するのを欠かさないことが大切である[3] … Continue reading。自らの思いを刷新し(Rom 12:2)、キリストに服させること。

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき・・・2Cor 10:4-6
これはロマ12章のメタモルフォーシスの成就である。
References[+]
↑1 | これは機械翻訳なので、本当は霊性とでもしたい単語だが、五感を超えた存在を扱うのが宗教との理解で書かれているので、「信仰」なる単語も含めてそのままにしておく。 |
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↑2 | ID理論などで分かるとおり、宇宙の法則の神秘や精緻なDNAの構造などを知るとき、誰かがデザインしたと思わざるを得ないのだ。サイエンティストの「神」はまだ理神論の神(スピノザの神)であるが、最先端では存在の理由を追求せざるを得ないのだ。 |
↑3 | ギリシャ語やヘブル語を母国語としていないわれわれには限界があるが、できる限り邦誤訳は避けて、原意をくみ取る努力をすることが大切である。最低限、英訳のKJVは参照すること! |