人はみな”何かを信じて”生きている-その”何か”があなたの人生を決める-
科学と宗教[1] … Continue readingの関係を議論するとき、人々はしばしば二極化した立場を取ります。 彼らは信じるか信じないかのスタンスを取ります。 多くの悲しみは、どちらか一方が間違っている、または無意味であると主張することから生じます。
実際、宗教と科学は重なっています。 それらは、人々の心、人生の選択、そして社会が直面する困難な道徳的課題の中で交差しています。 困難な生活の中でアイデンティティと目的の感覚を求めながら、何十億もの人々が多様な信仰に従っている世界で宗教の力を厳しく否定することは、ひどく素朴で、率直に言って残酷です.
いわゆるか科学万能の時代に「神」とか「霊」とかは迷信とする立場は本当の科学を知らない[2] … Continue reading。逆に聖書と科学は矛盾するといった聖書原理主義者は聖書の真の意味を知らない。いずれにしろ、われわれニュークリーチャー・エロヒム属は物理領域と霊領域の双方に生きる存在としてマージナルにしてデュアリティな者なのだ。主と同じに世にはいるが世のものではない(John 17:11-16)。
And no man hath ascended up to heaven, but he that came down from heaven, even the Son of man which is in heaven. –John 3:13
天から下って、天にいる者? そう、これがデュアリティ。量子ですら、あちらにあるし、こちらにもあるのだ。そして私たちは地上にいるが、同時にすでに―
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、-あなたがたの救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。-Eph 2:5-6
地上に生きるがすでにキリストと共に御座におる存在(これから天国に行くのではない)。キリスト教はこれからモード、フェイスはすでにモードである。
問題はこの”信じてること”が狂うと人生を失う。昨年コロナで亡くなった再建主義の富井氏は、生き方にはリスペクトするも、その信奉していた『再建主義』については狂気を感じていた。彼はまさに、何を信じて、何に殉じたのであろうか? ニッポンキ業界のボクシの教えとかマジ受けすると彼らと同じ末路を辿る。
純粋な御言葉を食べ飲みすること、キリストのボディコンシャスに生きること。
これが若さと健康の秘訣。つねにその”こと”=belief=を御言葉と照合するのを欠かさないことが大切である[3] … Continue reading。自らの思いを刷新し(Rom 12:2)、キリストに服させること。
わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき・・・2Cor 10:4-6
これはロマ12章のメタモルフォーシスの成就である。
References
↑1 | これは機械翻訳なので、本当は霊性とでもしたい単語だが、五感を超えた存在を扱うのが宗教との理解で書かれているので、「信仰」なる単語も含めてそのままにしておく。 |
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↑2 | ID理論などで分かるとおり、宇宙の法則の神秘や精緻なDNAの構造などを知るとき、誰かがデザインしたと思わざるを得ないのだ。サイエンティストの「神」はまだ理神論の神(スピノザの神)であるが、最先端では存在の理由を追求せざるを得ないのだ。 |
↑3 | ギリシャ語やヘブル語を母国語としていないわれわれには限界があるが、できる限り邦誤訳は避けて、原意をくみ取る努力をすることが大切である。最低限、英訳のKJVは参照すること! |
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