霊的空疎からの解放―マインドの古いマトリックスを捨てる

あなたがたはこの世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであれ、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2(岩波訳)

メタノイアはメタ+ノウス、メタは「超越的」あるいは「ある方向へ」の意味、ノウスはマインド、思いである。すなわち主の方向にマインドの方向を変えることだ。この意味で「悔い改め」は不適であると何度も指摘している。「悔い」の意味などはない。

神のみこころに添った悲しみは、【悔いのない】、救いに至る【悔い】改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。-2Cor 7:10

って、自己矛盾でしょう。正確には「悔いのない思い改め」だから。新改訳は田川さんの言う通りなのだよ。

自分の生き方や信条や個性や感じ方などをあくまでも主張する人々がいる。オレはオレ、私は私であることが大切だと・・・。彼らを見ているとひたすら種々の活動や主張に次から次へと没頭し、それはある種強迫的ですらある。それに没頭していないと自分のアイデンティティーが保たれないかのように・・・。一言で言えば、霊的に空疎なのだ。

私たちは絶えず自分の十字架を負う必要がある。それはまずマインドを絶えず変えること。電子マネーの意味が理解できないおじいちゃんのように、現ナマのマトリックスに絡め取られていると電子マネーが使えない[1]薬剤師の奥さんいわく、あるおじいちゃんが電子マネーで支払うと言うので、3千円チャージしてもらったら、お釣りをくれと求められたと。。理解もできない。これが自分を自分のマトリックスに幽閉する人々のあり方だ。自ら捨てない者は決して霊的富を得ることはない。そしてその空疎さは周りにはわかってしまう。霊のあり方は決してごまかせないのだ。彼らは活動することによってその空疎を補償しようとするのだが、かえってそれが空疎さを証明していまう。

神のバイブレーションと共振すること(Ps 19:1-3)。これは神の声を聞くことであるが、魂(Soul)―特にナチュラルなマインドが邪魔をする。いわんや、自分を主張すればするほど、神との距離が離れる。まことにジーザスの声を聞く者は生きるのだ(John 5:25)。私たちの霊的有用性は、活動ではない、聞くことだ。聞けばフェイスが息吹かれる。それは霊を受けることである。そして語り出すのだ。その語り出された言葉は無意味に返ることはなく、必ず言い送ったことを成し遂げる(Isa 55:11)。それは神の業である。ジーザス自身がそのように生きたのだ。

神に属する者は神の言葉(レーマ)を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。-John 8:47

マルタはジーザスの足元に座るマリアに憤りを覚え、ジーザスに訴えた。が、彼は、マリアは大切なことをしているのだと言われた(Luke 10:40-42)。それは―ジーザスの声を聞くこと。聖霊は自分勝手に語るのではなくジーザスの言葉を語り、ジーザスを栄光化する(John 16:13-14)。かくして、私たちの有用性はどれほど聞くことができるかにかかっている。

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1 薬剤師の奥さんいわく、あるおじいちゃんが電子マネーで支払うと言うので、3千円チャージしてもらったら、お釣りをくれと求められたと。

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