フェイスとは法とひとつにされること-客体と主体は融合する-
もともとアダム(人)はYHWHエロヒムの形(と様の予定だった)に創造された(Gen 1:26)。エバはアダムの成分からビルドアップされたアダムの骨の骨、肉の肉だった(Gen 2:22-23)。両者は同じ成分をシェアするひとつの有機体であり(Gen 2:24)、【すでに】YHWHエロヒムの似姿だったのだ。後はいのちの木の実(I-AMの実体)を内在化させればよかった。人と創造主はひとつとなれたはずだった(Eph 5:32)。
が、蛇は善と悪の木の実を食べればエロヒムの【ようになれる】と誘惑した。【すでに】YHWHエロヒムが人をご自分の似姿に創造されていたのに、何か不足があるかのように示唆したのだ。こうして人類は蛇のウソを飲みこみ、偽のアイデンティティ(不足してる~と叫ぶあり方)に落ち、延々と知識を増大することにより(Dan 12:4)、「神のようになる」ことを追求している。
キリスト教なる宗教も同じ、つねに不足してる、まだ十分でない、もっと清くされ、奉仕伝道、信仰に励め~と煽られる。外なる「善と悪の物差し」で常に自分の不足を測り続けるわけ。道元も言っている、
「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」-正法眼蔵現成公案。
最初、法は外にありその周囲を回るだけだが、フェイスにより物差しは内にいのちの御霊の法則として内実化(Gk.ginomai;Hb.haya)される。いのちを与える霊となられたキリスト(1Cor 15:45)は私の霊と「ひとつの霊」としてブレンドされている(1Cor 6:17)。
もはや生きるのはわたしではない、肉(五感領域)にあって生きるわたし(ソウル&ボディ・ハイブリッド)は御子【の】フェイスの中で生きる(Gal 2:20)。イエシュアが生きるので私たちも生きる(John 14:19)。これがYHWHのエミュレータ(イミテートではない)になることだ(Eph 5:1;1Tim 3:16)。
フェイスのカギは御子に【対する】ではない! キリスト【を】信じまーすは分離状態、これがキリスト教。フェイスは御子【の】フェイスのうちに生かされる。これが一体化(Oneness)。「使徒信条告白~、我はナントカ・カントカを信ず~」なんて延々とやってるから明治時代からこのキ業界成長しないわけ。戦後GHQのバックアップでキリスト教は社会化されてすでに地の塩ではなくなってしまった。もはやお笑いでしょう。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実体・実質)、まだ見ていないことのエビデンス(証拠・現出)である。-Heb 11:1(私訳)
客体と主体は溶け合う。精子と卵子が一体になることはその型(タイプ)である。神と人がともに住む(Rev 21:3)。人が神殿そのものなのだ(Eph 2:21)。だから新エルサレムにはもはや神殿は不要(Rev 21:22)。[1]一部のキリスト教徒は新エルサレムを物理的都市と思ってるらしいが、子羊の花嫁なのだよ(Rev 21:2)、都市が花嫁になれるかな?それはYHWHの臨在そのもの(シェキナグローリー)、拡大した立方体であり(至聖所の形)、かつては幕屋や神殿の奥に隠されていたが、いまや隠されていないキリストの充満なるエクレシア(Eph 1:23)の完成体(前田護郎訳など)。祈りを象徴する香壇は新約では至聖所にあるのだ!(Heb 9:4、出エジプト30:6と比較せよ!☞幕屋の秘密@YouTube)。
取り損ねたいのちの木の実体として私たちのうちに内在化されたキリストとエクレシアの究極、YHWHと人の究極的Onenessの奥義である[2]現代物理学の用語でいえば、波動関数(バイブレーション)を共有することによるエンタグルメントだ。。かくしてエデンの園の二本の木々で始まった神と人類の物語は、新天新地において一本の木として完成するのだ[3]Rev 22:2、ここは「両岸にある」とあるが、木は単数形だ。。
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