また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、 それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。-Matt 13:31-32 

この譬えは何を意味するのだろうか。いわゆるキリスト教が全世界に拡大し、神の国が地上に出現することを言うのだろうか? しかし、イエシュアはこう言われている:

しかし、人の子が来るとき、地上に信が見られるであろうか。-Luke 18:8

ああ、主よ、なんという不信仰なお言葉・・・。このふたつの聖句のコントラストはいったい何であろうか。カギは聖句は聖句によって解き明かすことだ。

まず、マタイの聖句は、天の国に毒麦が混じる警告の文脈にあり(Matt 13:24-30)、続いてからし種→野菜→木→鳥が宿る、と展開する。カギは野菜が木に変質することだ。野菜は食することが可能であるが、木は不可能である。つまり生命を支える養分となるか否かの違いである。エクレシアは神の国の地上における派出所のような存在であり、それは新しい生命体である。その生命を保つためには養分が必要である。木はそれにふさわしくない。

次に鳥である。聖句を見ると-

種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。-Luke 8:5

道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。-Mark 4:15

鳥が何を意味するか明らかであろう。また啓示録には

倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。 すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである。-Rev 18:2-3

つまり大バビロンは鳥の巣窟である[1] … Continue reading。それはエクレシアを養うどころか、汚れた霊どもの巣窟である。そもそもこの主の譬えはダニエル書に起源がある。ネブカドネザルのこの夢についてダニエルはこう解き明かす―

あなたがご覧になった木、すなわち、生長して強くなり、その高さは天に届いて、地のどこからも見え、その葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があり、その下に野の獣が住み、その枝に空の鳥が宿った木、王さま、その木はあなたです。あなたは大きくなって強くなり、あなたの偉大さは増し加わって天に達し、あなたの主権は地の果てにまで及んでいます。-Dan 4:20-22

まさにバビロンである。ネブカドネザルはこの後、7年間狂気に落ちる。ちなみにScofieldはこの譬え話についてこう注釈している―

The parable of the Mustard Seed prefigures the rapid but unsubstantial growth of the mystery form of the kingdom from an insignificant beginning Act 1:15; Act 2:41; 1Co 1:26 to a great place in the earth. The figure of the fowls finding shelter in the branches is drawn from Dan 4:20-22. How insecure was such a refuge the context in Daniel shows.

(DeepL訳)

「からし種のたとえは、王国の神秘的な形態が、取るに足らない始まりから(使徒1:15;2:41;1コリ1:26)、地上の大きな場所へと急速に、しかし実体のない形で成長することを予言するものです。鳥が枝に隠れ家を見つけるというのは、ダニエル4:20-22から引用したものです。そのような避難所がいかに不安定であったかは、ダニエルの文脈が示しています。」

これこそ現代の社会化された世の組織としてのキリスト教の姿である。エクレシアはからし種から成長し(エペソ=好ましい)、ローマの迫害を受けて(スミルナ=苦難)後、コンスタンチンが公認し、さらにローマ国教会として政治形態と結合し(ペルガモ=結合)、カトリックによる中世の暗黒時代を経て(テアテラ=香の祭事)、いわゆる宗教改革でプロテスタントの諸教派が生じ(サルデス=少数者)、分裂を繰り返して現代に至る(フィラデルフィア=兄弟愛からラオデキヤ=大衆の意見へ)。そして今やあらゆる宗教を統一しようとするNew World Religionへと突き進んでいる。

エペソにはニコライ派の実行があったが、ペルガモではニコライ派の教えへと組織化され、そこにはサタンの王座が置かれ、宗教としてのキリスト教が確立する。この後は世界史に言われる通りのキリスト教史が展開する。ニコライ派とは「ニカオ(民)+ラオス(支配・管理)」の合成語、つまり今で言う教団教職制度にほかならない。主は「あなたがたはみな兄弟だから先生と呼ばれてはならない」と戒めた(Matt 23:8)。エクレシアの関係性はいのちのつながり、兄弟性にある。対して教団教職制度は組織として、ちょうど官僚制度におけるキャリアとノンキャリアのような相を設定するものであり、主はこれを憎みかつ戦うとまで言われるのだ(Rev 2:6;16)。

かくして七つのエクレシアは当時の断面的エクレシアのあり方のみでなく、時系列的なあり方をも提示しているのだ。イエシュアはキリスト教の教祖でもなければ、聖書はその経典でもない。教団教職制度に基づくキリスト教なる宗教は世に組み込まれた大バビロンの構成要素である[2] … Continue reading。世から救い出されたらそこはキリスト教なる宗教の捕囚地だったと。エクレシアは生命に満ちたみずみずしい野菜なる存在、人目には立派な木へと変質してはならない。かくしてセコンド・エクソダスを勧める次第。

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1 啓示録ではバビロンには霊的側面(17章)と経済的側面(18章)があることが暴かれている。経済と宗教は密接に関係するのだ。なぜなら、マネーはマモンの支配であり、主を拝するか、マモンを拝するかと問われるのだ。それは自分の生存の担保をどちらに置くかという問題である。バビロンでは奴隷に加えて人間の魂すら商品とされるのである。
2 内村鑑三はこの意味での教会を排したのであり、彼は決してキリストの体なるエクレシアを排除したわけではない。というよりも、排除することなどはできない。なぜなら新しく霊を再生された新創造たるわれわれ自身がエクレシアであるからだ。

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