
これはFBで明日のメッセの予習としてUPしたものだが、来週のシャブオット(五旬節;ペンテコステ)を迎えるにあたり、軽く触れておく。詳細は明日のメッセをどうぞ。
90年代、ベニー・ヒンなる人物が邦訳『聖霊様、おはようございます』で一世を風靡した。日本にも何度か来たことがあるが、その裏話はおいておくとして、ぼくはかつて聖霊派の拠点『リバ新』で何度も彼ら(=いわゆる聖霊派)の聖霊論を批判した[1] … Continue reading。
2015年、ヒンは自分のこれまでの教えは間違っていたと思い改め(メタノイアの直訳)、ついにこう語ったのだ。聖霊はイエスを証しする霊であり、聖霊を求めるのではなく、イエスを求めよと。この”Jesus Unlimited”はツー・ザ・ポイントである。


まことに彼は際どいところで踏みとどまった。しかし、いまだにニッポンキ業界では聖霊派の聖霊知らず。彼の『聖霊様、おはようございます』ではなく(ぼくは邦訳が出る前にビバリーヒルズで原書を購入していた)、アンドリュー・マーレーの『キリストの御霊』を読むこと。
明日はマーレーの第5章を説こうと思うが、これはいつも私がメッセしている内容の原点だ。旧約の神の霊と新約のキリストの御霊は本質的には同一だが、経綸的には異なる。だからヨハネ7章39節では、「まだなかった(存在していなかった;田川訳)」のです(原文、John 7:39)。はあ、聖霊がまだなかった??? ここで慧眼のマーレーはこう説きます。
イエスの人性が復活と昇天によって栄光を受けると、イエスの霊は神のいのちに一致して栄化されたものとして来られ、その栄化されたいのちにより、ご自分が達して得たすべてのものを私たちにあずからせてくださるのです。
・・・そして、私たちのためにご自身のうちに新しくきよい人性を完成されたいさおしによって、かつて存在しなかった、人であると同時に神であるといういのちを、今や私たちに伝えることができたのです。
このときから、御霊は、神の個人的生命であるように、また、人の個人的生命となりました。この御霊は神にあっていのちの原則であるように、神のこどもたちにとってもそうなのです。
ペンテコステのときに注がれたのは、栄光を受けられたイエスの霊として、すなわち、受肉し、十字架につけられ、上げられたイエスの霊として来られました。ただ神のいのちとしてではなく、キリスト・イエスの人性に織り込まれた神のいのちの保持者、また付与者として来られたのです。
・・・この考えは私たちの内に遣わされるのは、神の霊ではなく、イエスの霊である。・・・聖霊は神-人の御霊、つまり真に神の御霊であり、同時に人の霊でもあるものとして下られたのです。
以上、マーレーの引用。これが私の言うエロヒムの霊であり、ニュークリーチャー、新創造であることだ。キリストは今やいのちを与える霊として(1Cor 15:45)、神性の全充満たるキリストを聖霊においてわれわれに内住させ(ペリコレーシス)、YHWHご自身のいのちと霊を分与してくださったのだ。
使徒行伝においては聖霊の外なる満たしと内なる満たしを、それぞれプレソー(plethoo)とプレロー(pleroo)で区別している。外なる満たしは証しと働きのため(経綸的満たし)、内なる満たしはいのちの成長と増殖(本質的満たし)のためだ。というわけで、続きは明日
References
↑1 | 天に父がおり、右にキリスト、地上は聖霊だのとことで、イエスと聖霊が切り離されている(三神論)。ある聖霊派の神学校で、聖霊を知ることはイエスの魅力を知ることだと語ると、イエスの魅力って何ですかと質問されたのだ。彼らが「充満~、油注ぎ~」とチャントして求めている霊は果たしてなんの霊であろうか? |
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