- 2025-06-14
iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

- 引用聖句: Gen 1:2;John 10:35;1Cor 15:45;Ps 104:30;107:20;Phil 2:6-8;Heb 4:15-17;Rom 5:12-21;1Tim 3:16 etc.
- 次回:2023年7月2日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

マーレー・クオート:”肉の卑しさこそ御霊が働く領域である”(エウセベイアの奥義)-1テモテ3:16
アンドリュー・マーレー:『キリストの御霊』第20章より 天地創 …
アンドリュー・マーレー:『キリストの御霊』第20章より
天地創造のみわざにおいて、神の霊は自ら暗黒と生命のない混沌とした事物をおおい、その生かす力によって、命と繁殖の力をお与えになりました。それらのものが神の霊によって生かされたのちにのみ、神の言葉はこれに形を与え、私たちが今見るような命と美の各様の形状を呼び出すことができたのです。
人間の創造においても同様で、地のちりによって造られた体の中に吹き入れられたのは霊であって、人はこれにより生きたもの(原語・魂)となりました。そのようにイエスの人格においても、その肉体は御霊の働きによって備えられ、御霊によってイエスのからだは再び墓の中からよみがえりました。
私たちにしても同様で、肉体は御霊によって神の宮とされ、キリストの肢体とされたのです、私たちは聖霊を、物質の弱さから遠くへだたった神的な存在とばかり考えやすく、その働きが自分で物質的なものと結合し、これを霊化し、完全な最高の型である霊体にまで至らせることであるのを忘れています。
御霊の働きについてのこの見解は、あがないの事実において彼が占めている位置を理解する上において重要です。このわざには聖三位一体の各位にそれぞれ定められた特別な位置があります。
御父においてはすべてのものの創造者である見えない神を知ることができます。
御子によって神は見える姿で現れて私たちに近づきました。イエスは神の姿なのです。
また、御霊によって私たちは内住の神を持つことができました。神の力が人のからだに宿り、そのうちに働いて、御父と御子が私たちのために持っているものを与えてくださるのです。
肉の弱さと卑しさ、そうです、肉の卑しさこそ御霊が働く領域です。個人ばかりでなく、教会全体としても、御父の定められたもの、御子の得てくださったものを肉に宿しているキリストの手足である者たちの中に実現するのは、ただ、聖霊の不断の仲介と活動によるのです。
まさにここに説かれていることは、敬虔の奥義である。
肉の卑しさこそ御霊が働く領域です-これはなんという憐れみ、恵み、そして励ましであろうか。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。-Phil 2:6-8
ゆえにこう招いてくださるのです:
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。-Heb 4:15-16
そしてこの究極の約束があります:
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。-Phil 3:21
今、私たちが経験することができる奥義は―
行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。敬虔の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、神(ビザンチン写本)は肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。-1Tim 3:15-16
文脈を見れば、「神の家=生ける神のエクレア」について語っており、その説明として、「敬虔の奥義」を定義しているのである。この「敬虔」と訳された単語は”eusebeia”であり、日本語で理解してはならない。聖句は聖句で定義すること。すなわち、エクレシアとは敬虔の奥義であり、神が肉において現れることである[1] … Continue reading。

- 引用聖句: John 6:63;10:35;1Cor 15:45;1Pet 1:23;1John 3:9;Matt 13:3-8;Col 3:16 etc.
- 次回:2023年6月25日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

御霊はまず第一に、いのちを与えるのを原則として働かれます。御霊が信徒のうちになされる、しるし、きよめ、光を与え、力づけるみわざなどは、みなこれに根ざしているのです。・・・魂の内なるいのちとして御霊を待ち望んでこそ、彼のそれ以外の恵みのみわざを経験することができるのです。これはただそのいのちの成長発展したものにほかならないのです。これらを味わうことができるのは、内なるいのちの力によってです。
この御霊に対照して、主は肉をおいてます。肉が罪の源泉だと言っているのではありません。そうではなく、宗教的な面では、肉とは生まれつきのままの人、あるいは完全に神にゆだねていない信徒が、みずから神に仕え、神のことを知り、自分のものにしようとして用いる力を言っております。
二つのことを教えたいのです。その一つは、そのことばが真に生きた種であって、根ざし、発芽する力を持っており、これを受け入れてその心にとどめる者に、その活力をあらわし、その意義を啓示し、その神的な力を実証するということです。
彼のみことばは霊であり、またいのちです。そのみことばは理解するためのものではなく、いのちを得るためのものです。みことばは見えない御霊の力によって来て、すべての思いよりも高く深く、いのちの根源に侵入します。みことばはその中に神のいのちを持っており、神の力によって、その真理を受け入れる者の経験の中に、有効に成長するのです。
種はそれが適する土壌を必要とします。種の中ばかりでなく、土壌にもいのちが必要です。みことばは頭の中に入るだけでなく、感情の中だけでもなく、また意志の中に入るだけでもありません。それらすべてを通して、その奥にあるいのちに撒かれなくてなりません。そのいのちの中心は人間の霊的性質であり、良心はその声です。
御霊に満たされたいならば、みことばに満たされなさい。また御霊のいのちがあなたのうちに育って強くなり、あなたの性質のすべての部分に力を得ることを願うならば、キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせなさい。
人生のさまざまの場面に遭遇し、一見矛盾したような命令とか主義の間にあって、そのなすべきことを誤りなく選択し、必要な示唆を受けるために聖霊によって神の御心を啓示されることを願うならば、みことばを豊かにうちに住まわせ、聖霊が用いてくださるように備えなさい、・・・聖霊が活力を現わされるのはみことばによってなのです。
霊であり、いのちであるみことばは、内住の御霊といのちによって私たちのうちに生きて働かれ、これによってのみその意味を啓示し、その実質を賦与し、その神による力と満たしをうちなる御霊といのちに与えるのです。

これ、物理を知ってる人には鳥肌もの。なんでだぁ・・・と呻くのみ。
137って何?って思った方は、こちらをどうぞ。

- 引用聖句: Gen 2:9;3:6;2Cor 3:18:Tim 2:14;2Pet 1:4;John 10:35;1John 3:9 etc.
- :次回:2023年6月18日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
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いわゆる白いキリスト教では、創世記3章の誘惑の本質を「人が神のようになれる」とそそのかしたことであるとします。よって、神のようになりたいこと自体が罪とされるのです。
しかし、YHWHエロヒムは、他の動植物は「種に従って」創造されましたが(Gen 1:21)、人は「ご自身の型と様にしたがって」創造しようと言われ(Gen 1:26)、実際は「型にしたがって」創造されました(Gen 1:27)。「様」はどうしたのでしょう?
ここでいのちの木の意味が浮上します。それは被受造のYHWHエロヒムご自身のいのちを象徴します。つまりこの木の実を食べていれば、内実としてYHWHエロヒムご自身の「様」を得ることができたのです[1] … Continue reading。ポイントは、神のようになる道(方法)の選択です!

そうです、いのちの木の実を得ていれば、YHWHエロヒムの意図に従って人は神のよう(様)になれたのです! アンドリュー・マーレーはこの経緯を次のように説いております。
『キリストの御霊』第9章からの引用
楽園において神のようになるべきふたつの道が人の前に置かれていました。それら二つの道は、二つの木に象徴されていました。いのちの木と知識の木です。神の道は前者であって、いのちを通して知識と神の像がもたらされます。神の御心の内におり、神のいのちにあずかって、人は完成されるべきものでした。
ところがサタンは、他のの道にそそのかして、知識こそ神のようになるために慕うべきものだと思わせました。そして人が服従によるいのちのよりも知識の光の方を求めたときに、恐ろしい死に至る道に入ったのでした。知ろうとする願望は人の最大の誘惑となり、その性質のすべては腐敗し、知識は人にとって、服従よりもいのちよりももっとまさったものと思われるようになりました。
霊的真理でさえも御霊のいのちによらず、人間の知恵によって保持するとき、その力は奪い去られてしまうのです。真理が神の望んでおられるように、人間のうちなる心にはいってくる場合は、そこで霊のいのちとなるのです。
しかし、それが心の外面的な部分、つまり知能とか理性にだけ達し、そこにとどまってしまうと、真理はもてあそばれて慰み物となり、そこから出てくるものとは、人の議論と想像にとどまり、決して霊のいのちにまでは届かないのです。そこにあるのは神の真理の影に過ぎず、人間的な理解や感情に屈するたぐいのものです。・・・真理の影と形と理想だけなら律法からも与えられます。ユダヤ人の宗教がつまりそれだったのです。
実質の真理、神のいのちとしての真理は恵みとまことに満ちていたひとり子イエスがもたらしたものです。イエスご自身が真理なのです。
私たちの主は、聖霊をご自分の弟子たちに約束されたとき、それを真理の御霊と呼びました。この真理、イエスご自身であり、また私たちに与えるために天から携えてきた霊的実体である真理と恵みといのちとは、神の霊の中にその存在を保っていたのです。聖霊こそ神の真理の内的生命である霊であって、私たちが聖霊を受け、聖霊にゆだねるに応じて、聖霊はキリストと神のいのちを私たちのうちに、真理として現実に現わしてくださいます。・・・聖霊は私たちのいのちの隠れた根源に入ってきて、神の真理を種としてそこに植え付け、神のいのちとしてそこにお住みになるのです。
そこで信仰と期待と明け渡しの中に、この隠れたいのちは抱かれ養われ、いよいよ成長してその全存在を通じて枝を広げるようになります。こうして外からではなく内から、ことばによってではなく力といのちと真理によって、聖霊はキリストと聖霊みずからが持っているすべてのものを私たちに啓示します。聖霊は私たちにとって一つの映像、一つの思想、外にあり、しかも上にある救い主に過ぎなかったキリストを、私たちのうちにある真理としてくださるのです。
聖霊は、まず思想や感情に語りかけるのではなく、人の心の内奥、人の霊の奥底に語りかけるのです。その教えは、ただ信仰によってのみ認めることができるものです。
そして真理の御霊をうちに持っているという確信は、私たちのうちにキリストの像を形づくらせ、私たちを主の啓示してくださるいよいよ深い真理の悟りに至らせることでしょう。
このようにして私たちは神の栄光の反映であり、その本質の姿である御子(Heb 1:2)の形へと同型化されていきます。
愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。-1John 3:1
ここで創世記をおさらいしておきましょう。YHWHエロヒムは人を創造された後、園のすべての木から取って食べて良いと言われました。その木々についてはこう言われております:
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。-Gen 2:9
食べて良い木の性質は、見て美しく、食べるに良い、です。一方、禁じられた知識の木は人がYHWHエロヒムとは関係なく善と悪を知ることができるものであり、
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた-Gen 3:6
お分かりでしょうか? 許された木々にない性質があります:賢くなるには好ましい。もっと分かり易く言えば、Desirable to make one wise、つまりを人をして賢くしてくれる木だったのです。これが許された他の木々と異なる点でした。
賢くなりたい! この欲求は人類普遍の欲求であり、知識を求め続けて、現代ではDNAを操作し、新しい生命すら生み出せる可能性があり、踏み込んではならない領域に入ってしまった感があります。
ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう。-Dan 12:4
この言葉とは「預言の言葉」のことですが、同じことを人類は人文科学、社会科学、自然科学の各領域で行っていることは誰しも容易に理解できるでしょう。終わりの時代には知識が増大するのです! まさに現代はその臨界点に来ていると感じざるを得ません。まさに知識により神のようになる模索です[2]これが「トランスヒューマニズム」であり、ハラリ氏の言う「ホモ・デウス」です。。
しかしYHWHエロヒムの道はいのちの木にあって、うちにYHWHエロヒムの形(アイコン)である人となられた御子が人間生活をすべて経験され、その経験の記憶を持つ聖霊、つまり神人の霊である御霊が私たちのうちに内住され、御言葉(ロゴス)が内在化されることによって、私たち(の霊)はエロヒムとなるのです(John 10:35)。これがYHWHエロヒムの当初の意図でした。
サタンは主の意図を理解すると必ず先回りをしてフェイクをもって主のご計画の疎外を図ります。善悪を知る知識の木はそのためにもちいられたのです。しかるに私たちの判断基準はこの木によるのではなく、いのちの感覚によるのです。
しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。-Heb 5:14
感覚はいのちから生み出されます。そしてこの霊の感覚は聖霊の感覚であり、それはすなわち御子の感覚、すなわち御父の感覚にほかなりません。こうしてYHWHエロヒムの判断が私たちのうちに実体化されるのです。この御霊の与える霊の感覚によって生きることこそ、いのちの木による歩みなのです。
このようにYHWHエロヒムのいのちが成長、増殖することこそ、当初のYHWHエロヒムのご計画でした。こうして地上においてご自身の像(イメージャー)であるYHWH家の家族たるエロヒム属が増え広がるのです。

2016年6月9日のFBの投稿記事を採録しておく。
聖書の写本、これ、ヤバいことになっている。邦語訳は写本以前に、訳語自体が恣意的でとてもではないが、そのまま信用できない。写本もアレキサンドリアあるいはバチカン系列はアウト、どうもビザンチン系列がもっとも信用が置けそうで、私は基本的にe-SwordにKJVとStrongなどを組み合わせて調べている。ギリシャ語やヘブル語は白文では読めずとも、文法が分かれば、種々のツールで理解可能。この点、教養時代にドイツ語で苦しんでおいてよかった。英語だけではちょっと不十分。
例えば、ちょっと光る部分をひとつ―エペソ5:1。ここは普通、「神に倣うものとなりなさい」とあり、これでさんざん自力で頑張ってクルシチャン化する人が多いのだ。倣えるわけがない!それは犬が人間のフリをしようとするようなもの。いのちの階層が異なるのだから、元から無理。
が、ここに使われているギリシャ語を見てみると、「神の写し(要するに、コピー)になりなさい」といったかなり大胆な表現! WOW!!! われわれは新人類。神の種(DNA)をインヒュージョンされた存在。その霊的DNAが発現するのだ。神は肉を通して表現される(1テモテ3:16)。
かくして聖書は宗教の本ではない。道徳や倫理や人生論や神学の本ですらない。それはiPS現象などと同じ生命現象の書なのだ! 日本語の世界だけに閉じ込められるといわゆるニッポンキリスト教というかなりやっかいなマトリックスに生きざるを得ないことになる。霊的世界にアプローチする場合、言語による不公平は明らかに存在するのだ。が、先に紹介したようなツールを神は用意して下さっているわけで、まことに涙が出るほどに感激する次第。
さらに追記すると、プラットホームの選び方がカギとなることを指摘しておく。それはちょうど舞台のようなもので、PCやスマホで言えば、どのOSを選ぶかと言うことである。iOSかAndoroidか、はたまたLinuxか・・・。写本や聖書翻訳はこのプラットホームであり、その選び方でいわゆるキ業界で言う「信仰の歩み」が決まる。新改訳などの問題は思い入れ、つまり自分たちは純粋な福音主義に立つ者であるとして、彼等のマトリックスを原語よりも優先して、意訳するのだ[1] … Continue reading。

さらにさらに追記すると、いわゆるキリスト教会の活動の動機が問われる。今、いわゆる成功モデルとされるボクシの動機は何か? 彼らの動機は、表向き人々を地獄行きから救い出すとするものの、それはオブラートであり、内にあるのは、これだ。
さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。-Gen 11:4
かくして会員数千とか、三千とかを誇り、高速道路からも見える高い会堂を建てることがボクシの実績となる。いわゆるキリスト教会の会堂の典型を見てみよ。彼らはとにかく高くしたいのだ(苦笑)。

エデンの園で人類が喪失したものは、アイデンティティ(Identity)、YHWHの供給(Provision)、保護(Protection)、そして委託(Assignment)だ。私はこれをIPPAの喪失と呼ぶ。これを主から分離されたまま自力で再獲得する営みが人の生であり、それが社会を、そして歴史を構成する。
ボクシたちも同様である。いわゆる伝道や牧会の動機がIPPAの再獲得になっている。その動機がプラットホームとなり、そこに乗せられる人々(信徒)もその動機に自ずと巻き込まれる[2]キリスト教界のみでなく、世の中そのものにも言えることであり、その意味で、世は浮世狂言であると言える。。彼等もIPPSの再獲得をそのプラットホームの上で行い、それが達成されているような疑似満足を覚えると、その教会の教勢は強まるわけ。そのためにリック・ウォレンの『パーパス・ドリブン』など、諸々の教えや手法が用いられる[3] … Continue reading。

しかし、真に聖霊の導きに繊細な感受性を有する者は、そのプラットホームのいかがわしさを覚え、そこにいることに違和感を窒息感を覚えるようになる。ここから本当の主ご自身と真理の探究が始まる。ニッポンキリスト教の現状にそのような感覚を覚えることは霊的に正常であり、幸いなことと言える。が、しばしば彼らは自分に問題があるからとして、自分をそのプラットホームに適合させようとする。これを認知的不協和の最小化と呼ぶが、カルトのマインドコントロールの原理である。真面目な人ほど苦しむのだ。
このようにして構成された偽りの要塞がニッポンキリスト教である。それはかの戦争時に目に見える形をとって表出した。
からし種は樹木化してはならない。
主は言われた、何をどう聞くかによくよく注意せよ。その聞いた言葉は種として、あなたの心の中に撒かれ、根を張り成長する。いずれ、小さなアイデアは思想や主義して体系化され、政治屋により社会において施行されるとき、共産主義国家がなしたような億単位の虐殺も行われるのだ。
人生は、そして社会は、そして歴史は、この撒かれた種としての言葉が成長した実である。われわれが内に育てる種はもちろん主のロゴス。そのロゴスから生み出された存在がニュークリーチャー。
このとき、喪失したIPPAはキリストにあってすべて得ていることが分かるであろう。あとはそのサブスタンスを発掘し、実体化し、経験、享受することである。これがフェイスだ。
いま、フェイスとは願われる実体(サブスタンス)、まだ見ていない事実(プラグマ=成し遂げられた事)の現出(エビデンス)である。-Heb 11:1

- 引用聖句: John 16:14;1Cor 15:45 etc.
- :次回:2023年6月11日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
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改めて今回、アンドリュー・マーレーの『キリストの御霊』を読み直しているが、これは名著である。こういった古典が消えているニッポンキ業界の末路は明らかであろう。古典を失って、目先を追う色物や派手なパフォーマンスが蔓延る業界はいずこも廃れるのだ。
イエシュアの受肉(人間生活)、死と復活、そして昇天の霊的意義が明確に説かれている。われわれはその過程を個人的経験として再現するのである。特に最後の引用は重要である。聖霊の新約における機能とは何か、特に金歯や金粉を追いかける聖霊派諸氏よ、あなたがたは聖霊を知らないことに気づくべきである。
以下、抜粋しておく:マーレー:キリストの御霊 第11、15章より
キリストがわたしたちのうちに、みどりごとしておいでになり、だんだんに成長してそのかたちがわたしたちのうちにできあがるのは、しかも、そのイエスに私たちが信頼し、従い、仕えることを学ぶのは、ことごとく聖霊によるのです。-ガラテヤ4:19; 2コリント3:18
このことは、時が満ちるに及んで、初めて信じているたましいに起こります。栄光を受けたお方の御霊はわたしたちのうちに来て、キリストは心の中に住まわれます。そうです、キリストご自身の生涯が個々のたましいの中に繰り返されます。-2コリント13:5;
神は人をご自身のような者とするために、ご自身のかたちに創造されました。人は神が宿る宮となり、神がやすらう住まいとなるべきでした。もっとも密接な親しい結合によってのみ、愛の神がご自身を愛する者の内に住まわれること、これこそ、聖なるお方が願っていたことでした。イスラエルの神殿の型においてかすかに予表されたことは、ナザレのイエスにおいて事実となりました。-1コリント6:17;ピリピ2:8; コロサイ2:17;ヘブル10:1
すなわち、神はご自身がその中に安らうことのできるご自身の御心のままにつかさどられ、その愛の交わりにすべてを明け渡したひとりの人を見出したのです。イエスにおいてわたしたちは神の御霊にとらわれた人間性を見ることができるのです。そして神はすべての人をこのような者にしようと願っておられるのです。イエスとその御霊とを自分のいのちとして受けたすべての人は、このようなものとなる事ができます。-ローマ1:5-6; エペソ2:22;1ペテロ2:5
彼の死は罪と呪いの力を取り去り、人々がその御霊を受け入れることができるようにするためでした。-ガラテヤ3:13; ローマ8:3; 2コリント5:21
イエスの復活は人間性が肉の弱さを脱して神のいのち、すなわち、神の霊的生命に入る道を設けました。-ピリピ2:7;ローマ1:3-4; 1コリント15:20 ; ヤコブ1:18
その昇天はイエスが人間として神の栄光の内に受け入れられたことであり、人間性をもって御霊による一体性のうちに、栄えある神との完全な交わりに参与されたことを意味するのです。-ローマ1:4;ヨハネ7:38;2ペテロ1:4
ペンテコステの日に御霊が来られるとき、実現しました。神性の奥底から、聖霊は新しい性質、新しい力をもって遣われたのです。-使徒1:8;2章;ヨハネ14&16章
イエス・キリストとその服従のご生涯の中に住んでいた御霊は、イエス・キリストの人としての霊をたずさえてご自身とのまったき交わりと一致の中に入らせ、今は高く上げられた神人の御霊となりました[1] … Continue reading。キリスト・イエスは人として、神の栄光と霊的生命の中に、神との豊かな交わりに入り、この御霊を弟子たちに与える権威を御父から受けました。-2コリント13:14;ルカ10:19
いやむしろ、彼ご自身が御霊によって来て、彼らのうちに宿ったのでした。聖霊は十字架につけられ、今、栄光を受けたイエスの御霊として、新しい力をもってきたのでした。御子のみわざと御父の願いは、ここに全く成就されました。人の心は今や真に神の家庭であるわけです。-ローマ8:2;8:11;8:14-15;1テモテ3:15-16;エペソ2:19
神の御子のためにきよらかで聖なる体が聖霊によって形成され、そのからだの中に御霊が住むと言うことは、実に神の力の奇跡です。しかし今ここに同じ聖霊が、罪深い人の肉体に宿り、父なる神ご自身がそのうちに住まわれることは、私体の理解をはるかに超える恵みの奥義です。・・・「見よ、神の幕屋が人ともにある。神は彼らととともに住み・・・」という御言葉が今成就し始めたのです。-啓示録21:3;1コリント6:19
この世にあって、生きかつ愛し、従い、そして死に、大能によってよみがえらされ、栄光を受けられた神の子の御霊が、今や彼らの個人的生命となったのです。彼らの友であり、主であるお方が天の御座についたときに、聖霊はそれをあかしし、この天的な事実を弟子たちに伝え、彼らの記憶にとどめるために来ました。聖霊が、栄光を受けられた御子によって御父から来るとき、彼らの全性質が天の喜びと力に満たされ、イエスの臨在で満たされ、そのくちびるが神のすばらしいみわざを賛美する声であふれるのも驚くにあたらないことです。-コロサイ2:9-10;3:3;ヨハネ16:13-15
キリストの体のそれぞれの部分が聖霊によって、内住のキリストの臨在を知り、わがものとし、これを証しすることが必要です。・・・聖霊はキリストの御霊であり、彼ご自身のいのちの御霊であって、私たちをとらえ、わたしたちの霊と共に、キリストが私たちのために獲得してくださったものについてあかしするのです。その御霊はキリストが地上で始めたわざ、すなわち人々をキリストのあがないとキリストのいのちにあずからせようとするみわざを継承するために来ました。-ローマ8:16-17
それゆえ聖霊は、キリストを証しする以外の職分を持っていません。