- 2025-06-14
iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

ヨブの陥った罠は自己(セルフ)の呪縛-メタノイアとはセルフ・ドリブンからスピリット・ドリブンへの転機
善人すぎるな、賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。-伝道書7: …
善人すぎるな、賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。-伝道書7:16
義人ヨブの元々フェイスには穴があった。だから毎朝、息子たちが神を呪ったかもしれないと恐れて捧げものをしていた(Job 1:5)。ついには恐れていたことが降りかかったと嘆いた(Job 3:25)。
三人の友の”正しい助言”に対して”自己の正当性”を訴え、神すら告発した(Job 9:17 等)。かくして「正しさ」の追求と訴えはヨブの悲劇をさらに深める。
が、若者エリフが登場し、人は年を取れば賢くなるものでもないと口を開き、ヨブの思いをYHWHへと向け直す(思い改めへの促し)。そしてYHWHご自身が直接ヨブに迫り、ヨブはついに自分を退けて”נחם;nacham”したのだ(Job 42:6)。
それは「悔い」改めではなく、「深く息を吸う;自分を慰める;いたわる」の意味である。彼は延々と自己正当化せずにおれない自己から解放されたのだ。まさに身心脱落の経験だ。その後の彼の人生はご存じのとおりである。
まことに-
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、基督のいへになげいれて、基督のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、基督となる。」-道元:正法眼蔵生死(Dr.Luke改)
「基督道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法(いのちの御霊の法則)に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」-道元:正法眼蔵現成公案(Dr.Luke改)
パウロのロマ書の7章では「わたし」が頻発する。が、8章になると「わたし」はほぼ消える。ここにセルフ(ソウル)・マトリックスからスピリット・マトリックスへの跳躍が起きたのだ。身心脱落経験である。
「悔い改めよ~」、「聖霊様の充満~、油注ぎ~」とヒステリックに叫ぶボクシ自身(だけではないが)が、実は内側に葛藤を抱えている[1] … Continue reading。真にメタノイアあるいはナチャムしてない症候群は強迫的にそう叫んでいないと不安なのだ。真にメタノイアあるいはナチャムしている者はその解放感の中にゆったりと生きる。野の花をいとおしみ、空の鳥を愛でつつね。
生きているのはもはや私ではなく、キリストである、今肉にあって生きている私は・・・御子のフェイスのうちに生きている。-Gal 2:20
御子のフェイス。そのうちに生きること。これが中動態的生き方、大脳生理学的にはデフォルトネットワークモードである。ここを「御子に対する信仰」とする邦誤訳は果てしない”自己の信仰”呪縛に導くであろう。プロテスタントの根本的病理である。
かくしてキリスト教をエクソダスし得た者は幸いである(セコンド・エクソダス)。残りたい向きはご自由にどうぞ。

- 引用聖句: Luke 12:15;Prov 4:23;Job 42:2-6;Rom 8:12;Eccl 3:11;Heb 4:3;10etc.
- 次回:2023年9月3日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

この詩は程明道の作品。

左脳からの解放、法に則ること。すると自然と一体となる。テイラー博士の経験と同一なのだ。
書き下し文
閑來事として 従容ならざるは無し
睡り覺むれば東窓 日已に紅なり
萬物靜觀すれば 皆自得
四時の佳興は 人と同じ
道は通ず天地 有形の外
思いは入る風雲 變態の中
富貴にして淫せず 貧賤にして樂しむ
男児此に到らば 是豪雄
釈意:官位を離れて閑散たる生活に入ってからというもの、何事においても心はゆったりとしている。ぐっすりした深い眠りから目覚めれば、すでに朝日が東の窓に赤々と差し込んでいる。周囲の事物を静かに眺めると、各々、はまりどころ得てしっくりと収まっている。四季の織り成す心地よい趣は、人と渾然一体となり移り変わっていく。私の信じる道は天地の間にあって浸透し、その無形の思いは風に流れる有形の雲にまで入り込む気分になる。たとえ富んだ者になっても富に耽溺せず、貧しく低い身分でも生きることを楽しめる。男子たる者、このような境地にいたるならば、真の豪雄である。
程明道(1032-1085):中国北宋時代の儒学者。字は伯淳、明道先生と称された。朱子学・陽明学の源流の一人。河南省洛陽出身。名は顥(こう)、字は伯淳(はくじゅん)。幼くして非凡の才あり。諸国を歴任して政治上の功績あるも、王安石に対立して朝廷を去る。のち召されたが任を拒否し、元豊八年に死去。享年54歳。謚(おくりな)は純公。直観により、自然と一体になる経験を尊んだ。すなわち多様な自然現象を秩序づけている法則を「理」と呼び、この理を直観によって把握すべきであると説いた。(Wikiなどより編集)
主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら・・・」-Jer 33:25
神の法則、理に則って生きること、これが安楽な道。道元の心身脱落。逆らわず、もがかず、身も心も任せること。それは即ち、いのちの御霊の法則だ。
すでに何度も道元を紹介している:

仏教にはそもそも礼拝対象なるものはない。つまりご本尊などはないのだ。それは堕落して世俗化された葬式仏教のなれの果ての姿である。まあ、今見てるキリスト教も同じようなものだが。仏教は徹底した現実認識論。だから現代物理学、特に量子論などとも相通ずる部分がある。「色即是空」などはまさにだ。色はブレインが作り出した幻想(クオリアと呼ぶ)である。その物理的サブスタンスは波長の異なる電磁波(同時に光量子)に過ぎない。
ここでのポイントは自己を離れて法に委ねる生き方を説いてる。これを身心脱落という。現代的には中動態的生き方、大脳生理学的にはデフォルトネットワークモードである。老子的には無為自然。
人生のすべて諸事象はおのれの心が生み出すものだ。
油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。 -Prov 4:23
やはり英訳の方がよろしい:
Keep thy heart with all diligence; for out of it are the issues of life. (KJV)
日本語のガンバルとは「我を張る」ことであり、そこからあまり良いものは出てこない。だから頑な人の人生はヨブのそれの再現となる。散々、自己正当化していた彼も、ついにこう告白する:
わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。
『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。
『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずからを退け、ちり灰の中で悔います。-Job 42:2-6
この「悔い」とある単語は”nâcham”、第一義的意味は”console oneself; comfort”である(Strong)。いわゆるニッポンキ業界の「悔い改めよ~」ではなく、「慰められる、宥められる」のだ。自己主張をする向きは実は自分を排除している。ヨブは自分の難点を意識していたのだ。だから必死で三人の友人たちに対して自己防衛をしていた。真に自分自信に対して真実であれば、そのような態度ではなく、もっと自然体、つまり無為自然でいられるのだ。ヨブは最後にその自己防衛をせざる得ない自分から解放されたのだ。
われわれにとっての任せるべき「法」とは、もちろんいのちの御霊の法則である(Rom 8:2)。自己を忘れ、この法に乗る時、自動的にモーセ律法の基準をも満たすのである(Rom 8:4)。かくして再建主義の故富井健氏との対話において、いのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換であると指摘した。それはWindowsとMS-DOSの関係のように、MS-DOSは廃止されたが、WindowsのカーネルにはMS-DOSも働いていて、Windowsを操作するときにはMS-DOSも使うことである。MS-DOSはコマンドを覚え、かつスペルミスなく打ち込む必要があったが、Windowsはクリックひとつで全自動である。MS-DOSはWindowsによってエミュレートされるのである。

ところがマジメなクリ諸君は、自己を忘れようとして、「自我を十字架につけ~」とか「自己に死のう」とかやり出す。これが肉の罠である。それ自体が肉の働きだからだ。そこでパウロはこう指摘する:
それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 -Rom 8:12
明確に書いてある、肉に対する責任はないと。なぜなら-
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。-Gal 5:24
ここの時制はアオリスト、過去における一回限りの事実である。「肉を十字架につけよう」ではなく、「つけてしまった」ピリオド。これをあえて何度も何度も「悔い改めよ~、自我を十字架につけよ~、自我に死ね~」と生きるクルシチャンたち。まことにこの暑さの中でお疲れ様ではある。

これについて道元はこう言っている:

当初、その「法」を自分の外に求め、その周辺をさ迷うだけであるが、「法」がおのれのうちに正しく伝わる時、それがその人の本分となると。つまり聖書的には、キリストがわたしになるのである。そのキリストこそが「法」であって、キリストがわたしのソウル-ボディを通して生き出てくださること、これがエウセベイアの奥義、キリストをエミュレートすることである。
キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、-Rom 15:18
かくして父と子がひとつであるように(just same)、私たちもひとつとなるのである。これがペリコレーシスの奥義である。
主につく者は主とひとつの霊になる。-1Cor 6:17
法に乗れば、二輪車もコマも倒れない。むしろそれは安定し、倒すことが難しいのだ。法とひとつになること。これが永遠のいのちをエンジョイするカギである✨

世の諸事で苦労してるクリたちは目先の対応に追われ、常に後追い状態に陥っている。つまりニーズドリブン。対してフェイスドリブンは常に生起した未来を現在化して経験する[1]私の著書『真理はあなたを自由する-ファクターXの再発見』でも、「信は完成した未来を現在に霊的に逆算する」と書いた。。フェイスの法則(Rom 3:27)を掴めば実に簡単なのだが、ともすれば人はソレを単なる理想論、理屈に過ぎないとしてマジで捉えない。実にもったいないことだと思う。
そしていざ問題が生じるや、カウンセラーやボクシや人生コーチなどを巡り歩く。これで商売している輩もいるから、持ちつ持たれつではあるが、果てしないモグラ叩きの人生になるだろう。
聖書はこう啓示する:
もっとも神のわざは天地創世のときにすでに完成していた。-Heb 4:13
その完成したスピリチュアル・マトリックスに生きることがフェイスである。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた御子の信のうちにあってです。-Gal 2:20(改)
御子の信(フェイス)は時空間を超える。
イエシュアがラザロを復活させたとき、「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します」と宣言された(John 11:41)。時空間を超えてすでに結果を得ていたのだ。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を
思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。-Eccl 3:11
ここは永遠を思う思いではなく、永遠そのものを置いたのである。そもそも時間はしつこい幻想であるとアインシュタインも喝破したが、物理法則に束縛されていると時間がリアルに感じられる。私たち、ニュークリーチャーは物理法則を超える領域にあって生きるのだ。
最新の物理学では時間とは何かが問われている。時間という当たり前と考えていたことが必ずしも自明ではないことが明らかになってきたのだ。この時間の中で祈り求め、いつかなえられるか、いついつ・・・と待ちくたびれ症候群に陥るのがクルシチャンたち。こんなに熱心に祈ったのに神はかなえてくれない、なぜだ~と叫ぶ。これがポセイドンアドベンチャー・メンタリティー、神を有責とするのだ。
また一方で、自分の時空間の中における功績を誇る輩もいるが、彼らの運命は次のとおりである:
かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども[2]この意味は、いわゆる悪さをすることではなく、法則に則らないことである。つまりフェイスの法則によらない者たちである。、わたしから離れ去れ。』」-Matt 7:22-23
ニッポンキ業界のボクシの悲願である、「高い塔のある大きな会堂を建て、有名になって、散らされないよ言うにしよう」はバベルの塔の動機であることは何度も指摘しているが、この野心は時空間に束縛されていることの証明である。だから、自分のわざによってそれを達成しようとする。その達成を主の前に持ち出すならば、上記の聖句のとおりである。
お分かりであろうか? フェイスは時空間を超える。それはすなわちこの五感の領域にいる私の何かによらないのだ。御国の中においては、私のボディ・ソウル・コンプレックス(パウロの言う肉)は一切役に立たない。ボディ(体)とソウル(魂)はスピリット(霊)によってドライブされる時にこそ用いられる。ゆえにパウロはこう証言する:
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10
恵みとは何か? 内にあってキリストご自身が活動されることである。ニューマティック・クライストが私のボディとソウルを通して働き出て下さる、これが恵みである。
キリストがわたしを通して異邦人たちの従順のために働かれたこと以外、私は敢えて何も話そうとは思わないからである。〔すなわちキリストが〕言葉とわざにおいて、徴や奇跡の力において、〔神の〕霊の力において〔働かれたことのみを語ろうと思う〕。-Rom 15:18-19(岩波訳)
お分かりだろうか、主語は私ではなく、キリストである! 私のボディとソウルを通してキリストが働き出て下さること、これがエウセベイアの奥義である(1Tim 3:16)。
このときに大切なのは、中動態的生き方である。大脳科学的にはデフォルトネットワークモードと言われる。
道元のことばをクリスチャン的に翻訳するならば、こう言えるであろう:
ただわが身をも心をもはなちわすれて、基督のいへになげいれて、基督のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、基督となる。(正法眼蔵現成公案改)
フェイスは常に時空間における完成された未来を先取りしている。だから問題や欠乏や病に追いかけられる人生から解かれる。なんと安楽な生き方であろうか。このとき、私たちは生活感を醸さなくなる。ニュークリーチャーにはこの世における生活感ではなく、永遠の世界に生きるキリストの香りが漂うのだ。よって老けることもない。常に。プリプリ・ピカピカ・ツヤツヤ・キラキラである✨
マジ受けした人は幸いである。キ業界も含めた世はそんなに甘いものでないと、世に飲み込まれる向きはご自由にどうぞである[3]キリスト教はすでにこの世に組み込まれて、ソドム・エジプト化している。いずれバビロンの主要な構成要素になるであろう。。

- 引用聖句: Gen 20:17;25:21;Matt 6:7-8;2Pet 1:3-4;Phil 4:19; 2Cor 12:14;1Cor 9:7etc.
- 次回:2023年8月27日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

- 引用聖句: Gal 4:3;Col 2:20;1Cor 13:11;Phil 3:15;Acts 17:30;1King 22:21;Matt 4:10;John 13:2 etc.
- 次回:2023年8月13日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。
