- 2025-06-14
iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

- 引用聖句:Gen 3:9;Ps 139:13-17;Acts 17:28;Luke 21:34-37;2Cor 3:11-18 etc.
- 次回:2023年10月1日(日)
- 場所:NATULACKセルテ901(関内駅前)
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

マトリックス(HB:rechem)とは子宮、その中はもっとも安心で快適な場。狭い参道を通り世に出されることはサブコンシャスの領域に喪失感とトラウマを生む(オットー・ランクの「出生外傷説」)。
人はそれらを補償し、再獲得するために自分にとって快適な領域を作ろうとする[1] … Continue reading。正常ならば家庭や共同体、さらに社会的地位。病理的になると麻原やジャニー喜多川の組織。彼らのマイ・ワールドはまさに彼らにとってのマトリックス。キ業界のナントカ先生のキョーカイやキョーダンなども同じだ。
そこは自分が安心できる快適な空間であり、「神」として君臨できる領域だ。問題はそのマトリックスに巻き込まれ、マニュピレートされ搾取される人々が必ずいること。明確なカルト組織までいかずとも会社などでもこの種の現象は起き得る。
さらに「高い塔を建て、有名になって、散らされないようにしよう」とする動機は必ず聖霊と本質的に対立する。それがニコライ派であり、よってイエシュア自身が憎みかつ戦うとまで言われるのだ。ここで「ニコライ=ニカオ(管理・支配する)+ラオス(一般人・民衆)」であり、啓示録の七つの教会のエペソ(好ましいの意)においてすでに侵入し、ペルガモ(結合・結婚の意)で確立している。ペルガモにはサタンの座が据えられているのだ。
真の安心できる快適な領域とは良き地なるキリストご自身であり、他に求めることはまさに偶像礼拝である。つまり麻原やジャニー喜多川のみでなく、キ業界の教職教団制度も立派な偶像である。
ゆえに終わりの時代、裁かれて打ち倒される前にセコンド・エクソダスせよ、と主は語っておられる。残りたい人はご自由にどうぞではある。それは各自の決断に任されているゆえに、かの日に言い逃れはできない。
かくして現代はふるい分けの時代である。

- 引用聖句:Phil 1:21;John 14:16-26;1Cor 12:12-13; 1Cor 3:9-15 etc.
- 次回:2023年9月23日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

- 引用聖句: John 1:13;3:6;6:15;63;Rom 8:12;12:2-5;Gal 4:19;5:24;Ps 22:11;139:13 etc.
- 次回:2023年9月17日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

この論文はシンクロナイゼイション(波長の同期)の秘密を数学的に解いたとするものである。
複数の非線形振動子は引き込み現象により同期するようになる。心筋細胞も一つひとつでは勝手な周期で振動するが、集まるとある一定の周期で振動する。これが脈動を生む。
キリスト教では馬鹿の一つ覚えのごとくに「教団、教派の一致ぃ~」とかヒスるが、そんなものはフェイク。エクレシアは新生命体であるから、個々の肢体は多種多様でも、イエシュアの名の中に集合する時(ナントカ神学やカントカ先生の名ではないからね!)、互いの相互作用によりある波長のバイブレーションに同期する。もちろんイエシュアの波長である。
その時、個々の肢体のうちではメタモルフォーゼ(メタモルフォーシス)が進行する。古い細胞が新しい細胞=イマジナル・セル(ディスク)=を攻撃するのだ(古い要素と新しい要素の葛藤)。しかしイマジナル・セルが増殖する時、それはある新しい波長のバイブレーションに共鳴し、ひとつに同期するようになる。そしてついに古い細胞は中枢神経や筋肉を除いてどろどろに溶けるのだ(これが成虫になるための養分になる)。これが毛虫から変態した蛹の中で生じる。

続いて蛹の内側ではイマジナル・セルが活発に分裂増殖し、蝶の各器官を形成する。そして・・・ついに蛹が割れて、あの蝶が羽ばたく。栄光の瞬間である!(次の図はハエであるが・・・💦)

これはまさにニュークリーチャーたるエクレシアの増殖と分化による成長(メタモルフォーゼ)そのものである。それは蛹であるわれわれの古き体の内で霊から魂へと構成(モルフォー)されるキリストである。ゆえにエクレシアはエロヒムの増殖を増殖するのである(コロサイ2:19 原文)[1]邦誤訳でいろいろギロン吹っ掛けるのはやめよ。ぼくとディスカッションするのなら、せめて岩波訳か田川訳をどうぞ … Continue reading。
私たちも主によって携え上げられる時、一瞬にしてこの体は変貌する(1コリ15:52)。それは復活のイエシュアと同じ霊の体である(ピリピ3:21)。この希望こそ私たちの究極の希望なのだ!
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。-Heb 10:25
マラナタ!

あの偉大な業をなしたモーセは岩を叩いて水を出した奇跡の前例に従って、岩に命じよと言われた主を信じないで、再度岩を叩いたため、良き地に入ることを禁じられた。
ダビデに反逆した自他認ずる美しさを誇るアブサロムは髪も豊富だったが、それが木の枝に絡んで吊るされたところをヨアブにとどめを刺された。
ヘロデ(アグリッパ1世)は王座から演説をし、大衆から「これは神の声だ、人の声ではない」と”賞賛”(=世辞)を受けた直後、主の使いによって打たれ、虫に刺されて息絶えた。(注:ヘロデとは「英雄的」の意味)
キャサリン・クールマンやジョン・ウィンバー、またビル・ジョンソンの妻のように、癒しを”売り”にする者はしばしば心臓病や癌で死ぬ。自分の”売り”が致命傷となる。
癒しや奇跡を売り物にしたT.B.ジョシュアは会堂が倒壊して多数の死傷者を出し、自身も急死した(原因は公表されていないが、時期的にコロナもあり得る)。
かくしてあなたの名によって徴・不思議をなし、悪霊を追い出し、預言したではありませんかと自己の功績を主張する輩はイエシュアにより、まったく知らないと拒絶される。
先に書いた湘南の豪邸婦人も、終末に備えて物資を備蓄していたが、当のご本人が逝ってしまった。彼女は頼るべき対象を誤ったのだ。
高い塔の会堂を建て、有名になって、散らされないようにしようのボクシはその野心が致命傷となる。ガラスの会堂を誇った繁栄の神学のロバート・シューラーを見てみよ。最期は破産して終わった。
先のブランチ・ダビデアンの教祖コレシュ(=キュロス;火を持つ者の意味)も名前の通り、終末預言解釈を誇り、炎の中で死んだ。
再建主義の旗手富井健氏も自分の論敵にアナテマを送り、コロナも魔女によるブルーウェーブだから、主によって勝利すると宣言しつつ、コロナであっけなく逝った。彼は自分の神学を絶対とし、それに反するもの(ディスペンセイション主義など)を悪魔の教えと断罪していた。
要するに”アイ・マイ・ミー・マイン”は致命傷となる。アーサー・ホーランドのようにマッチョボディやハーレーを”売り”にする者はそれに応じた末路を辿る。まして生誕祭などを受け入れるとは、愚かさの極みだ。おのれの頼りとするところ、誇るところ、ウリにするところ、これがその者の致命傷となる。
なぜなら―
しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。-Gal 6:14
誇る者は主を誇れ。・・・多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。誇る必要があるなら、わたしの弱さを誇りましょう。-1Cor 10:17;11:18;30
福音の真理を語ることにおいては、自己や自己の功績を持ち出すことは主がもっとも嫌うことだと肝に銘じるべきである。つまり主は栄光を他の者に渡すことは決して許されない。
わたしは主(YaHaWeH)、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。-Isa 42:8
ニッポンキ業界の聖会などで頻繁に唱えられる「すべっての栄光をかみっさまにお返しします~」といった臭いマントラは偽善の象徴である。有名どころの末路を見てみよ。特にキ業界でヨイショされた連中のそれを。
真にYaHaWeHの栄光に触れることは、その重さによってひれ伏すしかなくなるものである。栄光(Kabod)とは「重さ」の意味である。マントラなどは入り込む余地はない。
この10年以上、篩い分けの時代であると言ってきているが、コロナがそのために用いられた。篩われる者と留まる者が明確に分けられる時代である。それはすべてわれわれの動機によるのだ。主は外見や達成ではなく、心を見られるお方だから。
追記:2024年末、ニッポンキ業界のレジェンド有賀喜一が学歴詐称がバレて晩節を汚したことは耳に新しい。私は彼の91歳祝賀会が催された時点で、FBにてこいつは落ちると予言したが、ズバリでした。

現代脳科学と禅学の共通点から自己とフェイスを論じてみよう-善悪の知識の木からいのちの木へ転機せよ
この論考はすでに紹介した自由意志は幻想であるとする大脳科学の論 …
この論考はすでに紹介した自由意志は幻想であるとする大脳科学の論の続きである。
すでに自由意志は幻想であること、しかし検閲により修正が可能であることを紹介したが、この論考もその延長上にあり、大変興味深い。「自己とは何か?」
『意識は本当に現実との相互作用のための記憶システムか? 新しい研究によると、おそらく。』
西洋のいわゆる分析的サイエンスの知見が、すでにかなり以前に説かれている禅的知見に近づいていることを見ることができる。
バドソン博士と彼の同僚は、「画家から小説家に至るまで、多くの、おそらく最も多くの創造的な取り組みは、意識的および無意識的な脳のプロセスが連携して行われた結果である可能性が高い」と述べて、彼らの仮説に警告を発しています。
厳格な学術的議論とは対照的に、いくつかの推測を提供しながら、研究者たちは、アルバート・アインシュタイン、アイザック・ニュートン、ジェーン・グドール、レイチェル・カーソンなどの学術的または芸術的先見の明のある人々は、意識を超えた世界を見ることができたかもしれないと仮定しています。心はそれがそうであることを示唆しています。
「言い換えれば、これらの人々の中には、無意識の脳のプロセスにもっとアクセスできた人もいるかもしれません。」
以上の論と次の説を比較してみよう。1957年(昭和32年)にフロムらと共にメキシコ自治国立大学医学部精神分析学教室主催で開催された、禅学と精神分析学に関するワークショップのテーマをまとめた『禅と精神分析』(東京創元社、昭和35年初版)において、禅学の世界的大家鈴木大拙が無意識と意識についてこう説いている:
神を愛するとは自己をむなしくすること、無心になること、いわゆる”死人となる”のである。つまり意識の制約的な動きに左右されないのである。
無意識の中から意識ある人間が出て来たのである。意識とは一種の飛躍である。しかし飛躍ということは物理学的に言っても接続を断絶するということではない。つまり意識と無意識とは、意識が常に、無意識と絶え間なく連絡を保っているいう関係にある。事実、無意識なくして意識の活動はあり得ないのである。
無意識が本能的なものである限りは、動物的、嬰児的以上を出でない。つまり一人前の人間のものとは言えない。一人前のおとなの無意識とは修練をへたところのものであって、この無意識を通じて我々が赤子の時から身につけて来た意識経験のすべてを変じて、われわれの全存在を構成するものとなすのである。
知恵分別の惑乱を脱却して来い、そうすればもはや恐怖、不安、心配といった厄介なものに攻め立てられる余地はなくなってしまう。この脱却(liberation)が獲得せられる時こそ、実に意識の全領域に修練された無意識が働くのである。
つまり善とか悪という二元的価値判断の世界を脱却せよ、そこに自由があると。それは考えたらそこにはなく、考えるのではなく、じかに見て取ることであると。
われわれ的にはキリストは今や命を与える霊となり(1Cor 15:45)、わたしのいのちとなられた(Col 3:4)、生きているのはもはやわたし(自己)ではない、肉にあっていきるわたしは御子のフェイスのうちに生きる(Gal 2:20)[1] … Continue reading。
はあ、自己は生きてないの、生きてるの、どっちよ? と左脳は考えてグルグル回り(脳内空転現象)に陥る。どちらも真である。前者の自己は善悪の知識の木により汚染された神から分離されたソレ(自意識に生きる自己)、後者の自己はいのちの木により純化された神に依存するソレ(キリスト意識に生きる自己)と、一応説明は可能だ。だが、波動であり粒子であるとされる量子ですら、その実体を把握することはできないのだ。いわんや・・・。このとき、無意識は聖霊による意識により支配され、恐れや不安から解かれるのである。
かくしてわたしと主はもはや「彼-我」の関係ではなく、ひとつだ(1コリント6:17)。フェイスはその方を対象として分析研究するのではなく(ヨハネ5:39-40)、食べ飲みすること(同6:55)、つまり、体験し味わうことである。まことに主は甘く、美味しいお方なのである!
LET’S TASTE THE PNEUMATIC CHRIST !!!
References[+]
↑1 | ここを「御子に対する」と訳すと「わたしが御子を信じる」として、「わたし」が出張るのである。これがプロテスタントの根本病理であるとすでに指摘している。 |
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- 引用聖句: Acts 9:4-5;Eph 5:30;1Cor 12:12;11:29;1Cor 12:13;Heb 10:25;2Pet 1:20-21 etc.
- 次回:2023年9月10日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。