宮本武蔵五輪の書水の巻目付とフェイス-遠くを観る目と近くを見る目
今晩のNHK BS『宮本武蔵流フリーランスの極意』、実に面白かった。彼はいわゆる士官(宮仕え)を嫌い、流派を嫌い、組織には属さず、一介の牢人として生きた。「秘伝」(免許皆伝)なども好まなかった。
極私的には20台の頃、吉川英治の小説にハマった。以後、このスタンスを選んで生きてた。一時は宮仕えもしたものだが、組織の意志に従うことには常に違和感を覚えていた。時期が来てすっぱりと足を洗った
ニッポンキ業界との付き合いも、師と称する存在はイエシュア以外には置かず、いかなる教団教派にも属さず、何らかの秘伝(資格など)を受けることもない。まさに一介の牢人である。
だからどこにも義理もなく係累もないので、ご立派な先生方にも言いたいことが言える。パウロも「あの大使徒にも劣っていない」と自負している(2Cor 11:5;12:11)。イエシュアの意志のマトリックスに置かれることは、他のマトリックスからの解放であり、よって武蔵の説く「目付」をなすことができる。これはフェイスの視点でもある。事実、主はこう言われている:
しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。-John 16:16
主は父の許に行くゆえに、主を目のあたりに見ることができる?はて? 弟子たちも困惑した。ニッポンキ業界ではここを再臨のことだとする向きがほとんどであろう。
しかし文脈を見てみよ。聖霊が来られる時の話である。アンドリュー・マーレーは、今や聖霊は単なる神の霊ではなく、人なるイエシュアのうちで人間性を経験した霊、つまり神・人の霊としてわれわれのうちに住まうと説く。
これが旧約と新約における経綸の違いだ。その際、父と子も私たちのうちに住まうのだ(John 14:23)。そのために最後のアダムであるキリストはいのちを与える霊となられた(1Cor 15:45)。父は子のうちに、子は父のうちに、そして私たちは子のうちに、子は私たちのうちに住まう(ペリコレーシスの奥義)。
つまり御霊は父と子を我々のうちに実体化して生かす霊なのだ。特にイエシュアの人間性をわたしたちのうちに実体化して証しする(John 14:26)。
さて、武蔵の言との関係性が終わりだろうか? ヨハネ16:16にあるふたつの「見る」は単語が異なる。前者は”θεωρέω”, i.e. act of vision;後者は”ὁράω”,i.e. to experience, to attend to (Strong)だ。つまり前者は意志的に注意深く観察すること;後者は経験することあるいは参与することである。
弟子たちは地上におけるイエシュアをまじまじと観察したが、父のもとに行かれ、同時にいのちを与える霊となられた主が聖霊にあってうちに来られる時には、弟子たちは主を経験し、主に参与する。私たちも<今・ここ>で主を経験し、主に参与するのだ。まさに遠くを観るときは近くを見る(現在)、近くを見るときは遠くを観るのである(再臨)。これが新約における主とわれわれの関りである。
あなたがたが信(フェイス)のうちにあるかどうか、あなたがたは自分自身を検証しなさい。自分自身を吟味しなさい。それともあなたがたは、自分自身を認識しないのか。すなわち、イエス・キリストが〔まさに〕あなたがたのうちに〔おられる〕ということを。もし認識しないのなら、あなたがたは失格者である。-2Cor 13:5(岩波訳、信仰を信とした)
主は肉体を持たれて(人間性を脱いではいない!)父の許におられるが、同時に霊的には私たちのうちにおられる。その意味ですでに”再臨”されている。未来の再臨は肉体を伴ってのそれである(Acts 1:11)。主は遠くて近い方であり、近くて遠い方なのだ。
なお、聖霊派の言う、地上には聖霊だけ、キリストは父の右におられると言う絵図は三神論である。彼らの教祖たるベニー・ヒンは自分の教えの誤りを「悔い改め」たのだ(あえて彼らの用語で)。
聖霊はわれわれに遠くを観る目と近くを見る目となって下さるのである。
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