- 2025-06-14
iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
年: 2024年

- 引用聖句:Gen 1:2;Job 32:8;Ps 107:20-31;Prov 19:21 etc.
- 次回:2025年1月5日(22日は懇親会、29日はお休みです)
- 場所:スマートレンタルスペースbelle関内601
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

12月25日がイエシュアの誕生日、これに異議を唱えることはけっこうキリスト教徒たちにとっては放置できないことらしい。一部の方は次のように改めたむきもありますが(左2023年、右2024年、作者は春藤伸一様)。


一方で山谷少佐がこのような説を唱えて12月25日誕生日説の蓋然性が高いと主張しております:
ベツレヘムの星の正体については諸説ありますが、ドイツの天文学者ペーター・コリネリウス・ファン・デル・クルイトの論文『ベツレヘムの星』には西暦1年11月5日に水星・金星・火星・木星の大会合があったと示されており、これをベツレヘムの星と仮定します。
この天文現象を観測した東方の博士たちが、西暦1年11月12日にイランのスサからユダヤのエルサレムへ向けて出発したと想定します。その距離1,582キロメートルをラクダで1日に40キロメートル進んだ場合、40日後の西暦1年12月21日にエルサレムに到着できることになります。エルサレムからベツレヘムまでは8.7キロメートルしかないため、ヘロデ王への拝謁を終えた博士たちは12月25日には余裕を持ってベツレヘムに到着できると考えられます。
ルカによる福音書3章23節によれば、イエスは30歳の時に宣教を開始しました。その三年半後に十字架刑に処されたとすると、刑死した時点で33歳であったと推定されます。イエスが西暦1年に誕生し、西暦33年に33歳で刑死したと仮定すると、この説はイギリスの物理学者コリン・J・ハンフリーズ卿と天文学者W・グレーム・ワディントンの共同論文『イエスの処刑日』の結論と合致します。彼らは月蝕の事象をもとに、イエスの刑死の日付を西暦33年4月3日と算出しています。
さらに、アウグスティヌスは『三位一体論』第4巻5章で、イエスの刑死の月日はマリアの受胎告知の月日と同じであったと述べています。これに基づき、受胎告知が西暦1年4月3日であったと仮定すると、その日を受胎日として出産予定日計算機を使って計算した場合、出産予定日は西暦1年12月25日となります。
この仮説は、ベツレヘムの星、東方の博士の旅、イエスの誕生と刑死の日付を結びつけることにより、イエス・キリストの誕生が12月25日であったことの蓋然性を示す興味深い時系列を示しています。
ちょっとFBにてコメを入れておきましたが、最終的にヘロデ大王の死の時期を巡って、マタイ2:15(Matt 2:15)の単語”teleute”を肉体の死ではなく、政治的死であると強弁するとの回答(つまりヘロデは紀元後まで生きていたということ)でしたので、as u likeとしておきました[1] … Continue reading。
山谷さんの論は聖書外の仮定に基づいて、さらにいくつかの聖書外の説を取り入れているわけだが、サイエンティストの私は、ニュートンと同様に仮定の上の議論には組しない[2]フェイスもサブスタンス&エビデンス(Heb 11:1)であることは繰り返さない。。ただこの問題へのアプローチでその人の知能レベルと考え方や価値観が見えてくるので面白いと考えている。
一般論としても無益な議論に落ちないためには、その人が何を仮定(前提条件)し、論理に組み入れるためのいかなる事実を採用し(CT訴訟で問題になってる事実認定だがw)、いかなる論理に基づいてその結論に達し得たかを見ればよいのだ。
で―
- 仮定の上の話なら論じるまでもない、ご自由にどうぞだ
- 採用した事実と不採用の事実を比較衡量すると、その人の価値観が見える;シーザーも言うように人は自分の希望に沿う事実を選ぶものだから(認知の選択的透過性)
- 論理の連鎖に矛盾はないか;これがキリスト教徒はしばしば論理と自分の主張(時に感情)をごちゃ混ぜにしていることがほとんどなわけ。神学論争のナンセンスさはここにある。まずは「p⇒q」が「¬(p∧¬q)」すなわち「¬p∨q」であることくらいは理解してからにしてほしい。
極私的にはかつてわが友人エレミヤさんとハリポタ大論争をやったり、今は亡き再建主義の富井健氏との大論争をしていた頃の山谷さんにぜひカムバックしてほしいと願うところである。
追記:まあ、ぼくの論はキリスト教で育った人々の夢をぶっこわーすですからねー。反対したくなる気持ちはよく分かりますよ😊

これはメーリングリストの再掲です。
皆様
主を賛美いたします。
速いもので新年に輪島の地震とJAL機事故があり、世界も揺れ、トランプが復活し、わが国はニッポンキ業界の牧師たちの希望の★石破かゲル(日本基督教団信徒)がのらくらしている間に、年末を迎えました。彼はトランプの就任式にも呼ばれないとか、安倍氏の奥様はすでに面会したとのこと。惨めですね。
今年は「突破」がキーワードでしたが、兄弟姉妹もその経験をされた方々がおられ、極私的にもいろいろ突破した年でした。
来年のプロフェティクワードは「熟」です。あらゆることが熟す歳となります。
さて、まもなくクリスマス、これが私のツッコミもありまして、キ業界でも最近はイエシュアの誕生日ではなく「誕生を祝う日」と改めたようです。
所詮、ニムロデに由来する異教の行事、世の商戦行事に過ぎません。が、私はそれなりにムードが好きでして、六本木のBBLでStylisticsのLIVEを楽しむ予定です。
さて、明日でセレブ納め(?)となります。22日は懇親会、29日はお休み。来年は1月5日より再会しますが、1月の会場は試験的に「スマートレンタルスペースbelle関内601」を使用してみます。セルテは来年再開発予定ですが、現在のところ来年12月一杯使用できるようです。ロケーションはJRをはさんだセルテのはす向かいです。
という次第です。
私は来週熱海の温泉で抜く予定ですが、2024年の残りの日々、それぞれ主にあってエンジョイされてください。
今年もいろいろありがとうございました。良いお年をお迎えください。
GBU✨

メタノイアの意味に「悔い」などはないと何度も指摘してきた。それはメタ+ノイエオ、つまり超越的思考だ。YHWHの基準に沿った考え方、思いの使い方である。だから「思い改め」と私は言っている。
聖書を文系オツムの宗教者や思想家や道徳家や神学者などの手から取り戻すこと。聖書はスピリチュアル・サイエンスの書である。
僕が指摘してる「クリスマス欺瞞」も「ニコライ派」も「人の構成」も「世界の創出」も「バイブレーションやコヒーレンシー」も、素直に読めばみな聖書にあることだ。
つまり彼らとは読み方がまったく違うわけ。日本基督教団の某牧師に「クリスマスなどにサブスタンス&エビデンス(Heb 11:1)はないでしょう」とつめたところ、自分は所詮「キリスト教」やってると証言したが、そのとおりなのだ。認めたのはエライ、分からん者にはまったくわからんから。
だがDr.Lukeはそこにはいない。そして、そこからのエクソダスを提唱している。
ポイントはナントカ神学とかカントカ主義とかって、変な色のついたフィルターを外せば見えるようになる。見えるかどうか。議論で詰めてもほぼ無意味だから、ぼくは最後までは詰めないわけ。若い頃は徹底的にやったけど、少しは丸くなったかも

注目すべきヨブ記と通底する神道神職の指摘-ヘブル11:1のフェイスに定冠詞はないがその意味は?
こちらの神職さんの発言、実に興味深い。まずは一読されたい。 9 …
こちらの神職さんの発言、実に興味深い。まずは一読されたい。
9割の日本人は勘違いしているけど「心配する」ことは、相手を呪うことと同じなんだよね
・子供の将来が心配
・夫の健康が心配 ・愛する人が無事でいられるか心配 もちろん心配って相手が好きで大事だから、生まれてしまう感情なんだけど… それは、
・子供が将来社会から落ちこぼれること
・夫が病気になってしまうこと
・愛する人が事件や事故にあうこと
これを想定してイメージしていることと同じなの 心配性の人は是非とも理解して欲しいことがあるのね
それは「人の意識が現実を創る」ってこと あなたが心配すればするほど、その現実を創造することになるんだよ だから… 心配するんじゃなくて「信じましょう!」
・この子の将来は安泰
・夫はずーっと人生を楽しめる
・愛する人は今日もちゃんと守られている
あなたがそう信じれば、ソウなりますよ
神はそれほどの力を人間に与えたのです
そしてその力を幸福な未来のために使いましょうよ
おおらかに幸福な未来を信じる!
これが神道的な生き方の基本です!
なんと面白いではないか。霊的法則を見事に喝破している。ヨブ記についてはすでに何度か書いているが、その悲劇のメカニズムはまさにこの方の指摘通りなのだ。
ヨブは正しい人であったが、サタンの訴えに対して神が許しを出したので、あのような悲劇を経験した。なぜ神は~・・・として、人間の不条理な実存的状況と神の意志との関係がうんちゃらかんちゃらって眉間に皺寄せる神学者たちのハマルティア論が誕生する。
しかしフェイスの法則から見れば実に単純なメカニズムである。彼はすでに息子たちのことを案じていた。また自分に不運がもたらされることを予期し、恐れていたのだ。ニューエイジ的に言えば、引き寄せの法則である。
事実、彼は-
こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。』と思ったからである。-Job 1:5
これは彼の敬虔な信仰の表明行為であったとするむきもあるが、それはハマルティア。書いてある通りに理解すべきであろう。そして彼には次々に災いがもたらされたが、これは神が意図されたことではない。ヨブのフェイスに穴がすでに開いており、そこにサタンがつけ込んのだ。むしろ神はヨブを守ろうとしている(Job 1:12)。
そしてヨブは 「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」Job 3:25)と告白する。まさにこれがヨブ記の本質なのだ。
”FEAR”(恐れ)とは”False Expectation Appearing Real”である。ネガティブ・フェイスとも言える。現にガンになる人はしばしば、やっぱりだと呟くことが多いと聞く。例えばこの方。
「あなたはがんです」と言われた瞬間、いちばん最初に思ったのは、正直に言うと「やっと私の番がきたな」でした。 私は小さいときから梅宮家のみんなががんにかかるのを見て育ち、いつか遺伝で自分もがんになると思っていました。父、梅宮辰夫は36歳で肺がんになり、4年前に81歳で逝去するまでがんと一緒に生きました。父の2人の妹もそれぞれ大腸がん、乳がんにり患しました。 だから、がんを告知されたときもあまり驚きませんでした。
想念は言葉として放出される際、霊が乗るのだ。これが日本語で言われる言霊である。ポジティブ・フェイスは聴いた御言葉にフェイスの霊を混ぜて(Heb 4:2)語り出すとき(2Cor 4:13)、それは御言葉のサブスタンスを実体化する。ヘブル語の言葉は”Dabar”であり、その意味は単にラベルとしての意味だけでなく、実体・実質の意味を持つ。
ヘブル11章1節のフェイスには定冠詞はない。つまりいわゆる聖書的フェイスに限るものではない。それはスピリチュアル・パワーとしての霊的能力を定義する。
「いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質・実体)、まだ観測されていない事実のエビデンス(現出)である。」-Heb 11:1(私訳)
これをいわゆる超能力者やニューエイジャーも用いているのだ。ただし、彼らがスピリチュアル・スフィアにコンタクトするチャネル(ポータル・門)はイエシュアではない。別のチャネルを用いている。つまり彼らのフェイスはリアルである。世のサイエンス的には「パラサイコロジー」と呼ばれる現象が生じる。これを頭から否定しかかるキリスト教徒は逆に見透かされているのだ。
かくして、人類は物理領域だけに生きる者たち(Sarxikos)、精神的領域に生きる者たち(Psuchikos)、そして霊的領域に生きる者たち(Pneumatikos)と分けられる。それぞれ、第一コリント書3章1節、2章14節。そして2章15節に啓示されているとおりである。神道者も十分に霊の領域の法則を知っており、それを用いているのだ。むしろキリスト教徒は空理空論の神学で霊の経験はほぼ欠如している。今のニッポンキリスト教界の惨状を見れば明らかであろう。
かつてニューエイジ的映画『スターウォーズ』に「フォース・アウェイクン」という作品があった。そして「フォースを使え!」と。彼らから霊的経験をゲットバックせよ。われわれは「フェイス・アウェイクン、フェイスを使え!」と。

CT対根田控訴審についてキリスト新聞が報道しています。参加者による共同声明文も掲示されています。私のもとには控訴審判決文、当日の資料と声明文、また録音音声も提供されており、私の個人的見解はすでにブログに表明したとおり、「CTとダビデ張氏に関わる疑惑は依然として残る」という理解です。
私自身との関係においても、「山谷CT会談」にて高柳氏に財務諸表の提出を求め、彼もそれを約束しましたが、その後実行されていません。また矢田氏の学歴と職歴についてもその主張に偽りがありました。ただ、ことさら財務諸表の提出を要求したり、ウソを訂正せよとは求めませんが。また根田氏に組するものでもありません。
控訴審判決でも、峯野大明神の陳述書が採用されて、「矢田氏と高柳氏が峯野大明神を騙して淀橋教会に潜入したこと」は必ずしも真実ではないとして、賠償金が増額されていますが、この記事にあるとおり、数々の疑惑については本裁判過程で事実認定がなされているわけです。
根田氏は「形式敗訴、実質勝訴」の姿勢ですが、最高裁に上告したようです。しないと高裁判決を良しとすることになりますから、当然でしょう。上告はほぼ100%門前払いですが(けっこう時間がかかることがある)、今後CTはさらに根田氏に新たな訴訟を提起すると予告していますので、本件はまだまだ終わりませんね。どこまで続くぬかるみぞの様相を呈してきました。
追記:通称イタカル110番に高裁判決を受けての声明文が出ました。まあ、仲間内でしゃんしゃんの印象も否めませんが。裁判の判決内容は確認しておきましょう。すでにどろどろですので、その系の関心のある方はどうぞ。こうやって声明が出てもCTに群がるその系のボクシたちには、小島よしおでしょうがね。
峯野大明神は「自分は騙されていない」と主張したことが賠償金増額の理由だが、まあ、彼はアカンの罪の状態なのでしょう。結婚詐欺にかかった女性が詐欺師を擁護するのはよくあること。ストックホルム症候群でも言えることだ。

極私的には2001年からこの論を唱えておりますが、ニッポンキ業界では相も変わらずでございます。教団教職制度の誤りや、イースターとかクリスマスの愚かしさについて彼らは何も感じない、霊的不感症となっている御様子です。

最近、セレブにニューエイジに深く関わった方が来られている。彼らは霊的経験をかなり持っておられ、同時にニューエイジの危険性も熟知している。キリスト教会をあちこち彷徨ったが、オツムだけの教義で固められた宗教儀式であり、霊的に空疎であることを、バプテスマ1カ月後であるが見抜いている。
そう、ニューエイジャーはキリスト教徒などよりよほどフェイスを知っている。繰り返すが、ヘブル11:1のフェイスには定冠詞はない。それは一般名詞としての定義であり、彼らはシックスセンスである一般のフェイスを体験的に理解している。
Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.-Heb 11:1 (NKJV)
問題は、どのチャネルによるのか。あるいはどのポータル、つまり門を通るのか、である。彼はそれがジーザスであると分かった、と。われわれはジーザスという門を通して、出入りする。どこと、どこを?そう、この物理的時空間領域と霊的領域を、である。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。-John 10:9
ニューエイジが何をルーツとするか、ニッポン人はほとんど知らない。それは新しい時代、つまりキリストの時代の終焉を意味するのだ。キリストの時代は魚座の時代、そしてニューエイジの時代、水瓶座に支配が移ると。それは聖書のパクリ。ポータルも、チャネルも、バイブレーションも、サブスタンスも、マインドのパワーも、スピリットのパワーも、みな聖書にルーツがあるのだ。
実はニューエイジはジーザスが開いた。それは十字架の死と復活によるニュー・クリーチャーの誕生。十字架は霊的相転換。すべては新しくなった。ニューエイジャーに対して、私たちこそ真のニューエイジャーだと宣言すべきなのだ。
創価学会の方も霊的経験はいろいろとしてきたが、それはジーザスによるものではないことが分かった。真のポータルはジーザスだと。彼らの経験を否定するキリスト教徒がいるが、むしろ自分の霊的無知を証明してしまうのだ。彼らもフェイスを知っているし、経験もしている。ただポータルが異なるのだ。

このビデオは興味深い。次のデータは注目すべきだ。


上のビデオによると2040年にまでにプロは半減し、この牧師によると日本基督教団は2050年には消滅するらしい。
大変結構
ぼくはもう20年以上、この業界は一旦ガラガラポンされて廃墟になるべきだと主張している。そしてそのとおりになりつつある。

フェイクの上に建てるものは当然に崩壊するのが道理。どんなにイッチーして、伝道ぉ~に励んで、リバイバルを~って祈っても、主が止めてるのだから無理スジ。人間の小賢しいわざがオワルまではね。
ではDr.Lukeはどうするのって。はい、夜は寝て、朝は起きて、当たり前を当たり前に生きるだけでございます(Mark 4:26-29)。
で、クリスチャン新聞から「教会の実情に関するアンケート」とか言う用紙が送られて来ましたよ。何でも昨今のニッポンキリスト教は教勢と財政が縮小傾向、加えて閉塞感が蔓延しているんだそうで、その実態を調査して、来る「第5回日本伝道会議プロジェクト」に報告書として上げるらしい。KFCもいつの間にか「クリスチャン情報ブック」とやらに掲載されていたのだが、はてさて、どうしましょうか?いろいろな消費者動向調査なども来るのだが、ほとんどは無視しているのだ。ただし景品がイイ場合はこの限りではない(^^)。
ちなみに驚いたのは、構成人数欄が、
A.0人、B.1-3人、C.4-6人、D.7-10人、E.10人以上
となっているではないか!?この区分けの細かさに統計学的意味があるのだろうか?統計学を学んだ者から見ると、ビックリする区分の仕方だ。いやあ、これはかなり深刻だ・・・。(意地悪に突っ込みますと、10人の場合はDとEのどちらか知らん?)
でも、主のお言葉どおりでしょう。「わたしがもどる時、地上に信仰が見られるであろうか?」と。まあ、ニッポンキリスト教も行き着くところまで行く必要があるのです。私は前々からガラガラポンが要ると言っています。今のままの「お化粧」ではごまかせません。その意味では私の診立てどおりになってきているわけです。
真の主のわざを見るのはその時である。

時代を透視するパースペクティヴ-バビロン化するキリスト教と政治経済システムの混交体の肥大化
昨日のポストを分かり易くシェマティックにまとめておきます。要す …
昨日のポストを分かり易くシェマティックにまとめておきます。要するに世界は聖書の啓示のとおりの動きをしているわけです。ここで獣の印とは何か?・・・これについては稿を改めます。

これはユダヤ陰謀論ではない。事実だ。共産主義世界革命を目指したトロツキーはロシア限定共産主義のスターリンに負け、メキシコに逃亡。その残党がグローバリストとしてネオコンなどの仮面をかぶって生息している。彼らはマーケットとFRBを支配している。そのトロツキーはユダヤ系である。
元同僚の茂木先生の本書は今世界で起きていることを理解するためのエッセンスが凝縮している。おススメ。ユダヤ国家はイスラエルだけではない、米国もだ。この構造を理解しないと世界は意味不明になる。


現在、一部のクリの間では啓示録13章の第一の獣がトランプ、来たるべき666であり、その露払いをする第二の獣がイーロン・マスクであるといった煽情的な論が唱えられている。しかし、聖書は聖書により解釈する必要がある。すなわち、前提として「獣」は「国」である。
SDAは一般のキリスト教では異端とされているが、その予言解釈においては一目置く部分が多々ある。例えばこれ。政治と宗教が一体となることを指摘している。啓示録17章18章の大バビロンはそれぞれ霊的側面と政治経済的側面を描いているが、それらの複合体の完成形が近いかもしれない。
すでに私自身もゼカリヤ書の四色の馬の配置が現在までの霊による地政学的性質を決めていること、また歴史の流れでは白いキリスト教と帝国主義の結合体によるノア預言の成就を指摘している。
「カナン(黒人の祖)は奴隷となれ、ヤベテ(白人の祖)はセム(黄色人種、ユダヤ人の祖)の天幕(ユダヤ・キリスト教の影響)に住まい、その土地を広げる。」-Gen 9:25-27(要旨)
これを行った国はスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、そしてアメリカである。
現在、最終パワーとしてもっとも成功しているのはアメリカ。日本はこの白いキリスト教と帝国主義の複合体に抵抗したが見事に撃ち落された。それでもアジア諸国の独立の契機とはなったが。
すでにアメリカは表は自由と平等を旗印にするキリスト教国家と見えているが、実は二重構造であり、深い部分は病んでいるオカルトであると指摘してきた。911以降、特に民主党政権になりその裏が表に現れ、変態さんとオカルトの国となりつつあるが、その揺り返しとしてここで指摘されている傾向を帯びることは十分に考えられる。
アメリカは白い馬に乗る霊、すなわち欺瞞のキリスト教(その中核はもちろんローマ教)によりドライブされている。その帝国主義的性格はこれから、かつてのような露骨な表現ではなく、さらに洗練された形で現れて来るであろう。
来たるトランプ大統領誕生の暁にいかなる光景を見ることができるか、このビデオも参考になる。
黙示録(正確には啓示録)13章の二匹の獣は特定の個人ではない。『レフトビハインド』ではヨーロッパ合衆国のニコライ大統領と設定されていたと思うが、聖書の原則において、獣は国を表す。
第一の獣は海(異邦の諸国民)から出現し、その上に絶大な権力を振るう。第二の獣は地(ユダヤ由来)から出現し、小羊のような二本の角を持ち(=小羊を装う存在)、第一の獣の露払いをする。歴史から見て、SDAの見方、<第一の獣=ローマ教、第二の獣=アメリカ>はひとつの有力な解釈として合理性と整合性がある。いずれにしろ霊的勢力と政治経済勢力の一体化が進むことは間違いない。
トランプが第一の獣666であり、イーロンマスクがその露払いをする第二の獣といった飛びつきやすい煽情的な論を唱える者には十分注意せよ。彼らは聖書そのものの整合性を無視してつまみ食いし、しばしば商売に用いるだけである。
私のダニエル書と啓示録の解説シリーズも参考にされたい。

CT問題は今後、日本基督教団とJEAが異端疑惑解除を公式に出すかという点に注目。彼らがこれまでのメンツを下ろして解除すれば、CTも晴れてニッポンキ業界のメディアとして正式デビューと相成るわけだが。
タコツボ業界の論理としてはCTを正式メディアと認めるか、その一線を超えるのはなかなか難しいと思いおりますが。この成り行きも興味深い点でございます。峯野大明神と今回対立した形のお歴々との因縁が残りましたしね。
かつてニッポンキ業界の福音派と聖霊派が「カリスマ条項」を外して手打ち式をしたことがありました。仲介人は中川氏だか尾山氏だったか、ぼくはその場面を見て、どこぞの業界とソックリじゃんとびっくりした次第。さて、今回はどの親分が仲介するのでありましょうか? あるいは平行線のまま? WOWOWのドラマ『TOKYO VICE』はなかなか渋いドラマでしたが。さて、楽しめるかな?
・・・といっても、私とは関りがない世界のお話ではありますが
根田氏側がいかなる声明を出すか、ちょっと待たれるところであります。

本日、1310より東京高裁にて本件の判決言い渡しがあった。キリスト新聞がXで速報を上げている。

一審では50万の賠償命令が出ましたが、根田氏側は「CTの矢田氏がダビデ張を再臨のキリストと信じる信仰を隠して峯野牧師の淀橋教会に潜入していた」という事実認定を得たことでほぼ”勝訴”感が漂っていました。が、今回、見事にひっくり返されてしまったようです。峯野対根田は峯野大明神に軍配が上がったということでしょう。一挙に根田氏が追い詰められる形になりました。
極私的には一審終了後、下の記事でこのように感想を漏らしております:
「問題は控訴審がおそらく提起されるであろうこと。その際、今回認定された事実もどう扱われるか、必ずしも予断は許されない。極私的には、所詮はニッポンキ業界の事件であるので、今回はまったくの第三者的立場から見ていることはすでに述べてたとおり。」
私のこの懸念通りになってしまったわけです(実は一審の裁判官の判断傾向については、事の成り行きで情報を仕込んでいましたので)。その「事実認定」こそが根田氏にとっての最大のキモだったのですから。
また控訴審が提起された際の感想としてはこのように書いている:
「さあて、CT側の法律事務所は現在世間で騒がれている「ミツカン種馬」事件をひっくり返した腕自慢のところ。どんな法的構成によって控訴審を進めるのであろう? 根田氏にはまことにご苦労様であるが、ある意味、極私的には一審よりも面白い展開を期待しているところである。」
この「面白い展開」とは何だったのか? まあ、当時のDr.Lukeは何を期待していたのか? ここではあえて言わないでおこう😎
さて、さて、根田氏は本件を最高裁までもっていくのでしょうか?・・・と言っても最高裁は憲法判断と訴訟手続きの過誤などを判断するだけ。「上告」あるいは「上告申し立て」をしても、98%は門前払い(よって実質二審制とも言われる)。今回、根田氏は足元を一挙に崩されました。CT側はさらに根田氏に訴訟を吹っ掛けるようですから、根田氏は追い詰められましたね。どんな訴因をもって根田氏を訴えるのでしょうか?
極私的には2006年に救世軍の山谷真少佐がブログで追求し出した「CTにまつわる疑惑」に関わる一連の訴訟についてとりあえずの結論が出た形となる。当時はメディアが個人を名誉棄損で訴えるなどは不合理であるとして(紙上で反論すればよいのだから)、友人の山谷氏を全面的にバックアップした。結果は事実適示項目のある部分は真実性・真実相当性が認められたが、山谷氏敗訴。これを根田氏はクリスチャン新聞で「引き分け」と報じた。加えて今回は根田氏VS峯野氏の因縁の対決となった形だが、峯野側に軍配が上がった。
最後に、山谷氏と根田氏の裁判を覗いたり、アメリカやカンコクの情報を総合する限り、極私的印象としてはダビデ張氏にまつわる疑惑は解消されていない。むしろ深まっているところである。少なくとも一点の曇りもない真っ白白ということはまずあり得ないと考えている。しかしながら、今回の結果を見ても、裁判所の裁きに耐えるだけの客観的証拠の蓄積がいまだ不十分であると言うことになろう。今後、ニッポンキ業界は化石メディアのキリ新、クリ新は衰退、休刊・廃刊もあるかもだ。他方でCTがメインストリーム・メディアになるだろう。極私的にはますますニッポンキ業界からのエクソダスを勧める次第だ。
追記:クリスチャントゥデイ紙とクリスチャン新聞紙に本件に関する記事が出ている。
これで見る限り、先に書いたように、ぼくの懸念通り一審の肝心の事実認知はほぼ否定された感が強い。すなわち-
<CT矢田社長が『ダビデ張を再臨のキリストと信奉すること』を秘し、峯野牧師を騙して淀橋教会に潜入したこと>
は疑惑レベルだとして否定されている。ただ曖昧なのは「秘して、騙して」が否定されたのであって、『』の信奉内容まで否定されたのか?という点。
峯野牧師の認識に不合理な点があるとは認められない。また、上記②の高柳氏の地位や矢田氏の行動は、両名が未だ張牧師との関係を維持していることをうかがわせるものの、異端信仰を秘して峯野牧師を騙しているとの事実を直ちに帰結するものとまではいえず、疑惑の域を出るものではない
この峯野氏の認識とは-
長年牧師をして多くの人を見てきた私からすれば、ある人物が異端かどうか、信用できるか否かを自分で判断することはできる。矢田氏や高柳氏と関わりを持つようになった後(約20年もの間)、彼らの発言内容や日々の教徒・信徒との交流状況はかなり注意を払って見てきたが、彼らからキリスト教の教義に反するような異端的な言動や行動が見られたことは一度もない
これらを総合すると、矢田氏らは異端的ではないと結論されるわけだ。加えてアンチ峯野牧師たちの主張は認められず、峯野大明神の観察と認識に不合理な点がないとしてることからすると、『』の信奉内容までも認められずってことになるわけだが・・・。
まあ、疑惑の域であることは認められたわけだが、この事実認定が覆されたことは根田氏にとってはかなり後退、というより致命的だ。根田氏の裁判に関わる目的からみると実質全面敗訴の様相となっている。他の細々した事実認定は本件の本質ではないからだ。CT側はまだ根田氏に対して訴訟を準備してるらしいから、彼もしばらく心落ち着くことがないであろう。
追記の追記:根田氏による詳細な報告が出た。
これを読むと裁判長は
「控訴人の新旧の代表者が、異端信仰を有していないことを公にしており、峯野牧師においてもそのことを偽りのないものと判断して尊重していることに加え、ここで争点とされている事項が個人の信仰の自由又は宗教的行為の自由に関わる事柄であり、私人間の民事訴訟で争われる場合であっても慎重に判断されるべき」との姿勢を示した。
ここは私の予測通りだ。この点についてはCTシンパの日本基督教団の臼田牧師に対して次のように回答している。

というわけで、矢田氏やCT関係者がダビデ張をいかなる存在と認識しているかの判断は法律論レベルでは避けられたわけ。まあ、当然であろう。かつてぼくはニッポンキ業界の論理は通じないと指摘した通りである。
「もっと言えば、社会的正義感や、キ業界的異端論などを持ち込める舞台ではない。このことを知らないから、司法は無常だ~とか、信頼できない~とか叫ぶことになる。そもそも裁判とはそういうものであることをまず認めること!」
これが裁判というものである。
追記の追記の追記:今回、根田氏側の成果としてはかろうじて、
一方で本判決は、共同体の元信者でありCTで使役していた証人らが、「張牧師が再臨のキリストであることを示唆する講義を受けた」との事実
という事実認定であろう。「示唆する講義」とは微妙な表現ではあるが・・・・。


今回はマイメッセはありませんので、ワンショットでご勘弁を。
香壇の旧約と新約の違いについては
レビ系とメルキゼデク系の祭司制度の違いについては