「仏」とは何か?-葬式仏教をエクソダスせよ!
わたしの主張はキリスト教なるマトリックスをエクソダスせよ、というものだが、実は仏教でも同様の事象が起きている。つまり、今見ている仏教の光景は本来の釈迦牟尼の説いたものではないのだ。彼は自分を拝むなと教え、僧は葬式に関わるなとも指示している。死者を拝することなどあり得ない。
では、「仏」とは何か?
それは究極のリアリティーである。事の実相、実体であり、外見ではなくそれを作り出している縁起だ。ゆえに仏教では「色即是空」と見抜いている。「色」はそもそもナイ! それはブレインが作り出した幻想、クオリアである。その実体は振動数の異なる電磁波であり、光子である。これが「仏」だ。そこで現代物理学者は仏教に関心を示すのである。
原仏教の本質は徹底した認識論である。
仏教も人の心についてかなり深く考究している。フロイト以前から無意識の働きを指摘し、心の縁起を説いている。これについては道元の『正法眼蔵』を何度も紹介しているので参照されたい。
大脳生理学者の主観的知見とも一致が見いだせる。
また道元は時間論についても現代物理学の知見とほぼ同じ見解を示している。
さらに親鸞の『歎異抄』と聖書の共通項もある。
かつて私も禅にはかなり関わっており、静岡臨済寺の倉内松堂師と一緒の写真もご紹介したり、永平寺76世管主秦慧玉師と間接的に関係していることも前に書いた[2]俳優の滝田栄氏も倉内松堂師に師事していたとのことで亜ある。。と言うわけで、実は私も得度を考えたこともあったのだ。今でも雲水には憧れがあるし、禅寺の生活には実に心惹かれる次第。彼らは野心に満ちて脂ぎった牧師先生よりもはるかにサラッと生きている。一言で言えば、捨てる生活、清々として。
元々、仏教では礼拝対象はない。各自自らが行を積んで自分の内なる仏性(真の自分や事の実相)に目覚めること―それがすべて。
しかるに道元の『正法眼蔵弁道話仏性の巻』によると、仏性とは
釋迦牟尼佛言、一切衆生、悉有佛性、如來常住、無有變易
すなわち、すべての衆生・事物が有しているが、
修せざるには現れず、証せざるには得ることなし
われわれは生まれてきたこの方、五感による知覚と認知により、自分の内側に内的世界のモデル(模型)を構築している。このモデルに従って人や事を判断して、好き嫌いや、喜びと悲しみなどを味わうのだ。よってそれらの感情は極めて根拠がないものだ。そこでパウロは「世の形に構成されてはならない。マインドを刷新し、造り変えてもらいなさい(メタモルフォーシス)」(Rom 12:2)と言う(☞マインドに関する記事群)。
禅においては、もちろんZOEを得てはいないし、アダム系のままではあるが、いわゆる「行」を積むことによりこの構築された自身の世界観をいったん解体し[3] … Continue reading、改めて自然に沿った、いわゆるありのままの歪みのない世界観を作り直す。人や事の外面ではなく、その実相・実体・真実を観る心の姿勢である。これはローマ書1章20節にも通じる(Rom 1:20)。
これが回心(えしん)であり、それは仏性を見出すことである。
道元が創始した曹洞宗の永平寺の生活はすべて規則尽くめである。朝四時に起きて、只座る。これを「只管打座」と言うが、悟りだとか解脱とかをも求めない(これらを求めることが迷妄だとする)で只座る。そして作務(さむ)。食事作法もトイレの入り方、風呂の入り方など、すべてが規則あるいは作法に従った生活。これらは「典座(てんぞ)教訓」・「辧道法(べんどうほう)」「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」などと言われる。
目指すは道元の『正法眼蔵現成公案』によれば
自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。佛のまさしく佛なるときは、自己は佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。
身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
つまり自分の意志の力や計らいによって法を掴み、法に乗ろうと努めるのではなく、法が先に働いて、それに応じることが悟りであると。よくクリスチャンも、「ロマ書8章のいのちの御霊の法則に従うにはどうすればよいのか」と問う、そこには自己がありありと生きてしまっている。自分が法則に従うと。
またガラテヤ2章の20節には「生きているのはもはや私ではなくキリストだ。今、肉にあって生きる私は御子に対する信仰によって生きる」と邦誤訳にあるが、ここにも自己がありありと生きてしまっている。生きているのは私ではないのに、私が御子に対して信仰するというわけだ。「悔いのない悔い改め」とか、ニッポンキ業界では当たり前にこの種の自己矛盾を起こしているが、それすら気づいていないのが致命的。何度も言うが、「御子に対する信仰」ではなく、「御子の信にあって(in)生きる」のだ。つまり自己を忘れ、自己を脱落して、法が自己を証してくれる。
身心脱落、脱落身心[4]この生き方は中動態的生き方とも言え、脳科学的にはデフォル・トネットワークモードとも言える。☞
この時に展開する主観的時間論は同「有事の巻」によれば-
たき木ははひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり、かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生(しょう)とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
前後裁断せり。「時間は幻想である」とアインシュタインも指摘している。時間の前後は物理的には無意味なのだ。すなわち主観的時間としても、私たちが生きることができるのは、後悔や傷の残る過去でもなく、不安や思い煩いに満ちた未来でもない。ただ今に生きる。大拙的には「アブソリュート・ナウ」。
さらに道元は指摘する-
生死のなかに仏あれば、生死なし。またいはく、生死のなかに仏なければ、生死にまどわず。
善と悪、生と死と言った二元論を越えたところに生きる、それが仏であると。まことに人類の悲惨の原因は善と悪を知る知識の木の実を食したことなのだ。
ただし、禅ではここまで
イエシュアは善と悪を超えたいのちの領域へとわれわれを跳躍させてくださったのだ。ここに禅者と基督者の致命的差異がある。
References
↑1 | John Rockは経験論的認識論を提唱。人は生まれたままではタブララサ(白板)であり、経験により世界を認識するとする。対象そのものが持つ性質を第一性質、主観的なそれを第二性質とし、第二性質のみをわれわれは知るとした。現代的にはクオリアである。光の本質はある波長の電磁波であるが、脳はそれを色として構成する。まさに「色即是空」だ。 |
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↑2 | 俳優の滝田栄氏も倉内松堂師に師事していたとのことで亜ある。 |
↑3 | 臨在宗では、知解分別(ちげふんべつ)では到底答えることのできない公案を用いて心理的に追い詰め、その世界観を一度壊す手法を取るが、公案禅あるいは看話禅という。対して只座り、掃除や食事の準備の中でそれを目論む禅を曹洞禅という。これを只管打坐と称する。いずれも論理や理屈や常識を超えたマインドの世界を志向する。 |
↑4 | この生き方は中動態的生き方とも言え、脳科学的にはデフォル・トネットワークモードとも言える。☞ |
↑5 | 私の著書『真理はあなたを自由する-ファクターXの再発見』でも、「信は完成した未来を現在に霊的に逆算する」と書いた。 |
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