続・「仏」とは何か?-華厳経の洞察力:「一切は心が作り出す」-
われわれが主観的に経験している「色」は脳が作り出したクオリアであって、それは物理的には存在していない幻想であることは何度か指摘している。存在している実体(サブスタンス)は波長の異なる電磁波あるいは光子である。まさに色即是空。
このGIFはそこのことを明瞭に現わしている。人間の目は三色光に対する受容器(錐体細胞)がそれぞれの色の配合具合を脳の視覚野に伝達し、視覚野で色として再構成される。
その配合比率をスペクトルと言うが、これが実に面白い。すなわち、異なったスペクトルでも人間は同一色(クオリア)として感覚するのだ。物理的実体(サブスタンス)と主観的感覚(クオリア)は一対一には対応していない。まさに色即是空。
さらに面白い事実がある。紫色と言われる色は詳細に見ると二種類ある。ヴァイオレットとパープルである。次の図の内側の正方形がバイオレット、外側がパープル。似てることは明らかだが、実はパープルには物理的なスペクトルがない!
つまりパープル色に対する物理的実体は存在しない。対してバイオレットは次のチャートの左端の波長に対応する、つまりバイオレットに対する物理的実体は存在している。パープルは完全に脳がでっち上げている色なのだ。
そのメカニズムは赤い色を受容する錐体はバイオレットの波長にも反応し、その領域で青の錐体の信号と混合してパープルが構成される。
まさに色即是空、華厳経のままだ。物理的サブスタンス(この場合、スペクトル)は違っても、脳は同じ色を作り出す。色なるものはそもそも物理世界には存在していない。脳科学的にはクオリアに過ぎない。
ここで「仏」とは葬式仏教で言うような礼拝対象ではない。ましてご先祖でもなければ死者でもない。事物・事象の真実な姿、究極のリアリティーだ。人は五感に攪乱されて、それを掴むことができなくなっているのだ。また「如来」とは心が作り出す表象、つまりクオリアだ。
譬えば、工画師の諸の彩色を分布するがごとく、虚妄にして異色を取り、四大(地・水・火・風)に差別なし。四大は彩色にあらず。彩色は四大にあらず。四大の体を離れて別に彩色あるにあらず。心は彩色の色にあらず。彩画の色は心にあらず。心を離れて画の色なく、画の色を離れて心なし。彼の心は常住ならず。無量にして思議しがたし。一切の色を顕現するも、おのおの相い知らず。なお、工画師の画の心を知ることあたわざるがごとし。まさに知るべし。一切の法は、その性もまたかくのごとし。
心は工画師のごとく、種々の五陰を画く。一切の世界中において法として造らざることなし。心のごとく仏もまたしかり。仏のごとく衆生もしかり。心・仏および衆生、これ三無差別なり。諸仏はことごとく、一切は心より転ずることを了知す。もしよくかくのごとく解すれば、彼の人は真の仏を見る。心もまたこの身にあらず。身もまたこの心にあらず。一切の仏事を作して自在にして未曾有なり。もし人あって、求めて三世一切の仏を知らんと欲すれば、まさにかくのごとく観ずべし。心は諸の如来を造る。
まことに聖書にもこうあるとおりだ:
Keep your heart with all diligence, for out of it are the issues of life.-Prov 4:23(HRB)
また
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。-2Cor 4:18
見えないものにどうやって目を注ぐのか? もちろん霊の目である。これが霊のサブスタンスを実体化するフォティーゾのメカニズムである。われわれは見えるものによらず、フェイスにあって歩むとある通りだ(2Cor 5:7)。
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