- 2025-06-14
iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

最近、鎌倉にはまっており、先週も葉山牛のステーキを食してきたところ。今回はここ、鎌倉の小町通りにある。前々から気になっていたのだが、今回初トライ。



門構えは一見さんはお断り的な感じだが、まったく違って、価格もリーズナブル。十勝蕎麦を自前でこねて、包丁で切っているので、細くて揃っていないが、味は実に美味。甘みがあって、口の中で何ともな幸せ感が広がる。客はせいろだけを目当てに来ているものが多い。
で、いつもの江ノ島へ。江ノ島の浮世絵が展示されていたが、なんともいい雰囲気。そもそも江ノ島はトンボロ現象で陸続きになるのだった。




しかし、中国人が実に多い。彼らによって荒らされることがないように願うところである。


FBにてこんな投稿をした。


エペソ書にある四役はちょうど学校のクラスにおいて、生徒の間で級長や風紀委員などの役割分担があるのと同様に、兄弟姉妹の間における役割分担を言う。だから級長が「師/先生」を自称することは唯一の師たる担任の権威に抵触するのだ。担任がそのクラスにいるのであれば、生徒が「師」を名乗ることはナンセンスであろう。エクレシアにおいても同様である。そもそもポイメン「牧師」とする邦誤訳は改めるべきであろう(新共同訳はカトの影響を受けた対プロとして「牧者」であるが)。
ところがなんと、このナンセンスなことをまんま牧師が証言しているのだ。
彼の論の要点をまとめると-




イエシュアが今・ここにいないともろに証言している! だから、唯一の師が不在ゆえにマタイ23章を現代に適用することは間違いであり、他の誰かが師を名乗るのは間違っていない、と。見事に私の見立てを裏付けてくれてます。

聖霊派でもイエスは天に戻っており、地上には聖霊様がつかわされているから、「聖霊様の充満~、油注ぎ~」とチャントするわけ。この点については、かつて一世を風靡した『聖霊様おはようございます』のベニー・ヒンはその教えの間違いを悔い改めたのだが(2015年の映像)。


彼らは父・子・聖霊がバラバラなのだ。しかしるに御言葉で彼らの誤りを指摘しておこう:
・わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。-John 14:11
・イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。-John 14:23
・信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。-2Cor 13:5
この相互内住をペリコレーシスと言うことはすでに書いている。
なによりもパウロはこう言っているのだが:
エクレシアとはキリストの体であって、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満である。-Eph 1:23
岩波訳ではこの「方」とはキリストであると注において指摘している。ところが聖書のすごいところは、現在のイエス・キリスト不在のいわゆるキリスト教の会の様をも予言しているのだ。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。-Rev 3:20
まさにキリストの充満ならぬ、キリストの空欄(不在)である! ラオデキヤの意味は「ラオス(大衆)+デカイヤ(意見・正論)」であり、要するに人間の正しさに基づく意見が満ちているということだ。そしてイエス御自身は戸の外に・・・・。
イエスご自身が今・ここにおられることを実感を持って感じることができる人がどれくらいいるだろうか? 少なくともイエス以外の師を擁立し、それに頼る者たちにはそのリアリティーはないことは、この牧師が言う通り、明らかだ。実はそれこそが偶像なのだ。病識の欠如は致命的である。
御覧ください、わたしの内に偶像の道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。-Ps 139:24
邦誤訳では「迷いの道」とか「傷ついた道」などと訳しているが、原意は「アイドル」である。
なぜ、「先生と呼ばれてはならない」とイエシュアが命じたか。それはイエシュアの唯一の師たる主権に抵触するからである。それはイエシュアが今・ここにおられることによって、その主権に服しているときに理解される。裏を返せば、この牧師の主張するとおり、イエシュアが今・ここにおられるリアリティーの欠如が「牧師」の正当性の根拠となるのだ。
最初のアダムは生きる魂となったが、最後のアダム(=キリスト)はいのちを与える霊となった。-1Cor 15:45
すでに物理的肉体に制限されない存在、ニューマティック・クライストとして、聖霊にあって私たちのうちに住まわれる。
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。-John 14:18
しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。-John 16:16
これは御子が御父の元に戻り、聖霊がつかわされる時のことであり、再臨のことではない。そして16節のふたつの「見る」は単語が異なる。単純に言って、前者は物理的に見る、後者は経験的に見ることだ。つまり聖霊にあっていのちを与える霊となられたニューマティック・クライストが私たちのうちに生きておられるリアリティーである。
しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。-John 14:19
私たちはかつての弟子たちのように物理的にかつ外側にイエシュアを見るのではない。霊的にかつ内的に見るのである。その意味で、かつての弟子たちよりも私たちとイエシュアの関係ははるかに深い。
内におられるキリスト!
何という甘美な経験であろうか。ブラザー・ローレンスもガイオン夫人も、ジョージ・ミューラーもその甘さにおいて主の愛に満たされたのだ。そして今、私たちもエクレシアとして、その方の充満として、その方の愛がタンジブルに、具体的に迫るのだ。聖霊はイエスご自身とそのことばをわれわれに伝達し、テイステイングさせて下さるのだ(John 16:14-15)。
キリストは今・ここにおられる!
このリアリティーを味わうならば、この牧師の説教はまったくのハマルティアと分かるはずなのだ。ちなみにこのセンセイの教会はこちらだが、「エホバの証人、統一協会、モルモン教、カトリック教会などの団体とは一切関係ありません。」ってカトが入ってるが、Dr.Lukeオリジナルの標語使ってくれているのはご愛敬である

人は自分が知覚し、認知し、認識した「世界」をリアルと信じ込んでいる。これを「プライベート内的世界像」と呼んでいるが、しばしば、それはリアルな世界ではなく、個人的な認知の歪みが入り込んでバイアスされている。そのノイズの入った像に従って、これまでの経験のデータベースに基づいて、判断を行い、意思決定をして、言動として世界へとアウトプットされる。
結果は、世界そのものに対応するのではなく、自分で作り上げた世界の「像」に対応するのだから、当然に世界とは齟齬が生じる。そしてその実を刈り取るのだが、しばしば期待したものとははるかに異なる。こうして欲求不満が溜まり、ますます世界の見方にバイアスが入る・・・といった悪循環に陥る。
これが自分の構成した世界像に完全に飲み込まれている人の在り方である。つまりその像=マトリックス=がすべて、それを絶対化し、客観的に評価することができなくなっている。このように自分自身に飲み込まれている状態が妄想病患者である。ゴルゴ13はこう言っている:

かくしてキリスト教業界においても同じことが起きる。いわゆる神学論争や相互異端断罪事件などが生じるのは、自分の像=マトリックス=を絶対視し、その中に飲み込まれているためだ。その中から他者を見るとき、自分と食い違いを覚え、それが不快感を生じるわけ。このマイワールドに生きることが盲信・狂信・迷信を生む。
鳥のヒナは孵化して最初に見たモノを「親」と思い込む。たとえそれがおもちゃであっても、一度刷り込まれるとあくまでも親として従っていく。これをインプリンティングという。
同様に「福音」を聴いたところがナントカ教団やカントカ同盟で、牧師がいるのが当然かつ牧師に忠実に従うことを求められ、他に理事会や長老(監督)会があって、日曜礼拝なる「我はなんとかを信ず~」を唱えて立ったり座ったりがあって、献金袋/箱が回ってきて、収入の10分の一が義務で、他に諸々の献金項目があって、納めないと請求書や取り立てが来て、奉仕の当番があって・・・、と。
一方では「聖霊様の充満~、油注ぎ~」とチャントしつつ、天使の羽根~、金歯金粉~、しるし不思議~を求めて、下手なタテノリガチャガチャのワーシップを聴かされて、頭が痛くなっても我慢して、自分もいつか預言ができるようになって、ガンの癒しや「主はこう言われます~」をやってみたい、・・・と。
こうして最初に見た目の前の光景がキリスト教の「当たり前」、下手すると「正統」と刷り込まれる。犬に従うヒナたちのように、目の前の牧師(or 理事会や監督)に従うことが当然となる。先輩たちの姿を見て、それがいわゆるキリスト教徒の模範とインプリントされる。自分もその「理想像」に従ってやっているうちに、当初は歓びがあったのに、なぜかいつの間にか窒息感を覚え、でも自分に問題があると思い込み、相手に合わせて信仰に励んで頑張ってる[1]これを認知的不協和最小化といい、カルトなどのマインドコントロールの基本メカニズムである。うちに干からびれてしまう。かくして牧師ですらバーンアウトするし、下手すると自死する始末。これをハマルティア症候群という。

しかし原因は分からない。・・・これが自分のマトリックスを第三者の目で見られない状態、それを相対化できないために生じる現象である。外部者からは容易に分かるのに、自分は分からない。こうしてせっかくパロ(世の神)が仕切るエジプト(この世)からエクソダスしたのに、荒野(魂の経験)をさ迷うことになる。良き地へは直行すれば一週間であるのに、自分の魂(思い・感情・意志)のマトリックスにハマり込むと40年を浪費する。
これがキリスト教なる宗教による捕囚、多種多様な教会ゴッコの在り方が広がっているニッポンキ業界の主流派、日本基督教団の機関紙「キリスト新聞」様が、自ら限界集落と告白しているニッポンキ業界のリアルな有り様である。
ヨルダン川の向こうに広がる良き地とは霊の経験、キリストにある豊かないのちの経験である。
わたしが来たのは羊がいのちを、しかも豊かに得るためである。-John 10:10
それは牧師や教団などに従うのではなく、ただキリストに従うとき、その霊の生活がリアルになる。そのためにキリスト教なる宗教の捕囚からセコンド・エクソダスにより、良き地なるキリストご自身に立ち返ることを提唱している。
今、平安や歓び、満足を失っている皆さん、あなたは誰に、あるいは何に従っているのか? 主はこう言われるのだ-
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。-John 10:27

- 引用聖句:Acts 2:1;Titus 2:14;John 1:4;14;10:34;1Cor 6:17; Ps 119:32;John 14:3;16-17;23;16:13;16;17:21etc.
- 次回:2024年6月23日(日)
- 場所:鶴見ホール第一会議室
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

すでに何度も指摘している「メタノイア(metanoia)」、邦誤訳聖書では「悔い改め」と訳されるが、その単語に「悔い」の意味などはない。
神のみこころに添うた悲しみは[1]悲しみはメタノイアに導くのだから、メタノイアには悲しみの意味はないことは明らかであろう。、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。-2Cor 7:10
この訳は「悔いのない悔い改め」と矛盾した表現である。ちょうど「愛のない愛情」というようなものだ。英語では前者を”unregretted”、後者を”repent”としているが、この”repent”にも問題がある。
さて、そこで通常は「思い改め」でよいと思うが、もっと原語の意味を深く含んだ「超越認知思考」を今回のメッセでは提案した。すなわち「メタノイア=メタ+ノイエオ(ヌースから)」であり、ヌースの意味はかなり深い。シーケンシャル思考というより直感的に全体像を把握する知的思考能力だ。そこで「超越認知思考」とした次第。あるいは「メタ認知思考」でもよいだろう。「思い改め」は「悔い改め」よりベターだが、言語としてはやや軽い。
ヌースは「理性」を意味するが、順を追って過程的に思考する推論理性ではなく、全体を一挙に把握する直観理性を意味する。したがってアリストテレスでは、理性(ヌース)は事物の本質を把握する能力、推論の原理を把握する能力を意味する。広義には、事物を弁別する能力、すなわち「分別」を意味した。ヌースをもつ人とは「分別のある人」である。[1]
語源的には、「観(み)る」「識別する」「嗅(か)ぎ分ける」を意味する動詞ノエイン (noein)に由来するが、初期の哲学者たちによって早くから、感覚の識別能力に対して、感覚に隠された事物の同一と差別を識別する高次の精神能力とされた[1]。(WIKIより)


この事件は極私的にも前から関心があった。裁判所の判断は、各状況証拠単独では久間氏が犯人と断定できないが、すべての証拠を総合すれば十分に久間氏が犯人と断定できる、犯行形態も残虐、反省もないゆえに死刑と判示する。
このビデオでその論理を説明しているが、少々曖昧なので、おせっかいを焼いておく。今、証拠が6つあるとしているが、これらをEi (i=1,2,…6)とする。それぞれの場合に久間氏が犯人である確率をpi とすると、犯人でない確率は 1-pi となる。そこでEiは互いに独立として、6つの証拠がすべて成り立つ場合に久間氏が犯人でない確率は Π(1-pi) (Πは積)となるから、犯人である確率は 1-Π(1-pi)。
単純化のためにpi=0.5 とおくと(要するに五分五分)、1-(1-0.5)^6=0.984…、つまり犯人である確率は98.4%だ。pi を大きくすれば(つまり個々の証拠でも犯人と断定できる可能が高いとき)、この確率はさらに上がる。
①三人に目撃された車の特徴が久間氏所有車と合致、
②シートの繊維と同じ繊維が被害者から検出された、
③被害者と同じ血液型と尿がシートから検出された、
④久間氏の血液が被害者の体内から検出される(ふつうはあり得ない)、
⑤久間氏はペニスに炎症があり出血していた(④の理由となる)、
⑥アリバイがない
その他、車の内部を洗浄している、被害女児の目撃時刻と車の特徴が一致、という諸事実から考えれば冤罪ではないと、誰もが合理的な疑いを超えて結論できるでしょう。
マスコミは袴田さんの事件に勢いづいて、正義漢を気取ってる印象がする次第。本件はまず再審はあり得ないでしょう。

米を撒いたら米がなる、麦を撒いたら麦がなる、キリストを撒いたらキリストがなる、極当たり前のこと。もっと言おう、エロヒムの種はエロヒムをならせるのだ。ところがニッポンキ業界の「福音」では罪赦された罪人がなるのだ。

極私的にCT対根田裁判について疑問を覚える点は、CT側はダビデ張とは何ら関係がないと主張し、根田側はCT社創設者や現社長にはダビデ張の息がかかるとすること。
これはちょうど宗教のS学会の会員と思われる者たちがメディア会社Cを開始したら、C社がS学会と関係があり、そのS学会の黒い噂を広められて自分たちが被害を受けたから広めた相手Kを名誉棄損で訴えたとする構造である。仮にC社自体に給料遅配や労働法上の問題があるにしても、S学会とは関係ないとC社は主張する。
しかし告発者KはS学会とC社の一体性をあくまでも主張し、一審はKの告発内容の一部につき不法とし50万の賠償命令を下したが、同時に「S学会の黒い噂の真実性(あるいは相当性)」と、「C社の社員がS学会の一派」であり「S学会の会員としてその教義を信奉していることを隠して別の宗教団体Xに忍び込んでいたこと」などを認定したわけだ。
つまりC社はS学会の機関紙的存在であると。
この事実認定はS学会と関係ない立場を取るC社にとっては不都合な事実というわけで控訴となったのであろう。法律の素人であるDr.L的には、裁判所はあくまでC社とS学会の別法人性に立って判示すると予想していたが(つまりK氏の敗訴を)、K氏は確かに敗訴したが、C社とS学会の関係性まで立ち入って事実認定したのだった。
するとC社側としては、控訴審の論点は-
①S学会とC社の無関係性を証明する
②賠償金の増額を求める
③ジャーナリストK氏の公共性・公益性・真実性(相当性)を棄損する(つまり信用を落とす)
の三点しかあり得ないことになる。そもそものS学会の黒い噂の真実性(相当性)については、C社はS学会と関係ないとする以上、どうでもよいことになるハズだからだ。誰も自分と関係ない団体についてどんな判示がされようが馬耳東風のハズであろう。
逆に、もしC社がS学会の黒い噂に関する事実認定そのものについて異議を唱えているとすれば、自らC社とS学会の関係性を証明することになる。
ところが、現実を見ると、現CT編集長はこんなブログを立ち上げて、目いっぱいダビデ張を擁護しているのだ。
これで私はワケワケメになるわけ。自分たちと関係ない対象をなぜこれほどまでに???とね。関係ないと主張しつつ、自らその関係性を間接的に証明しているのだから。「悔いのない悔い改め」と同様の自己矛盾に気づいていないご様子。
さあて、CT側の法律事務所は現在世間で騒がれている「ミツカン種馬」事件をひっくり返した腕自慢のところ。どんな法的構成によって控訴審を進めるのであろう? 根田氏にはまことにご苦労様であるが、ある意味、極私的には一審よりも面白い展開を期待しているところである。
※なお、控訴審は例外的なケースは除いて、ほぼ1回の期日で結審となるようだ。
