なぜ牧師がいたり、聖霊様充満チャントをするのか?-理由はイエス不在のため

FBにてこんな投稿をした。

エペソ書にある四役はちょうど学校のクラスにおいて、生徒の間で級長や風紀委員などの役割分担があるのと同様に、兄弟姉妹の間における役割分担を言う。だから級長が「師/先生」を自称することは唯一の師たる担任の権威に抵触するのだ。担任がそのクラスにいるのであれば、生徒が「師」を名乗ることはナンセンスであろう。エクレシアにおいても同様である。そもそもポイメン「牧師」とする邦誤訳は改めるべきであろう(新共同訳はカトの影響を受けた対プロとして「牧者」であるが)。

ところがなんと、このナンセンスなことをまんま牧師が証言しているのだ。

彼の論の要点をまとめると-

イエシュアが今・ここにいないともろに証言している! だから、唯一の師が不在ゆえにマタイ23章を現代に適用することは間違いであり、他の誰かが師を名乗るのは間違っていない、と。見事に私の見立てを裏付けてくれてます。

聖霊派でもイエスは天に戻っており、地上には聖霊様がつかわされているから、「聖霊様の充満~、油注ぎ~」とチャントするわけ。この点については、かつて一世を風靡した『聖霊様おはようございます』のベニー・ヒンはその教えの間違いを悔い改めたのだが(2015年の映像)。

彼らは父・子・聖霊がバラバラなのだ。しかしるに御言葉で彼らの誤りを指摘しておこう:

わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。-John 14:11
・イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。-John 14:23
・信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。-2Cor 13:5

この相互内住をペリコレーシスと言うことはすでに書いている。

なによりもパウロはこう言っているのだが:

エクレシアとはキリストの体であって、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満である。-Eph 1:23

岩波訳ではこの「方」とはキリストであると注において指摘している。ところが聖書のすごいところは、現在のイエス・キリスト不在のいわゆるキリスト教の会の様をも予言しているのだ。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。-Rev 3:20

まさにキリストの充満ならぬ、キリストの空欄(不在)である! ラオデキヤの意味は「ラオス(大衆)+デカイヤ(意見・正論)」であり、要するに人間の正しさに基づく意見が満ちているということだ。そしてイエス御自身は戸の外に・・・・。

イエスご自身が今・ここにおられることを実感を持って感じることができる人がどれくらいいるだろうか? 少なくともイエス以外の師を擁立し、それに頼る者たちにはそのリアリティーはないことは、この牧師が言う通り、明らかだ。実はそれこそが偶像なのだ。病識の欠如は致命的である。

御覧ください、わたしの内に偶像の道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。-Ps 139:24

邦誤訳では「迷いの道」とか「傷ついた道」などと訳しているが、原意は「アイドル」である。

なぜ、「先生と呼ばれてはならない」とイエシュアが命じたか。それはイエシュアの唯一の師たる主権に抵触するからである。それはイエシュアが今・ここにおられることによって、その主権に服しているときに理解される。裏を返せば、この牧師の主張するとおり、イエシュアが今・ここにおられるリアリティーの欠如が「牧師」の正当性の根拠となるのだ。

最初のアダムは生きる魂となったが、最後のアダム(=キリスト)はいのちを与える霊となった。-1Cor 15:45

すでに物理的肉体に制限されない存在、ニューマティック・クライストとして、聖霊にあって私たちのうちに住まわれる

わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。-John 14:18
しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。-John 16:16

これは御子が御父の元に戻り、聖霊がつかわされる時のことであり、再臨のことではない。そして16節のふたつの「見る」は単語が異なる。単純に言って、前者は物理的に見る、後者は経験的に見ることだ。つまり聖霊にあっていのちを与える霊となられたニューマティック・クライストが私たちのうちに生きておられるリアリティーである。

しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見るわたしが生きているのであなたがたも生きることになる。-John 14:19

私たちはかつての弟子たちのように物理的にかつ外側にイエシュアを見るのではない。霊的にかつ内的に見るのである。その意味で、かつての弟子たちよりも私たちとイエシュアの関係ははるかに深い。

内におられるキリスト!

何という甘美な経験であろうか。ブラザー・ローレンスもガイオン夫人も、ジョージ・ミューラーもその甘さにおいて主の愛に満たされたのだ。そして今、私たちもエクレシアとして、その方の充満として、その方の愛がタンジブルに、具体的に迫るのだ。聖霊はイエスご自身とそのことばをわれわれに伝達し、テイステイングさせて下さるのだ(John 16:14-15)。

キリストは今・ここにおられる!

このリアリティーを味わうならば、この牧師の説教はまったくのハマルティアと分かるはずなのだ。ちなみにこのセンセイの教会はこちらだが、「エホバの証人、統一協会、モルモン教、カトリック教会などの団体とは一切関係ありません。」ってカトが入ってるが、Dr.Lukeオリジナルの標語使ってくれているのはご愛敬である😆

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