
現在進行中のメッセシリーズにて、YHWHエロヒムの型と様、および主と同型化される過程について説いている。ある姉妹から型と様がよくわからないとの質問を受けて、次回のメッセの準備もかねて少々考察したい。
神は言ったー
われらの像(かたち)に、われらの姿(すがた)に似せて、人を造ろう(asah)。・・・神は自分の像に人を創造した(bara)。神の像にこれを創造した(bara)。彼らを男と女に創造した(bara)。-Gen 1:26-27(岩波版)
And Elohim said, let Us make man in Our image, according to Our likeness; …. And Elohim created the man in His own image; in the image of Elohim He created him. He created them male and female.-Gen 1:26-27 (HRB)
この節を巡って、かつての私は「人は神の姿に似せて造られた被造物の一種である」としてサラッと流していた。最近のメッセやブログにおいては、当初の神(エロヒム)の意図はご自分の像(型)と姿(様)に似せて造ろうであったが、実際は自分の像に人を創造したのであり、姿あるいは様の記述がないとして、いのちを与える霊となられたキリスト(1Cor 15:45)を内的に受け入れたときに、神のいのち(Zoe)の内実としての「様」を得ることができると説明していた。
この点、若干修正が必要であると考え、この記事をものしている[1]私は、その他、アダムの罪の継承問題についても見解を変えてきている。。
まず、「像(型)」についてはStrongによると-
צֶלֶם
tselem
tseh’-lem
From an unused root meaning to shade; a phantom, that is, (figuratively) illusion, resemblance; hence a representative figure, especially an idol: – image, vain shew.
Albert Barnesによると-
tselem, “shade, image,” in visible outline.
つまり、内実のない影のようなもの、外形的な像、英語では”image”とされている。
「姿(様)」については、同じく-
דְּמוּת
demûth
dem-ooth’
From H1819; resemblance; concretely model, shape; adverbially like: – fashion, like (-ness, as), manner, similitude.
דמוּת demût, “likeness,” in any quality
とされ、似ていること、似た様、質の類似性を意味する。英語では”likeness”である。(イタはいずれも私による)
そこで私は、前者は外形としての型、後者はその内実(質)としての様、と定義してきた。
ところで創世記5章を見ると-
アダムの系図は次のとおりである。神は人を創造した(bara)日、神の姿(demuth)にこれを造った(asah)、 男と女に彼らを創造し(bara)、彼らを祝福した。彼らが創造された(bara)日、神は彼らをアダムと名づけた。 –Gen 5:1-2(岩波版)
この節には姿(様)にとあるのだ。つまりアダムはキリストのいのちを得る前にすでにdemuthを得ている! すなわち、最初のアダムはエロヒムの型と様に造られた。もちろんいのちの木の実を摂る前ではあるから、被受造の永遠のいのち(Zoe)の実体としてのキリストは得てはいないが、YHWHと同様の内面的徳性の類似性も得ていたのである。ゆえに堕落後の人にも罪性と共に、YHWHエロヒムの有する愛や倫理や高貴な要素の類似的質を有している。
さて、では、いつその”様(demuth;likeness)”を得たのであろうか。
ここで、極私的には、動詞の違いがカギとなるものと考える。つまり”bara”と”asah”と”yatsar”である。
בָּרָא
bârâ’
baw-raw’
A primitive root; (absolutely) to create;(Strong)
“create”の意味は
To cause (something new) to exist;produce (something new)(Lomgman)
つまり、新しい何かを生じさせることである(必ずしも無からという意味ではない)。
עָשָׂה
‛âśâh
BDB Definition:(話態により微妙に異なるが)
1) to do, fashion, accomplish, make
2) to press, squeeze
これが創世記5章に使われている単語である。つまり、1章ではご自分の型にしたがって新しくアダムを生じさせた(bara)が、5章ではご自分の様を賦与して完成させた(asah)とあるのだ(もちろん永遠のいのちを入れる一種の容器として)。
そして1章と5章の間には2章7節(Gen 2:7)がある-
神ヤハウェは大地の塵をもって人を形造り(yatsar)、その鼻にいのち(複数形)の息(neshamah)を吹き入れた。そこで人は生きる魂(nephesh)となった。(岩波版改)
And YAHWEH Elohim formed the man from the dust of the ground, and blew into his nostrils the breath of life; and the man became a living soul. (HRB)
この動詞yatsarについては(イタは私による)
יָצַר
yâtsar
yaw-tsar’
probably identical with H3334 (through the squeezing into shape); (compare H3331); to mould into a form; especially as a potter; figuratively to determine (that is, form a resolution): – X earthen, fashion, form, frame, make (-r), potter, purpose.
つまり陶器師が粘土をこねるように形を形成すること。この節は人の形成の詳細を述べていると考えられる。まず肉体を塵から粘土をこねるように形成し(英語では form)、そこにいのちの息(霊)を吹き込むことにより人は生きる魂とされた[2]肉体を研究するサイエンスが生物学や医学、魂を研究する学問が心理学や精神医学、そして霊を研究する学問を私は霊理学と呼んでいる。。つまり物質的な肉体といのちの息(霊)の相互作用により、魂=思い・感情・意志=を有する存在になった(hayah)のである(YHWHは「ありてある者(Hayah Asher Hayah)」である)。極私的には、この作用により外形のみでなく、YHWHエロヒムと類似の<思い・感情・意志>を有するようになった。すなわち外的な「型」に加えて、内的な「様」を得たと解するのが適切と考える。
ただし、この段階では、いのちの木の実を摂っていない。いつも言うように、最初のアダムは手袋のようなもの。罪により吹き込まれた人としての霊も死んだ(Eph 2:1)。パルカルが指摘する通り、人は内側にイエス・キリストによってのみ埋めることができる空洞を有しているのである。被受造の神の永遠のいのちそのものを入れたときに、型と様のみではなく、その実体・実質を得るのである。ここれは何度も指摘している通りである。
YHWHエロヒムはアダムが罪を犯したまま永遠に生きることはよくないとして、ケルビムと燃える火の剣で彼をその木から遮断したのである(Gen 3:22-24)[3] … Continue reading。それは裁きと言うよりも保護であった。現にエデンから追放する時にも皮の衣を着せている(イエシュアの血の贖いの予型)。つまりその木が永遠のいのちの木であることをYHWHエロヒムご自身が証言している。
現に人が創造された6日目には、エロヒムは「はなはだ良かった」とされているが、完成したとは書かれていない。もちろんその完成のためには永遠のいのちの木の実を摂る必要があったのだ。それが遮断されてしまった。そこでこの木に至る道を改めて開き、ご自分がその実質となられて物質化された(受肉)存在がイエシュアであり、死と復活を経て―
聖書に「最初の人アダムは生きる魂となった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムはいのちを与える霊となった。 –1Cor 15:45
ここで、最初のアダムが型と様であるのに対して、最後のアダム(=キリスト)は遮断されたいのちへの道となり、さらにいのちそのものとなり、いのち(Zoe)を与える霊となり、私たちのうちに聖霊にあって住まわれるのである(John 14:23;Rom 8:10;Eph 3:17)。永遠のいのちとは死後に与えられるものではない。今・ここで得て、経験するリアリティーである。
現在の私たちは-
この聖句を次回、解く予定。
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。-2Cor 3:17-18
そして究極的には3種類の動詞がすべて集約されて、この預言が成就する-
彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し(bara)、形づくり(yatsar)、完成した(asah)者。-Isa 43:7
References
↑1 | 私は、その他、アダムの罪の継承問題についても見解を変えてきている。 |
---|---|
↑2 | 肉体を研究するサイエンスが生物学や医学、魂を研究する学問が心理学や精神医学、そして霊を研究する学問を私は霊理学と呼んでいる。 |
↑3 | 神が全知全能ならば、どうしてそれを止めなかったのかとか、神が人に罪を犯すことを許されたとか、神を有責者とするむきがあるが、神はforeknowはするが、predestineはされないことに注意。神を有責としてはならない。 |

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