- 2025-06-14
iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ


と、ちょっと過去ログを見てみましたところ、明確な表現をしているのは2008年12月27日にありました。現在はいわゆるキリスト教はネブカドネザルの夢にあった大樹、啓示録18章の汚れた鳥や獣が集まる大バビロンであるとまでは言っておりませんし、エレミヤ16章と関連付けてもおりませんが・・・・。
当時の記事を採録しておきましょう-
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者(原:魂)となった。-Gen 2:7
人の構成を一言で言い表している節であり、要するに、人は、体(Body)が土から作られ、神の息(Spirit)が吹き込まれ、その相互作用によって魂(Soul)となった[1]魂は作られたのではない。肉体と吹き込まれた霊の間の相互作用によって生じたのだ。。人はこの3つのディメンジョンに生きる者とされた。現代の医学では”Psycho-Somatic Medicine”とあるように、身体(Soma)と精神(Psyche)の相互関係として人を理解する段階までは来ている。が、霊(Spirit)までは来ていない。WHOの健康の定義の草案に「霊的健康」が入る直前までは来てはいるのだが。(参考:人間の聖書的啓示と現代精神科学)
霊の再生を得ていない人たちではもちろん神と触れることはできないし、神を認めない。当然である。目が機能していない人には光は無意味であるし、それが何かを認めることもできない。これは神学の問題でもなく、哲学のそれでもなく、単にセンサーの機能の問題である。よって彼らは自分の体と魂だけで人生をサバイバルしている。この状態、あるいはあり方をパウロは肉(flesh)と呼ぶ。つまり神から切り離され、物理的次元と精神的次元で生きる人のこと。ある人は肉体に頼り、ある人は魂の能力-知性・感情・意志-に頼る。そのスペクトルがその人の人格となる。
そしてある時に自分の肉的生が行き詰まる。この時に運命が分かれる。ある人は飯島愛のようにクスリに逃げ、自殺にも追い込まれる。ある人はどなたか分からないままに”神”に救いを求める。私は19歳の浪人時代に書いた日記に「神よ、正しく導きたまえ」と書いてあるのをクリスチャンになって後、発見して驚いた。この神は誰か、当時の私は知らなかったのだが。
そして「聖(Holiness)」とは、客観的には神への分離。これはすでになされている事実。主観的には「健やかさ」であり、英語では”Wholeness”。つまり「全体性」あるいは「統合性」。前に紹介した道元の研究者で東大の生理学教授だった橋田無適の「全機」である。体・魂・霊の間に齟齬がなく、ひとつの統一体としていのちの法則に乗って伸び伸びと機能する状態である。これが道元の心身脱落である。対して苦悩とは、体と魂の間、魂の知・情・意の間に齟齬が生まれ、葛藤が生まれる状態である。特に分裂病(統合失調症)は知・情・意の間の統一が壊れてしまう。
一言で言って、クリスチャンが目指すべき神の御心に沿った生き方とは、難行苦行でもなく、日本民族総福音化のための決起でもなく、人間として当たり前の日常生活にあって、安らかで健やかな、法に任せた生き方である。この時、内面的にはいのちの広がりの空間を感じ、体も軽く、魂には大いなる満足がある。何かを自分で達成した満足ではなく(これはこれで必要であるが)、ただ生きることにあって満足と喜びを味わえる。この時、見るもの、聞くもの、五感にふれるものがみな喜びとなる。四季折々の光景、鳥のさえずり、光のまたたき、波の音、木々の葉の音、あらゆるものに神性を見ることができ、感動を覚える。
ややこしい神学などはまったく不要。それは無限の神を有限な人の知性に閉じ込める不毛な作業に過ぎない。神はすべての被造物においてきわめて優雅に語って下さるのだ。神はなんと雄弁な方であろう。主イエスは果たしてこう言われたろうか-「カルヴァンの『聖書綱要』を読め、バルトやブルトマンに聞け」と。アブソリュートリー・ノー!主は言われた、「野の花を見よ、栄華をきわめてソロモンもそれほどに着飾ってはいなかった。空の鳥を見てみよ、蒔くことも刈ることもしないが、天の父が養っていて下さる」と。
牧師や教団、またカルヴァンや、バルトだのブルトマンだの、彼らの世界に閉じ込められめさるな。さらにはキリスト教自体に閉じ込められるな。いわんやニッポンキリスト教にをや。イエスはキリスト教の教祖でもなく、キリスト教の創始者でもない。キリスト教神学を組織したのでもない。キリスト教こそは、キリストの名を利用した詐欺宗教である!かのニーチェもそのカラクリが見えなかった。
改めて言うが、ソドム・エジプト化したキリスト教から、乳と密の流れる良き地、いのちそのものであるキリストご自身へとエクソダスせよ。否、し得た者は幸いである。でも、無理にとは申しません。古にあって、良き地に入り得た者は誰と誰であったか、そして彼らと荒野で屍と化した大群衆を分けるファクターは何であったか。それは信仰だったとヘブル書にあるではないか。
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
欺かれてならない、今は偽り声が満ちる時、フェイクの時代、そして篩い分けの時代なのだから・・・。主の言葉をよくよく思い巡らそう:
わたしの羊はわたしの声を聞き分けて、わたしに従ってくる。
追記:再建主義の富井さんも「良き地」について語っています。魂の愛を対処すること、神の言葉のみに頼ることなど、基本姿勢は同意なのですが、どこかで食い違います。大変なことですね、再建主義の道を行くことは。しかしこうしてできる「神の国」とは一体どのようなものなのでしょうか?小市民Dr.Lukeにはとても無理であります。
tomi 2008/12/26(金) 21:44
開拓者世代は小市民的幸せをあきらめよ
クリスチャンで、本当に用いられたいならば、小市民的な幸せをあきらめなければならない。
小市民的幸せとは、幸いで平和で、裕福で、健康な家庭を持つことだ。
・・・
神は、我々の内側につまっているすべてをくりぬいて、もぬけの殻のようにしようとしておられる。
我々は、外面的には人間の姿をしているが、中は空洞で、神の霊が完全に占領しているようなそんな存在にしようとしているのだ。
だから、あえて、一番気持ちが入っている人間と別離させられる。
幸いな結婚をして、幸いな家庭を築きたい、裕福になり、家を建てたいなどという夢は捨てさせられる。
あえて一人孤独な旅に送り出される。
・・・
真理は、この時代にあっても、私たちが魂を否んで捨てるならば、主は復活の領域ですべてを祝福された形で戻して下さるのです。それにサタンが手を触れることはできません。愛する家族も、物質的なものも、精神的な喜びも、そして肉体の健康も・・・。ですから大いに小市民であることをエンジョイしましょう!
ここに引用させてもらった再建主義の富井健氏もコロナであっけなく逝ってしまった。いずれ莫大な権力と富が自分たちの元にもたらされ、世界を再建主義者が支配すると妄想していたのだが。彼との対話ではいろいろと学ばせてもらった次第で、やや寂しさも覚えているのがホンネである。
追記:ニッポンキ業界のタコツボ性については2001年にすでに指摘している。この頃はまだエクソダスせよ!と過激なことは言っていないが(笑)

ルターやカルバンやウエスレーなど、いわゆるキリスト教の業界では信仰の基準であるかのように祀り上げられ、それに反する者はただちにイターンとレッテルを貼られるのが常である。すでに私は神学などはその創始者の精神病理から生み出されるものであり、単なる個人的証にとどめるべきだと言っている。
先に紹介した本書の著者たちがオモシロイ対談をしているので紹介しておく。
極私的にもルターについてはいろいろ書いている。ルターは宗教戦争で敵を40万人殺している。また徹底した反ユダヤ主義者(憎悪に近い)だったのだ。佐藤優氏によれば彼の論はヒットラーの思想の基礎となった。
そこで今回は過去ログからカルバンの異常さ(←ツヴァイクの読後感想文)について再録しておく。初出は2006年6月23日。
ツヴァイクの『権力と戦う良心』(みすず書房)。改革派神学者のカルヴァンがいかなる人物であったか、カステリオンとの論争と、カルヴァンによる批判者セルヴェートの虐殺を巡る彼の歴史を克明に記録している。
前に私は神学なるものはその提唱者の精神病理の反映に過ぎないと指摘し、カルヴァンは偏執的サディズム傾向を有すると指摘したが、どうもこの診たては当たっているようだ。ツヴァイクの言葉を引用すると
カルヴァンの花崗岩のような性格、鉄のような頑迷さにつきあたるのである。この偉大な狂信者にとっては、一生を通じて和解ほど無縁なものはなかった。彼は中道ということを知らなかった。彼が知っていたのはただひとつの真理、彼自身の真理だけだった。彼にとっては、すべてか、無か、完全な権力か完全な放棄か、であった。
自分自身に憑かれたカルヴァンは、誰かが自分の意見と違う意見を表明したりすると、そのつど、はげしい怒りにおそわれた。ひとに反駁されると、カルヴァンは一種の神経症の発作をひきおこし、肉体の内部ふかくで精神的な興奮が転移すると、胃がむかついてきて胆汁を吐き出すのだった。相手がその反論をどんなに客観的に、どんなに学問的に展開して見せてもむだだった。相手が大胆にも自分と違った考え方をしたいうただその事実だけで、カルヴァンは彼を自分の不倶戴天の敵であるばかりか、世界の敵、神の敵とした。
かくして自分と違う意見を表明し、自分を批判したセルヴェートに対して死刑を宣言し、とろ火の中に吊るすことにより、彼を生きたまま焼き殺した。
火焔が四方に燃え上がったとき、拷問の責め苦を受けるセルヴェートがぞっとするような叫び声を上げたので、あたりにいた人々は一瞬、戦慄して面をそむけた。まもなく煙と焔とが苦痛に身もだえしている肉体をつつんでしまったが、生身の肉体をゆっくりむさぼりつくしていく火焔の中からは、言語に絶する苦しみにさいなまれている人間の鋭い叫び声がたえまなく、そしてますます鋭く聞こえていた。そしてついに、救いを求める最後の激しい叫び声が耳をつんざいた。「イエス、永遠の神の子よ。われをあわれみたまえ!」この筆舌につくしがたい残酷きわまる断末魔の戦いは、半時間におよんだ。そのあと・・・
この後の現場の描写はあまりにも惨い。かくしてカルヴァンの独善的教義とその行いに対してカステリロンは良心に基づいて戒めを行う。しかしカルヴァンはその非を指摘されるほどに頑なになるのだった。かくしてジュネーブには粛清と恐怖の独裁政治がひかれ、異端者や神の冒涜者はたちまちに摘発されて拷問を受けた。そしてついにカルヴァン主義に反対して宗教的寛容を解いたカステリオンも司法の場に引き出され、異端者として裁かれたのだ。このときのカルテリオンの言葉は
わたしは自分がいとも貧しく、名もなく、卑しい人間であることをよく承知しています。しかし、神はまさにこのような卑しい人間の上にそのまなざしをそそいでおられるので、もし彼らの血が不当に流されるようなことがあれば、それをつぐなわずに放っておかれるようなことは絶対ないでしょう。したがって、わたしはカステリオンは、この裁判をよろこんで承認します。わたしに投げつけられた告訴のうちにどれかひとつでも事実であることが証明されたならば、その当然の償いのために、わたしはみずからすすんでこの首を差し出すでしょう。
だった。かくして異端者のレッテルを貼られた彼はヨーロッパの各地を放浪し、安住の地を見出そうとするも、カルヴァン側の情報が各地に届けられており、どこにおいても異端者としての処遇を受け、文字通り枕するところもなく、確実にその肉体も衰弱し、ついに死の時を迎える。時に1563年12月29日、享年48歳。彼に同情を寄せていた友人の言葉によると「神の助けによって、敵どもの爪のなかから奪い返された」瞬間だった。
この歴史を読むとき、最後に物事を判断するのは、いわゆるカルヴァン神学でもなければ、その延長上にある再建主義でもない。それは神がご自身の手によって私たちの心の中に書き込まれた良心なのだ。ローマ書に次のようにあるとおり:
彼ら(=律法を持たない者たち)はこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
しかしカルヴァン主義のあだ花とも言える再建主義では、人間の良心はまったく当てにならず、それは単なるヒューマニズムに堕しており、神の直接的統治を実現するためにモーセ律法による石打ち刑も、当時よりははるかに厳密なヴァージョンアップされた形で適用されるべきなのだ。神学や教義が良心よりも優先されるとき、カルヴァンのサディズムはその本質を一挙に発現したのだ。しかるに彼はその著『キリスト教綱要』においてこう書いている:
異端者を殺すことは犯罪である。処刑刀や火焔によって異端者を亡きものとすることは、人間性のあらゆる原理を否定することに他ならない
と。これを乖離性と言う。しかるにパウロはこう証している:
私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。・・・この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。
私は現ニッポンがキリスト教国ではないことを主イエスに感謝すると共に、今後ともキリスト教があくまでも1%のマイナーな宗教にとどまり続けることを祈るものである。
一言で言えば、偏執狂的サディストである。そしてモーガン氏は「現代のアメリカはカルバン主義ピューリタン帝国である」と指摘する。カルバンは上記のとおりセルベートを生きながらとろ火で焼いたサディスト。アメリカは同じことを繰り返している。すなわち”宣教”により自らに服従させ、悔い改めない未開人は火で”浄化”する。まことにそのとおりであることは歴史を見てみよ。ニッポンはまさに火で焼かれたのだ。
かくしてノア預言の成就として、ヤペテ(白人)はカナン(黒人)を奴隷としつつ、セムの天幕(ユダヤ・キリスト教)の下でその地を拡大するのだ。歴史的には白いキリスト教と帝国主義により未開人に”宣教”し、従えばよし、従わねば虐殺、さらに原爆も落とす野獣の国がアメリカである。もちろん表面的に善良な人々が多くいるが、それは表向き、裏が病んでいるのがアメリカである。
かくして私の結論は、セコンド・エクソダスあるのみだ。

最近、脂がのってる茂木誠先生と日本人以上に日本人的なジェイソン・モーガン氏による対話形式の著書。要点を実に端的にまとめてくれている。
そこで購読の途中報告としてメモっておこう(FBより転載)。
ジェイソン・モーガン氏いわくー
絶対的な正義を通そうとすればするほど、おかしなことになることがあるので、それも危ない。しかもアテネの帝国化が進む中、正義が政治家に利用されて西洋社会で、正義と帝国主義が必ずセットとして生まれてくるという西洋思想の誕生がよく見える。GHQの日本洗脳工作のもととなったWGIP(War Guilty Information Program)の思想的ルーツは、紀元前431年から始まったアテネとスパルタが戦ったペネポネソス戦争にまで根を下ろしています。
まことに同意だ。YHWHの言葉に対する不従順(罪)ゆえに善と悪を知るようになった人類の宿痾とも言える正義の追求。それは時に狂気を生む。今回のトランプ暗殺を試みた男の主張もまさに正義による狂気である。
その西洋の深層動機については「完全性と宣教主義が西洋のDNAを支えている」とも言う。まことにそのとおりだ。聖書(このターミノロジーも違和感を覚えるが)はもともとアングロサクソン人種やアーリア人種、つまり白人とは関係ない。それはセム族に由来する。むしろ白人がそれを専横していると言える。この点、ノアを通してこう預言されている:
カナン(黒人種の祖)は呪われよ、奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。セム(ユダヤ人など有色人種の祖)のエロヒム、YHWHをたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。エロヒムがヤフェト(白人種の祖)の土地を広げ(ヤフェト)、セムの天幕(ユダヤ・キリスト教)に住まわせ、カナンはその奴隷となれ。-Gen 9:25-27
かくして白人は専横した「聖書」の価値観を自己正当化の根拠として(完全性)、自分らは「神の正義」の旗印の下、無知で野蛮な未開諸民族を文明化するために世界の海を巡り(宣教主義)、帝国主義による武力支配(植民地化)を行ったのが中世以降の世界史である。実はその本質は搾取であったのだ。
日本は唯一、この白人の正義に基づく完全性と宣教主義に抗し、アジア諸国を植民地状態から解放したのだった。戦艦大和やゼロ戦を作ってしまう未開民族であるべき日本人は彼らにとって受け入れがたい、認めたくない脅威と意識された。日本人を恐れること自体が彼らのプライドを傷つけるのだ。この深層心理にある恐れが、反動形式として民間人空襲爆撃や、ついには原爆投下にまで至らしめたのだ。彼らの根底には日本人絶滅への抑えがたい衝動が隠されている[1]林千勝氏によると、原爆は「日本」に落とすのではなく、「日本人」に落とすべきとされ、十数発が予定されていた。
天皇による配慮によって物理的な絶滅は免れたが、GHQによる徹底的な日本精神と日本文化の抹消作業がWGIPを通してなされた。これは霊的また精神的な去勢であり、代わりに罪責感を植え付けられた日本人は二度と自立することをできなくされた。そもそもこの罪責感は白人が深層心理に有しているものであり、それを直視し回心することを回避するために、日本人に投影して押し付けたものである。ヘレン・ミアーズ女史が指摘する通り、日本はアメリカの鏡なのだ。
このような文脈の中で生み出されたのが、ニッポンキリスト教である。西洋の闇と病みに基づく宣教主義により、そもそも専横され、西洋化された「聖書」に基づく奇形である白いキリスト教の劣化コピーであり、ゆえにそもそもが闇を包含し、病んでいる。戦後の日本基督教団の振る舞いなどはその闇と病みの典型的症状である。
かつて鹿嶋春平太(肥田日出生)氏が「ニッポンキリスト教は当初から闇の中だ」と喝破した通りだ。そして日本民族総福音化などの宣教号令の下で、実は牧師たちの「バベル憲章」の実現のため「リバイバル音頭」を虚しく踊らされて飼い殺しにされているのがクルシチャンである。
ニッポン社会とニッポンキリスト教は合わせ鏡であると20年以上指摘してきたが、両者の病理を理解するためには、まず西洋の病理を知る必要がある・・・。

この記事をまずお読みください。
ナイーブな皆様、教科書で習う銀行業務は、市中から現ナマ(預金)を集め、それを必要な人や企業に貸し出すとするものだ。真っ赤なウソでございます。現に日銀の発行済み紙幣は120兆、皆さんの豊かな金融資産は2,000兆。はて?
いいですか、銀行は他人のカネを貸し出すなんておかしいでしょう? あなたがマンションを買うために5千万ローンを組んだとします(ぼくは5,510万)。この五千万は他の人の預けたお金ではありませんっ! 銀行はあなたの口座に5千万とキーボードで打つだけ。
銀行の仕分けは(万は略)[1]複式簿記はお分かりですよね? BSは<資産/負債+自己資本>、PLは<経費/収入>です。
<貸付金5,000/預金5,000>←この「預金」は単なる数字
あなたのは
<預金5,000/借入金5,000>←この「借入金」があなたを縛る
そしてこの預金5,000万があなたの口座から建築会社の預金に振り替えられて(キーボード操作だけ)
あなたのは
<資産5,000/借入金5,000>
企業側
<預金5,000/売上5,000>
と計上され、この企業預金から従業員の口座に給料(会社は経費として)として振り替えられ(これもキーボード操作)、従業員はこれを引き出して(ここで初めて万札が登場する)もろもろの消費をするわけ。最近はカードだから、原理的には万札も不要。
つーまーりー、この五千万は何もないところから生まれたわけ!(←これがわかるかどうかでニッポンの未来が決める)
ところが借りたあなたはこの五千万を利子込みで、実際に汗水流して稼いで返済するわけですが、もともと五千万しか発行されていないのだから、利子分はどこから得るかと言えば、誰かの分を取ってくるわけ。つまりローンを組んだ全員が完済することはあり得ないのDEATH!
そしてこの市民が全員で自分の預金を引き出そうとすれば(現ナマに換えようとすれば)、もともと現ナマはその何%しか発行されていないのだから、たちまち・・・・。これが取り付け騒ぎ。
昭和の時は、表だけ印刷された札束の山を見せて落ち着かせたとのことだが・・・。要するにマネーは幻想、貸借関係の証明に過ぎない。これで首を吊る人も出るわけで、悲喜こもごも、かくして世はまことに浮世狂言でございます。

JAL123便墜落事件[1]「事件」とするのは当初の外務省の報告文書や群馬県警の報告書に従っている。についてはずっと問題意識を有しており、何度か紹介している。特に青山透子氏の一連の著作は重要である。
以下、FBより転載。
前書きを読みましたが、この事件はいまだに進行形だと分かる。森永さんの本でもそのダブーが書かれていたが、国とJALは真実を隠している。30年経過すれば開示されるべき情報すら秘密のまま。しかもアメリカに頼んで当地にある情報も秘してもらってる。
JALの体質は山﨑豊子の『沈まぬ太陽』で暴露された。青山さんは元JALのCA、事件に疑問を覚え、東大の大学院にあえて入り、博士号を取得。その彼女がJALのその体質を指摘している。
最高裁は今年3月に被害者家族の訴えを棄却し、真実は闇に葬られた。今年1月の羽田の事故についても疑問を呈している。
本書では裁判記録、証拠や判決文も全て公開されている。かなり読み応えがありそうだ。
確かに事故報告書付録にこの図があることを確認した。「異常外力」が働いたということだが、それは何ってお話。国とJALがボイスレコーダーとフライトデータをすべて公開すればすぐに分かることなのだが、分かっては困る?


われわれは圧力隔壁破裂による急激な空気の流れで尾翼が破壊された刷り込まれていた。極私的には、そんな圧力で空気が吹き出れば、断熱膨張で客室は温度が一挙に下がり(※)、空中の水分が液体化して真っ白になり、鼓膜が破裂したり、鼻血が吹き出たりと、阿鼻叫喚になると考えられるが、乗客の撮った写真ではきわめて平然としていている。これが「?」だったのだ。
(※)輪ゴムを唇に当てて、一挙に引き延ばしてみてください。冷たくなるのが分かるでしょう。逆に縮めれば熱くなります。これが断熱膨張と収縮。
報告書☞https://www.mlit.go.jp/…/download/62-2-JA8119-huroku.pdf
本書、資料にある裁判記録は後ほどにして、一挙に読了。
事故調査委員会の報告書の付録にあった「外力着力点に11トンの衝撃が加わった」という分析結果。これは青山氏も後に気づいたことだ。内部高圧空気が噴出した結果ならば、外力ではない!
正直、一番驚いたのは、最後の方でよくやく顎骨のみが見つかったと報道されていた高濱機長は、なんと全身がつながった状態(頭部陥没、全肋骨骨折などはあるも)で発見され、しかも医師による検死場に14日夜に全裸(制服、下着などをすべて剥がれた)状態で、特別の入出口から搬入され、また搬出されていた。背中に背丈以上の金属棒を置かれた(刺された?)状態だった。警察は「機長だから解剖するため(飲酒や薬物などのチェックのため)、清しき以外は一切手をつけるな」と、今回の証言者である看護婦に指示していた。なお、F/OとFEは制服着衣のまま(焼かれた状態ではあるも)で発見されている。
では、誰が制服を剥いだのか? 時系列的に推論すると現場で収容された際、自衛隊によるとしか考えられないと。加えて、その全裸遺体には、酸素マスクが着用されていたのだ。え、当たり前じゃん、操縦席には装備されている、と考えた方(僕がそうだが)はここでさらに驚くことになる。なんとそのマスクは客室のあの上から垂れてくるやつだった。はあ、なぜ? つまりマスコミなど一般人には機長であると分からなくするためだ、としか・・・。え? なんでそんなことを?・・・
これは何を意味するのか。この3月に最高裁が棄却したボイスレコーダー開示請求(JALが拒否しているということ)訴訟の結果、永遠に闇に葬られた操縦席乗員と管制の会話。要するにJALはそれを公開したくないのだ。そもそもおかしいのは事故調査委員会がそれをJALに返却している点。もし委員会が保管していれば、公文書公開法に基づいて公開が可能なのだが、私企業の所有物である以上、その企業の意志に反しては公開されないという裁判所の判断だ。
何を隠しているのか。YouTubeでも聴くことができる公開済み音声記録(これもどこからか漏れて来たテープらしい)は、一部に過ぎないのだ。そして当時、JALのパイロットは予備自衛隊員として自衛隊の演習に協力していた者がいたとのこと(何を意味するかはご自分で考えてください)。
今年正月に起きたJAL機と海保機の衝突事故。乗客が全員避難できたことをJALの功績たる美談とするマスコミの論調に対して、元JALのCAである青山氏は鋭く批判する。今回は18分の余裕があったゆえ、彼女の勤務していた当時でも、500人を非難させるために90秒で行う訓練をしていたのだから、当たり前であるとする。そしてここでもJAL内部の諸問題が累々と指摘されている。あの山崎豊子の『沈まぬ太陽』はリアル版だ。
この事故の原因はいろいろ言われているが(今まで正式な報告の報道がないが)、彼女は管制との致命的会話を指摘している:
・17時43分02秒:(管制)「JAL516,東京タワーこんばんわ。滑走路34Rに進入を継続してください。風320度7ノット、出発機があります」
・同時分12秒:(JAL機)「JAL516 滑走路34Rに進入を継続します」
ここで青山氏はJAL機が「出発機」の存在を認識したことを告げる必要があったとする。出発機が離陸した後に、着陸する手順は当然だからだと。この事故では海保機が誤って待機路ではなく、滑走路に出たことが原因とするマスコミの論調が多いが、管制はそのことをJAL機に告げていた。JAL123便の事件以前にも前兆があったとされるが、この事故の前にもこういったミスの前兆がいくつもあったのだ。JALはこのボイスレコーダーも公開することを頑なに拒否している。
他にもJAL機の間違った待機路などへの誤進入など、続発する事故や不手際がリストされているが、正直、飛行機に乗るのが怖くなってきた。華々しく女性社長が誕生して早々、気の毒にも5月に国土交通省から厳重注意を受けて、90度のお辞儀で対応した彼女、実は女性社長を立てたのは、JAL内部の諸問題を世間の目から誤魔化すためではあろう、と青山氏は見るのだ。つまり体の良いスケープゴート。
・・・というわけで、ぜひご自分でお読みいただきたいが、外部者ではなく、元JALのCAがわざわざ研究者としての資質を磨くために東大大学院で博士号を取得してまで調べている一連の著作は実に重厚である。類似の本はいろいろ出ているが、それこそ陰謀論の域を出ていないものが多い。ともあれ言えることは、どの業界であっても組織が巨大になるとこういった組織内腐食が発生するという典型事例だ。
この証言も紹介しておく
追記:参考までに、50年以上も前にエールフランス航空の飛行機が内部火災で墜落した事件があったのだが、実はこれ、軍が演習用のミサイルを当ててしまったことが後に関係者の証言により発覚。19年にマクロンが正式に謝罪している。

この記事は実に面白い。DeepL訳を上げておこう-
カップルが “分散認知 “を発達させることを示す新たな研究結果
認知過程が個人や物質的資源にまたがって広がる可能性があるとする分散認知の概念は、最近の議論で支持を集めている。
この考え方は、記憶プロセスが共同作業によって影響を受ける可能性のある個人のグループにも及ぶ。この分散型認知が親密なカップルの間でどのように作用するかを探る実証的研究が増えており、記憶の共有と脳処理に関する新たな洞察が明らかになっている。 研究者らは、4つの研究を通して、カップルが記憶タスクでどのように協力し、過去の共有経験についてどのように話し合っているかを調べた。また、対人的・物質的リソースを調整することで、夫婦が日常的な記憶の課題にどのように対処しているかも調べた。
これらの研究は、タスクの性質やグループの力学などの要因によって、コストとベネフィットの両方を提供することができる共有記憶の複雑さを強調した。記憶課題における共同作業は、想起を向上させる場合もあるが、エラーや非効率をもたらす場合もある。
マインドの働きは個人に限局されるものではなく、ある種の「場」を形成するのだ。これは私が何度も指摘していること。セレブでも参加者のマインドが主のマインドとリゾナンス(共鳴)し、さらに霊が溶け合う状態に至るとその場は天のバイブレーションで満たされる。これがパウロの言う、ひとつの思いになる状態である(Rom 12:16;2Cor 13:11;Phil 2:2)。
かくしてエクレシアは物理的には個人の集合体ではあるが(1Cor 1:2)、霊的にはキリストの充満(Eph 1:23)として、キリストの霊により満たされて、聖霊のメモリ、すなわちキリストの体性記憶によって生きる者とされる。
その方(聖霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。-John 16:14
そしてこの聖句が成就する-
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子
に対するの信によるものです。-Gal 2:20
かくして私たちの古い肉体をとおして、キリストが表現される。もちろんキリストは100%人であり、100%神である。すなわち私たちの肉体を通して神が表現されるのだ。これがエウセベイアの奥義である。
かくしてサイエンスはバイブルの後追いをしており、その啓示するところを実証しているのだ。

- 引用聖句:1John 5:14-15;15:7;16:14;Isa 55:11;Col 3:16;Mark 10:24;1John 2:28;Matt 7:11 etc.
- 次回:2024年9月15日
- 場所:鶴見駅前ホール第一会議室
- 時間:13:30-17:00
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

すでに本件は何度か報告しているが、9月4日控訴審が行われた。その模様と論点をクリスチャン新聞が報道している。で、小生の感想をば。
クリスチャントゥデイ(CT)対根田控訴審の模様。CT側は一審の事実認定を不服として控訴。特に、「ダビデ張は再臨のキリスト」とする自身の信仰を秘して峯野大明神を騙して淀橋教会に潜入したとする事実を否定したいらしい。峯野大明神もCT側に立って陳述書を提出したようだ。そりゃそうでしょうね、ここまで来たら運命共同体。
対する根田側はニッポンキ業界(特に福音派)のお歴々による峯野大明神を懸念する陳述書を提出と。これでは新たに峯野大明神を告発することになるわけで、論点が広がってきた感がある。峯野大明神も黙ってはおれんところでしょう。ちなみに彼は救世軍の山谷さんを刑事告訴すると脅した実績があることを付言しておく。
もちっと言うと、根田氏はJEAの理事長選で峯野大明神を落とすと言われ、事実落ちたことがあるわけ(何があったかは不知)。実質、根田VS峯野の因縁の対決です。
本件、ここまで大きくなるとは2006年当時、予想してませんでした。山谷さんにCTが訴訟の脅しをかけてきたので、ぼくが日本脱カルト協会に通報し、問題が公知となって、CTがマジで山谷さんを訴えたわけです。あの紀藤弁護士が代理人となりましたが、山谷さんは敗訴。CTはそれだけではなく、彼の賠償金を救世軍の社会鍋に返すといういやらしいやり方で山谷さんのプライドを粉砕し、さらに謝罪文までも書かせて、今もネットで晒しています。