Dr.Lukeは思えばいつからセコンド・エクソダスを提唱していたのだろうか?

と、ちょっと過去ログを見てみましたところ、明確な表現をしているのは2008年12月27日にありました。現在はいわゆるキリスト教はネブカドネザルの夢にあった大樹、啓示録18章の汚れた鳥や獣が集まる大バビロンであるとまでは言っておりませんし、エレミヤ16章と関連付けてもおりませんが・・・・。

当時の記事を採録しておきましょう-


現代の出エジプト(エクソダス)

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者(原:魂)となった。-Gen 2:7

人の構成を一言で言い表している節であり、要するに、人は、(Body)が土から作られ、神の(Spirit)が吹き込まれ、その相互作用によって(Soul)となった[1]魂は作られたのではない。肉体と吹き込まれた霊の間の相互作用によって生じたのだ。。人はこの3つのディメンジョンに生きる者とされた。現代の医学では”Psycho-Somatic Medicine”とあるように、身体(Soma)と精神(Psyche)の相互関係として人を理解する段階までは来ている。が、霊(Spirit)までは来ていない。WHOの健康の定義の草案に「霊的健康」が入る直前までは来てはいるのだが。(参考:人間の聖書的啓示と現代精神科学

霊の再生を得ていない人たちではもちろん神と触れることはできないし、神を認めない。当然である。目が機能していない人には光は無意味であるし、それが何かを認めることもできない。これは神学の問題でもなく、哲学のそれでもなく、単にセンサーの機能の問題である。よって彼らは自分の体と魂だけで人生をサバイバルしている。この状態、あるいはあり方をパウロは肉(flesh)と呼ぶ。つまり神から切り離され、物理的次元と精神的次元で生きる人のこと。ある人は肉体に頼り、ある人は魂の能力-知性・感情・意志-に頼る。そのスペクトルがその人の人格となる。

そしてある時に自分の肉的生が行き詰まる。この時に運命が分かれる。ある人は飯島愛のようにクスリに逃げ、自殺にも追い込まれる。ある人はどなたか分からないままに”神”に救いを求める。私は19歳の浪人時代に書いた日記に「神よ、正しく導きたまえ」と書いてあるのをクリスチャンになって後、発見して驚いた。この神は誰か、当時の私は知らなかったのだが。

そして「聖(Holiness)」とは、客観的には神への分離。これはすでになされている事実。主観的には「健やかさ」であり、英語では”Wholeness”。つまり「全体性」あるいは「統合性」。前に紹介した道元の研究者で東大の生理学教授だった橋田無適の「全機」である。体・魂・霊の間に齟齬がなく、ひとつの統一体としていのちの法則に乗って伸び伸びと機能する状態である。これが道元の心身脱落である。対して苦悩とは、体と魂の間、魂の知・情・意の間に齟齬が生まれ、葛藤が生まれる状態である。特に分裂病(統合失調症)は知・情・意の間の統一が壊れてしまう。

一言で言って、クリスチャンが目指すべき神の御心に沿った生き方とは、難行苦行でもなく、日本民族総福音化のための決起でもなく、人間として当たり前の日常生活にあって、安らかで健やかな、法に任せた生き方である。この時、内面的にはいのちの広がりの空間を感じ、体も軽く、魂には大いなる満足がある。何かを自分で達成した満足ではなく(これはこれで必要であるが)、ただ生きることにあって満足と喜びを味わえる。この時、見るもの、聞くもの、五感にふれるものがみな喜びとなる。四季折々の光景、鳥のさえずり、光のまたたき、波の音、木々の葉の音、あらゆるものに神性を見ることができ、感動を覚える。

ややこしい神学などはまったく不要。それは無限の神を有限な人の知性に閉じ込める不毛な作業に過ぎない。神はすべての被造物においてきわめて優雅に語って下さるのだ。神はなんと雄弁な方であろう。主イエスは果たしてこう言われたろうか-「カルヴァンの『聖書綱要』を読め、バルトやブルトマンに聞け」と。アブソリュートリー・ノー!主は言われた、「野の花を見よ、栄華をきわめてソロモンもそれほどに着飾ってはいなかった。空の鳥を見てみよ、蒔くことも刈ることもしないが、天の父が養っていて下さる」と。

牧師や教団、またカルヴァンや、バルトだのブルトマンだの、彼らの世界に閉じ込められめさるな。さらにはキリスト教自体に閉じ込められるな。いわんやニッポンキリスト教にをや。イエスはキリスト教の教祖でもなく、キリスト教の創始者でもない。キリスト教神学を組織したのでもない。キリスト教こそは、キリストの名を利用した詐欺宗教である!かのニーチェもそのカラクリが見えなかった。

改めて言うが、ソドム・エジプト化したキリスト教から、乳と密の流れる良き地、いのちそのものであるキリストご自身へとエクソダスせよ。否、し得た者は幸いである。でも、無理にとは申しません。古にあって、良き地に入り得た者は誰と誰であったか、そして彼らと荒野で屍と化した大群衆を分けるファクターは何であったか。それは信仰だったとヘブル書にあるではないか。

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。

欺かれてならない、今は偽り声が満ちる時、フェイクの時代、そして篩い分けの時代なのだから・・・。主の言葉をよくよく思い巡らそう:

わたしの羊はわたしの声を聞き分けて、わたしに従ってくる。

追記:再建主義の富井さんも「良き地」について語っています。魂の愛を対処すること、神の言葉のみに頼ることなど、基本姿勢は同意なのですが、どこかで食い違います。大変なことですね、再建主義の道を行くことは。しかしこうしてできる「神の国」とは一体どのようなものなのでしょうか?小市民Dr.Lukeにはとても無理であります。

tomi 2008/12/26(金) 21:44
開拓者世代は小市民的幸せをあきらめよ
クリスチャンで、本当に用いられたいならば、小市民的な幸せをあきらめなければならない。
小市民的幸せとは、幸いで平和で、裕福で、健康な家庭を持つことだ。
・・・
神は、我々の内側につまっているすべてをくりぬいて、もぬけの殻のようにしようとしておられる。
我々は、外面的には人間の姿をしているが、中は空洞で、神の霊が完全に占領しているようなそんな存在にしようとしているのだ。
だから、あえて、一番気持ちが入っている人間と別離させられる。
幸いな結婚をして、幸いな家庭を築きたい、裕福になり、家を建てたいなどという夢は捨てさせられる。
あえて一人孤独な旅に送り出される。
・・・

真理は、この時代にあっても、私たちが魂を否んで捨てるならば、主は復活の領域ですべてを祝福された形で戻して下さるのです。それにサタンが手を触れることはできません。愛する家族も、物質的なものも、精神的な喜びも、そして肉体の健康も・・・。ですから大いに小市民であることをエンジョイしましょう!


ここに引用させてもらった再建主義の富井健氏もコロナであっけなく逝ってしまった。いずれ莫大な権力と富が自分たちの元にもたらされ、世界を再建主義者が支配すると妄想していたのだが。彼との対話ではいろいろと学ばせてもらった次第で、やや寂しさも覚えているのがホンネである。

追記:ニッポンキ業界のタコツボ性については2001年にすでに指摘している。この頃はまだエクソダスせよ!と過激なことは言っていないが(笑)

51vote
Article Rating

References

References
1 魂は作られたのではない。肉体と吹き込まれた霊の間の相互作用によって生じたのだ。

是非フォローしてください

最新の情報をお伝えします

Subscribe
Notify of
guest

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

0 Comments
Oldest
NewestMost Voted
Inline Feedbacks
View all comments
Translate »
0
Would love your thoughts, please comment.x
()
x