注目すべきヨブ記と通底する神道神職の指摘-ヘブル11:1のフェイスに定冠詞はないがその意味は?

こちらの神職さんの発言、実に興味深い。まずは一読されたい。

9割の日本人は勘違いしているけど「心配する」ことは、相手を呪うことと同じなんだよね

・子供の将来が心配

・夫の健康が心配 ・愛する人が無事でいられるか心配 もちろん心配って相手が好きで大事だから、生まれてしまう感情なんだけど… それは、

・子供が将来社会から落ちこぼれること

・夫が病気になってしまうこと

・愛する人が事件や事故にあうこと

これを想定してイメージしていることと同じなの 心配性の人は是非とも理解して欲しいことがあるのね

それは「人の意識が現実を創る」ってこと あなたが心配すればするほど、その現実を創造することになるんだよ だから… 心配するんじゃなくて「信じましょう!」

・この子の将来は安泰

・夫はずーっと人生を楽しめる

・愛する人は今日もちゃんと守られている

あなたがそう信じれば、ソウなりますよ

神はそれほどの力を人間に与えたのです

そしてその力を幸福な未来のために使いましょうよ

おおらかに幸福な未来を信じる!

これが神道的な生き方の基本です!

なんと面白いではないか。霊的法則を見事に喝破している。ヨブ記についてはすでに何度か書いているが、その悲劇のメカニズムはまさにこの方の指摘通りなのだ。

ヨブは正しい人であったが、サタンの訴えに対して神が許しを出したので、あのような悲劇を経験した。なぜ神は~・・・として、人間の不条理な実存的状況と神の意志との関係がうんちゃらかんちゃらって眉間に皺寄せる神学者たちのハマルティア論が誕生する。

しかしフェイスの法則から見れば実に単純なメカニズムである。彼はすでに息子たちのことを案じていた。また自分に不運がもたらされることを予期し、恐れていたのだ。ニューエイジ的に言えば、引き寄せの法則である。

事実、彼は-

こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。』と思ったからである。-Job 1:5

これは彼の敬虔な信仰の表明行為であったとするむきもあるが、それはハマルティア。書いてある通りに理解すべきであろう。そして彼には次々に災いがもたらされたが、これは神が意図されたことではない。ヨブのフェイスに穴がすでに開いており、そこにサタンがつけ込んのだ。むしろ神はヨブを守ろうとしている(Job 1:12)。

そしてヨブは 「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」Job 3:25)と告白する。まさにこれがヨブ記の本質なのだ。

FEAR”(恐れ)とは”False Expectation Appearing Real”である。ネガティブ・フェイスとも言える。現にガンになる人はしばしば、やっぱりだと呟くことが多いと聞く。例えばこの方。

「あなたはがんです」と言われた瞬間、いちばん最初に思ったのは、正直に言うと「やっと私の番がきたな」でした。 私は小さいときから梅宮家のみんなががんにかかるのを見て育ち、いつか遺伝で自分もがんになると思っていました。父、梅宮辰夫は36歳で肺がんになり、4年前に81歳で逝去するまでがんと一緒に生きました。父の2人の妹もそれぞれ大腸がん、乳がんにり患しました。 だから、がんを告知されたときもあまり驚きませんでした。

想念は言葉として放出される際、霊が乗るのだ。これが日本語で言われる言霊である。ポジティブ・フェイスは聴いた御言葉にフェイスの霊を混ぜて(Heb 4:2)語り出すとき(2Cor 4:13)、それは御言葉のサブスタンスを実体化する。ヘブル語の言葉は”Dabar”であり、その意味は単にラベルとしての意味だけでなく、実体・実質の意味を持つ。

ヘブル11章1節のフェイスには定冠詞はない。つまりいわゆる聖書的フェイスに限るものではない。それはスピリチュアル・パワーとしての霊的能力を定義する。

「いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質・実体)、まだ観測されていない事実のエビデンス(現出)である。」-Heb 11:1(私訳)

これをいわゆる超能力者やニューエイジャーも用いているのだ。ただし、彼らがスピリチュアル・スフィアにコンタクトするチャネル(ポータル・門)はイエシュアではない。別のチャネルを用いている。つまり彼らのフェイスはリアルである。世のサイエンス的には「パラサイコロジー」と呼ばれる現象が生じる。これを頭から否定しかかるキリスト教徒は逆に見透かされているのだ。

かくして、人類は物理領域だけに生きる者たち(Sarxikos)、精神的領域に生きる者たち(Psuchikos)、そして霊的領域に生きる者たち(Pneumatikos)と分けられる。それぞれ、第一コリント書3章1節、2章14節。そして2章15節に啓示されているとおりである。神道者も十分に霊の領域の法則を知っており、それを用いているのだ。むしろキリスト教徒は空理空論の神学で霊の経験はほぼ欠如している。今のニッポンキリスト教界の惨状を見れば明らかであろう。

かつてニューエイジ的映画『スターウォーズ』に「フォース・アウェイクン」という作品があった。そして「フォースを使え!」と。彼らから霊的経験をゲットバックせよ。われわれは「フェイス・アウェイクン、フェイスを使え!」と。

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