白居易の隠几から道元へ-自己からの解放-


自ら高官であったにもかかわらず、当時の官僚たちの不正を鋭く批判した白居易。そのため左遷の憂き目もみているが、閑職に追われ、僻地でまったりと暮らすことに真の自分を見出し、その作品数およそ三千八百首。その中のひとつ、彼は身心の適を求めたのだが、この詩の境地に達し得た。
さわりだけを-
几(つくえ)に隠(よ)る
身適ならば四肢を忘れ/身体が健やかならば四肢を意識せず
心適ならば是非を忘る/心が健やかならば物の是非を忘れる
既に適にして又た適を忘れ/既に健やかにしてその健やかさも意識せず
吾は是れ誰なるかを知らず/自意識すらも離れてしまうのだ
ほとんど道元の身心脱落と同じ境地だ(道元についてはこちらを参照)-
仏道をならふといふは,自己をならふなり。 自己をならふといふは,自己をわするるなり。自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。-『正法眼蔵現成公案』
自己を離れて法に乗ること、これが仏道だと[1]ニュークリーチャーの場合はもちろん「いのちの御霊の法則」である。。ここで、「仏」とは宇宙の真理である[2]仏教は元々礼拝対象を持たない。また創造主なども想定しない、徹底した現実認識論である。。
さらに白居易はこうも言っている-
先務身安閑/先ずは身の安閑なるに務め
次要心歡適/次に心の歓適なるを求む
禅的には調息、調身、調心、いわゆる恒産ありて恒心ありだ。
そして興味深いのは-
三適合為一/三適(霊・魂・体)の合して一と為る
怡怡復熙熙/怡怡(ヨロコバ)しく復た熙熙(ナゴヤカ)なり
聖書的には聖(Holiness)とは霊・魂・体の統合された健やかさ(Wholeness)だ。パウロは「正しい教え」を求めよ、とは言ってない、「健やかな教え」を求めよ、というのだ。それはまことの善と悪の価値判断や自意識を離れた生命の歓びであり、また和やかさである。
もう少し解き明かすならば、自然界において、鳥は大気も自分の羽をも意識していない。ただ彼らのいのちの法則に乗って、大空を飛んでいるだけ。飛べることを誇りにも思わないし、自分が優れているとか、あるいは聖なる存在であるとかも思わない。魚も水を意識しないし、自分の能力がなんたるかの意識もない。ただいのちの法則に乗って自由に大海を泳ぐ。
人は健康なときには胃の存在を意識しない。自分の意識と関わりなく胃は黙々と食物を消化してくれる。沈黙の臓器と呼ばれる肝臓や膵臓はその存在が意識された時にはすでに手遅れのことが多い。ふだんはまず意識されない。健やかさとは無意識の状態なのだ。ウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』に、自分の手足を意識するとムカデはどうなるか、との問題提起がある。あの足をすべて意識で操作したらさぞや・・・。
クルシチャンも同じなのだ。自分の意識や計らいや行動によって聖化されようとか、成長しようとかしてもがく。あれをしたら、これをしたらと・・・。彼らの状態は手足の意識に目覚めたムカデと同じ運命を辿る。ニッポンキリスト教の病理サンプルを観れば、これ以上はもはやあえて言うまでもないだろう。
繰り返すが、聖(Holiness)とは健やかさ(Wholeness)である。健やかさとは、霊・魂・体が有機的に統合され、いのちの法則のままに活動する状態、それは無意識の状態なのだ[3]この場合の無意識はフロイト的意味ではなく、作為がない、わざとらしくない、意志の力が入っていないという意味である。。この点についてはわがバイブル・カレッジの『御霊によるいのちの成長コース』で講義した。
前にも紹介したが、その状態を、東大医学部生理学橋田邦彦(無適)教授は「全機」と称した。彼はかの戦争において文部大臣を務め、戦後、A級戦犯の訴追を受け、名誉を守るため服毒自殺した。彼は、また道元の『正法眼蔵』の研究でも有名だった。上の道元の言葉は、私の本『真理はあなたを自由にする』でも、このブログでも何度も紹介している。
わが幼かりし頃、フランケンシュタインを知って実に不思議に思った。生命って何なのだろう? フランケンシュタインのように、骨格や臓器や筋肉や皮膚を解剖学的に構成したら、その物体はいのちをもって生きるようになるだろうか? その物体と自分とは何がどう違うのだろうか?
今、聖書的に言えば、霊が流れるか否かだ。この霊が肉体と魂を行き巡り、体・魂・霊が有機的に統合されて機能する。これが全機の状態だ。またこれがキリストを頭とする御体であるエクレシアの実際でもある。ここに人間の小賢しい意識作用が入るとすべては狂い出し、ついには破たんする。
神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:26-29
アダムにある者は被造物としてのアダムの古いいのちの法則により、キリストにある者は非受造のキリストの復活のいのちの法則により生きる。いずれにしろ、全機の状態が展開する時には無意識。万法に証せらるる時には自己をわすれるのだ。これが心身脱落。なんと安楽な境地であろうか! この時には生死の意識をも超えている。過去を顧みず、将来を想い謀らず、ただ今この時に生きる。まさに「今でしょ!」だ。これを道元は「瞬間撃滅、前後ありと言えども、前後裁断せり」と言う。まさに永遠の今に生きることだ。後悔や心配に押しつぶされそうな人々は今に安住できないからだ。
創造主の御名は「YHWH(ヤハウェ)=I-AM=在る」。永遠の在なる方、BEINGだ。ゆえに私の本で書いたように、フェイス(信)とは「在るの実体化」である(2Cor 13:5;Gal 2:20)。必要が満たされるとか、病が癒されるとかはすべて付録。在なる方が私の内に、まさに、今ここに生きてくださることの体験。これが道元も、旧約の聖徒たちすらも知り得なかった新約の私たちの特権である。
これを知った者はますます自分の業をやめて安息に入る(Heb 4:3)。すなわち、キリストにあるアイドリング人生を送ることができる。なんという安楽にして快適な人生であろうか! おそらくこのような人が肉体を離れるときも、霊においては今と同じであろう。主の臨在を楽しんでいることにおいては。ただこの肉体の妨げがなくなるのだから、その歓喜はいかばかりのものであろうか! パウロも言うとおり(2Cor 5:4)、この意味で肉体の死は楽しみなのだ
■参考:
■追記:
「キリストにあるアイドリング」とは社会的義務を放棄して、怠けることではないので、一応、一言。働かざる者は食うべからず。このギョウカイ、勝手にトンデモな読み違いをして自滅する人々がいるのだ。ニーのように労働改造所において肉体は過酷な労働に苦しめられても、彼の魂はアイドリングしていたのだ。口が少し動いただけで、祈ったとして懲罰を受ける環境で、彼の霊は主の臨在に憩い、その魂はアイドリングしてその救いを享受していた。サタンは彼の肉体をボロボロになし得たが、彼の霊は解放され、その魂は主の臨在の中に守られていた。
世の中は「駕籠に乗る人・担ぐ人・そのまた草鞋を作る人」からなる。それぞれ肉体の在り方は異なるのが当然。文字通り怠惰をこよなく愛する私のように、仕事も遊びも区別なく、最小限のこの世との関わりで、まあ、主観的にはつねに遊んでいる人もいれば、重い肉体労働に従事する人もいる。いかなる形にせよ、この世との接触は避けられない。この物理的肉体を着ている以上、その接触によって世から肉体の糧を得るわけだが、どんな状況であれ、霊と魂は主の臨在を楽しむことができるのだ。

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