
この作品、きわめてシビアなテーマだ。「人は見たくないものを見ず、聞きたくないことを聞かない」とセリフにあったが、まさに自分の生活意識の外に置いておきたいテーマである。
認知症老人介護に疲れ果てる家族を「救う」ために42人を殺した介護士斯波。女性検事大友の追求に対して「ぼくは彼らを救ったのだ」と。彼自身も壊れていく父親の介護でギリギリに追い詰められ、父親の「自分が何者か分からなくなるのは恐怖だ、人でいられるうちに逝きたい」という嘆願でニコチンを打つ。それは父親を「救う」ためであった。
その後、介護士になり、次々に・・・。彼は聖書の黄金律「自分のして欲しいと思うことを人にもせよ」を実践したのだ(これが誤訳であることはすでに指摘してるが)。
また彼を糾弾する検事大友もクリスチャンの母親が認知症でホームにいるという同じような境遇にあった。しかし介護士斯波は、自分は泥にまみれているが、検事は安全な場所で理屈だけを述べている、と非難する。
・・・が、ラストシーンでは検事が、「わたしも父親を”殺し”たの」と隠された悲惨な過去を告白し、本音とホンネがぶつかり合って被告人と検事という葛藤する立場の二人の間にある種の共鳴を生むのだった。
極私的にはこの場面が救いだった・・・。
で、なんと舞台は諏訪だ。ぐるっと山に囲まれた閉鎖空間の最たる地域、ドラマに実にリアリティがある。テーマ曲が「さもありなん」とは・・・。諏訪湖など見慣れた風景がいくつも出てきて、ついおふくろを思い出した。彼女も認知症要介護2で、最後はグループホームに全面的にお世話になった。
経験者として言うと、自力介護は不可能である
と見切る必要がある。斯波が言う通り、家族の絆あるいは情がむしろ当事者双方の呪縛となるのだ。人が人を救うことなどは元より無理。牧師たちがそれを知らないで勝手なことをして、逆に人をイエスから引き離し、自身も病むのだ。
多分、着想はあの相模原の福祉施設での大量殺人から得てるのだろうが、ちょっと視点は異なっている。福祉現場はしばしば病んでいる。学生時代に見学した施設では、車いすの老人のそばにしゃがんだ若い介護士が僕たちを見上げて、
「あんたらは親のカネでそうやってぬくぬく生きてるんだろっ!この人を見てみよ!何も感じないのかぁ!」
と涙を流しつつ叫んだ。こちらはポカーン。映画の斯波のように自身の境遇を老人に投影して自己憐憫ワールドで生きているのだ。あるいは大友のように親を見捨てた罪悪感を「福祉サービス」という美名により補償する試みなのだ。
この病理はニッポンキリスト教でもしばしば観察される。自分の欠損を補うためにあえて牧師になりアイデンティティやプライドを再獲得しようとしたり、自分の良心の宥めのために奉仕活動にいそしむ者が実に多い。彼らはどちらも自己憐憫ワールドの住人なのだ。その病識もなく、彼らは日々「信仰に励んで」いるわけ。いずれバーンアウトするのは必定なのだが・・・。
福祉現場と宗教現場、私の目から見ればどちらも同様の病理を抱えている閉鎖空間(タコツボ)であると見えるのだ。まあ、その系の人は絶対に認めたくないであろうが。
なお、松山ケンイチと長澤まさみの演技はリアリティと迫力が素晴らしい。