
よく聖霊派では「聖霊様の充満~、油注ぎ~」とチャントする。これを聴くとほんとご苦労様と言うか、ハマルティアと感じる。あげくの果て、金歯金粉、個人預言だの、按手を受けるだの、床を転がるだのとチンドン屋状態が展開する。
この点、あの『聖霊様おはようございます』で一世を風靡したベニー・ヒン自身が自分の教えは間違っていたとしてメタノイアしていることは何度も指摘したとおりである。聖霊はイエスを無限に証しする霊であると。


ところがニッポンキ業界の聖霊派相変わらず。これはすべて聖霊と人の関りの経綸面と本質面を知らないからだ。
ここに関連する記事を紹介しておく。中でも聖霊論についてはアンドリュー・マーレの『キリストの御霊』が秀逸であることを何度も述べている。私の理解も彼に負うところが大きい。
本論点は主が「あなたがたはみな兄弟だから”先生”と呼ばれてはならない」と明確に言われるにもかかわらず、「師」を詐称する者が出現する理由でもある。つまり彼らの理屈はこのAIイラストのとおりだ。

事実、この論を唱えているボクシがいることはすでに紹介した。彼らは<今・ここに>、唯一の師であるイエシュアが現存されることに無視しているのだ。
かくして、ニッポンキ業界の現状は自我分裂した牧師を詐称する者たちが跋扈して、現状のようなていたらくな状態に堕ちている。
ニコライ派はすでに初期のエクレシア・エペソの時代に入り込み、世との結婚であるペルガモで確立し、テアテラのカトリックで社会化された。その娘たちがサルデスたるプロテスンタトの諸教派であり、彼らは生きていると称しているが、実は死んでおり、テアテラからのニコライ派のDNAを受け継いでいる。
その末路はバビロン化である。牧師が「高い塔の会堂を建て、名を挙げて、散らされないようにしよう」という『バベル憲章』に基づく限り、その種は着実に育ち、変質する。
極私的には20年以上、まずこの業界は廃墟となり、荒廃することが必要であると主張しているし、そのとおりになっている。偽りの上に真理の柱たるエクレシアは建てられないのだ。その廃墟からまことの復活のいのちが芽吹くのである。エクレシアとは新しい霊的生命体である。小賢しい人の手の業などに一切よらず成長するのだ。

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