
聖書を読むと一貫した原理があることがわかる:
カインではなくアベル、エサウでなくヤコブ、サウルでなくダビデ、最初のアダムでなく第二のアダム(=キリスト)、そして最初の石の律法(The Law)ではなくいのちの御霊の法則へ[1]律法の石板自身も最初のものは破壊され、つぎのものが残されたのだ。・・・つまり最初のものは拒否され第二のものが受け入れられる。

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
「最初の人アダムは命のある生き物魂となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。
土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。
わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。-1Cor 15:42-50
神の原則は最初のものを拒否され、第二のものを良しとされる。これは聖書で一貫している、すなわちこれを「死と復活の原則」と呼ぶ。
あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。
まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。
わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。
銀はわたしのもの。金もわたしのもの。―万軍の主の御告げ。―
この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。―万軍の主の御告げ。―Hag 2:6-9
「のちの栄光>最初の栄光」-これが神の霊的絶対不等式だ。
「¬第一のもの∧第二のもの」-これが神の論理式。
キリストご自身もマリアの子宮に人(=最後のアダム)として宿り、33年半の人間生活を送り、十字架死なれた。あの時代にはそれまでキリストのいのち(Zoe)は、ナザレのイエスという個人のうちに限局されていた。しかし、死と復活を経ていのちを与える霊となられ(1Cor 15:45)、すなわち一粒の麦が死んだゆえにそれは霊的領域に無限大に拡散している。-以上YHWHの業。
誰でもイエスを呼び求めさえすれば、その霊は私たちのうちに住まいを作られ、イエスが生きるので私たち生きるという実際が展開する(John 14:19)。麦が撒かれたら米はならないように、キリストがまかれたらキリストが私たちのうちに産出する。これをコロサイ2章19節では「神の成長を成長する」と表現している(Col 2:19)。その領域へと私たちの霊は開いている。-以上私たちの信。
主の業と私たちの信がハマるとき、そこにシナジー効果が生じ、何かが起きる!
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。-John 10:9-11
ポータル(門)たるイエスを出入りして、YHWHエロヒムが用意された無尽蔵の富を引き出せるのだ。それはちょうど当選宝くじを所有しているようなものだ。まだ目の前に現金はないが、そのサブスタンスあるいは権利証書を保有しており、時至りそれを現金と交換するのだ(エビデンス)。
いま、信(フェイス)とは願われる実体・権利証書(サブスタンス)であり、まだ見ていない事(プラグマ)の現出(エビデンス)である。-Heb 11:1
かくしてフェイスにより「自分や自分の考えがどーだ、こーだ」から出て、この広大な領域に触れるならば、私たちは一変する。それまでと同じではおれなくなってしまうのだ。否応なしに・・・。
霊的法則とは、(最初のものを)失う者は(第二の復活のものを)得るのだ!(Luke 9:24;17:33)
追記:なお、この20年来唱えてきたセコンド・エクソダスもその事例のひとつと言えるだろう。