自我分裂とダブルバインド-キリスト教の本質的病理-

まずはこの写真を見てください。どう思いましたか? そう、お笑いネタですが、現実に遭遇したら混乱しますね。

・・・これがキリスト教の実態なのです。

今日当たり前に見ている教職教団制度、これがイエシュアにとっては憎みかつ戦う対象であることをすでに何度も指摘している。先生呼びの禁止の理由はまさにこのニコライ派から生じるのだ。

牧師たちはもっともらし顔で「御言葉に従いましょう」、「み旨を行いましょう」、「間違ったら悔い改めましょう」とやっているが、自身の自己欺瞞には気づいていないか、スルーを決め込んでいる。

まさに自我分裂像である[1]ヤコブは「二心」と呼んでいるが、原語は”dipsuchos”、意味は「分裂した魂」である。。もともとプロテスタントの教祖ルターが分裂人格であった。

そして一方では「私たちは単なる悔い改めた罪人でーす」としつつ、「信仰に励みましょう」とやる。聖句は何と言っているか:

義人はフェイスによって生きる

分かるかな?これをダブルバインドという。一方では「あなたは罪人だ」とし、他方では「信仰に励め」と。見事に矛盾したメッセージを送っている。これで信徒は病むのだ。どうやったら信仰によって生きられるのか?と。そして実質、<御心を行うこと=牧師に従うこと>とマニュピレートされ、それをしてる限り、迷ったり、悩んだりすることから表面的には解放される。かくして、牧師や教団に貢ぐ(必ずしもカネだけではない)信徒ならぬ信奴と化す。

人の性はフロイトも言う通り、フロムも「自由からの逃走」と言っている。

「自我を砕き~、自分を否んで、十字架を負って従え~」とアジるかと思えば、「ありのままのあなたでいいのです、神様はそのままのあなたを愛して受け入れてくださいます」と信徒(奴)に媚びる。まさに自我分裂の兆候だ。

かくしてニッポンキ業界の実情は次のような状況に陥っているのだ。つまり矛盾したメッセージを送り、受け手を自我分裂の状態に追い込む。これがニッポンキリスト教の<牧師-信徒(奴)>関係の本質である。

ゆえに牧師も信徒も病むのだ。

さあ、気づいたそこのあなた、ニッポンキ業界の捕囚からエクソダスする時ですよ!

牧師の根底にある動機はこれですから!

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1 ヤコブは「二心」と呼んでいるが、原語は”dipsuchos”、意味は「分裂した魂」である。

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