Dr.Lukeのショートショート:”信じる”だけでは救われない-“believe”と”believe into”の致命的な相違、主語たるセンターは誰か?

プロテスタントの所謂「信仰義認」は、私が律法を行うことによるのではなく、私が御子イエスを信じることにより救われるとする。主語はあくまでもである。しかし、ガラテヤ2章20節にはこうある:

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子信じる信仰によって、生きているのである。-Gal 2:20(口語訳)

新改訳では「御子に対する信仰によって」とし、ギリシャ語では属格であるにもかかわらず、属格の対格的用法とか理屈をこねる。田川訳では正しく訳されている:

もはや生きているのは私ではない。私の中にキリストが生きている。私が今肉において生きているところのものは、信において、すなわち私を愛し私のためにみずからを引き渡してくださった神の子信において、生きているのである。

英訳のCLVも正確に訳している:

With Christ have I been crucified, yet I am living; no longer I, but living in me is Christ. Now that which I am now living in flesh, I am living in faith that is of the Son of God, Who loves me, and gives Himself up for me.

要点がお分かりであろうか? 「私の信仰告白~、我はナントカカントカを信ず~」ではなく、肉にあって生きる私は御子フェイス(信力あるいは信覚)の中で生きるのである。主語はだれか?

私(セルフ)はセンターを御子に譲るのだ。そもそも信じることは神の業である。

そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じることそれが神の業である。-John 6:28-29

ここの本質的な点は、弟子たちは「私が行う」ことに意識をおくが、イエスは「神の業」を指摘した。信じることは私たちが信仰に励むことでも何でもない。YHWHのわざなのだ!

そしてそれは霊的領域に新しい創造ニュークリーチャー=として生み出されることである。この点、洗礼を受けてキリスト教徒となることと、新しい創造として生み出されることは必ずしも等価ではない。宗教としてのキリスト教のマトリックスの中に入信しただけの者がけっこう多いのが現実である。

追記:では、だれが救われるのか?と思った者は弟子たちと同じレベルにある(Matt 19:25-26)。

イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

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