視聴者様のキリスト教からの解放の証2

この方は心理学を学ばれておりますので、洞察が正確です。とても示唆に富みますので、ご紹介いたします。


一見して表面には見えない奥深くに、過去2000年来ニコライ派といわれる教会組織の構造や西回りのキリスト教という異教の種が巣食ったまま成長した姿で今に至っている現状を明らかにされた。 教会との関わりでの違和感と苦しかった要因が明らかにされるうちに自責感から解放されてきた頃、(自分がおかしかったのではなかったんだ!とホッとして安心し心から安息することができたためか)教会と関わるもっと以前から自分の内側にも根源的な問題があったことを気付かされた。

(認めたくない嫌な自分の側面を人から見えないように抑圧しフタで閉ざしたまま、人から見られる自分を絶えず意識して、人から認められたい、よく思われたい嫌われたくないの一心で取り繕いの仮面をつけていた。学校や職場など日常の社会生活ではそれで問題なく過ごせたけれど、 教会と関わるようになってから、人に(特に牧師に)知られたくない自分を隠すために付けていた取り繕うための仮面はより強固となっていった。 神様の代理人のように思っていた牧師の気に入られるよう認められたいとの承認欲求が強かったから、牧師に従わなくては不信仰!との思いがエスカレートし、従えたとしてもまだまだ足りない、と非難されているような(自分でも責める思いが)思いが募り焦るばかりで空転し、息苦しさでこれ以上自分の本音を閉じ込めておけなくなり不信仰との思いとの葛藤が強くなって、心身を病み、、 教会を離れた後も、不信仰な自分を責める罪責感に日々襲われて鬱状態だった。 その生活の中、神様に本心本音で訴え聖書から神様の思いを知りたい!と本気で願い今までにないほど真剣に聖書を読み漁っていた)

徐々にたましいの奥深くに閉じ込めてフタをしてきた幼少期からの歪な家族関係の中で、自尊心が低くなり自分の気持ちを感じても人前で表してはいけないと抑圧し続けているうちに自分の感情や思いがあったこと自体わからなくなってしまっていたことに気付いた。

教会は聖書の真理を扱う永遠のいのちに関わるこの世の何よりも最重要事項のことだから、より一層教会で言われることは守らなければ!聖書どおり善人にならなければ、きよくならなければ!もっともっと努力しなければ!と強い焦りが生じてしまった。自分の本音ではなく仮面を付けた偽りの思いとの二心の罪だった。振り返ってみてそれは神をおそれてではなく、人の目がすべてとなっていた。子育てや仕事などを理由に聖書を読むのは義務的だった。そしてある時怠慢にも〝牧師は神の代理人たから牧師の言われることに従えばよい”と自分で意識してそう決めたことを思い出した。このとき自分の蒔いた種だったと気かされた。

自身の精神が不健全だったことで誤ったアイディンティ(自己卑下、自尊心低下からの承認欲求、嫌われたくない)で人間である牧師に全面的に(生活面での悩みや問題についても)依り頼んでいた。全面的に依存すべきは神様ただお一人なのに、人間を頼みとしてしまっていた。

もし教会の中で純粋な真理だけが表れていたならば、、異教が混じらずニコライ派の教えによる聖職者階級制度、教団教派、教会籍、、のような人間の決め事から分離されていれば(このことこそが本来の「聖別」、外見の取り繕いによる〝聖別された振り”をすることなどではなかった!「聖」とは主観的な意味で「健やかさ」とメッセージを聞いたとき主への感謝が込み上げた。「正しさや善は偽装できるが、健やかさは偽装できない」)、、教会が真理に即した本来の聖(健やか)であれば、たとえ教会に導かれた信徒が歪みあるアイデンティティや病理的な精神状態にあったとしても、必ず真理により治療、矯正がなされ続けていくはず。 Matt 18:15-17;Heb 4:12-13;2Tim 3:16

〝ヒューマニズムな愛”と混同することなく、「自分の境界」を物理的にも心理的にも保ち、誰にもに安易に踏み込ませてはならなかった。 自分が枯渇しているのに搾り出すようにして、人の要求にすべて応じることが愛なとではなかった。自分の感情を見ようともせず抑え込み、悪いものとして否み拒絶しながら人に尽くすことが、主の言われる「自分を捨て十字架に付ける」ことなどではなかった。

自分で何とかしよう!とするその自分の手を離して、主に全面的に頼りきってはじめて主の愛と恵みを感じることができる、経験できる!自分のたましいが何の焦りもなく心からの安らぎを覚え安息できている状態で在ってこそ初めて、我が内に住まう主ご自身の霊が、涸れることのない泉から命の川川となって溢れ出す時に、ごく自然に何の力みもなく自動的にもよおされるように穏やかに(二心の不純な動機からではなく主からの愛を感じ取ることで愛を動機として)主の霊が私を通してこの現実の領域に表われてくださる! 自分の努力で意気込んで熱心(執着して)に物事を行い行おうとする生き方こそ、十字架に付けるべき自分だった。

・・あなたを愛して 自分のように 奪うことも 奪われることも 愛とは言わない 渇いた大地に こぼれた水が 潤うまもなく また渇くように 愛は求めるものではなくて 心の中に涸れることのない 泉のように 傷つくたびに 流した涙で 自分を知り あなたを知って 愛を知るの あなたは つぶやいたわ 私を胸に 悲しい愛など この世界にないのだと この手に この手に 奇跡はある 痛みを勇気に変えたときに 約束されてる ・・ ♪祝福 (十戒ミュージカルのテーマ曲)

信徒として教会に属しているうちに、その教会に異教(物)混入やニコライ派の教えによる西回りの〝白いキリスト教”の不健全さに耐えられなくなると、神学校へ行き自らが牧師になり、自らが考える聖書解釈を表現するための教会を建て上げようとしてきたのがルターによるプロテスタント(抗議する人)教会なのかと思い至った。

だから当然、根底の土台そのものが〝異教の種”とニコライの教えが入り混じった聖書解釈なのだから浸透してしまった歪みが牧会に反映されていくので、程度の差はあるにせよ、人生のすべての行動が、自己卑下・自尊心が低下により承認欲求が強く嫌われたくないことを動機に生きている精神病理の深刻な信徒とが出会うことでとても不健全な人間関係になってしまう。

支配する人と支配される(されたい)人が出会うことで”共依存”という病理的な関わりになる。偽りの仮面で隠しフタをして閉じ込めた認めたくない(人に見られたくない)自分の影シャドウをも自己に統合しない限り完全な自分になれない(カール・ユングの教え)は、聖書にある「完全になりなさい」のことだと思った。完全な自分へと統合されて(二心が解消され)、はじめて主(の霊)と交わることができるようにされ主のデュナミスが私を通して現されるようにされる!感謝✨

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