本日の一冊:『神の物理学-甦る素領域論』-形而上学的素領域論とフェイス

今回のメッセでは時空間を羊羹に例えて、五感に住む”私たち=肉体+精神(魂)”はこの時空間の中に閉じ込められているとした。これがアダムにあってこの物理的世界に生み出された”私たち”であり、この時空間の中で諸々の悲喜劇が展開するのだ。

しかるにイエスを主として受けれた時に、死んでいた霊が再生され、YHWHエロヒムの霊を分与されて新しい創造(ニュークリーチャー)とされた。この霊は私たちの肉体のうちに閉じ込められているようであるが、実はこの時空連続体を超える領域に存在し、時間と空間の制限を受けないのだ。主はこう言われている:

わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
・・・わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。-John 17:14-24

この「ように」とある単語は”kathos”、その意味は”just as;according to”である。つまりニュークリーチャーとされた私たちは世にはいるが、イエスとまったく同様に世のものではない。そしてイエスがおる所に私たちもおるのである。それはどこか? 御父のうちである。もっと言えば創造主にして全能者なるYHWHエロヒムご自身のうちである。御子は御父のうちにおり、御父は御子のうちにおられ、聖霊が来られる時、父と子も私たちのうちに住まい、私たちも父と子のうちにおるようになる。

ゆえに

すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。-1John 1:3

そしてこの霊的領域は物理的時空間を超えている! この領域に生きるとき、主の目においてわれわれは初めから罪を犯したことのないものとされていることが実体化される。

さて、今般、確率変分法で有名な量子論物理学者保江邦夫氏の著作『神の物理学-甦る素領域論』(海鳴社)を読んでみた[1]氏は湯川秀樹の門下、素領域論は湯川秀樹の理論であり、氏はそれに基づいた修士論文(!)を、アインシュタインがデビューした”Progress of … Continue reading。彼の言う「神」はいわゆるスピノザの神、理神論の神であるが、現代物理学は人間を超えた、さらにはこの物理的時空間を超えた創造主を想定する必要があることを認める地点に来ていると言う。彼はこう主張する-

存在するものは完全な調和のみという状況を考え、それを「空(くう)」と呼ぼう。「真空」とも言える。・・・ところで存在が認識されうるためにはそれが周囲のものとはなんらか違ったものと映る必要がある。ところが、すべてが完全調和となっている真空の状況では、どのものもすべて完全な調和であってどのものも周囲のものとなんら違うところがないため、すべてはまったく認識されないことになる。・・・物理学を離れ形而上学に参入するならば、完全調和のみの真空の状況はまさに神の世界、あるいは神そのものと言ってもよい。

これが彼の定義する「神」である。そしてこの調和した状況に波風が立った状況が素粒子であり、エネルギーの流れであるとする。

つまり、「形而上学的素領域理論」においては、この世界と同義である「空間」の基本構成要素としての「素領域」の間を転移していくエネルギーに他ならない素粒子の運動については、「素領域」の外側に連綿とつながっている「完全調和」が常に接するようにして把握していることになる。あるいは、この世界のすべての素粒子の空間の中での運動は、素領域の外側に広がる「完全調和」である「神」の部分に詳細な履歴を残しながら展開してるからだ。

この波だった素粒子の分布状態を描くのがシュレーディンガー波動方程式であるとする。量子が波動状態(重ね合わせの状態)から粒子として観測される波動関数の収縮も、「神」が「素領域」の分布に「手を入れる」ことで説明できるとする。このゆえにフォン・ノイマンが必要とした「抽象的自我」は「形而上学的素領域理論」では「神」と位置づけられる「完全調和」として「宇宙空間」が存在する根底に既に宇宙開闢以前から今に至るまで存在している、とする。

さらに時空間を超えて相関が起きるエンタングルメント[2] … Continue readingについても

「完全調和」の「真空」中に「自発的対称性の破れ」によって生まれた「素領域」が「空間」の構成要素として全体でこの世界を形作っているため、「空間」の中を運動する「素粒子」の運動は既に見てきたように「素領域」から「素領域」へと転移していく「エネルギー」という実体が伴っていた。そのような「素粒子」の運動は既に見てきたように「素領域」のその中での分布形態を規定する「完全調和」の「真空」によって制御され、その結果としてシュレーディンガー方程式を満たす「波動関数」が運動の詳細を記述するのだった。そして、「完全調和」の「真空」が「空間」を構成するすべての「素領域」を包括的に制御するため、その結果を表現する「波動関数」は「もつれ」を持たざるを得なくなり、「素粒子」の運動には不可避的に「非局在性」という異常な性質が入り込んでいくのだ。

とする。そして

その「素領域」に存在するエネルギーとしての「素粒子」を「素領域」と「真空」との境界面である「覗き穴」から密接に観測することができる。つまり、「完全調和」の「真空」の中にあるすべての「素領域」からなる「宇宙空間」の至るところには「抽象的自我」のための「覗き穴」が存在すると考えてよい。

さらに、

「完全調和」の「真空」はまた、われわれに「自由意志」を発動させることもできる。・・・(確定論的モデルを唱えたニュートンは人が「自由意志」を持ち得ないことに気づいたが)、ニュートンは、この宇宙の中には至るところに「神の覗き穴」があり、そこからこの世界でのあらゆる現象を世界の外側から「覗き見」している「神」が、必要に応じてこの世界に干渉することで、あたかも我々人間が「自由意志」を発動できたかのように動かされるのだと考えていた。このようなニュートンの考えは「形而上学的素領域理論」の中に発展的に取り込まれ、「神」を「完全調和」の「真空」と見なし、「神の覗き穴」をすべての「素領域」と「真空」との間の境界面とすることで、「形而上学的粗領域理論」には「自由意志問題」は最初から存在していない・・・そう、「抽象的自我」は「神」に他ならなかったのだ。・・・そして新たな驚愕の事実が浮かび上がってくる。それは「人間に自由意志があるなら電子やクォークなどの素粒子にも自由意志がなくてはならない」ということだ。

これは一見ありえないことに見えるが、すでに量子力学の数学的な枠組みの中で最近証明された、とする!? ここで言う自由意志はいわゆるすべての意志は自分自身が自由に抱くことではないことに注意されたい。境界面から覗き込んでいる「神」が介入した結果としてわれわれのうちに生じるものである。だから素粒子さえもそのような自由意志を持ち得るとする。いわゆる普通の意味における「神」から遊離した自由意志は幻想である。

以上、難解な長い引用になったが、要するに「完全調和たる神」は世界(=時空間)の外に存在しており、その完全調和の波動が素粒子として観測されるのであって、ゆえにエンタングルメントしていることは当然のことであるとする。その「神」は素領域と完全調和の境界面からこの世界を覗き込んでおり、時々に干渉して人に「自由意志」を起こさせるというわけだ。もちろん保江氏の「神」は受肉の神、つまりYHWHではないことは指摘しておく。しかし、存在の究極のメタ言語として、「神」という単語を用いていることは理解されたい。

以上の論は今回の私のメッセの主題でもあり、時空連続体の中に幽閉されている我々の体と精神であるが、新しくインプラントされたYHWHエロヒムの霊はその領域を超えてYHWHの霊とひとつ(ユニゾン)にされており、かくしてエンタングルメントされたYHWHの意識が我々の意識と時空を超えて相互作用する時、我々の中に自由意志と思っている特定の意志が生じるのである。

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。-Phil 2:13

よくキリスト教徒が「私の願いではなくあなたの願いを行えますように」と敬虔に祈るが、これは罠である。ゲッセマネの園におけるイエシュアの祈りを自分に適用するのはおこがましい限りである。

この記事において私はこう書いている:

私たちのフェイスも同様だ。私たちが自由意志を用いるとき、あらゆる霊的可能性(神の許容的意志の領域において)を有する霊的サブスタンスが、時空間の中で決定される。ここでも偶然性と必然性が微妙に絡む。神の目から見たら、つまり神の目による観測結果はすでに確定している。それは神の許容的御旨の中に存在する。つまり私の経験はすでに決定されていたのか、それとも自分の意志で選び取ったのか?どちらもあると言えるのだ。かくして時空間に生きる私たちにとって、瞬間瞬間、自由意志により、霊的経験を選び取っている、すなわち霊的サブスタンスを実体化している。これが私たちのこの世界における個々の経験である。

今、私はこの瞬間にこの記事を書く行為を選んでいるが、別のことを選ぶこともできたはずである。では、どちらが神の御心に合致するのか、という問題提起は意味がないのだ。そのどちらも神の観測空間にはあり得るから。これが多くのクリスチャンが陥る罠。「自分は何を選べば神に喜んでいただけるか?」と考え、あるいは「すべてが神によって決定しているならば、私の意志決定は無意味だ」との思考に陥る。これが受動性の罠である。それはすべて善と悪を知る知識の木の路線上にある。

お分かりだろうか、主の意識の中にはあらゆる事態が重ね合わせの状態としての可能性が想定されており、われわれの意識と相互作用する時、そのどれかが局所化(実体化)されるのだ。これがエンタグルメントされた主の意志とわが意志によるフェイスの作用である。保江氏の言葉で言えば、神が覗き穴から時々にあらゆる素領域干渉して、我々に自由意志を起こさせるというわけだ。

かくして創造主なるYHWHエロヒムにとってはすべてのことが見えてしまっている。なぜなら完全調和としての時空を超えた全能者だから。まことに現代物理学はこのレベルにまで来ていることは注目して良い。

超弦理論のMichio Kaku氏もこう言っている:

超ひも理論は物理学の分野から出てきたにもかかわらず、数学界にも革命的といえるほどの大きな影響を及ぼしました。ご存知の通り、この理論は純粋数学的なのです。そのため、最終的な結論を申し上げると、『神は数学者である』ということになります。そして、神の御心を読むことにより、神の御心とされるものについて語ることができます。それは、宇宙的ミュージック、11次元の超空間に響き渡る弦楽器の音色に他ならないのです。

まことに詩編にこうあるとおりだ―

天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。 昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても その響き(=弦)は全地に、その言葉は世界の果てに向かう。-Ps 19:1-5

要するに存在とは完全調和の対称性が崩れた際に生じる波動としての素領域、すなわちバイブレーションなのだ。物理的サブスタンスも、霊的サブスタンスも共にである。私の著書『神の新創造―聖書が啓示する自然法則を超えるマインドのパワー』でも軽く超弦理論と霊的世界の関係について軽く触れている。

私たちが主とともに歩むという意味は、このYHWHのバイブレーションにわが霊がリゾナンス(共鳴)するとき、主の意志とわが意志が綾なされて撚り合わされて実現していくことに他ならない

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1 氏は湯川秀樹の門下、素領域論は湯川秀樹の理論であり、氏はそれに基づいた修士論文(!)を、アインシュタインがデビューした”Progress of Theoretical Physics”において発表している。スピ系の印象が強いが、立派なハードコア物理学者である。
2 波動関数を共有するふたつの量子は時空間を超えた相関を見せること。2022年のノーベル賞のテーマであり、これによりいわゆる局所実在性は否定された

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