- 2025-06-14
iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
Search Result For: カルバン

この論点についてはかつて今は亡き再建主義者富井健氏と論争した記録がある☞https://bit.ly/3EKjDnu

It seems that everything in the universe has already happened under eternalism.
・・・・
Under eternalism, the question of free will and determinism becomes much less clear because it seems that everything in the universe has already happened under eternalism.
まさにDr.Lukeがこれまで何度も指摘してきたことであり、もちろんそれは聖書が語っていることである。
もっとも神の業は天地創世の時以来、すでに完成していたのである。-ヘブル4:3

ルターやカルバンやウエスレーなど、いわゆるキリスト教の業界では信仰の基準であるかのように祀り上げられ、それに反する者はただちにイターンとレッテルを貼られるのが常である。すでに私は神学などはその創始者の精神病理から生み出されるものであり、単なる個人的証にとどめるべきだと言っている。
先に紹介した本書の著者たちがオモシロイ対談をしているので紹介しておく。
極私的にもルターについてはいろいろ書いている。ルターは宗教戦争で敵を40万人殺している。また徹底した反ユダヤ主義者(憎悪に近い)だったのだ。佐藤優氏によれば彼の論はヒットラーの思想の基礎となった。
そこで今回は過去ログからカルバンの異常さ(←ツヴァイクの読後感想文)について再録しておく。初出は2006年6月23日。
ツヴァイクの『権力と戦う良心』(みすず書房)。改革派神学者のカルヴァンがいかなる人物であったか、カステリオンとの論争と、カルヴァンによる批判者セルヴェートの虐殺を巡る彼の歴史を克明に記録している。
前に私は神学なるものはその提唱者の精神病理の反映に過ぎないと指摘し、カルヴァンは偏執的サディズム傾向を有すると指摘したが、どうもこの診たては当たっているようだ。ツヴァイクの言葉を引用すると
カルヴァンの花崗岩のような性格、鉄のような頑迷さにつきあたるのである。この偉大な狂信者にとっては、一生を通じて和解ほど無縁なものはなかった。彼は中道ということを知らなかった。彼が知っていたのはただひとつの真理、彼自身の真理だけだった。彼にとっては、すべてか、無か、完全な権力か完全な放棄か、であった。
自分自身に憑かれたカルヴァンは、誰かが自分の意見と違う意見を表明したりすると、そのつど、はげしい怒りにおそわれた。ひとに反駁されると、カルヴァンは一種の神経症の発作をひきおこし、肉体の内部ふかくで精神的な興奮が転移すると、胃がむかついてきて胆汁を吐き出すのだった。相手がその反論をどんなに客観的に、どんなに学問的に展開して見せてもむだだった。相手が大胆にも自分と違った考え方をしたいうただその事実だけで、カルヴァンは彼を自分の不倶戴天の敵であるばかりか、世界の敵、神の敵とした。
かくして自分と違う意見を表明し、自分を批判したセルヴェートに対して死刑を宣言し、とろ火の中に吊るすことにより、彼を生きたまま焼き殺した。
火焔が四方に燃え上がったとき、拷問の責め苦を受けるセルヴェートがぞっとするような叫び声を上げたので、あたりにいた人々は一瞬、戦慄して面をそむけた。まもなく煙と焔とが苦痛に身もだえしている肉体をつつんでしまったが、生身の肉体をゆっくりむさぼりつくしていく火焔の中からは、言語に絶する苦しみにさいなまれている人間の鋭い叫び声がたえまなく、そしてますます鋭く聞こえていた。そしてついに、救いを求める最後の激しい叫び声が耳をつんざいた。「イエス、永遠の神の子よ。われをあわれみたまえ!」この筆舌につくしがたい残酷きわまる断末魔の戦いは、半時間におよんだ。そのあと・・・
この後の現場の描写はあまりにも惨い。かくしてカルヴァンの独善的教義とその行いに対してカステリロンは良心に基づいて戒めを行う。しかしカルヴァンはその非を指摘されるほどに頑なになるのだった。かくしてジュネーブには粛清と恐怖の独裁政治がひかれ、異端者や神の冒涜者はたちまちに摘発されて拷問を受けた。そしてついにカルヴァン主義に反対して宗教的寛容を解いたカステリオンも司法の場に引き出され、異端者として裁かれたのだ。このときのカルテリオンの言葉は
わたしは自分がいとも貧しく、名もなく、卑しい人間であることをよく承知しています。しかし、神はまさにこのような卑しい人間の上にそのまなざしをそそいでおられるので、もし彼らの血が不当に流されるようなことがあれば、それをつぐなわずに放っておかれるようなことは絶対ないでしょう。したがって、わたしはカステリオンは、この裁判をよろこんで承認します。わたしに投げつけられた告訴のうちにどれかひとつでも事実であることが証明されたならば、その当然の償いのために、わたしはみずからすすんでこの首を差し出すでしょう。
だった。かくして異端者のレッテルを貼られた彼はヨーロッパの各地を放浪し、安住の地を見出そうとするも、カルヴァン側の情報が各地に届けられており、どこにおいても異端者としての処遇を受け、文字通り枕するところもなく、確実にその肉体も衰弱し、ついに死の時を迎える。時に1563年12月29日、享年48歳。彼に同情を寄せていた友人の言葉によると「神の助けによって、敵どもの爪のなかから奪い返された」瞬間だった。
この歴史を読むとき、最後に物事を判断するのは、いわゆるカルヴァン神学でもなければ、その延長上にある再建主義でもない。それは神がご自身の手によって私たちの心の中に書き込まれた良心なのだ。ローマ書に次のようにあるとおり:
彼ら(=律法を持たない者たち)はこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
しかしカルヴァン主義のあだ花とも言える再建主義では、人間の良心はまったく当てにならず、それは単なるヒューマニズムに堕しており、神の直接的統治を実現するためにモーセ律法による石打ち刑も、当時よりははるかに厳密なヴァージョンアップされた形で適用されるべきなのだ。神学や教義が良心よりも優先されるとき、カルヴァンのサディズムはその本質を一挙に発現したのだ。しかるに彼はその著『キリスト教綱要』においてこう書いている:
異端者を殺すことは犯罪である。処刑刀や火焔によって異端者を亡きものとすることは、人間性のあらゆる原理を否定することに他ならない
と。これを乖離性と言う。しかるにパウロはこう証している:
私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。・・・この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。
私は現ニッポンがキリスト教国ではないことを主イエスに感謝すると共に、今後ともキリスト教があくまでも1%のマイナーな宗教にとどまり続けることを祈るものである。
一言で言えば、偏執狂的サディストである。そしてモーガン氏は「現代のアメリカはカルバン主義ピューリタン帝国である」と指摘する。カルバンは上記のとおりセルベートを生きながらとろ火で焼いたサディスト。アメリカは同じことを繰り返している。すなわち”宣教”により自らに服従させ、悔い改めない未開人は火で”浄化”する。まことにそのとおりであることは歴史を見てみよ。ニッポンはまさに火で焼かれたのだ。
かくしてノア預言の成就として、ヤペテ(白人)はカナン(黒人)を奴隷としつつ、セムの天幕(ユダヤ・キリスト教)の下でその地を拡大するのだ。歴史的には白いキリスト教と帝国主義により未開人に”宣教”し、従えばよし、従わねば虐殺、さらに原爆も落とす野獣の国がアメリカである。もちろん表面的に善良な人々が多くいるが、それは表向き、裏が病んでいるのがアメリカである。
かくして私の結論は、セコンド・エクソダスあるのみだ。

すでに召された再建主義の富井氏との議論はかなり長期にわたった。ここでは繰り返さないが、私にとっては同じ聖書なる書物を読みながら、そこから構成する世界観が真逆であることに驚いた次第。いろいろ学ばせてもらったことも多々あるし、彼の生きるスタンスは評価していたのだ。
彼いわく、AD70年にすでにイエスは一度目の再臨をし、携挙も起きており、現在は千年期であると。この間に全世界が福音化され、国家司法もモーセ律法による体制となり、神の国が地上に設立されて後、二度目の「再臨」をされると(ポストミレ)。これでは「再々臨」ではないかと私は指摘したが、回答はなかった。
私の終末論に関する世界観も含めて、聖書を読む際には次のような原則に基づいて理解し、内的モデルを構成している[1] … Continue reading:
- 定律:書いてあることは書いてある通りに、書いてないことは無益な推論により断定あるいは判断をしない。
一応断ると、私はプレミレ(イエスの再臨後に千年期)に立つが、それは今までのところプレミレを捨てる理由がないからだ。再建主義の主張を詳細に調べても、プレミレを棄却するところまではいかない。もし今後、ポストミレを支持する十分なるエビデンスが与えられれば、私もポストミレに変わるかもしれない。
これは数理統計学的思考。すなわちある仮説H1を主張したい場合、その否定仮説H0(帰無仮説)を立てる。帰無仮説H0の上で今起きている事象の確率 p値を計算して、p が例えば5%未満のときH0が起きることはほぼあり得ないとしてH0を捨てる。これで危険率5%で(つまり実際にはH0が正しいことも5%はある)当初の仮説H1を否定し得ないとするわけだ(これを「「統計的に5%の有意水準にある」と言う)。
私の仮説H1はプレミレ。帰無仮説H0はポストミレ(この際、ア・ミレは除く)。聖書に書いてあること世界の諸現象からH0が成立する確率 p を推定すると、今のところきわめて低い。よって、判断ミスの危険が p だけ残る(これを第一種の過誤と呼ぶ)ことを承知の上で、ポストミレ説H0を捨ててプレミレ説H1は否定できないとしているのだ。これがサイエンティストの思考法だ。なお、第二種の過誤とは帰無仮説H0が間違っているのに棄却しない誤りのこと。
古い論争としては、<カルバンVS.アルミニウス>の議論がある。これについてはすでに何度も指摘している通り、人間の認識能力として判断し得ないが私の立場だ。判断する能力がないのに、判断するおろかさをキリスト教神学は犯す。人が救われるのは、神の意志(決定論)によるのか(二重予定説)、人の自由意志(偶然論)によるのか。これはちょうど光や電子などの量子が干渉という波動性を有すると共に、観測される時は粒子として、という量子論における二重性の問題と同様である。われわれはそれを解釈することなく、そのまま受け入れるしかない。
父、子、聖霊のいわゆる三位一体論も同様である。「父・子・聖霊は同時同在し、位格(ペルソナ)としては区別されるも本質においては同質(ホモウシオス)だ」と通常定式化されている。これはこれで良いと考えるが、創造者を被造物である人間の言葉の中に閉じ込めること自体、無理があると言うことは誰も分かるであろう。まあ、これが一応、「正統教会の立場」として、他の異端論と区別する錦の旗になるわけだ。これに加えて、二性一人格論(キリストは完全なる神性かつ完全なる人性を有する一人格をお持ちの方)なるキリスト論もあるが、理性でこれは理解できないであろう。平行移動してみれば、「人性と猿性を有する一人格なる存在」って何っ?てお話になるわけだから。

またセカンドチャンス論争なるものもある。生前は救いを受けなくても死後にすくわれるチャンスがあるとする説だ。これで互いに異端のレッテル貼りをしているニッポンキ業界の不毛かつ無意味な論争の例のひとつだが、かなり前に久保有政氏から上掲の本の旧版が送られてきた。『聖書的・・・』なるタイトルをみて読むまでもないと思ったが(「的」ってのが何によらず曲者)、極私的(おいおい、曲者だ)スタンスは定律のとおりである。
セコンド・エクソダスは書かれているが(Jer 16:14-17)、セコンド・チャンスは書かれていない。ただ過ぎ越しに二回チャンスがあるとは書いてある(Num 9:6-11)。これがセコンド・チャンスだ、と推論するのは自由だがぼくは判断しないし、それを論じる必要も覚えない。なぜなら死んだ家族のことを持ち出すのは信じたくない人の言い訳であることが多いからだ[2] … Continue reading。人数を集めたがるバベル憲章の下にあるセンセイにとっては大問題であるとは思う[3] … Continue reading。
フェイスは<今・ここ>で、あなた/わたしが主と御言葉にどう応答するか、これがすべて。ヨハネの運命はどうのと言うペテロにイエシュアが言われた言葉は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」だから(John 21:22)。
この意味でキルケゴールの言うとおり、まことに神の前の単独者として立つ必要があるのだ。現今のいわゆるキリスト教界がみんなで仲良く楽しいソーシャルサロン化あるいはタテノリガチャガチャのエンターテインメント化していることへの大きなチャレンジである。フェイスの歩みにおいて牧師任せにすることなく、内なる御霊に頼りつつ自ら聖書を読み解くスタンスを確立することこそ、霊的覚醒への道である。
References[+]
↑1 | サイエンスの思考形式は、演繹法と(不完全)帰納法がある。前者は「A=BかつB=CならばA=C」論理の流れを追う思考、後者は今まで観たカラスは黒だったから「カラスは黒い」とする思考(これには例外があることは分かるでしょう)。聖書もこのふたつの思考法で理解する必要があるが、しばしば、妄想や幻想が紛れ込むので面倒なのだ。 |
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↑2 | 使徒行伝には、「信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と書いてある。ぼくはこれを単純に信じるだけだ。その「家族」に亡くなった者も入るのか否か、それは知らない。 |
↑3 | 私の聖書の読み方をして、そんなちまちましたことやっても人は増えんよ、ドーンと行くんだ、ドーンととのたまった有名看板牧師がいたが、土建屋のおっさんかよと思ったものだ。 |

今年のノーベル賞の受賞テーマの一つがエンタングルメント(量子もつれ)の立証だった。波動関数を共有するふたつの量子が時空間を超えて相関するというものであるが、これで局所的実在性が否定されたのだ。つまり時空間に存在するものであれば、相対性理論によって支配されるので、互いの情報は光速を超えて伝達することは不可能。ところが量子もつれの状態にある量子は高速を超えて互いに関係し合うことができることが証明されたのだ[1]このためアインシュタンインはSpooky(気味の悪い)減少だとため息をついた。
白いキリスト教神学の論争にカルバンVSアルミニウスなるものがある。救いは神の定め(確定論)によるのか、人間の自由意志によるのか(偶然論)と争って、互いに異端~とやりあっている愚かなテーマである。これについてはかつて再建主義の故富井氏とディスカッションしたことがある(⇒ログ)。
結論を言えば、判断不能。人間の認識能力には確定と偶然を識別することは不可能なのだ(⇒過去関連記事)。さらにいわゆる自由意志なるものが幻想であることも分かってきている。
では救いとは何だったのか。かつてこんな記事をモノしたことがあるが、さらに進んで議論したい。
エンタングルメントなる現象は確定していない2つの量子状態の重なりが観測によって確定するとするものだが、スピリチュアルな経験もまったく同じ。救われた状態と救われてない状態が霊的領域では重なりとなっており、私がフェイスした瞬間に救われた状態が私において確定する。フェイスは聖霊のプロンプトに私が応答した結果である。自由意志と思っているものは実は後付けなのだ。
われわれはキリストとスピリチュアルな波動関数を共有し、エンタングルメント(もつれ状態に)されている。よってイエシュアは言われた、「地で解くことは天でも解かれており(完了形)、地で縛るものは天でも縛らえれている(完了形)[2] … Continue reading」(Matt 16:19)。それは時空を超えたスピリチュアル・リアリティあるいはサブスタンス。YHWHのわざは天地創生のときより完成されている(Heb 4:13)。われわれは肉体にておいてはこの物理的な五感領域に生きているが、霊においてはすでにキリストとともに御座についている(Eph 2:5)[3]だからパウロは肉体的には離れている者を霊においてっ裁くことができたのだ(1Cor 5:3)。。まさにエンタングルメントである。
重なり状態にある量子は観測によってひとつの状態に確定する。それと同様にあらゆる可能性の重なり状態としてスピリチュアル・サブスタンスは存在しているが、それをフェイスはこの五感の領域において確定する。それがわれわれの経験である。
いま、信(フェイス)とは願われる実質(サブスタンス)、まだ観測されていないこと(プラグマ)の現出(エビデンス)である。-ヘブル11:1(私訳)
キリストとエンタングルメントし、御子の信(pistis)のうち(en)に生きるってこんな安楽はないでしょう。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信のうちで、生きているのである。-Gal 2:20(改)
邦誤訳の問題点はすでに指摘しているが、たとえば「洗礼」なる訳語も大変にまずい。これは単なる儀式だ。真理はバプテスマ、それは浸し込むこと。我々はキリストにインプラント(Gk.sumphutos)されたからキリストとひとつ(Rom 6:5;1Cor 6:17)。
そもそもフェイスは霊(2Cor 4:13)(☞過去記事群)、エンタグルメントによりキリストと私はその霊を共有している。「使徒信条告白~」なんてものは単なる式文に過ぎない。
かくして私たちはキリストとバイブレーションを共有しているだけでよいのだ(☞バイブレーションについてhこちらの記事群を参照)。
その時、聖霊は霊の感光またプロンプト(促し)を与えてくださり、それに応答する形(これを自由意識と思っている)で私たちが語り、また働くとき、天のサブスタンスが地に実体化する。まさに天になるとおり地にもなるのだ。このメカニズムはフォティーゾと言われることはすでに説いている。
キリストと私たちはその人間性、死と復活、昇天、そして着座を共有しているのだ。この事実をサタンは隠しておきたい。だから信仰に励め~、聖化~、奉仕伝道、献金、会堂建造、教勢拡大、日本民族総福音化の決起集会~と騒ぐわけ。ほとんど喜劇のレベルではあるが、以下自粛。

・・・キリスト教の外側から見るとルター派と改革派(カルバン派・ツビングリ派)は同じようなものだが、改革派から見るとルター派はむしろカトリックに近いくらいである。ルターの世界観も僕の規範からすると半分カトリシズムだ。ルターには狂気に近いものがある。ヒトラーが最も尊敬していた偉人はルターで、ナチズムはルター派の伝統なくして生まれてこなかった。獄中では近現代のドイツ哲学・思想を集中的に勉強したが、ドイツ的なものの見方・考え方の中に、現代の病理現象が圧縮されているように僕には思える。同著pp.360-361
—–
カルバン派についてはそれを病理的に先鋭化した再建主義者を見ているとまったく同意であるが、ルターの評価には驚いた次第。彼には狂気に近いものがあり、その思想はナチズムに基礎を与えていた!確かにルターも批判者を十万のオーダーで殺しているわけで・・・。
いやはや私は思想なるものには怖さを覚えると前に書いたが、そのひとつの証左が与えられたかも知れない。キリスト教と言うキリストの影の固定化にして抜け殻を先鋭化するとき、神の名によって人を殺すことが自由にできてしまう!?狂気とはまさに「神がかり」のこと。それは赤軍派が「総括」と称して互いに殺し合ったのと同じ病理。ミームの伝染によりフォリア・ドゥからフォリア・トロア・・・と。日本がいわゆる「リバイバル」されることを私が恐れる理由はここにある。抜け殻としての「キリストの名」による神聖政治・社会などは、心底から恐怖を覚える次第。
キリストとキリスト教―そこには致命的な深い溝が横たわってはいないだろうか?

すでに何度も指摘しているが、<カルバン(決定論=神の意志)VSアルミニウス(偶然論=人の意志)>の神学ギロンはナンセンスである。われわれの認識能力として、決定論か偶然論を識別することはできないのだ。詳細は次の記事にある再建主義者との議論のログを参照のこと。
そもそも人の自由意志なるものが幻想であることは脳科学でも証明されつつあるし、聖書の言うところでもある。
同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。・・・しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。-Gal 4:3-9
つまり諸霊は人間のマインドに干渉するのだ。世の人はほぼ無意識的にその影響を受けているが、自分の決断や好みなどがその働きの結果であるとはまったく考えていないでしょう。

さて、今回、FBで紹介しておいたこのクリップ、実に面白い。人間の意識作用は無意識レベルでの反応の後付け講釈であると。
つまり意識は、諸霊や自分の無意識の反応を受信して、それを解釈したものであるのだ。自由意志なるものも、実は無意識が生み出した何らかの決定がやや遅れて意識化されたものにすぎない(受動的意識仮説)。
かくして大脳なるものは、一種の受動的受信機であるとする説が浮上する。何かを生み出すと言うよりは、何かを受信し、それを意識の中で構成するのだ。事実、聖書ではこう言われている:
夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが・・・-John 13:2
どうように福音もロゴスがわれわれの心に撒かれることである。
それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが・・・-Mark 4:31
つまり私たちのマインドに撒かれたロゴスは私たちの心の中で成長、増殖する。これがサブコンシャスのレベルで行われるのだ。もちろん聖霊の働きによる。そしてその聖霊は私たちの腹から川川となって流れ出る(John 7:39)。
The spirit of man is the lamp of YAHWEH, searching all the inward parts of the heart.-Prov 20:27
私たちの霊は聖霊と共に働き、サブコンシャスのレベルに浸透し、探索する。こうして無意識の領域において私たちの魂の再構成がなされる。
かくして、われわれの好みや意志決定などはほぼサブコンシャスのなせる業であり、いかにあてにならぬものかは、大恋愛の末に結婚した芸能人があっという間に離婚することで分かるであろう。ではわれわれはどこに意識の根拠を置くのか。もちろん御言葉=ロゴスである。
だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉(ロゴス)は、あなたがたの魂を救うことができます。-James 1:21
そこでこう奨励されている:
キリストの言葉(ロゴス)があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。-Col 3:16

ここの「内に」とは単なる意識の表象としてではない。サブコンシャスの領域に至るまで御言葉が浸透することを意味する。これはもちろんキリストの体性メモリを再現する聖霊による。御霊と御言葉は共に働き、私たちの魂のサブコンシャス(無意識)の領域をも作り変えるのである。もちろんキリストの形へと!

神の選びと人の自由意志の関係はいわゆる「カルバンVSアルミニウス論争」として知られているが、われわれサイエンティストから観るとナンセンスであることをすでに何度も指摘している。そもそも自由意志なるものが幻想であることも(☞参照)。われわれは聖霊のプロンプトに応じただけなのだ。


ここで想起するのがエサウとヤコブの選びであり、諸葛孔明と司馬懿の選びである。
主はエサウを憎みヤコブを愛した(ロマ9:13)
ヤコブ、まさに狡猾さの極みの男。なぜだ?
三国志でも天は劉備ではなく曹操を選んだ。彼ら亡き後、諸葛亮の計略により胡盧谷で火に囲まれる司馬懿、亮が「司馬懿は炎の中で死を免れぬ。先帝よ、ついに大漢再興の時が来た!」と感涙の声を上げるも、なんと豪雨が。天は諸葛亮を退け、司馬懿を選んだ。なぜだ?
諸葛亮は言う:事を謀るは人にあるが、事を成すは天にある、と。
ソロモンも言う:人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。-箴言16:9
もしあの時雨が降らなかったなら、その後の歴史はどうなっていたのか? 歴史に”IF”はないのだが、つい考え込んでしまう。しかし往年の司馬懿は諸葛亮恐怖症に陥る。ことわざにいわく:死せる孔明、生ける仲達を走らせる、と。かくして常に思うのだ、俺はエサウとヤコブ、劉備と曹操、そして諸葛亮と司馬懿のどちらだろうか? なぜだ?
なぜ? という問いにはサイエンスは答えられない。否、哲学も、神学も、あらゆる学問も答えられない。そもそもなぜ自分が生きているのか?という原点の問いにも解答はないのだから。
人は、何故?と問う故に苦しむのだ-Dr.Luke-
まことにわれらは陶器、主は陶器師、かくしてソロモンの箴言に戻る:
すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。

本日のこの番組、おもしろい。神学などは愚かな議論をしていることがよくわかる。かつて再建主義者と論争した際のログを参照のこと。
主のみ心を行うと称して、しばしば自分のサブコンシャスの欲求が意識に投影されるだけのことってよくある。リキ入れる人ほどね、これも逆説。



ロマ書5章の「アダムの違反と同類の罪」(Rom 5:14)と同7章の「内住の罪による罪」(Rom 7:17)の違いについてはすでに指摘した。一人の違反により罪(Sin)が世に入り、死が全人類に沁み込んだ(田川訳)(Rom 5:12)。現経綸の体は「死の体」ゆえ、罪(Sin)に抗せないため、アダムにあって生まれた人は時系列のある時点で自らの意志により罪(sins)を必ず犯す。律法を持つ者は律法により、律法を持たない者は良心によりそれは認知される(Rom 2:14-15)。
そして罪は罪と死の法則により、この体の中に働き出す(Rom 7:21-23)。このゆえに現経綸の体は「罪の体」とも呼ばれる(Rom 6:6)。ローマ7章のパウロの葛藤は、神の律法を行おうとする思いの法則に逆らって罪と死の法則が働くことにより、これら三種類の法則(Laws)によってがんじがらめになっている状態である。
律法により罪(Sin)はその悪性度を強める(Rom 7:13)。まことに死のとげは罪、罪の力は律法である(1Cor 15:56)。ついにパウロは叫ぶ、自分はなんとみじめなのだ、誰がこの死の体から救ってくださるのか、と(Rom 7:24)。そしてイエス・キリストに感謝を捧げるのだ。が、その直後こう告白する:
わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心思いでは神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである-Rom 7:25。
彼はデュアルワールドに生きていることを告白しているのだ。そしてロマ8章では新しい法則が導入されて、パウロは葛藤から解かれる道を見出す。
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 –Rom 8:1-2
それは自己努力の問題ではなく、法則による。重力の法則を飛行の法則が打ち消すのと同じことだ。飛行機に乗ったら誰も自分で飛ぼうとしない。あるいは落ちないようにシートにしがみつくことも無意味である。ただ、安息して座るだけだ。まことに
信じた者は自分のわざをやめて安息に入る。-Heb 4:3
しかもその罪(Sin)はキリストが罪とされることにより(2Cor 5:21)、その肉体において処罰され、すでに主人の座から引き下ろされている(Rom 8:3)。それは毒を抜かれたウイルスのようなものである。ただ、われわれが霊の領域を出て、それに同意するときには、依然として罪(sins)を犯す余地がある。その時にはイエスの血潮が用意されている(1John 1:9)。
パウロが生きるデュアルワールドは、ひとつはナチュラルな五感の領域、ひとつはスーパーナチュラルな霊の領域である。罪と死の法則は五感の領域で働く;対していのちの御霊の法則は霊の領域で働く。パウロはこうも言う-
もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。-Rom 8:10
エロヒムの霊を分与されて、その種(sperm;DNA)をインプラントされたニュークリーチャーとはもちろん霊の領域の存在である。そこにはキリストが生きておられる、否、聖霊が来られるとき、父と子もその人のうちに共に住まうのである(John 14:23)。ニュークリーチャーの本質は、体でも魂でもなく、霊である。
ここで魂(知・情・意)の位置が問題となる。それは体と霊のはざまに存在し、どちらの影響を受けるのかが問われる。体の五感による物理的サブスタンスの影響を受けるのか、霊の感覚(Heb 5:14)による霊的サブスタンスの影響を受けるのか。前者は肉の人と呼ばれるが(1Cor 3:3)、後者は霊の人と呼ばれる(1Cor 3:1)。そしてその間に魂の人が存在する(1Cor 2:14)。
義人はフェイスによって生きる(Heb 10:38)、フェイスとは願われるサブスタンスとその現出である(Heb 11:1)。問題は五感の領域からいかに解かれるか? パウロは言う-
なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。-Rom 8:13
ここの「霊」には定冠詞はない。つまり必ずしも御霊のことではない。五感の働きを無効にするのは霊である。ガラテヤ書においても-
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。-Gal 5:16-17
ここの霊も必ずしも御霊とは言えないが、御霊は私たちの霊と共に働くことは指摘しておく(Rom 8:16)。この節はロマ7章の葛藤とは異なる。ロマ書は三つの法則の対立であり、ガラテヤ書は霊と肉の対立である。しかも「自分のしたいと思うこと」とは前節の「肉の欲望」であり、それを無効にするのは霊であるとパウロは指摘する。
かくしてパウロが証しするとおり、ニュークリーチャーたるわれわれは、スーパーナチュラルな霊の領域とナチュラルな五感の領域のデュアルワールドに生きている。魂はそのはざまで選択の自由があるのだ。この点においてエデンの園におけるアダムの立場にあるとも言える。カルバンは全的堕落と称して、自由意志の働きさえも認めないが、自由意志は今もなお働くのだ。意志の力は救いをもたらさないが、意志による応答はYHWHの救いへともたらす。
霊のうながしか、五感のうながしか、魂はそのどちらに応答するか、つねに選択を問われている。この意味で英国のColin Urquhartは「フェイスとはチョイスである」と言っている。

いつもの再建主義の富井氏によると聖書のエッセンスはこうなるようだ。ちょっと検討してみたい。
聖書の中心的なメッセージは次のとおりである。
1.アダムは創造されたときに「もし神の命令をすべて守るならば、永遠の命と、被造物を支配する永遠の王になれる」との約束を与えられた。しかし、堕落し、失敗したので、アダムから生まれるすべての人は「生まれながらの契約違反者」である。
「神の命令をすべて守るなら」とあるが、YHWHエロヒムはすべての木から食べて良いが、善悪を知る知識の木の実は食べてはならないと命じた。「すべて守る」のではなく、「例外のひとつ以外、すべてが許可されている」のだ。この違いは大きい。が、アダムは失敗し、彼により世界に罪が入り、全人類に死が支配することになった(Rom 5:12)。
2.イエス・キリストは、人間に代わってすべての律法を守り、信じるすべての人間の罪の刑罰を負って処刑され、人間が果たすべき神のすべての要求を満たされた。
キリストはすべての人のために死なれた(1Cor 15:22;2Cor 5:14-15;Heb 2:9)。特に―
つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。-1Cor 15:22
「アダムにある状態」とジャスト同じに「キリストにある状態」に転換する。このために、フェイスにあってキリストのうちにインプラントされる必要がある(Rom 6:3-5)。すべての人は十字架により裁かれて死んだが、フェイスによる応答がないと復活していないのだ。復活はただフェイスによる。
3.そのため、神はアダムへの約束を果たし、キリストを復活させ、永遠の命を与え、昇天させ、永遠の王とされた。
ほぼ同意だが、「アダムへの約束」とは創世記3:14-15(Gen 3:14-15)のことだろうか? 「アブラハムへの約束」ならば、女の種(単数形)であるキリストご自身であるが(Gal 3:16)。アブラハムへの約束こそ新契約そのものであるキリストであり、その430年後に付加的に入った律法によって無効とされなかったのだ(Gal 3:17)。YHWHの意図は律法ではなく、キリスト(=いのち)である。

4.人間は、イエス・キリストを信じることによって、アダムとの契約を断ち切り、アダム族であることをやめ、キリストとの契約を結び、キリスト族となる。
主語が問題。「人間は・・・する/なる」のではない。「私が律法を行うことではなく、私が御子を信じることにより救われる」がプロテスタントの根本だが、これの主語はあくまでも「私」(☞プロテンスタントの誤り)。正解は「律法の働きは私を救わないが、御子のフェイスが私を救う」である。「私」は主語ではなく、目的格だ。私ではなくキリスト。
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。-Rom 3:28
これは旧版の新共同訳であるが、新改訳だと「律法を行うこと」とある。主語は誰か? 「私が」である。NO. 律法のエルゴンではなく、フェイスによるのだ!
また、アダム族からキリスト族への転機も契約的であると主張するが、単に「契約的に」ではなく、エロヒムとしての同じいのち(Zoe)の共有による。同じ霊のDNAを組み込まれているのだ!(☞神の新創造-神の霊的遺伝子工学)
5.キリスト族となった人は、契約的にキリストの体の一部であり、それゆえに、キリストにあって、すべての律法を守り、罪を処罰されたとみなされる。さらに、キリストにあって復活し、永遠の命に与り、キリストにあって昇天し、永遠の王になる。
キリストの体になることも「契約的」と。私の頭と体は契約的に一体なのではないように、私たちはいのちの共有体としてキリストの体の一部に構成された。後半は同意。
6.クリスチャンは、キリストとともに天の王座に座っており、地上をキリストとともに統治する責任を負っている。歴史は、神の国の発展の舞台であり、時間とともにキリストは地上において勝利され、いずれ全世界がキリストの御国となる。
同意。問題はその時期だが。再建主義では、現在がすでに千年期とするわけ。YHWHの業は天地創生の時にすでに完成しており(Heb 4:3)、その永遠のリアリティーが我々のフェイスと共に働かれるYHWHの力によって<今・ここ>に現出する。
7.クリスチャンは、大宣教命令を守り、ノンクリスチャンに福音を伝え、イエス・キリストが命じたすべてのことを守るように訓練しなければならない。
同意。
以上の主張で明らかなとおり、彼の聖書理解のキーワードは「契約的」。これはカルバンやラッシュデゥーニーの影響であろうが、理解が平面的なのだ。この図を再掲するが、いのちの木の次元と善悪の木の次元で立体的に理解する必要がある。私はいのちの次元を本質性(スーパーナチュラルな領域)、善悪の次元を経綸性(ナチュラルな領域)と呼んでいる。

一方で、富井氏は律法だけを強調するのもおかしいとする(☞律法強調に伴う危険)。聖霊によらずして律法を守ろうとすることの危険性を言っているのであろう。つまり、契約的に断罪されたアダム族にあった人が、信仰により契約的にキリスト族とされ、聖霊を受けるならば、その力によってアダムがなし得なかった契約を完全に守ることができる、と言うのだ。主語はだれか、「私が」である。
と言う次第で、いのちのディメンジョンが完全に抜け落ちている。YHWHのすべての御心に沿う生き方はアダムにある「私」はできなかったが、その「私」をキリストと共に十字架で終わらせ、復活させ、昇天させてくだった。だれが? 主語は「YHWH」。それはいのちのレベルをスーパーナチュラルに相転換したのだ。契約性は条件ではなく、結果。主が私を新しい契約に置いてくださったのだ。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子
に対するのフェイスにあってでです。-Gal 2:20
このとき、フェイスはエルゴン(ワークアウト)されるのだ(James 2:22)。いわゆる<信仰VS.行い>あるいは<恵みVS.律法>の対立は単なる神学のマトリックスに過ぎない。
クリスチャンはニュークリーチャー、エロヒム属であり、契約的にYHWHと関わるだけではなく、エロヒムのいのちを共有するエロヒムなる存在として、TriuneなYahawehエロヒムと関わるのである。それはまことの親子関係である。そしてキリストの全ては私のものとされているのだ。なぜ? キリストと私は不可分な存在であるから!

この武田先生の説はもっともであると同意する。今回のコロナはある種の社会実験であったと思う。いかに大衆はマニュピレートされ易いかがよく分かった。カギは恐れを撒くこと。人は大脳辺縁系を刺激されて恐れを抱くと理性が吹っ飛ぶのだ。だから冷静にかつ客観的にデータに基づくエビデンスとロジックによる判断ができなくなる。要するに恐れでマヒするのだ。
このビデオで指摘されている流れは多分不可避であろう。これは聖書預言から見ても終末の兆候そのものだからだ。これを見てわれわれは次の御言葉を思う:
このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。-ルカ21:28
「このようなこと」とは、①贋キリストの出現(Luke 21:8)、②戦争・暴動・民族や国家間紛争(Luke 21:9-10)、③大地震・飢饉・疫病(Luke 21:11)、④天の恐るべき徴(Luke 21:11)、⑤迫害(Luke 21:12)、⑥エルサレムの蹂躙(Luke 21:20)、そして⑦イチジク(イスラエル)の回復(Luke 21:30)などである。
われわれは現在、「このようなこと」をリアルタイムで見ていることは誰も否定できないであろう。しかしながら再建主義の富井氏によれば「これらのこと」はAD70年にすでに起きていることなのだ。ゆえに上の武田氏の予言する世界の在り方は千年期にふさわしくない、「あってはならないこと」なのだ。つまり、メーソンやイルミナティによるヤラセとなる。そこで、彼はこう主張する―
今回の自粛によって政府による管理に慣らされた人々は、さらなる管理に導かれ、体内に入ったチップのデジタルデータに基づいて商業活動が規制される黙示録13章の世界が現出するかもしれない。
何度も述べているように、黙示録は19章まで紀元70年頃に終わっている。
ナザレのイエスをメシアと信じるわれわれは、この考えに同意しなければならない。
ナザレのイエスをメシアと信じないユダヤ教徒、とくに、その頂点に君臨するシャバド・ルバビッチ派は、黙示録を利用して、偽メシアによる世界統一を目論んでいる。
今、われわれが祈らなければ、世界は邪悪な人々によって支配されてしまう。行く末には、大量虐殺が待っている。
福音派のクリスチャンたちは、ディスペンセーション主義によって騙され「黙示録に預言されたとおり反キリストが登場するが、その前にわれわれは携挙される」と信じている。
そのため、彼らは世界政府に反対して祈らない。世界政府が今できないと、携挙も遅れるからである。
自分たちが救われるためには、世界が悪者に支配されなければならない。
彼らは、このような邪悪な考えによって頭を占領されている。
われわれしか祈る人々はいないのである。
マーカーを引いた部分はほとんど中傷であると言えるが、これが彼の脳内マトリックスなのだ。AD70年に一度目の再臨も最初の合同の携挙も終わっており、現在は千年期。サタンは深い穴に閉じ込められているはずであり、したがって千年期に反する事象はあってはならないことなのだ。それらはすべて陰謀である言わざるを得ない。
かくしてメーソンやイルミナティによる終末世界の演出をすべて祈りにより駆逐する必要があるとする。ただ面白いのは、邪悪な人々による支配の先にあるのは大虐殺であると。これは聖書のどこに根拠を置くのであろうか?
もし啓示録9章15,18節(Rev 9:15;18)の人類が三分の一殺されることを示すのであれば、それはまだ成就していないことになる。彼においてはソレはすでにAD70年に起きていることではなかったか?
つまり彼の頭の中のマトリックスは、AD70年にすでに起きてしまっている諸事象を、メーソンやイルミナティが再度終末の事象として再現させると言うことになるのだ。そこではてなマークだ。
再建主義は厳格なカルバン神学、つまり二重予定説を採る。すべてはすでに神のシナリオが書かれており、いかに人が努力しようともそれを覆すことはできないはずなのだ。究極の確定論である。しかるにモグラ叩きのように陰謀を潰していかなくてはならない。果たしてどこまでやり続けるのであろうか。それはフェイクなのに、だ。
かくしてこのタイトル画像にあるような逆さ富士を思う次第。同じ事象を見ても、まったくひっくり返った判断となるのだ。ちなみにこの千円札の逆さ富士は、厳密には上下対称ではない。微妙にズレがある。再建主義に関してもこのズレが違和感として感じられてしまうのは果たして私だけであろうか?

再建主義はカルバン神学を基礎として、ポスト・ミレに立っている。つまり現在はすでに千年期であり、御国の建設のために邁進すべしというスタンスである[1]この点において、再建主義者は天皇をトップにした統一された世界すなわち八紘一宇の建設(大東亜共栄圏)と親和性があるのだろう。。サタンの手先であるメーソンやイルミナティによる世界統一政府樹立を阻止し、欺かれているディスペンセイションを粉砕し、モーセ律法によるキリストの国を打ち立てることが彼らの人生の意義である。ゆえに次のような発言になる-
瞬間に創造できる神が、なぜ世界を6日で創造されたのか。
http://www.millnm.net/cgi-bin/wwwboard.cgi
それは「人間の労働のフィールドだから」である。
世界は、労働の場、作業場として建設された。
6日働いて1日休むシステムは、労働のそれである。
神は人間を労働のために創造された。
人間は、神の命令にしたがって作業をし、神的文明を築き上げる責務を負っていた。
そして、その作業を完成したら、報酬を与える予定であった。その報酬とは、自分が耕した農地、自分が獲得した利益である。
神は、アダムが完全に神の命令にしたがって労働したら、その労働した分を全部、アダムに「永遠に」与える予定であった。
アダムにとって、人生とは、報酬を受け取るための労働であった。したがって、「人生は楽しむためのもの」という認識は基本的に間違っている。
人生の主要な意味は「労働」である。
神のために財やサービスを生産することである。
果たして御言葉はこのようなことを啓示しているだろうか?
パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの-1コリント3:22
信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。-ヘブル4:3
すでにニュークリーチャーたるわれわれは時空間の存在をすべて所有していると書いてある。そして信じた者は自分のわざをやめて安息に入るのだ(Heb 4:10)。主はご自分の血で買い戻して下さったすべての嗣業をわれわれに相続させ、それを楽しめと言われるのだ。
すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」-ルカ15:31-32
どうも再建主義者はこの放蕩息子ではなく、「こんなにあなたのために働いているではありませんか、なのに・・・」と不満を訴えた兄のスタンスで生きているようだ(Luke 15:29)。御父は、わたしの持っているものはすべてお前のものなのだと言われるのだが・・・・。
われわれが労するのではない[2] … Continue reading。フェイスによるエルゴンが労するのだ(Col 1:29;James 2:22)。それはフェイスとエルゴンのシナジー効果だ。フェイスはわれわれの僕だ。YHWHエロヒムの霊のバイブレーションに共鳴したわれわれの霊から語り出された言葉(レーマ)は、必ずその言い送られたことを成し遂げる(Isa 55:11)。
フェイスは”おあづけ”状態の犬のようなものではない。これから頑張ってゲットするのではない。すでに得ていることを実体化することだ。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(or 実体化)であり、まだ見ていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)
「まだまだ」モードから「すでに」モードへのシフトである。われわれはそのフェイスの実を収穫して楽しむのだ。満ち足りよ! 楽しめ! そしてこれは来るべき千年期の前味わい、フォア・テイスティングである。そのために聖霊が手付金として与えられたのだ(Eph 1:14)。ゆえにわれわれはセレブレーションにて喜び祝うのである。
人を豊かにするのは神の祝福であり、人の労苦は何も加えない。-箴言10:22

主の十字架は霊的サブスタンスとしては天地創世の時からだが(John 13:8)、時系列の中では果たしていつか。私たちはレント(苦難週)やイースター(復活祭)などは一切関わらないが、歴史的事実としての十字架の日に関しては興味がある。
すでにメッセでも語り、記事にもしているので再掲することにする。結論を言えば、ニサン14日の木曜日である!
ハッキリ言う、ルターだの、カルバンだの、ウエスレーだの、シュライアマッハだの、バルトだの、いわゆる白いキリスト教神学などは世の哲学や思想で汚れている。虚しい騙し事の哲学とパウロも言っているであろう。純粋な御言葉に帰れ!
経済はブラック・ショールズ方程式など知っても分からんが(ぼくは知ってるが)、複式簿記が分かればわかる。複式簿記は人類の智慧であるとゲーテは言った。霊の真理も同じだ。神学理論などではなく、生の御言葉を知ること!

今回のメッセでも指摘しているとおり、神の意志と人の自由意志の相克は無意味であることは、かつて再建主義の富井氏との議論において指摘した。現在、スパムのためにそのBBSを閉鎖しているので、簡単に触れておく。
人が救われるのはその自由意志によるのか、神の選びによるのか。もし神の選びによるのであれば、選ばれていない人は救われないのか? あるいは神の意志のみが行われるのであれば、私の祈りなどは無意味ではないのか? 私が今祈ることはたして神の意志に従っているのか、それとも神の御心に受けれられないのではないか?・・・等々。
アダムの堕落も彼の自由意志によるものであると通常は考える。いわく、神は人をロボットとして作られたのではなく、自ら愛し、自らご自身に従うために、自由意志を与えられたと。しかるにアダムはそれを乱用してしまったとする。確かに現象としてはそのとおりであり、一応の説明は可能だ。が、一方では聖書はこう告げる-
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。-ロマ8:20
この被造物には人は含まれないとする人々がいるようであるが、その立場に立って考えても、人を除いた被造物が虚無に服したのはアダムの罪のためであることは否定できない[1]ロマ書8:22(Rom 8:22)では「すべての被造物」とあることを指摘しておく。、ゆえにその結果を生んだアダムの罪は神の意志によることになる。これが論理的帰結だ[2] … Continue reading。原因は神の意志によらず、結果だけは神の意志によるとするのは論理的にも破綻している。
そもそも人に自由意志を与えたのも神の意志である。この場合の神の意志は、よくキリスト教徒が何かの選択をする際に、「これは神の御心だろうか、自分の意志だろうか」とか悩むようなものではない。アダムは確かに自由意志を用いたが、その意志の結果さえ、神の意志によるのだ。つまり五感の領域における誰々の意志というよりも、時空間を超えた永遠の神の意志である。この領域ではすべて神のわざは完成しているのだ(Heb 4:3)。
これでいわゆる二重の選びを唱えたカルバンと、人の自由意志の働きの介入を唱えたアルミニウスの議論が生まれるわけだ。単純に言って、確定論と偶然論の二項対立である。救世軍の山谷少佐はアルミニウス的立場にあり、中間領域なる神学概念をもって、人の自由意志と天使的勢力との関わりに基づくモデルを提示されている。
この点については自然科学の視点からすると、認識論の限界があり、確定と偶然をそもそも区別することはできないのだ。つまりコインを投げてできる裏表の系列(偶然論)とある規則に基づいて生み出された数列(確定論)は1:1に対応するのである。これが現代のカオスの理論が示す人間の認識についての事実である。つまり、カルバンVS.アルミニウスの議論はナンセンスなのだ。神の意志と人の意志を同一平面においてしまうゆえに、コンフリクトが起きるわけだ。

さらに、イスラエルとエクレシアの選びについても、置換神学などが唱えられる。いわく、イスラエルは霊的イスラエルであるエクレシアに置き換えられたゆえに、その選びは終了したと。数年前、バチカンもそのような決議を行った。が、これも二つの選びを同一平面上に置くことによる罠である。これについては次の記事を参照されたい:
また、律法と恵みの関係や、行いと信仰についても同様に同じ平面上で考えると対立が起きる。これがルターの誤り、ひいてはプロテスタントの根本的ミスであることもすでに指摘しているところだ。
- 律法と恵みについて
- 律法とクリスチャンについて
- パウロとヤコブについて
- ルターの義認論の誤り-「律法を行うことではなくキリストを信じること」ではない-
- ルターの嫌ったヤコブ書の真理:フェイスはエルゴンをワークアウトする
- プロテスタントの「信仰義認」の根本的誤り
神の愛(人を赦したい)と義(人を裁く必要性)も二項対立するところであるが、神の第二格位のロゴスがジーザスとして人間となられ、十字架においてその二つを見事に実証(弁証ではない!)された。YHWHが両当事者としてご自身の本性を証されかつ宇宙の秩序を守られたのだ[3]旧約は人が神の基準を満たせば祝福されるという片務契約、新約は神が両当事者の責任を全うした双務契約である。。
神の意志と人の意志も一見対立するかのように見えるだろうし、ニッポンキリスト教徒はしばしばその葛藤でクルシチャン化するのも事実である。よく引かれるのが、ゲッセマネでの主の祈りである。が、あの祈りは特殊任務を帯びたジーザスにとっても特異的な祈りである。われわれに字義通りに当てはめるのは自滅を招く。それはあの十字架(The Cross)のためのものだから。われわれは主の十字架を担うことはできない。主は「各自の十字架を負ってわたしに従え」と言われるのだ(Luke 9:22-24)。
天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。-Isa 55:9
つまり、同一平面上では二本の平行ではない直線は交わる。が、3Dにおいては平行でなくても交わることがないのだ(ねじれの関係)。その二本はガチンコしない。かくして一見二項対立するように見える事柄も次元を上げるならば、矛盾なくそれぞれが存立し得るのである[4] … Continue reading。
いつも掲載しているこの図を再度ご覧下さい。聖書はいのちの次元と善悪を知る次元において立体的に理解する必要がある。

再建主義者のシェーマと対比すると、その必要性がよく分かると思う。

実はこのように次元を上げる作業は数学や物理ではよく行われること。例えば、ニュートン力学(ガリレイ変換)と電磁気学(マックスウェルの方程式)は矛盾した。が、すべての慣性系において「光速度一定」と「物理方程式は同一の形に書ける」ことを前提にして、アインシュタインはローレンツ変換により相対性理論を構築した。物理現象をとらえるマトリックスの次元を上げたのだ。かくして現在は宇宙は10次元ないし11次元のヒモからなることが提唱されている(超弦理論)。
永遠のNOWにおいては神のわざはすでにすべて完成している。十字架もすでに天地創世の時にあったのだ[5] … Continue reading。
もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-ヘブル4:3
地上に住む者で、天地創造の時から屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは・・・-啓示録13:8[6] … Continue reading
この永遠の領域においてすでに成っている事(サブスタンス)が時系列の中において実体化するのである。これがフェイス。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ観測されていないことの立証(現出)である。-Heb 11:1 (私訳)
言いたいことは何か。神の意志をこの五感の領域において、私の意志と並列すること自体がとんでもない僭越なことであるのだ。神の意志はこの領域を超える。それは永遠の領域においてすでに成就している意志であるから。その成就したサブスタンスを、<今・ここ>で実体化すること。これがわれわれのフェイスである。
十字架も人が効果で尊いからジーザスが身代わりになってくださったとかする幼稚なむきがあるが、主の死は単なる身代わりではなく(⇒1ペテロ3:18は単なる「身代わり」を意味するのか?)、全旧被造物を終わらせたのである。そして復活により、すべてを新しくされた。これが永遠のリアルである。
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。-2コリント5:17
この永遠の事実に応じるとき、それがわたしにおいて実体化(経験化)される。ここで私の自由意志(イニシャル・フェイスとでも言える)が働くが[7] … Continue reading、もちろんそれは聖霊の働きによるものである。つまり神の意志によるのだ。
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。-1コリント12:3
ロマ書8章の議論は、旧創造と新創造の対比であり、われわれは新創造の初穂として、時系列における完全なる贖いの完成(=体の変貌)を待ち望んでいる。そして被造物もまた同じなのだ。そもそも神のご計画のすべては神の証のためあり、神のいのちの増殖のためである。つまりエロヒム属の拡大。これについては、私の「新創造セミナーI,II」を参照されたい[8]YouTubeではスライドを提示しておりません。動画をご希望の方はDVDをお求めください。。くれぐれも神の意志を自分の人生において誤解乱用することがないようにしてもらいたい。下手するとそれは自滅あるいは他滅を招くことになりかねないからである[9]自責感で苦しむクルシチャンもいるし、人が神の名の下にあってはどんな残虐もなし得ることは歴史が証明しているであろう。。
References[+]
↑1 | ロマ書8:22(Rom 8:22)では「すべての被造物」とあることを指摘しておく。 |
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↑2 | 例えば、今、グラスが落ちて割れてしまったとして、これは神の意志であるとする。なぜ割れたか。それは誰かが落としたからである。では、その人が落としたことは神の意志になるのか、否か、と問うてみれば、明らかであろう。これは論理的に「p⇒q」が正しい時、pを満たす集合Pはqを満たす集合Qに含まれる。そのQが神の意志であるならば、当然にそれに含まれるPは神の意志になることは自明である。感情論や神学云々以前のお話である。 |
↑3 | 旧約は人が神の基準を満たせば祝福されるという片務契約、新約は神が両当事者の責任を全うした双務契約である。 |
↑4 | われわれのオツムの中の概念は、上の画像のように実体(サブスタンス)の影に過ぎないのだ。影を論じるのがキリスト教神学。これでややこしい不毛なマトリックスが構築される。ちなみに佐藤優氏は神学についてこう語っている。 |
↑5 | 使徒行伝はこう語る:このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した(Acts 2:23)。これは永遠の領域の十字架が時系列の中に神のフェイスにより現出することである。 |
↑6 | 邦語訳では「天地創造の時から、屠られた・・・」とするが、これは不適切である。永井訳は「天地創造の時から」を「屠られた」に修飾している。 |
↑7 | ここで大切なのは、われわれの意志の「力」には救いのパワーはない。が、意志することは可能。それは御言葉に対する応答と言っても良い。このとき、私の意志と神の意志がハマルのだ。 |
↑8 | YouTubeではスライドを提示しておりません。動画をご希望の方はDVDをお求めください。 |
↑9 | 自責感で苦しむクルシチャンもいるし、人が神の名の下にあってはどんな残虐もなし得ることは歴史が証明しているであろう。 |

これからのテレビは4K。つまり横約4,000ドット、縦約2,000ドット、800万画素の超細密映像の時代だ。原理は縦糸と横糸のマトリックスのクロスポイントの液晶が色を発する仕組みだ。霊的真理もこれと同じ。
人はオツムで考えたがるもの。例えば、有名なカルバンVS.アルミニウスの論争。カルバンは神の予定(二重予定説)によりある人は救われ、ある人は滅びへと至るとし、人の自由意志の介在を一切認めない。アルミニウスは人の自由意志がその人を救いへともたらすとする。単純に言えば、確定論VS.偶然論の対立。これについては、すでに人の認知能力として、確定と偶然を識別することはできないことを指摘している。
あるいは行いと信仰(あえてこう言っておく)の対立。パウロは人が救われるのはただ信仰によるとし、ヤコブは信仰のみではなく行いによるとする。これについてもシナジー効果として、まことのフェイスは自ずと行い(エルゴン)を内包するものであると指摘した。
関連して、フェイスの由来も、「神を信じる」ではなく、「神のフェイス」(Mark 11:22)、「御子に対する信仰」ではなく、「御子のフェイス」(Gal 2:20)であることも指摘した(⇒記事群)。この対格による理解がルターの過ちであり、プロテスタントの根本的誤謬の原因であるも指摘した(⇒記事群)。カギは、「私ではなくキリスト」である(Gal 2:20)。キリストご自身が義と聖と贖い、さらに知恵、すなわちフェイスとなってくださったのだ(1Cor 1:30)。
かくして人間のオツムにおいては矛盾対立する要因が、実は縦糸と横糸のクロスポイント=十字架=においては何ら葛藤することなく成立、証しされている。だから、<今・ここ>において私は救われ、ニュークリーチャーとされているのだ(2Cor 5:17)。オツムによる納得ではなく(=弁証)、霊的法則に乗ることによりこの霊的ファクト(=実証)が重要なのだ(Gal 6:15)。この霊的ファクトを私の身体と魂(知・情・意)を通して表出すること。これが神をエミュレートすることだ(Eph 5:1⇒神をエミュレートする-God-OS)。
この縦糸と横糸の霊的マトリックスの密になればなるほど、霊的理解力、ビジョン、啓示の解像度がアップする。神の声や幻は、聖霊派がよくやるような「主はこう言われます~」といったものではない。よく「霊を見る」とか、「声を聴く」とか、自慢気に吹聴するむきがあるが、これは単なる霊能力、恐山のイタコか沖縄のユタのようなものだ。TVが液晶の縦横のマトリックス上において映像や音声が実体化されるように、啓示も御言葉の縦横のマトリックス上において幻や声として実体化されるのだ。御言葉をバイパスした霊的現象は危険であると指摘しておく。クリスチャンは神のロゴスであるジーザスというポータルを通して霊的領域とコンタクトするのだ。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。-John 10:9
かくして私たちのマインドの中に組み込まれる御言葉のマトリックスが細密になればなるほど、正確に神の意志を把握し、あらゆる問題に対してキリストのマインドが応答するようになる。御言葉の粗雑な理解はむしろ有害、御言葉を勝手に解釈して自滅する者がいるのだ(2Pet 3:16)。内側に御言葉を密に組織構成されること。これこそが神の豊かさを享受するカギである。
キリストの言葉(ロゴス)があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。-Col 3:16-17

と教える人々がいるとのこと。ある集会の証の本に、「病気の癒しを祈ってはならない、悪霊が働くから」と書いてあるのを見て目が点になったことがある。この人たちは異言も悪霊によるとしているらしい・・・・。要するに病気の中で自分の十字架を負って主の清めの御業を受けることが大切ということのようだ。彼ら的にはこれがいわゆる聖化の過程なのだ[1]それでは、神がその目的を成就するために送られた病を医学によって治療することは、見事に神の意志に反することになるではないか?!。うーっむ。
つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。-Acts 10:38
イエスは御父を完全に現わされた。すなわちイエスを見れば御父の心が分かる。悪魔に苦しめられて人たちをすべていやされた! これは悪霊に憑かれた人のこと? ここの「いやされた」は”iaomai”、Strongによれば”heal, make whole”とある。健やかにされることだ。では、御父の心とは? それともイエスはあるときに方針を変えられたのだろうか? ヘブル書には、昨日も、今日も、永遠に変わらない、とある。
わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならばその言葉は決して取り消されない。-Isa 45:23
いじめっ子にいじめられて人格が錬られることを恵みとすることはあり得ないように[2]われわれは栄光の中において主と同じ姿に変えられていくのだ(2Cor 3:18)。、私たちは不当ないじめっ子には立ち向かうべきなのだ。
ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。-James 4:7
いじめられっ子メンタリティーからマインドのトランスフォーメーションにより解放される必要があるのだ。これは病気だけではない。人間関係の束縛、貧困、逆に富の誇り、世のプライドなども同じ。あらゆる妨げから自由にされて神の国の豊かさを享受するためだ。
さて、ここで問題となるのは、罪と病の関係だ。罪の結果である死はひとりの人から全人類に入り込んだ(Rom 5:12)[3]罪は世に入り、死が全人類に入った。神の目にとっては死に支配される人類は自ずと罪を犯すのだ。。その結果として病も蔓延した。あなたは次の質問にどう答えるであろう:主はわれわれが罪のうちにとどまることを望まれるであろうか? アブソリュートリー・ノーだ。では、主はわれわれが罪の実である病にとどまることを望まれるであろうか? ここでそれぞれのフェイスが問われるのだ。
罪と病の問題はきわめてセンシティブな部分がある。イエスは、ある盲人に対しては、本人の罪でも親の罪のためでもなく、神の栄光が現れるためと言われた。ベテスダの池の病人に対しては、これ以上罪を犯さないように、悪いことが起きないように、と言われた。しばしば人は罪を楽しみつつその中にとどまることを願う。同様に病にあることがある種のコンフォートゾーンになることがあるのだ[4] … Continue reading。
原則として言えることは、死はひとりの人の罪によってもたらされた(Rom 5:12)。すなわち病気もアダムの罪の結果だ。イエスは十字架で人類の罪と病を負われ、否、罪とされ(2Cor 5:21)、病を知られた(Isa 53:3)。そしてその打ち傷により、私たちの罪は赦され、病は癒された(Isa 53:5)。私たちはアダムにあって生まれ、生きてきたが、ある時、イエスと共に十字架でアダムにある自分が死に、キリストにある自分が復活したと知った。さらに私たちは新しい創造とされた。
問題は、この身体がまだ旧創造に属していること。その中には罪(Sin)が住んでいること(Rom 7:17)。ゆえにこの身体は病気を抱えるし、罪も犯す。私たちにとっては、あなたの罪はすべて赦されていると宣言することは容易だが、あなたの病気はすべて癒されていると宣言することは困難なのだ。何故? 後者は目に明確に見えることだから。
癒しのミニストリーに携わる人々、例えばBill Johnsonが受けている非難に[5]彼に対する批判や非難は相当のものがある。一部のニッポンキリスト教徒からの私への非難に匹敵するかもだ(笑)、彼自身メガネを必要としているし、息子も補聴器を必要とする難聴ではないか、とするものがある。彼もそれは真実に認めている。なぜ、他人は癒せるのに、自分と息子は癒せないのか? 回答は、不明、だ。私たちには分からない。英国のKingdom Faithでも、わが師であるJohn Mckayはガンで死亡した。Colin Urquhartは胃ガンになったが、15年経た今も健在だ。なぜ?・・・分からない[6]ひとつヒントになる聖句がある。創世記28:16(Gen … Continue reading。
目に見える現象としては、癒されない人もいるし、綺麗に癒される人もいる。しかし、極私的には、病気の人に対しては手をおいて祈ることを淡々と続けたいと願っている。それは機会がよくても悪くても御言葉を語り続けることと同じ。御言葉を聴いた人がすべて救われるわけでもないが、聖書には淡々と種まきをせよ、とあるからだ。私たちには誰が癒される/癒されないは不明であるし、誰が救われるか/救われないかも不明だ。主は多分言われていると思う:主権者はわたしであるから、あなたが知るべきことではないと[7] … Continue reading。ただ御心はすべての人が救われ、すべての人が癒されることであることは否定できない[8] … Continue reading。
References[+]
↑1 | それでは、神がその目的を成就するために送られた病を医学によって治療することは、見事に神の意志に反することになるではないか?! |
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↑2 | われわれは栄光の中において主と同じ姿に変えられていくのだ(2Cor 3:18)。 |
↑3 | 罪は世に入り、死が全人類に入った。神の目にとっては死に支配される人類は自ずと罪を犯すのだ。 |
↑4 | これを疾病利得と言う。誤解や反論を恐れずに言うが、癒されない人はしばしば深層心理において癒されたくないのだ。罪にとどまる人も同様に、それを指摘されることを避ける。なぜならその罪の享楽を失いたくないから。人はかように自己矛盾した存在である。 |
↑5 | 彼に対する批判や非難は相当のものがある。一部のニッポンキリスト教徒からの私への非難に匹敵するかもだ(笑) |
↑6 | ひとつヒントになる聖句がある。創世記28:16(Gen 28:16)でヤコブは、神の家ベテル、天の門に神がいるとは気がつかなかったとある。神は常に共におられるのに、私たちは気がつかない、当然神の声(レーマ)を聴くことができない。あらゆる場面におられる神(I-AM)に気が付くかどうか、これは大きな差を生み出す。フェイスは自力で絞り出すものではない。神の声レーマを聞くなのだ。 |
↑7 | 私は医学の介入を否定するものではないので、注意されたい。人間の裁量権に任されている部分は相当にあると考えている。神学用語を弄すれば、「一般恩恵」として。 |
↑8 | ここでカルバン神学に言う、選びの問題がクローズアップする。救われた人は選ばれていた人。では選ばれていない人はどうなるの? と人は質問する。が、それは神の主権に属することである。神はある器を尊い目的に、別の器を卑しい目的にのために作られるのだから。 |

救いは律法を行うことによるのではなく、御子イエスを信じることによる。
これがプロテスタントの金科玉条とする信条だ。ルターはパウロのロマ書においてその真理を発見し、自らの葛藤から解かれた。ところがヤコブ書を見ると、人は信仰だけによって救われるのではない、信仰は行いによって全うされると書いてある。これは困った。俺はもう律法を行おうと努力することにはトラウマがあるのだ。そこで、ルターは叫んだ、ヤコブ書は木草藁の書だ!
ここにルターの根本的誤りがある。すでに上の記事でプロテスタントの過ちについては書いているが、彼らの中心には自己(セルフ)が生きているわたしが律法を行うことによるではなく、わたしが御子を信じることによると。自分がどちらを選択するかと常に問うのだ。つまり律法と信仰を対立概念にしている[1] … Continue reading。そもそも訳が悪い。
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。-ローマ3:20(新改訳)
ここの主語はだれか。「わたしが」である。が、原意は違う。
Because by works of the Torah not one of all flesh will be justified before Him, for through the Torah is the full knowledge of sin.-Rom 3:20(HRB)
律法のワーク(deeds;行い)、原語はエルゴンだ。「わたしが律法を行うことによる」のではない。「律法の働きがわたしを義と認めない」のだ。この点、新改訳は巧妙に訳者のオツムのマトリックスによる誤訳があちこちに散見されるので要注意だ。しかし、御子のフェイスがわたしを救う。
even the righteousness of YAHWEH through the faith of Yahshua Messiah toward everyone and upon all those believing-Rom 3:22(HRB)
わたしが中心にいて、律法を行うか、御子を信じるか、という構図がルターのマトリックス。聖書は、律法がわたしを救うか、御子のフェイスがわたしを救うかの構図。主語を入れ替えられているわけ。そこで「わたしが律法を行う」ことにトラウマを覚えているルターはヤコブを拒絶した。
しかしながら、ヤコブが主張していることは違う。ヤコブは言う、自由を与える完全な律法を見つめよと(James 1:25)。ルターは言うであろう、自由の律法?! 律法は俺に苦痛だけを与えたのだ!と。対してヤコブは言う―
信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。・・・ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。-ヤコブ2:17-22(新共同訳)
この「行いが伴わないなら」とある訳を真に受けると、「わたしが行わないなら」と主語が「わたし」になる。が、原意を英語で言えば”So also faith, if it does not have deeds, is dead being by itself.” つまりdeeds(複数形)を持つ/持たないを問われるのはフェイスである。deeds(ergon=働き)を持たないフェイスはそれ自体では死んでいる。もっと言えば、deedsの欠落したフェイス[2] … Continue readingはあり得ないと言うのである。ここで問われているのはフェイスである。
ゆえにアブラハムのフェイスがそのdeedsと同労し、deedsを根拠として(ek)フェイスが完成された(22節)。この「共に働き;同労する」の原意は”to put forth power together with and thereby to assist”(Thayer)であり、力を与え、それにより助けとなるの意味だ。つまりフェイスはdeeds(ergon=働き)をする力を与え、その助けをし、共に働く。ここの主語は「わたしが行う」のではなく、「フェイスがわたしに行わしめる」のだ。
そもそもフェイスは霊である。「われはナントカを信ず~」といったものではない。それは単なる教条告白(儀式)の式文だ。
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:13
霊は人を生かし、語らせる。それはいのちであり、パワーである。なぜ? それは御子のフェイスだから。
生きているのはもはやわたしではない。キリストがうちに生きている。今、肉にあって生きているわたしは・・・御子のフェイスにあって(en)生きるのだ。-Gal 2:20
御子のフェイスは私たちが生きる領域である。そのキリストは今や命を与える霊である。残念ながら、モーセ律法自体はいのちを与えることができなかったのだ(Gal 3:21)。だから不完全であったゆえに新しい祭司制度がたてられた(Heb 7:11☞祭司制と律法について)。
So also it has been written, “The first man, Adam, became a living soul.” The last Adam a life-giving Spirit.-1Cor 15:45(HRB)
この霊は聖霊によりわれわれの霊のうちに伝達された。そしてフェイスもこの霊から生み出される。フェイスには諸々の行いをする命の力が満ちている。ゆえにフェイスを語り出せば、フェイスはわれわれの言うことを聞くのである。
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。-Luke 15:22
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。-Luke 17:5-6
フェイスはわれわれのしもべとして語り出されたことを成し遂げる。ジーザスはうちなる父の言葉を語り出されるとそのとおりになった。また彼のわざはうちなる父のわざであった。われわれも同じだ。わたしがするのではない。フェイスの霊がわたしたちを通してわざをなすのである。これが恵みである。だから律法(行い)と恵みは対立概念ではない。パウロは言う―
キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。-Rom 15:18-19
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10
主語を転換せよ! セルフを離脱せよ! かくして―
生きるのはわたしではなくキリスト!(Gal 2:20)
References[+]
↑1 | この点、今回のメッセでも語ったが、文系オツムはきわめてナイーブ(=幼稚)だ。概念のレベルですぐ矛盾するとか対立するとか言い出すわけ。自由意志と神の選びの問題、いわゆるアルミニウスVS.カルバンの対立も同様。これについてはかなり前に指摘したが、それを判断することは不可能であるとカオスの理論は教える。量子論の世界では電子などは波動でもあり粒子でもある。波動VS.粒子の対立概念を超えたところに物理的リアリティーは存在しているのだ。 |
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↑2 | これは”フェイス”とカギカッコをつけるべきであろう。しばしば、自分にはフェイスがあると思っていても、実はそれは思い込みに過ぎないことはよくあることだ。だからダビデは思い込みの罪から守ってくださいと祈っている(Ps 19:13)。 |

今、読んでいるこの本。戦国武将の精神病理を論じている。歴史は単なる年号と事件の羅列ではなく、人間学なのだ。信長はなぜあのような残虐行為を行ったのか。家康は最初熟女好きだったのに、なぜ後にロリコンになったのか。こういった彼らの精神病理が歴史を作ったのだ。
同じように、私のような精神医学をやったものからみると、神学なるものはそれを唱えた人の病理性の表現と思われるわけ。ちなみに「神は人の自己意識である」とするフォイエルバッハも「神学は人間学だ」と言ったそうだが、これはある面でそのとおりだ。今回のメッセでも語ったが、クリスチャンを自称する人々も自己を投影した神像を信じてる場合が多々あるのだ(☞鏡像原理)。
あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。-Ps 18:25-26
あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです』。彼に言った、『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。-Luke 19:21-22
例えばカルバン。いわゆる”TURIP“=カルバン神学の五大原理:全面的堕落(Total depravity);無条件的選び(Unconditional Election);限定的贖罪(Limited atonement);選びの召命における不可抗的恩恵(Irresistible grace);聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)=で有名だが、彼は自分の批判者や反対者をことごとく粛清した。その方法も火あぶり。しかも、苦痛を長引かせるためにとろ火で焼いた。彼などは典型的なサディズム傾向を帯びている。
また例えば、ウエスレー。彼はいわゆる「聖化(Holiness)」なるものを強調したが、典型的な強迫性性向の持ち主。完全癖で、ねばならない思考の持ち主。ルターもややこの傾 向がある
ルターも大量殺人を犯し、佐藤優氏によるとナチズムの基礎を与えた。サディズムも強迫傾向も実は肛門期へのリビドーの固着による肛門性格の二面性の反映。肛門加虐性と被虐性だ。前者はいわゆるサディズム、後者は マゾヒズムや強迫神経症などを誘発する。
かくして魔女狩りとか、異端審問とか、いわゆるキリスト教の歴史はかなりグロイ。が、それは人間が歴史の中で組織したキリスト教の世界のオナハシに過ぎな い。ジーザスとは関係ないし、まして聖書とは関係ない。人がジーザスの名を用い、また聖書を利用しただけだ。ジーザスはキリスト教の教祖でもなければ、聖 書もキリスト教の経典でもない。
そもそも霊的世界と関わることは宗教ではないのだ。それを宗教に落としたのがキリスト教。私自身もキリスト教徒なるアイデンティティー意識はないし、むしろキリスト教なる宗教は大キライというところがホンネ。それは所詮五感の領域で組織された宗教体系に過ぎない。
自然科学者としては、現在のサイエンスはあくまでも五感の領域を対象としているだけで、神や霊の世界があるともないとも結論することはそもそもしない。神 とサイエンスが対立すると考えるのは素人だ(☞科学と信仰)。近代サイエンスの祖ニュートンは神の創造された世界の法則を探求した。神とサイエンスは別に矛盾しない(☞サイエンスとフェイス)。
極私的には、霊がアクティベーションされたことにより、霊的世界とタッチし、それを見てしまった。ゆえに研究対象がこの物理的世界から霊的世界へと拡大し たのだ。驚くべきは、パウロなどはすでに紀元1世紀に「法則」なる用語を当たり前に用いていること。またヨブ記(紀元前の書物!)には、「天の運行の法 則」なる用語が出る(Job 38:33)。まさしくサイエンスの書。しかも物理領域のみでなく、霊的領域をも包含するサイエンスなのだ。
というわけで、『神学書』なるものを読む時間があったら、聖書を、できれば生の原語にさかのぼって読むことをお薦めする次第。カルバンを知っていても、ウエスレーを知っていても、それはあなたの病気を癒しはしない。それを癒すのはあなた自身のフェイスなのだから!
あなたの信じたとおりになるように-ジーザス

先にこの聖句について、邦語訳の「身代わりに」は意訳であると指摘した(☞ワンショット@YouTube)。
これについてダビデ某なる方が異議を唱え、Dr.Lukeのギリシャ語の文法的読み違いであり、Dr.Lukeには私的解釈をするべきではないとのペテロの言葉を送る、と言われているとある方が教えて下さった。
ざっと拝見したが、いかにもニッポンキ業界福音派(?)のオツムのマトリックスに住んでおられる立派な方のようで、普通こういった絡まれ方をされる場合、スルーするのが私の基本姿勢なのだが、ここはとても重要な聖句なので、先の記事に改めて補充しておく。
彼は、前置詞”υπερ”が属格の”αδικων”を支配するので、その意味は”in stead of”で「身代わり」だとするわけ。いかにも受験英語のパターン学習をされたかのような感じではあるが、とても良い問題提起となっている。”υπερ”は確かに二格(属格:日本語的には「~の」)と四格(対格:日本語的には「~を」)を支配し、二格の場合は「~のために、~の代わりに」と訳し、四格の場合は「~の上に、~を超えて」と訳すことにされている。が、これはあくまでも「公式」の話。
例えば、Pulpit Commentaryでは―
The preposition used in this clause (ὑπέρ) does not necessarily convey the idea of vicarious suffering, as ἁντί (Matthew 20:28; Mark 10:45; comp. also 1 Timothy 2:6) does; it means simply “in behalf of,” leaving the character of the relation undetermined; here the context implies the particular relation of substitution (comp. Romans 5:6; also St. Peter’s description of our Lord as “the Just,” in Acts 3:14).
“υπερ”は”αντι”のような「代理としての苦難」の意味は必ずしもなく、単に「~のために」の意味であり、その関係性は定義されていない。が、文脈からみると「置き換え」の意味が示唆される・・・と、私が指摘するとおり、「身代わり」は意訳であることを指摘している。
この格のイメージがとても重要なのだが、いわゆる主格(一格)を「主語」、属格(二格)を「~の」、与格(三格)を「~に」、対格(四格)を「~を」と公式化すると受験英語的に機械的に公式を当てはめるだけになるわけ(さらに聖書ギリシャ語では呼格がある)。ここで
・一格:主語、同一性を表す
・二格:距離感がない近い関係、融合性を表す
・三格:相互的関係性、伝達を表す
・四格:一方的関係、距離感を感じる対象、目的
のイメージが大切。前置詞をイメージでとらえる必要があることは英語でも言えることだ。特に、二格は距離感がない融合性をイメージすることを頭においてほしい。
さらに重要なのは、邦訳ではここを「正しい方が悪い者たちの身代わり」とするのだが、原文には定冠詞がない点。”δικαιος υπερ αδικων”、英語では”just for unjust”。つまり「不義のために義が」となる。かくして二格を支配する”υπερ”、その原義は英語では”over,hyper”、独語では”uber(ウムラウトは略)”、いずれにしても「上に」の意味であり、それが接触・融合しているイメージを形成する。だから、Dr.Luke的には「オーバーライト」となるわけ。義が不義をオーバーライト(上書き)した。
そもそも、ちゃんと記事を読んでほしいが、私も身代わりの側面を否定するわけではない(☞十字架とは)[1] … Continue readingが、重要なのは、古いもの(不義)が新しいもの(義)により書き換えられた事実なのだ!
キリストにある者は新しい創造(ニュークリーチャー)。見よ、すべてが新しくなった(2Cor 5:17)。単なる身代わりとするから(これは法的側面)、私たちは罪ゆるされた哀れな罪人に過ぎない~というニッポンキ業界のボクシたちの説教に堕するわけ。まあ、その世界に住みたい向きはご自由にどうぞなのだが・・・。この「新しい」は”kainos”、それは年齢的な意味(これは”neos”)ではなく、本質的にフレッシュであるの意味だ(Strong)。
旧約でも犠牲となる動物に祭司は手をおく。これは犠牲と自分が同一視・一体化されることを意味する。動物の死は自分の死なのだ。キリストが裁かれて死なれたとき、私も裁かれて死んだ。そしてキリストの復活においても私も復活した。それは不義が義にオーバーライトされ、新しい創造である。
YHWHエロヒムは新しい種属を生み出されたのだ。十字架のみわざは単なる法的立場としての無罪宣告ではない。古い私が死に、新しい私(霊的存在)に置き換えられたこと(☞十字架ってなんでしょう)。その意味でPulpit Commentaryが指摘するとおり、”substitute”でもあるわけ。これで単なる「身代わり」ではないことはお分かりいただけたかな[2] … Continue reading
というわけで、ギリシャ語やヘブル語を当たるのも、単に語学オタク化して、脳内空転するのではなく、日本語マトリックスから解かれて、霊のサブスタンスそのものに触れることが重要なのだ。表面的に言葉を弄ぶことは、西部氏と同じ結論を招くだけ:弁論は虚しい、と。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、見ていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)
オツムの空転的マトリックス(キリスト教神学)を離脱して、霊の領域に入り、その豊かなサブスタンスを享受すること。これがフェイスであり、クリスチャンの特権なのだ。聖書は生命現象の書。フェイスはスーパーナチュラルなシックスセンスである。覚醒した者は幸いである。
References[+]
↑1 | こういったノゾキ穴から見た光景だけで鬼の首を取ったように論じる輩が多過ぎる、ニッポンキ業界には。これで反論されるとさらにいきり立つのだが。 |
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↑2 | なお、ダビデ氏は、ガラテヤ2:20やマルコ11:22などに関して、「キリストの信仰」や「神の信仰」ではなく、「キリストに対する信仰」また「神への信仰」であると、なぜかこだわっておられる。またDr.Kさんにもいろいろとからんでおり、Dr.Lukeと混同してる節もある(苦笑)。ギリシャ語の知識があるのでプライドが疼くのかもだが。推測するところ、おそらく私たちの関与、自由意志の関わりが必要だ、と主張されるのだろう。これについては例の「カルバンVSアルミニウス」論争や、半ペラギウス説がどうのこうのとなるので、ここではスルー。これは以前に再建主義の富井氏と対話した際に指摘している。さらに私のプロテスタントのいわゆる「信仰義認」の誤りの記事についても異議を唱えておられるが、これは不毛な論争になるのでスルー。霊のサブスタンスを得ていないと単なる言葉上のやり取りになるので・・・。 |

元々肉体は土から構成された物質に過ぎない(Gen 2:7)。が、この物質を用いて「私」が生きている。神の意志を表現するのもこの物質。霊と物質である体の間に魂が介在し、霊の感覚を言語化し、それを表現する。
大脳は、特に魂とシンクロして機能する。大脳のどこに、どのようにして「私」が存在しているのか。ペンローズなどはニューロンの中の微小管における量子力学的現象としている。すると自由意思なども量子力学的ゆらぎによることになる。つまり偶然的なもの。
現在、カオスの理論によると偶然と必然を区別することはできないのだ[1]決定論的に構成される現象と偶然による現象が見事に重なるのだ。。これは前に再建主義者との対話でも指摘した。いわゆるカルバン主義とアルミニウス主義の対立がナンセンスであると。
極私的には、魂あるいは意識の問題は物理的時空間の現象としては解明されないと確信している。それは霊的領域と物理的時空間の狭間に存在するからだ。サイエンスは未だに五感によって把握される世界のモデルの構築に過ぎない。神や霊の存在を否定も肯定もしていない。意識はようやくサイエンスの対象となり始めた。が、サイエンスが五感を頼りとする限り意識を意識が理解することはできないだろう。鍵はやはり聖書にあるのだ。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる魂となった。-Gen 2:7
この命は複数形。つまり土から肉体を粘土をこねるように構成し、命の息(neshâmâh:霊)を吹き込むと、肉体(物質)と霊との相互作用により魂が生じたのだ。魂は霊と物質の狭間に生きている、特にマインドは霊と物理的時空間の接点だ。結局、人は体の命(Gk.bios)、魂の命(Gk.Psuche)、霊の命(Gk.pneuma)を持つ存在とされた。
私はこの霊と魂は「場」を構成していると考えている。素粒子もそれぞれの「場」の振動あるいは波動として定義されるが、霊と魂も「場」を有していて、その波動がわれわれの実際的に経験する霊と魂の現象であろうと。これがいわゆるオーラを発する源だ。イエスもしばしば霊によって人々のマインドを読み取った。「場」が見えるのである。霊の見極めの賜物も同じ。
特に霊の「場」の事象を把握して言葉(レーマ)として発する時、その「場」はこの物理的時空間に実体化される。これはニューエイジも「思考物質化の法則」として知っている。繰り返すがヘブル11章(Heb 11:1)のフェイスには定冠詞がなく、その定義はクリスチャン信仰だけではなく、一般的な法則なのだ。
ただし、われわれは十字架の贖いの上にあって聖霊の導きによりフェイスを使う。正確にはフェイスの法則と言ったほうが良いかもしれない(Rom 3:27)。このコツが開かれると、いずれ死者も生きることを見るであろう。なぜ? イエスがそう命じられたからだ。事実、ジーザスは内なる御父の言葉を語り出すことにより物質的領域の事実を変えた。
病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。-Matt 10:8
これは十二弟子限定というむきがあるが、マタイの最後にはこうある:
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」-Matt 28:18-20
ここの「守る」も日本語で理解してはならない。いわゆる校則を守るとか、道路標識を守るの意味だけではない。Strongによれば、「逃れることがないように見張ること」とある。つまりイエスの命じたことをすべて取りこぼすなという意味なのだ。われわれのマインドがトランスフォーメーションされて、イエスのマインドが完全に私の魂の「場」に現れるようになれば、死者は生き返る。いわゆるキリスト教が絶滅危惧種となりつつあるのは、デュナミスの現れが欠如しているからだ。改めて
神の国は言葉(ロゴス)にではなく、力(デュナミス)のうちにある。-1Cor 4:20