iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
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今年のノーベル賞の受賞テーマの一つがエンタングルメント(量子もつれ)の立証だった。波動関数を共有するふたつの量子が時空間を超えて相関するというものであるが、これで局所的実在性が否定されたのだ。つまり時空間に存在するものであれば、相対性理論によって支配されるので、互いの情報は光速を超えて伝達することは不可能。ところが量子もつれの状態にある量子は高速を超えて互いに関係し合うことができることが証明されたのだ[1]このためアインシュタンインはSpooky(気味の悪い)減少だとため息をついた。
白いキリスト教神学の論争にカルバンVSアルミニウスなるものがある。救いは神の定め(確定論)によるのか、人間の自由意志によるのか(偶然論)と争って、互いに異端~とやりあっている愚かなテーマである。これについてはかつて再建主義の故富井氏とディスカッションしたことがある(⇒ログ)。
結論を言えば、判断不能。人間の認識能力には確定と偶然を識別することは不可能なのだ(⇒過去関連記事)。さらにいわゆる自由意志なるものが幻想であることも分かってきている。
では救いとは何だったのか。かつてこんな記事をモノしたことがあるが、さらに進んで議論したい。
エンタングルメントなる現象は確定していない2つの量子状態の重なりが観測によって確定するとするものだが、スピリチュアルな経験もまったく同じ。救われた状態と救われてない状態が霊的領域では重なりとなっており、私がフェイスした瞬間に救われた状態が私において確定する。フェイスは聖霊のプロンプトに私が応答した結果である。自由意志と思っているものは実は後付けなのだ。
われわれはキリストとスピリチュアルな波動関数を共有し、エンタングルメント(もつれ状態に)されている。よってイエシュアは言われた、「地で解くことは天でも解かれており(完了形)、地で縛るものは天でも縛らえれている(完了形)[2] … Continue reading」(Matt 16:19)。それは時空を超えたスピリチュアル・リアリティあるいはサブスタンス。YHWHのわざは天地創生のときより完成されている(Heb 4:13)。われわれは肉体にておいてはこの物理的な五感領域に生きているが、霊においてはすでにキリストとともに御座についている(Eph 2:5)[3]だからパウロは肉体的には離れている者を霊においてっ裁くことができたのだ(1Cor 5:3)。。まさにエンタングルメントである。
重なり状態にある量子は観測によってひとつの状態に確定する。それと同様にあらゆる可能性の重なり状態としてスピリチュアル・サブスタンスは存在しているが、それをフェイスはこの五感の領域において確定する。それがわれわれの経験である。
いま、信(フェイス)とは願われる実質(サブスタンス)、まだ観測されていないこと(プラグマ)の現出(エビデンス)である。-ヘブル11:1(私訳)
キリストとエンタングルメントし、御子の信(pistis)のうち(en)に生きるってこんな安楽はないでしょう。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信のうちで、生きているのである。-Gal 2:20(改)
邦誤訳の問題点はすでに指摘しているが、たとえば「洗礼」なる訳語も大変にまずい。これは単なる儀式だ。真理はバプテスマ、それは浸し込むこと。我々はキリストにインプラント(Gk.sumphutos)されたからキリストとひとつ(Rom 6:5;1Cor 6:17)。
そもそもフェイスは霊(2Cor 4:13)(☞過去記事群)、エンタグルメントによりキリストと私はその霊を共有している。「使徒信条告白~」なんてものは単なる式文に過ぎない。
かくして私たちはキリストとバイブレーションを共有しているだけでよいのだ(☞バイブレーションについてhこちらの記事群を参照)。
その時、聖霊は霊の感光またプロンプト(促し)を与えてくださり、それに応答する形(これを自由意識と思っている)で私たちが語り、また働くとき、天のサブスタンスが地に実体化する。まさに天になるとおり地にもなるのだ。このメカニズムはフォティーゾと言われることはすでに説いている。
キリストと私たちはその人間性、死と復活、昇天、そして着座を共有しているのだ。この事実をサタンは隠しておきたい。だから信仰に励め~、聖化~、奉仕伝道、献金、会堂建造、教勢拡大、日本民族総福音化の決起集会~と騒ぐわけ。ほとんど喜劇のレベルではあるが、以下自粛。

真空とは何もない領域・・・と思われていたが、場が存在し、その振動(バイブレーション)が素粒子である。さらに、空間そのものも泡のような素領域によって構成され、その泡を次から次へと飛び移るのが量子の運動。通常、シュレーディンガー波動方程式で記述されるが、それもまだ基礎的方程式ではない。それをアウトバーンで高速走行中に額の裏に浮かびあがった保江方程式で解いたのが保江邦夫氏。スピ系のハードコア・物理学者である。意識と量子の関係も湯川の素領域論で理解される。

天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
その響き(バイブレーション)は全地に/その言葉(ミレア)は世界の果てに向かう。-Ps 19:1-5
この宇宙には何らかの情報が飛び交っているのだ。それはバイブレーションであり、語り出された言葉、ミレアである。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。-Gen 1:2
ここの「動いていた」とは原意は「振動していた」だ。つまりバイブレーション。バイブレーションとはエネルギーそのものである。われわれはYHWHエロヒムのエネルギーにより生きる、それはすなわちバイブレーションに浸されることによるのだ。
キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるためにバブテスマを受けたことを。わたしたちはバブテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。-Rom 6:3-4
この「結ばれる」の意味は「共に植え込まれる(planted together)」である。われわれはキリストのうちにインプラントされた存在、死と復活により新しいZoeを吹き込まれ、そのエネルギーにより生きる。それはキリストとバイブレーションを共有することである。

物質は固体・液体・気体・プラズマの四形態を取ることは誰でも知っている。が、量子論的状態では第五の状態を取ることがボースとアインシュタインにより予言されていた。今回、宇宙ステーションの実験でそれが確認されたとのことだ。
絶対ゼロに近づくとき、粒子はエネルギーが限りなく小さくなる。すると粒子性を失って(=波動関数が広がる)、波として振る舞い(=量子状態)、ついに多数の量子が同じ波動関数を共有するのだ(=コヒーレントな状態)。つまり、個々の粒子は区別ができなくなり、互いに溶け合った状態とも言える。
要するにバイブレーションを共有するのだ。こうして物質は波として溶け合った状態ができる。これをBEC (Bose–Einstein condensation) と呼ぶ。物質の第五の状態である。
同様に、霊的にもこのようなコヒーレントな状態が展開する。主の霊と私の霊が完全に溶け合う(=共鳴する)状態である。それは主の甘さに浸されたエクスタシー状態をもたらす。
まことに存在とは波動(バイブレーション)である。聖書もこう啓示している-
エロヒムの霊が水の表を覆いバイブレートしていた。-Gen 1:2(”rachaph”の原意)
もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、 その響き(バイブレーション)は全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。-Ps 19:1-4
この時空間には五感によって感知できない「何か」が交換されている。それは霊のバイブレーションである。われわれの霊はYHWHエロヒムの霊のバイブレーションと共鳴(resonance)するとき、霊のサブスタンスが実体化される。これがフェイスである。
ゆえに-
フェイスとはI-AMの実体化である
Dr.Luke:『真理はあなたを自由にする-ファクターXの再発見』

天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくてもその響き(qav)は全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。-詩編19:1-5
この”qav”とは「弦」であり、「振動」であり、すなわち「バイブレーション」である。世界に満ちているバイブレーションである。現代物理の最前線では宇宙は10次元+1次元(時間)であるとする。今、我々が五感で経験している世界は3次元+1次元であるから、残りの次元はどうなっているのか?この超弦理論では小さく丸まっているとする。これをカラビ・ヤウ空間と呼ぶ。

この種々の波長(振動数)をもつバイブレーションの和として波束というものができる。これは波であり、粒子のようなものである。光子も電子も、人が観測していない時には波として振る舞い、観測すると粒子としてふるまうと言う性質をもっている。つまり観測は波動を粒子として固定化するのだ。

芸術においても画家がある場面である瞬間に感じた感動あるいは”自然の震え”を、一度画家の脳内において咀嚼・解釈し、その結果をカンバスの上に絵具で表現する作業が絵画であると考えている。つまり自然との相互作用で心に生じたバイブレーションをキャンバスに固定化するわけだ。コローは「目でも心でも解釈する」と言っている。この過程を少し数学的に表現すると、次のようになるかと思われる:
すなわちある自然の場面で画家の内面に広がる感動関数をg(t)としよう。これは画家の個性によってそれぞれである。そして自然界から時間の関数として入力される刺激をx(t)とすると、画家の内面で起きる反応としての出力は
$$y(t)=\int x(\tau )g(t-\tau )dt$$
と書ける。この関数g(t)はインパルスに対する反応であり、インパルス応答あるいはもっと一般的にグリーン関数と言う。カントの純粋経験とも言えるかも知れない。で、この積分を数学的にも「畳み込み積分(Convolution)」と言う。つまり現在の反応y(t)は過去τ時点から現在までの反応の畳み込みなのだ!
かくして絵画とはリアリティそのものではなく、画家の伝達関数によっていわば歪みが入った上で表現されたものとなる。実はこの畳み込みはある意味で人生の方程式と言えるわけで、仏教的には「因果応報」の、聖書的には「撒いたものを刈り取る」方程式である。
芸術の場合、この表現y(t)をさらに、鑑賞者が脳内に入力する。そして鑑賞者のグリーン関数によって修飾された形で彼の内面に反応y'(t)が生じる(微分の意味ではない)。すなわち少なくとも二回の畳み込みが行われているわけだ。よってそれはリアリティそのものでももちろんなく、画家の経験そのものでもなく、かなりワイドなスペクトルをもった波紋であるが、鑑賞者の中にとにかくその波紋が生じる。
このように私たちの芸術経験は、波動の共有とも言えるわけだが、もっと一般的に現実そのものが波動であるとするサイトを発見した。題して「現代物理と仏教を考えるページ」。作者は早稲田の理工学部を出たバリバリの物理学者。マックスウェルの方程式の解そのものが、たたみ込み積分なわけで、要するに波動こそが実存の究極であると主張する。
ちなみにわれわれが感覚する「色」は元々ないものだ。あるものは種々の波長の電磁波のバイブレーションのみ。そのバイブレーションが目と大脳の視覚野において「色」として感知される。まさに「色即是空」。こういった大脳が作り出すモノをクオリアと呼ぶ。そしてこのクオリアがどうやって生み出されるのかは現代脳科学の最大の難問である。
例えば、これは感動したが、ニュートンの運動方程式
$$F=m\frac{dv}{dt}$$を波動性から導いている(→こちら)。要するに<力=質量×加速度>だ。古典物理学ではこれは天下り的に与えられる。私も何故だと、高校以来考えてきたが、誰も解説してくれなかったし、自分でも分からなかった。ところがこの方は次のように解き明かしてくれた:ハイゼンベルグの不確定性原理により、位置と運動量には$$\Delta x\cdot \Delta p=h$$
(hはプランク定数)の関係があり、エネルギーと時間についても、
$$\Delta E\cdot \Delta t = h$$すると
$$\Delta x\cdot \Delta p=\Delta E\cdot \Delta t$$$$ \frac{\Delta p}{\Delta t}=\frac{\Delta E}{\Delta x}$$極限を取ると、
$$\frac{dp}{dt}=\frac{dE}{dx}$$ここで
$$dp=m\cdot dv, dE=F\cdot dx$$だから、ニュートンの運動方程式が出る。つまり物質の波動性から、その不確定性を極限ゼロにした理想の形としてニュートンの運動方程式が出るのだ!
かくのごとく、いわゆる粒子の物理学は波動の物理学に吸収される形となり、世界は波動モデルとして認識される。また波動の伝播と受信が私たちの生である。そしてこのサイトの作者は華厳経と現代物理学の究極の姿の一致を予想して、例えば、ここでも何度も紹介しているデリバティブのブラックショールズ方程式の華厳構造を指摘する。
現代物理学と仏教の共通性はあの大槻教授も指摘しているところ。
科学の本質は『般若心経』にあり!大槻義彦教授は気づいてしまった・・・
サイエンスでは、この記事の朝永教授の指摘通り、いかにして(HOW)には答えることができるが、なぜ(WHY)には答えがないのだ。
科学と信仰(by Dr.Luke)
このメタを繰り返すと無限後退性という無間地獄に至る。それは発狂である。創造主なる存在は究極のメタ言語(ロゴス)であり、この方を受け入れる時、無間地獄から解かれるのだ。
フェイスによって、わたしたちは、この世界が神の言葉(レーマ)によってフレーム化され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。-ヘブル11:3
レーマとはバイブレーションそのものである。観測が量子の波動を固定化するように、フェイスはこのバイブレーションを固定化(実体化)する。
そしてこの方から発出してサイエンスに戻る時、安心して自然法則と対峙することができ、創造の神秘を観賞できる。まことに-
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。-ローマ1:20
とあるとおりである。

Dr.Kakuは、宇宙は11次元の超空間における神の弦のシンフォニーであると。物理学者この響きを聞くことができる。最先端は生命科学もだが、神の領域に入りつつあるのだ。まことに-
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
その響き(=バイブレーション)は全地に/その言葉は世界の果てに向かう。-詩編19篇1-5節地は混沌となり、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いて(=バイブレートして)いた。-創世記12:2
まだスピノザの神であり、受肉の神ではないのだが・・・。
フェイスによりアイオンはYahawehエロヒムのレーマによりフレーム化されたことを知る。-ヘブル11:3(Dr.Luke訳)
現代物理の最先端では、宇宙は10次元の弦、ないし11次元の膜構造であるという。いわゆる超弦理論。われわれが五感で感知できるのは3次元(いわゆる空間)と1次元(時間)だけ。その他の次元はいわば”丸まって”いる。これをカラビーヤウ空間という。つまりわれわれの五感で検出できない世界は、この物理的世界においてすら、限りなく”ある”のだ!ちなみに聖書はすでに超弦理論をBC千年に説いている:
その響き(原語は弦)は全地に/その言葉は世界の果てに向かう。-詩編19編5節
最近話題のダークマターもそうだ。この存在は、電磁気学的反応をしないために、観測できない。だから暗黒物質。しかし、それは、ある。というか、ある、としないと、目に見える現象が説明できないわけ。われわれのボディや世界を構成するいわゆる物質は、なんと5%、27%がダークマターで、68%はダークエナジー。つまり私たちは自然界のごく一部を見て、触って、味わって、感じて、聞いているに過ぎない。

いわんや、霊的世界をや、だ。それは五感や通常のマインドでは検出できない。光は目、音は耳で・・・、霊は霊によるのだ。しかし、霊が死んでいる人にとっては霊的世界? はあ? そんなものはムーの世界だろうに・・・。あるいは大川隆法の世界? いや、ある意味、彼らやニューエイジの方がスピリチャルな世界を知って、経験している。アカデミズムは言わずもがな、キリスト教もオツムの世界に閉じ籠って、空理空転現象を起こしている。本屋でも霊的に魅力のある、あるいは食欲をそそられる本はほとんどない。ジューシーさの抜けた筋張ったステーキのようなものばかり・・・。つまりリクツだけ・・・。
霊的世界は元々はジューシーなのだ。ナチュラル・マインドがそのジューシーさをこぼしているに過ぎない。ジーザスを見てみよ。その人柄もわざもなんとジューシーなことか! そそられる。あることと、味わうこと。これはまったく別のこと。ジーザスも言われたー
だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。-マタイ13章13節
見えない世界を見る。聞こえない声を聞く。これがフェイス。映画『スターウォーズ』の「フォースの覚醒」。まことにコレが必要なのだ。ただし、フォースではなく、フェイス。ロゴスの領域を脱して、デュナミスの領域に入ること。フェイスを使え! それは神の霊のバイブレーションに共振(リゾナンス)すること。
それがフェイスの覚醒だ。


そして地は混沌かつ虚しくなり、アビスの表に闇が覆っていた。そしてエロヒムの霊が水の表にバイブレートとしていた。-創世記1:2(CLV)
創造はエロヒムの霊のバイブレーションにより開始された。Yahawehのフェイスが語り出されるとき、それはフレーム化された。かくしてすべてはバイブレーションである。
Yahawehのバイブレーションは地に満ちている。-詩編19:5

この論文はかつて大学院の輪読で扱ったことがある。言葉により、例えば、祈りや黙想により、DNAは反応してリ・プログラミングが起きるのだ。祈りを合わせるならばさらに大いなる結果を地上に現すことができる。
This finally and scientifically explains why affirmations, autogenous training, hypnosis, Mediation, Prayer and other forms of Focus, can have such strong effects on humans and their bodies. It is entirely normal and natural for our DNA to react to language.
Esoteric and spiritual teachers have known for ages that our body is programmable by language, words and thought. This has now been scientifically proven and explained. Of course the frequency has to be correct. And this is why not everybody is equally successful or can do it with always the same strength. The individual person must work on the inner processes and maturity in order to establish a conscious communication with the DNA. The Russian researchers work on a method that is not dependent on these factors but will ALWAYS work, provided one uses the correct frequency.
Hyper communication in the new millennium means something quite different: Researchers think that if humans with full individuality would regain group consciousness, they would have a god-like power to create, alter and shape things on Earth!
When a great number of people get together through prayer or meditation, all focusing on the same outcome, we can change the world. The concept of us changing our own DNA, through our words and vibrations, is now a Know FACT. We are getting an Upgrade.
まことにこうあるとおりだー
また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。-マタイ18:19

これまで繰り返して言ってきて、今回のメッセでも触れたが、バイブレーションの影響は医学レベルでも実証されている。超音波で大脳の回路を書き換える実験が報告されている。
昨年11月号のNatureに超音波を脳研究や治療に使う可能性についてのレポートが掲載され(Landhuis Nature 551:257, 2017)、それまで考えたこともない超音波(ものの振動)で脳が操作できるという話には驚いた。この中では、超音波を使ってナノ粒子を活性化して、中に詰めた薬剤を遊出させる方法など、なるほどと納得できる技術の紹介もあった。しかし超音波を脳に照射することで皮質神経細胞の興奮を刺激でき、これを使ってピンポイントの脳操作を期待する研究が増えていることも報告されていて驚いた。電流や磁場ならともかく、超音波がなぜ神経興奮を誘導できるのか、誰も説明できておらず、本当に磁場照射や電流に匹敵する方法に発展するのか、誰でも疑問を持つ。
今日紹介するカリフォルニア工科大学からの論文は超音波照射は脳神経細胞に直接作用するのではなく、聴覚を通して効果を及ぼすことを示した研究で6月6日号のNeuronに掲載された。タイトルは「Ultrasonic neuromodulation causes widespred cortical ac-tivation via an indirect auditory mechanism(超音波による神経操作法は間接的に聴覚メカニズムを介して皮質の広い範囲を活性化することに起因する)」だ。
最初はこの研究も、超音波による神経操作法(UNM)のメカニズムを明らかにしようと計画したのだと思う。超音波を照射した時に脳全体がどう変化するかモニターするため、すべての皮質神経細胞の興奮をカルシウムセンサーの発光でモニターできるように遺伝子操作したマウスを用い、頭蓋を薄くして発光を検出しやすいようにして超音波への反応を調べている。
すると予想に反して、照射により最も早く興奮する場所は聴覚に関わる皮質野で、他の領域の興奮は後から起こってくることを発見する。同じ興奮パターンが、視覚野をねらって超音波を照射しても起こるため、マウスには聞こえないと考えられる波長の超音波でも、その効果はまず聴覚を通して脳内に伝播していると考えられる。これを確認するため、脳の左右別々に照射を行うと、照射した場所ではなく、反対側の聴覚野から活動が始まる。これは聴覚神経の走行と一致することから、超音波もまず内耳を通って脳の興奮を誘導していることが確認された。
次に、聞こえる普通の音と、超音波を聴かせて比較しているが、興奮の強さや時間経過はほとんど両者で変化がないこと、さらには内耳の機能を抑制したマウスを用いて超音波照射を行うと、脳の興奮がなくなることから、超音波も何らかの形で耳で聞くというプロセスを通してだけ脳に伝わることが明らかになった。普通の音や、光刺激と同じで、超音波を照射してもマウスの運動が止まることから、マウスは超音波を音として認識していることも確認できた。ここからは私の解釈だが、おそらく聴覚系が反応しても、聞くと認識しないだけで、脳は超音波にも反応するのだろう。
以上の結果は、これまでの超音波による脳操作実験の全否定になっているといわざるをえない。超音波が膜電位にどう影響するのか明確でない以上、個人的にはこの結果の方が納得できる。すなわち「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という結論だ。しかし、試験管内で培養している神経を超音波で興奮させるという論文もあり、今回の実験からはこの実験を否定することはできない。さあどうなるか?幽霊か現実か結論するためには、もう少し時間がかかるかもしれない。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた[1]この原語の意味は、”バイブレート”していた。。-創世記1:2
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても、その響き[2]この意味は”弦”、振動、バイブレーションだ。は全地に/その言葉は世界の果てに向かう。-詩編19:2-5
ワーシップにせよ、異言にせよ、霊のバイブレーションに満たされるのだ。思い(マインド、ヌース)の刷新により(Rom 12:2)、ついにはブレインの書き換えにまで至り、キリストのブレインが書き込まれる。こうして聖霊のメモリーによって生きることになる。
その日(聖霊が来る日)には、あなたがたにわたしを現す。わたしが生きるのであなたがたも生きる。-ヨハネ14:19-21
かくしてエクレシアとはキリストの充満(Eph 1:23)[3]「満ちているところ」とか「場」と訳すのが邦訳だが、誤訳である。キリストの「充満」そのものである。、すなわちキリストである。

これは私がメッセでも語ってきたこと。ブレインの回路はバイブレーションで書き換えることが可能なのだ。
問題はどのようなバイブレーションに浸されるか。もちろん天のバイブレーションである。
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくてもその響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。-詩編19:2-5
この響きは”qav”、意味は「弦」つまり振動=バイブレーションである。

もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-ヘブル4:3b
地上に住む者で、天地創造の時から屠られていた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。-啓示録13:8(Dr.Luke改)
霊的リアリティーは時空間を超える。フェイスはその永遠のNOWを今・ここに感光し、定着させる(実体化)。Darbyはヘブル11:1をこう訳している:
Now faith is the substantiating of things hoped for, the conviction of things not seen. -Heb 11:1

昨日のメッセで紹介した次のクリップを再掲しておく。一つは流れる水があたかも固体のように見える現象。これをラミナール・フローと言う。
When water flows so smoothly it looks solid, this effect is called Laminar Flow. pic.twitter.com/7F4jmX4vIh
— Physics & Astronomy Zone (@ZonePhysics) 2019年5月26日
もう一つはDNAの折り畳み微細構造。ヒストンというタンパク質に巻き取られて、2M程度の長さのDNAが染色体として、ひとつの細胞に46本収められている。
私たちの身体の細胞を構成する元素は新陳代謝によりつねに入れ替わっている。が、私の身体であるというアイデンティティーは変化しない。それはフローである。生命とは流れていること。
そのとき、わたしはその水を澄ませ/流れを油のように静かに流れさせると/主なる神(=YHWHエロヒム)は言われる。-エゼキエル32:14
アダムが罪を犯す前には、大地は潤い、一本の川が四本に分かれて、全地を潤していた。
地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。-創世記2:5-10
アダムの罪の結果、死が入った(Rom 5:12)。死とはフローが止まること。死は全人類を支配したのだ。しかし、ジーザスはこの死を打ち破った。ご自身がいのちであり、ご自身のいのちをわれわれにインパーテーションしてくださった。
わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。-ヨハネ6:51
聖霊とはそのいのちの流れである。
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川々(複数形!)となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。-ヨハネ7:37-39
クリスチャンはYHWHのロゴス(=種;スペルマ;DNA)をインヒュージョンされたニュークリーチャー。常にZOEのフローに浸り、ZOEをフローアウトするのだ。
また聖書はこう語る:
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。-創世記1:1-2
この二つの節の間にはギャップがあるとされ、「混沌であって」ではなく、「混沌となって」と訳すべきとする説がある。ここでは触れないが、神の霊が「動いていた」とある原語は”rachaph”であり、育む・孵化するという意味だが、その原義は「振動する」だ。つまりバイブレーション。バイブレーションはエネルギーそのものである。DNAの影像で分かる通り、その分子は常に振動している。身体を構成するたんぱく質もみな振動しているのだ。生命とはエネルギーであり、エネルギーとはバイブレーションに他ならない。
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。-詩編19:2-5
響きとは”qav”、それは弦であり、振動=バイブレーションである。言葉は”millea”、語り出されたことばであり、もちろんバイブレーションである。かくして五感では感知できずとも、何かが伝達されているのだ。それは霊的サブスタンス。YHWHエロヒムのバイブレーションである。われわれの霊はそのバイブレーションと共鳴(リゾナンス)する。この時、神のことばが私たちの霊に反響し、それを魂の思いにより言語化あるいは映像化する時、御心が分かるのだ(☞霊の機能と魂・体との相互作用について)。これがフェイスの瞬間。I KNOW THAT I KNOW.
霊の生命を保つカギは何か。霊のフローに浸り、霊のバイブレーションに共鳴すること。この時私たちはジーザスと同じ業をなし、はるかに大いなることをなし得るのだ。霊を養い、霊を強めること。これこそが内なる人(インナーセルフ)を強めることである。この時、五感の領域のあれこれによって影響されることがなくなり、霊は常に主の臨在を楽しむことができるのである(☞霊と魂の分離について)。御座の前において祈りの香を焚き、それは主を慰める。これこそが新約の祭司の奉仕である。

天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
その響き(バイブレーション)は全地に/その言葉(ミレア)は世界の果てに向かう。-詩篇19:2-5御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉(レーマ)によって支えておられます・・・-へブル1:2
フェイスとはこのバイブレーションに共信し、ミレア/レーマを受信すること。そしてそれを語り出すとき、われわれはその霊のサブスタンスを実体化し得る。まことに-
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、観測されていないことの現出である。-ヘブル11:1(私訳)
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2コリント4:13
人は口の結ぶ実によって腹を満たし/唇のもたらすものによって飽き足りる。-箴言18:20

今回のメッセでもふれたが、この世界、さらに生命はバイブレーションだ[1] … Continue reading。
神(YHWHエロヒム)の霊が水の表を動いていた。-Gen 1:2
この「動いて」と訳された原語の意味は「バイブレーション・休息・孵化」である。また
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても、その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。-Ps 19:2-5
この「響き」の原語の意味は「弦の振動」である。その「言葉」とは語り出された言葉であり、五感では感知できずとも、この世界において情報を交換しているのだ。
私が用いている、バイブレーション、シナジー効果、コヒーレンシーなどは元々すべて聖書の概念である。ニューエイジからゲットバックしているに過ぎない。キリスト教神学などのオツムのマトリックスの住人が知らないだけだ。
さて、今回、おもしろい記事があった。ニューエイジやキリスト教のものではない。れっきとしたScientific Americanの記事だ。
The Hippies Were Right: It’s All about Vibrations, Man! A new theory of consciousness
All things in our universe are constantly in motion, vibrating. Even objects that appear to be stationary are in fact vibrating, oscillating, resonating, at various frequencies. Resonance is a type of motion, characterized by oscillation between two states. And ultimately all matter is just vibrations of various underlying fields.
Pascal Fries, a German neurophysiologist with the Ernst Strüngmann Institute, has explored in his highly cited work over the last two decades the ways in which various electrical patterns, specifically, gamma, theta and beta waves, work together in the brain to produce the various types of human consciousness.

ヨブは息子たちが神を呪ったかもしれないと思って捧げ物を捧げていた。
この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。-Job 1:5
一見きわめて信仰深いようであるが、彼の行動の根底には恐れがあるのだ。事実、彼は証ししている―
恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった。-Job 3:25
まことにFEAR(恐れ)とは「False(偽りの) Expectation(期待が) Appearing(現れて) Real(現実となる)こと」である。恐れはサタンの領域と直結し、死のパワーを解放する。対してフェイスは神の領域と直結し、いのちのパワーを解放する。
恐れの霊を受けてしまうと祈りが働かない。恐れを動機とする”祈り”はすでに恐れの霊によってドライブされているからだ。これは誰もが経験したものと思うが、祈りが単なる言葉の繰り返しになって、サブスタンスにタッチする感覚がないのだ。このような場合、さらに事態を悪化させるのは、自己弁護だ。霊的書物をよく知っていたり、頭脳がけっこう高級な方々によくみられる兆候であるが、アレコレの用語を用いて、自分の状態を分析したり、事態をあたかも客観的に冷静に把握しているかのような素振りを作ってしまうのだ。
大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる。-Job 38:14
われわれは地であり、そこに次から次へと様々なスタンプが押される。もちろん神の印も押されるのだが、しばしば敵の印を押されてしまうのだ。病気や欠乏や人間関係の縺れなど・・・、これらはこの世の霊が生み出しているマトリックスである。が、それに同意するとき、それは動かし得ないリアリティーかのように私たちに迫る。そのような状態で祈っても祈りは天に突き抜けることなく、空転して地に落ちてしまうのだ。その印は衣装をとっかえひっかえするように見かけの表現を様々に変える。しばしば自分で自己弁護のためにその装いを厚くしてしまうのだ。これがマインドの罠、要するに自縄自縛状態。自分のマインドの中に自分を幽閉してしまう。こうして神のデュナミスの流入をブロックするのだ。
はっきり言おう、フェイスがなかったら、ないと言えばよい。とても自分の病気が癒されるとは信じられないと本心を語ってしまうのだ。不思議なもので本心に立ち返るとき、神のタッチを受けるのだ。
そこで、彼は本心に立ち返って言った。-Luke 15:17
この瞬間、あれほどに縺れていた蜘蛛の巣がサッと解けてしまう。自分でどんなにもがいても得られなかったものが、瞬間的に「得た!」と分かる。すると平安がさあーっと心に満ち、喜びがこみ上げてくる。これがフェイスの瞬間だ。理屈ではない、ただ分かる。I know that I know. 終わった、得た、開かれた、解かれた、癒された、と分かる。それは完了形。サブスタンスを得た瞬間である。あとは時系列の中でこの物理的時空間にそれが現出してくる。もちろん瞬時に現れる場合もある。神のわざはすでに天地創世の時に完成しており、それがこの五感領域に現出するのだ。
もっとも神のわざは天地創世の時に完成していたのだ。-Heb 4:3
霊的な書物をたくさん読み、あるいは聖書の知識などは豊かに得ている人が、しばしば悲惨な事態を経験する場合が多い。その時に外から見ていると原因が分かるのだ。何が敵の侵入を許すポイントであるのか。敵が付け込む隙、フェイスの穴が見える。それが敵が接近する足台となる。ヨブのケースで明らかだが、引き寄せの法則的に自ら招いているのだ[1]ニューエイジで言われる用語の実質は元々は聖書由来なのだ。彼らはわれわれの本来のフェイスをパクっているだけである。。霊的知識とか霊的書物、あるいはフェイスの偉人たちの黙想集や証集などは役に立たない。あなたのフェイスが問われている! これはある意味崖っぷちであり、フェイスの有無が文字通り命運を決める。フェイスはきわめて単純。むしろややこしいリクツなどは知らない方がよいだろう。自己を偽らず、飾らず、単純に受けるだけ。これがフェイスを生む培地。まことに
天国は幼子のものである。-Mark 10:14
聖書を学ぶことも大いなる罠になる。聖書を知っていることはひとつのこと、フェイスを用いるのは別のことである。聖書をよく知っていてもフェイスのない人は山ほどいるのだ。御言葉は啓示、啓示は霊的領域を顕わに見せてくれる。それは言葉(ロゴス)の指し示すリアリティーに入り込み、それに直接タッチすることだ。このとき、神のデュナミスが流れ込むのが分かる。身体反応や情緒的反応として文字通り経験できるのだ。霊的サブスタンスが五感の領域であるこの物理的時空間に現出する。
それを聞いて、わたしの内臓は震え/その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び/わたしの立っているところは揺れ動いた。-Hab 3:16
これがフェイスのパワー。その意味で聖書の知識というマトリックスからも解かれる必要があるのだ。聖書を介して単なる知識ではなく、啓示を得ること、それはすなわち霊的領域のサブスタンスをゲットし、そのリアリティーに触れることだ。そのために霊をチューニングし、鋭敏にする必要がある。まことに神のバイブレーションにより地を柔らかくほぐされ[2]創世記1章2節の「神の霊が動いていた」の原意は、リラックスして振動しているだ。つまりバイブレーションである(☞詳細はこちらを)。、聖霊によるレーマを聞くことができる者は幸いである。

最近のセレブには毎回新しい方が参加されている。お話をいろいろと伺うとネットでセレブを聞いたり見たりしてくださって、一度現場を見てみたいとの声が多い。まあ、見た目はそんなパッとする現場ではないのだが・・・
現在、YouTubeにて映像を、Apple Podcastにて音声を配信している。イスラエルの神は賛美に住まう。賛美の現場におられる神は実にタンジブル。手で触れることができるほどに私たちに触れてくださるのだ。まあ、私はショーンK氏のようにイケメンでもないし、渋いヴォイスでもないので、ビジュアル的な部分は寛大に見ていただきたいが、YouTubeは主にPCにて、Podcastは家事や通勤電車の中でもエンジョイして下さっているようだ。
今の時代、メディアをどう用いるか。もはやTVは若い人たちはほとんど観ていないとか。だいたい50-60代が中心となっているようだ。実際CMも健康食品とか体のメンテ系の商品ばかりだ(笑) いずれ老人ホームのみにて的な事態もあるかもしれない。情報が自由に飛び交う時代であると同時に霊が自由に発散される時代でもある。この物理的領域には電磁波がバイブレーションとして存在している。同時に霊のバイブレーションも存在するのだ。神の霊と敵の霊、両者の霊が存在している。
この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。-Eph 2:2
私たちの思い(マインド)に霊的エンティティはタッチできる。ユダの思いにサタンは裏切りの思いを入れたのだ(John 13:2)。われわれは常に何かを思っている。その思いは時に敵から、世から、肉から来るものである。この御言葉が実にリアルに迫る時代となっている。そこであなたはそして私はどの霊に従って生きるのであろうか。その霊的実体、サブスタンスを実体化するのは私たちのフェイスである。
マインドはカメラのレンズのようなもの。曇っていたり、シャッターが閉じていれば、光は入らない(☞フェイスはフォティーゾ)。マインドを通過するとき、しばしば私たちのマインドのレンズの歪みによりサブスタンスも歪む。ゆえにマインドは世の形に構成されてはならなず、むしろリニュイングされて、トランスフォームされる必要がある(Rom 12:1-2)。そして光は霊に感光する。それが魂のマインドや感情において実体化されるとき、啓示や幻となる。あとはそれを語り出すのである。これが預言である。
マインドの重要性は前の『真理はあなたを自由にする』でも強調していたが、このところ特に感じるところだ。結局、癒しがある/ないとか、異言は止んだ/止まないとか、すべてそれはマインドの構造(☞マトリックスとは何か)の差によるからだ。それらがすでにないとかマインドに組み込まれている人々は大きな損失を被っていることに気がついていない。クリスチャンが分裂している現代の様は、まさにマインドの構造の違いに過ぎないである。われわれはマインドの構造を絶えず変えていただくことを願っている。それこそが自己を否み、自分の十字架を負うことであるから。
そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであり・・・Rom 12:2
〔すなわち〕あなたがたが、以前の生活様式に従い、欲望の欺きに導かれて滅びつつある古き人を脱ぎ捨て、あなたがたの思念〔を規定する、神〕の霊でもって新しくされ[1]直訳は「思いの霊」、つまり霊は魂の機能である思いにも沁み込み、思いは再構成される(書き換えられる)。、さらには、真実の義および聖さに基づき神に模して創造された新しき人を身につけることが。-Eph 4:23-24
このとき、神の霊のバイブレーションに容易に共鳴できるようになる。すると聖霊が伝達するキリストのマインドが私たちのマインドに反映され、キリストの感情と意志も再現される(☞霊の機能と魂・体との相互作用について)。こうして聞くことによりフェイスは生まれ、キリストのフェイスが私たちのうちにアクティベーションされ、ひいてはキリストご自身が私を通して生き出て下さるのである。まことに―
生きるとはキリストである。-Phil 1:21

「完了した!」(John 19:30)―十字架におけるイエスの最期の言葉だ。何が? 罪の赦し、アーメン。これは自分がクリスチャンと思っている人はみな割と簡単に言える。病の癒し・・・・うん? えっ、でもガンで亡くなる人もいるし・・・。アーメンとクリアカットに言えないむきがけっこう多い。貧しさからの解放・・・はあ、繁栄の神学ね、あれは異端だよ。特にニッポンキリスト教では現状を見るに、とてもではないがアーメンとは言えない人がほとんどであろう。
では、彼らに聞いてみる。あなたは聖書66巻が神の霊感によって書かれたことを信じていますか?まあ、リベラルはともかく、いやしくも福音派を自称する人々であれば、看板の手前にしろアーメンと言わざるを得ないであろう。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。-Isa 53:3-6
イエスは私たちの罪と病を負われたと明確に書いてある。それだけではなく、イエスは病を知っていた? 彼には罪がなかったのに? しかし彼はわれわれの罪々(sins)を負われたのみではなく、罪(Sin)とされた(2Cor 5:21)[1] … Continue reading。イエスはその肉体に罪々(sins)と病を負われ、否、罪(Sin)と病そのものとされて裁かれた。それによりわれわれは赦されかつ癒された。
いや、この病とは霊的なことを言うのであって、必ずしも肉体の病を言うのではない。と、言われるむきがあることも承知。しかし、それはあなたの解釈にすぎない。あなたの認知のフィルターだ。書いてあることは書いてあるとおりに、だ。いや、それは聖書をそのまま受け入れる原理主義カルトだ。まあ、このようにしていくらでも御言葉を毀損することはできるのだ。
鍵は何か? あなたのフェイス、すなわち御言葉(ロゴス)に対する応答する程度に従ってあなたはこれらの霊的サブスタンスを享受し得る。ここで現代人の私たちにとっては、罪の赦しを語ることは病の癒しを語るよりも容易なのだ。なぜ? 前者は目に見えないが、後者は目に見えるから。主は言われた:
中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」-Mark 2:9-10
主にとってはどちらも容易だったのだ。
罪の赦しと病の癒し。共に十字架において完了した事実、霊的サブスタンス、リアリティーなのだが、それをこの五感の世界に現出させることにおいて相違がある。だから病の癒しを語ることは臆してしまう。私自身そうだった。一応博士号を持つものとして物質至上主義的というか、サイエンスかぶれというか、そんなマインドに閉じ込められていた。
いま、フェイスとは願われるサブスンタンス、まだ観察されていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)
神は私を癒してくださるかどうか、ではない! すでに癒している! フェイスは時空間を置ける永遠のNOW。あなたはすでに癒されているのだ。それをこの五感の領域、物理的時空間に現出させることがフェイスのパワー。では、もし癒されなかったら?・・・必ずこの疑問が出る。が、あえて言うと、すべての人を偽りとしても神を真実とせよ(Rom 3:4)! 神のわざと意志に問題があるのではない。私たちのフェイスの有無が問われるのだ。フェイスは辛子種一粒で十分[2]これをからし種”サイズ”のと理解してはならない。問題はその中にDNAが含まれるか否か。フェイスは霊であり、いのちだからだ。。サイズや強さの問題ではない。あるかないか。私たちには神の国の鍵(複数形)が与えられている。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。-Matt 16:19
この新改訳の時制は正確だ。天においてすでに成就している事柄(サブスタンス)を地で執行すること。これが私たちのフェイスのパワーだ。よくニッポンキリスト教で言われる言葉がある。通り良き管となると。何を通すわけ?天のサブスタンスである。その方法は?
「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。-2Cor 4:13
ロゴスなる言葉により神の霊のバイブレーションと共振した私たちの霊はフェイスを生む。そのフェイスを語り出すこと(2Cor 4:13)。
わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。-Isa 57:19
これが神の約束であり、地における天のサブスタンスの成就である。ついでに繁栄についてはこう書いてある。
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためである。-2Cor 8:9
このコンテキストは物質的富を取り扱うこと。考えてみよ、主の誕生の際に贈られたゴールドはいかほどのものであったか。主は一枚織りの下着を着ておられた。これは高級品だ。だからローマ兵は破ることをせず、くじ引きをしたのだ! 再度、というか、何度も繰り返す。
宗教の霊から解かれよ!
References[+]
↑1 | これらの単数形の罪と複数形の罪々の区別は重要である。神の取り扱いもまったく異なる。ニッポンキリスト教ではこの辺りがきわめていい加減。これは邦訳の問題にもよるのだが。詳細は☞真理はあなたを自由にする |
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↑2 | これをからし種”サイズ”のと理解してはならない。問題はその中にDNAが含まれるか否か。フェイスは霊であり、いのちだからだ。 |

この京大の研究は実に興味深い。音が細胞に影響し、DNAの遺伝子応答を引き起こすと。
これまで音(可聴域音波)は、耳などの感覚器によって受容され、脳によって統合解釈されることで、はじめて生命にとって意味のある情報になるものと捉えられてきました。本研究では、この「常識」にチャレンジし、音が直接細胞に作用して遺伝子応答を引き起こすことを示す結果を得ています。今後も、生命にとって音とは何なのか、独自の切り口から考えていきます。
ソルフェジオ周波数については、ややニューエイジ的要素があるものの、以前に紹介したことがあるが、DNAを修復する可能性が指摘されていた(☞DNAの不思議)。われわれは生体にとって適切なバイブレーションに浸ることが大切なのだ。もちろんもっとも最高のそれは神のバイブレーションである。
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくてもその響き(バイブレーション)は全地に/その言葉は世界の果てに向かう。-詩編19:2-5
私たちのセレブでは霊と真理のバランスを大切にしている。真理はかなり深いものを提示しているが、それは単なるオツムの知識ではなく、霊の流れに浸る時、霊からから魂の各領域に浸透する。特にマインドが古いアダム系のマトリックスから新しいキリスト系のマインドへと書き換えられる(Rom 12:2)。こうして神の御旨を明確に知ることができるようになるのだ。霊と真理による礼拝者を父は求めているのだ(John 4:23)。
ちなみに音楽は数学だ。なぜ、音階は「ドレミファソラシド」なのか。これ、小学校以来の謎だった。が、私にとっての大発見は、ピアノの鍵盤は等比数列[1]元々はピタゴラス音階なるものがある。これはオクターブをある分数比で分けたものだが、近似的に等比数列を採用した者が平均律。。これがわかったら、音楽理論がパーっと見えた。なんだ数学じゃん!小学生以来、音楽は得体のしれないものだったのだ。なんでこれを先に教えてくれないのか?1度、2度とか、短、長、減、増とか、訳のわからん数え方をしてるから混乱するのだ!
要するに1オクターブ上がると周波数が2倍、その間を等比数列で8段階で刻んだもの(半音では12段階。つまり公比が2の12乗根)。これが平均律だ。ピタゴラス音階や純正律とは微妙にずれるが[2]これらは平行移動ができないために転調が難しい。、平均律は平行移動が可能、ゆえに転調ができる。で、全音と半音の組み合わせで、明るく聞こえたり、悲しく聞こえたりする。これが長調と短調。さらに大脳は1-3-5度の和音をキモチいいと感じる。協和音だ。これって、なぜ?理由は不明。大脳がそう造られているからとしか言えない。
ちなみに現在の基準のAは440Hz。これがどうもメンタルにいろいろ不都合をするらしい。ビートルズの曲やロックが精神を壊す可能性が指摘されている。人間の精神にはA=432Hzがいいらしいのだ。440Hz の調律は緊張、興奮、闘争心、などをもたらす傾向を持ち、432Hz の調律は安定、安寧、脱力をもたらす傾向があるらしい。Jazzは協和音を微妙に崩して、ぎりぎりの緊張感を生んだり、開放感をもたらしたりで、楽しむ。わがwifeもそうだが、クラシックピアノができると譜面は読めてもコード理論やJazzは分からないのだとか。
最近ではソルフェジオ周波数とかが注目され、ストレスの癒やしやDNA修復までしてくれるとか。かくして世はすべからく数学、数学は言語。つまり世界は言語の体系。大脳はその言語体系を解釈する能力をなぜかア・プリオリに有している。それは自然の業? 自然は等比数列が好きなのだろうか? 誰かがコーディングしたというのが私の結論。その誰かとはだれ? もちろん・・・。
さて、上の実験、ご自分で比較してみてください。極私的には440は険が立つ感じ・・・。健やかなバイブレーションに霊・魂・体を浸すこと。これはあらゆる面での健康にとってのカギなのだ。

頬を刺す空気の冷たさ、実に気持ちがイイ✨五感の刺激が魂に共鳴する時、漢詩を詠みたくなる。そう、自然の美しさや神秘に触れる時に、私の内には何らかの感動が起こり、それを表現したくなるのだ。音楽家は音楽で、絵描きは絵画という媒体を用いてその感動を表現する。
さて、この際に一つの罠があるのだ。つまり私は日本人故、日本語の世界観、あるいは日本語にまつわる価値観や、日本語の意味論や統語論に従って漢詩を作ろうとしてしまうのだ。この時、はっきり言うと漢詩は作れないし、見かけ上漢字をならべても、意味は通じるかもしれないが、それはJapalishと同様の和臭のするものとなってしまう。
つまりソレは日本語に従ってその感動を表現しただけ、漢詩ではないのだ。しかし、初心者である私にも、漢語がピタッとハマル瞬間は、私が漢語の世界に入れたと分かるのだ。漢語の世界観に従って、私の内なる感動を表現し得た時、何とも言えない解放感を覚える。これが芸術家ではない私が言うのはおこがましいが、創作の喜びかも知れない。
今、私が言いたいことは分かると思う。ここで何度も何度も指摘してきたが、聖書の真理を日本語の世界観や価値観で理解してはならないのだ。たとえばよくニッポンキ業界で言われる「ありのままのあなたが高価で尊い」も、まことにニッポンキリスト教臭のするシロモノ、世界ではとても通用する代物ではない[1] … Continue reading。あくまでも日本語的世界観からの産物なのだ。この意味で、新約聖書を理解するためには旧約聖書の世界の具体例が必要であり、旧約聖書を理解するためには新約聖書の世界の霊的光を必要とする[2] … Continue reading。
すなわち、旧約のレビ系の祭司制度は新約のメルキゼデク系祭司制度の型であり、その本体はキリスト御自身なのだから(Heb 10:1)。本人を紹介する履歴書が旧約聖書、本人の到来が新約聖書の世界だ。例えば幕屋はキリストの絵であり、私たち自身の絵でもある。祭司の仕事はキリストの御業の型であり新約の私たちの奉仕の型でもある。旧約のイスラエルの歴史はキリストの到来までの歴史であり、新約の私たちの個人的な霊的経験のタイプである[3] … Continue reading。旧約聖書も新約聖書もその理解においては日本語の価値観を用いてはならない。もちろんこれは他の国語でも同じ。霊の事は霊の言葉によるべきなのだ。
神はこれを、霊によって私たちに啓示されたのです。霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の霊のほかにはだれも知りません。
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、霊に教えられたことばを用います。その霊のことばをもって霊のことを解くのです。
魂的な(原語)人間は、神の霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、霊のことは霊によってわきまえるものだからです。
霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの思い(原語)があるのです。-1Cor 2:10-16
魂(Soul)は知・情・意からなるが、これらは私たちであれば日本語の世界に特徴づけられ、束縛された日本人性に汚染されている。よって魂的によって真理はつかめないのだ。漢詩を作るためには漢語の世界に入る必要があるように、霊的真理を理解するためには霊の世界に入る必要がある。これが御言葉による霊と魂の切り分けである。
この故に私たちは魂を否む必要があるのだ。それは魂の機能を停止するのではない。そう自分勝手に曲解して自滅する者がいるが、愚かなものだ。魂は霊に服する時、その元々の機能を発揮し得るのだから。魂は霊から自立するものではないが、これが自立する時、パウロは「肉(flesh)」と呼ぶ[4] … Continue reading。サタンはクリスチャンがこの霊と魂の違いに目覚めることを最も恐れているようだ。昨今のネットにおけるこの点に対する敵の狂気の入った攻撃の異常さを見れば明らかであろう。敵はクリスチャンを「ありのまま」に寝かしておきたいのだ(苦笑)
私たちの魂(精神)は言葉の体系から構成されている。日本語の体系で構成された私たちの生まれながらの魂は、霊の世界の御言葉の体系で再構成されていく(Rom 12:1-2)。これが神学の言葉を弄すれば、聖化である。それは「清く・正しく・貧しく」といった宗教ではない。むしろ漢詩ができるときに味わうあの自由と解放感をもたらすものなのだ。真理はあなたがたを自由にするのだから。
それは自分の魂からの解放、日本人性からの解放、究極にはこの旧い体からの解放をもたらす。それはすでに成し遂げられている十字架におけるキリストと共なる旧い私の死の現在における実体化であり、キリストの復活の現在における実体化でもある[5]信仰とは見えない霊的事実の実体化である(Heb 11:1)。。死と復活の原則によりこの復活のいのちに生きることが旧約の聖徒が切望した私たちの特権なのだ。ヘブル11章の最後をよく読まれたい。信仰の巨人や偉人がリストされた後、筆者はこう結論している:
この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。
神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。-Heb 11:39-40
何と言うこと!あの旧約聖書の信仰の偉人たちが得なかったものを私たちが得るとは!神よ、あなたは何ということをなされるお方なのでしょうか!
GLORY BE TO GOD!!!
References[+]
↑1 | 旧い自己を正当化し、弁護するためのものであり、自己憐憫に満ちた病んだ心から生まれたものである。それは窮極的には自分を”神”とするセルフ教の象徴である。本当にありのままで安息している人はあえて叫ぶまでもないだろうに(苦笑) |
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↑2 | 真理そのものは言語を超える。例えば万有引力の法則は日本語で表現しようと英語で表現しようと同一である。言語はある個物や事実や道理を指し示す媒体に他ならない。しかし言葉に霊が乗るとそれはパワーを帯び、光といのちとをもたらす(John 6:63)。 |
↑3 | 主の再臨や携挙の時期についても、ユダヤの祭りとの関連で見る必要があることはすでに10年以上前から指摘している。2011,2014,2019年などはダニエル書の最後の7年の開始時期としての条件を満たすことも指摘している。中でも2014年は面白いことも。 |
↑4 | それは別にこの肉体自身だけのことではない。霊か肉かの二元論志向はグノーシスであるする向きもあるが、彼らはそもそもパウロの肉の定義を知らない、愚かなものである。 |
↑5 | 信仰とは見えない霊的事実の実体化である(Heb 11:1)。 |

地は形がなくなり、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 -Gen 1:2
バイブレーションというと、脊髄反射的に「ニューエイジだ!」とかのたまうむきもありますが、神学オツムの無知ですね[1] 神学などはいのちのバイブレーションを固定化するだけ。いのちのフレッシュさも、躍動感も喪失する。。メッセでも語っておりますが、創世記1章2節の神の霊が「動いていた」の原語”râchaph”は、「孵化させる」の意味ですが、原義は「振動する」です。つまりバイブレーション。神の霊のバイブレーションにより地球は育まれ、再生されたわけです[2] … Continue reading。
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
かし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。-Ps 19:1-4
神の霊のバイブレーションにリゾナンスすること。詩編19編には、神の「響き」は原語で”qav”、すなわち弦であり振動。神のバイブレーションは全地に響く、とあるわけ。神学オツムで動脈硬化して霊の卒中や梗塞にならないように。このバイブレーションに触れるならばボディにもいのちが満ちる。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。-Rom 8:11
フェイスとは神の波動を実体化することである。

父なる神を感じる。
手で感じる。
神の呼吸を感じる。
神の息吹きを感じる。
内なる神の霊の波動を感じる。
物質界はすべて場の波動。
電磁場のバイブレーションをTVやスマホは映像や音声として実体化する。
霊の場のバイブレーションを私たちの霊は言葉や行動として実体化する。
人は神のバイブレーションを受信し、
それをこの物理的世界に現出させるために創造された。
地と生き物を治めよ、と。
霊の波動をとらえ、語り出す。時には言語化(預言)し、時には異言として。
それは霊であり、いのちである(John 6:63)。
一度神の言葉が語り出されたら、それは無益には帰らない(Isa 55:11)。
それは何かをチェンジし、癒しまた活かし、ないものを生み出す。
ロゴスは肉体として幕屋を張った(John 1:14)。
その方が人間としての機能をデモンストレーションされた。
私たちが同じ道を歩むために。それは死を支配し、いのちをもたらすこと。
自己から解かれるとき、神の霊に浸る。
パウロが第三の天に挙げられた経験は、今もなお、ある!
霊の世界のサブスタンスをこの物理的世界に現出させること。
神の国が目に見える形で現されることだ。
やばい・・・

水素原子のボーアモデルで有名な量子力学の創始者Niels Bohrいわく―
われわれがリアルと呼んでいるあらゆる事はリアルとはみなせないものから構成されている。もし量子力学があなたにとって大いなるショッキングとなり得ないとしたら、あなたはまだそれを理解していないからなのだ。―Niels Bohr
エネルギーの量子性を見抜き、Plank定数で有名なMax Planckいわく―
献身的な物理学者として、すなわち全人生を完全なるサイエンス、物質界を解明する仕事に捧げた者として、私が単なる空想家であるとは誰も思わないであろう。そのうえで、原子を研究してきた私は、あなたがたに、いわゆる物質なるものは存在しない、と言わざるを得ない!すべての物質は原子の粒子にバイブレーションをもたらし、今この時に原子なる極小の太陽系をまとめあげているある力のお陰で生じまた存在するのである。この宇宙に知的かつ永遠なる力が存在することはあり得ないが、なおわれわれはこの力の背後に意識的かつ知的なマインドあるいはスピリットが存在すると想定しなくてはならない。これこそがすべての物質のマトリックスなのだ。―Max Planck
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
その響き(=バイブレーション)は全地に/
その言葉は世界の果てに向かう。
詩編19:2-5