iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
Search Result For: フェイスは霊

- MSGタイトル:フェイスは霊のサイエンス
- 引用聖句:Matt 5:45-48;6:26-29;Heb 11:1 etc.
- 2020年5月3日(日)のセレブ(隔週実施を予定)
・場所:ハロー会議室石川町元町
・時間:13.00-17.00 - プレイヤーMTG:
ハロー会議室石川町元町(しばらくお休み) - セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。

最近のセレブには毎回新しい方が参加されている。お話をいろいろと伺うとネットでセレブを聞いたり見たりしてくださって、一度現場を見てみたいとの声が多い。まあ、見た目はそんなパッとする現場ではないのだが・・・
現在、YouTubeにて映像を、Apple Podcastにて音声を配信している。イスラエルの神は賛美に住まう。賛美の現場におられる神は実にタンジブル。手で触れることができるほどに私たちに触れてくださるのだ。まあ、私はショーンK氏のようにイケメンでもないし、渋いヴォイスでもないので、ビジュアル的な部分は寛大に見ていただきたいが、YouTubeは主にPCにて、Podcastは家事や通勤電車の中でもエンジョイして下さっているようだ。
今の時代、メディアをどう用いるか。もはやTVは若い人たちはほとんど観ていないとか。だいたい50-60代が中心となっているようだ。実際CMも健康食品とか体のメンテ系の商品ばかりだ(笑) いずれ老人ホームのみにて的な事態もあるかもしれない。情報が自由に飛び交う時代であると同時に霊が自由に発散される時代でもある。この物理的領域には電磁波がバイブレーションとして存在している。同時に霊のバイブレーションも存在するのだ。神の霊と敵の霊、両者の霊が存在している。
この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。-Eph 2:2
私たちの思い(マインド)に霊的エンティティはタッチできる。ユダの思いにサタンは裏切りの思いを入れたのだ(John 13:2)。われわれは常に何かを思っている。その思いは時に敵から、世から、肉から来るものである。この御言葉が実にリアルに迫る時代となっている。そこであなたはそして私はどの霊に従って生きるのであろうか。その霊的実体、サブスタンスを実体化するのは私たちのフェイスである。
マインドはカメラのレンズのようなもの。曇っていたり、シャッターが閉じていれば、光は入らない(☞フェイスはフォティーゾ)。マインドを通過するとき、しばしば私たちのマインドのレンズの歪みによりサブスタンスも歪む。ゆえにマインドは世の形に構成されてはならなず、むしろリニュイングされて、トランスフォームされる必要がある(Rom 12:1-2)。そして光は霊に感光する。それが魂のマインドや感情において実体化されるとき、啓示や幻となる。あとはそれを語り出すのである。これが預言である。
マインドの重要性は前の『真理はあなたを自由にする』でも強調していたが、このところ特に感じるところだ。結局、癒しがある/ないとか、異言は止んだ/止まないとか、すべてそれはマインドの構造(☞マトリックスとは何か)の差によるからだ。それらがすでにないとかマインドに組み込まれている人々は大きな損失を被っていることに気がついていない。クリスチャンが分裂している現代の様は、まさにマインドの構造の違いに過ぎないである。われわれはマインドの構造を絶えず変えていただくことを願っている。それこそが自己を否み、自分の十字架を負うことであるから。
そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであり・・・Rom 12:2
〔すなわち〕あなたがたが、以前の生活様式に従い、欲望の欺きに導かれて滅びつつある古き人を脱ぎ捨て、あなたがたの思念〔を規定する、神〕の霊でもって新しくされ[1]直訳は「思いの霊」、つまり霊は魂の機能である思いにも沁み込み、思いは再構成される(書き換えられる)。、さらには、真実の義および聖さに基づき神に模して創造された新しき人を身につけることが。-Eph 4:23-24
このとき、神の霊のバイブレーションに容易に共鳴できるようになる。すると聖霊が伝達するキリストのマインドが私たちのマインドに反映され、キリストの感情と意志も再現される(☞霊の機能と魂・体との相互作用について)。こうして聞くことによりフェイスは生まれ、キリストのフェイスが私たちのうちにアクティベーションされ、ひいてはキリストご自身が私を通して生き出て下さるのである。まことに―
生きるとはキリストである。-Phil 1:21

「完了した!」(John 19:30)―十字架におけるイエスの最期の言葉だ。何が? 罪の赦し、アーメン。これは自分がクリスチャンと思っている人はみな割と簡単に言える。病の癒し・・・・うん? えっ、でもガンで亡くなる人もいるし・・・。アーメンとクリアカットに言えないむきがけっこう多い。貧しさからの解放・・・はあ、繁栄の神学ね、あれは異端だよ。特にニッポンキリスト教では現状を見るに、とてもではないがアーメンとは言えない人がほとんどであろう。
では、彼らに聞いてみる。あなたは聖書66巻が神の霊感によって書かれたことを信じていますか?まあ、リベラルはともかく、いやしくも福音派を自称する人々であれば、看板の手前にしろアーメンと言わざるを得ないであろう。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。-Isa 53:3-6
イエスは私たちの罪と病を負われたと明確に書いてある。それだけではなく、イエスは病を知っていた? 彼には罪がなかったのに? しかし彼はわれわれの罪々(sins)を負われたのみではなく、罪(Sin)とされた(2Cor 5:21)[1] … Continue reading。イエスはその肉体に罪々(sins)と病を負われ、否、罪(Sin)と病そのものとされて裁かれた。それによりわれわれは赦されかつ癒された。
いや、この病とは霊的なことを言うのであって、必ずしも肉体の病を言うのではない。と、言われるむきがあることも承知。しかし、それはあなたの解釈にすぎない。あなたの認知のフィルターだ。書いてあることは書いてあるとおりに、だ。いや、それは聖書をそのまま受け入れる原理主義カルトだ。まあ、このようにしていくらでも御言葉を毀損することはできるのだ。
鍵は何か? あなたのフェイス、すなわち御言葉(ロゴス)に対する応答する程度に従ってあなたはこれらの霊的サブスタンスを享受し得る。ここで現代人の私たちにとっては、罪の赦しを語ることは病の癒しを語るよりも容易なのだ。なぜ? 前者は目に見えないが、後者は目に見えるから。主は言われた:
中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」-Mark 2:9-10
主にとってはどちらも容易だったのだ。
罪の赦しと病の癒し。共に十字架において完了した事実、霊的サブスタンス、リアリティーなのだが、それをこの五感の世界に現出させることにおいて相違がある。だから病の癒しを語ることは臆してしまう。私自身そうだった。一応博士号を持つものとして物質至上主義的というか、サイエンスかぶれというか、そんなマインドに閉じ込められていた。
いま、フェイスとは願われるサブスンタンス、まだ観察されていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)
神は私を癒してくださるかどうか、ではない! すでに癒している! フェイスは時空間を置ける永遠のNOW。あなたはすでに癒されているのだ。それをこの五感の領域、物理的時空間に現出させることがフェイスのパワー。では、もし癒されなかったら?・・・必ずこの疑問が出る。が、あえて言うと、すべての人を偽りとしても神を真実とせよ(Rom 3:4)! 神のわざと意志に問題があるのではない。私たちのフェイスの有無が問われるのだ。フェイスは辛子種一粒で十分[2]これをからし種”サイズ”のと理解してはならない。問題はその中にDNAが含まれるか否か。フェイスは霊であり、いのちだからだ。。サイズや強さの問題ではない。あるかないか。私たちには神の国の鍵(複数形)が与えられている。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。-Matt 16:19
この新改訳の時制は正確だ。天においてすでに成就している事柄(サブスタンス)を地で執行すること。これが私たちのフェイスのパワーだ。よくニッポンキリスト教で言われる言葉がある。通り良き管となると。何を通すわけ?天のサブスタンスである。その方法は?
「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。-2Cor 4:13
ロゴスなる言葉により神の霊のバイブレーションと共振した私たちの霊はフェイスを生む。そのフェイスを語り出すこと(2Cor 4:13)。
わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。-Isa 57:19
これが神の約束であり、地における天のサブスタンスの成就である。ついでに繁栄についてはこう書いてある。
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためである。-2Cor 8:9
このコンテキストは物質的富を取り扱うこと。考えてみよ、主の誕生の際に贈られたゴールドはいかほどのものであったか。主は一枚織りの下着を着ておられた。これは高級品だ。だからローマ兵は破ることをせず、くじ引きをしたのだ! 再度、というか、何度も繰り返す。
宗教の霊から解かれよ!
References[+]
↑1 | これらの単数形の罪と複数形の罪々の区別は重要である。神の取り扱いもまったく異なる。ニッポンキリスト教ではこの辺りがきわめていい加減。これは邦訳の問題にもよるのだが。詳細は☞真理はあなたを自由にする |
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↑2 | これをからし種”サイズ”のと理解してはならない。問題はその中にDNAが含まれるか否か。フェイスは霊であり、いのちだからだ。 |

かつてユリゲラーなどの超能力が話題になった。金属は力を入れずに曲がったり切れたりはしない、と私たちのマインドは思っている。根拠は常識、経験、サイエンス? が、それはマインドが作り出したマトリックス。一時脚光を浴びた清田益章氏(すでにクンではない、オッサンだ)、彼は言う(要旨のみ)-
だれもの心に「思い」が浮かぶがそれは泡のようにすぐに消える点のようなもの。「想い」は相手がいて、点と点を結ぶ線となる。さらに「願い」になるとこれが面を構成しアクションを起こす。そして「念」は今の心、さらに「祈り」へと発展する・・・。未来は「未だ来らず」の世界、人は今にしか生きられない。自分がスプーンを曲げる時、5分後のスプーンが切れた状況が心にありありと浮かび、実に豊かな世界を作る。その5分後の今を、この今に展開させるとスプーンは切れる・・・。
まさにフェイスの証。ヘブル11章1節のフェイスには定冠詞はない(Heb 11:1)。つまりクリスチャンのフェイスに限らないのだ。人は神の形に造られ、地を治めよ、と権威を委託された存在。地とはこの五感で感知する物理的世界だ。サイエンスによって幾分かは成就していると言えるが、逆にそのサイエンスのマトリックスに閉じ込められているのが現代人。よって清田氏の現象もインチキと見たくなる。
が、当初アダムが得ていたパワーはどれほどのものか。堕罪の結果、そのパワーは潜在化した。たまたま清田氏のようにそれが顕現するといわゆる超能力となる。それは、実は、決して「超」能力では、そもそもないのだ。アダムにとってはごく普通の能力だった・・・[1]このパワーについてはウォッチマン・ニーの”The Latent Power of the Soul“を参照されたい。。
物理的時空間において五感の世界で聖書を読むと、「きよく・ただしく・まずしく・うつくしく・・・」のキリスト教という宗教体系が出来上がる。それは人のマインドが構成するマトリックス。その中で散々苦労するクルシチャンたちがほとんどの現状。キリストはアダムが失ったものをすべてゲットバックされた。血によりその代価を完全に支払われた。
否、アダムの原状復帰にとどまらず、彼が取り損なったいのちの木の実として、彼が神に至るにはわずかに足りない要素を埋めた。すなわち、われわれの霊は神から生まれた存在(☞エロヒム属の誕生)。それは神性を帯びている(2Pet 1:4)。私たちは神の性質をシェアする存在。神は肉をとおしてそれを現される(1Tim 3:16)。肉から生まれた私たちが神になるのではない。神性を有する霊が新しく誕生したのだ。霊から生まれるものは霊である[2] … Continue reading。私たち自身が「キリストにならいて」的生き方をしたところで、それは文字通りの猿真似。そうではなく、キリストご自身が生きるのだ(Gal 2:20)。ゆえに生きるとはキリストである(Phil 1:21)[3]☞神をエミュレートする。しかし肉にあって生きている私もいる。それは御子のフェイスによって生きる。これがガラテヤ2:20の説くところ。
イエスは人としてすべてのことをなされた[4] … Continue reading。彼のうちにおられる父の言葉を語り、父のわざをなした。彼は自分からは何一つしていない。つまり彼のわざはすべて父なる神のわざ。
これと同じ霊的メカニズムが私たちにも働く。新しい生命体とされた私たちはキリストと同じアイデンティティー、ポジション、アビリティ、インヘリタンスを有している。そのほとんどが現在は潜在化していしまっている。キリスト教なる宗教のマトリックスや自分の身体や生活の思い煩いなどによって窒息させられているのだ(Matt 13:6-8)。ゆえに覚醒せよ!(☞iPAIの覚醒) すでに得ているものに気づけ! それを使え! 清田氏も自分の中に埋もれているパワーに気がついたのだ[5]別にクリスチャンがスプーン曲げができるようになれと言うのではない。それは清田氏も言っているとおり、単なる趣味。。
かくしてフェイスは物理的エンティティと霊的エンティティの相互作用と引き起こす。元々ダムの体は土のチリから構成され、神の霊を吹き込むと生きる魂となった(Gen 2:7)。魂は知・情・意からなるが、物質である体と霊の相互作用から生成したのだ(☞人間とは)[6]このあたりはG.H.Pemberの”Earth’s Earliest Age“が詳しい。。イエスは水をぶどう酒に変え、パンを増やし、切断された耳を修復した。物質をフェイスにより操作したのだ(☞ナチュラルVs.スーパーナチュラル)。これがいわゆる超能力の正体である。ただし、清田君にしてもニューエイジャーにしても、その接点はクリスチャンとは異なる。われわれの接点、チャネル、ポータルはただイエスのみである。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。-John 10:9
われわれはこの門を出入りするのだ。どこと、どこを? そう、物理的領域と霊的領域をである。かくしてフェイスによりわれわれはイエスと同じわざ、さらに大いなるわざができるのだ(John 14:12)。
霊的領域のサブスタンスを見よ。見たものはゲットできる。それは霊から生まれるフェイスによるのだ! フェイスはシックスセンス。五感の領域から解かれて、フェイスはすでになされている永遠の霊的サブスタンスをNOWizeする。これ私の造語だが、現在化だ。永遠の現在化。かつて『真理はあなたを自由にする』において、フェイスとは永遠の世界の霊的逆算、I AMの実体化であると書いた。その現れをわれわれは経験する!
References[+]
↑1 | このパワーについてはウォッチマン・ニーの”The Latent Power of the Soul“を参照されたい。 |
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↑2 | 犬は犬を生む、猫は猫を生む。神は神を生む・・・というとかなり抵抗を覚えるだろう。えっ、神はただおひとりではないのか? これもエロヒムを神と訳したことによるトリックだ。エロヒムは霊的生命体。種々のエロヒムが存在するが、それらを創造したもっとも高きエロヒムがYHWH、いわゆる父・子・聖霊にいます「有りてある(I-AM)」なる三位一体の神である。つまりエロヒムはエロヒムを生むのだ。これがわれわれの霊である。神はご自分の霊を分け与えて(dispencing)下さった(1John 4:13)。 |
↑3 | ☞神をエミュレートする |
↑4 | 使徒行伝10:38では、ナザレのイエスは神が共におられたので、あれだけのわざをなし得たと証言している。「ナザレのイエス」とは人としての存在を意味し、「神が共におられた」のは神として振る舞ったのではないことを示す。 |
↑5 | 別にクリスチャンがスプーン曲げができるようになれと言うのではない。それは清田氏も言っているとおり、単なる趣味。 |
↑6 | このあたりはG.H.Pemberの”Earth’s Earliest Age“が詳しい。 |

日本語で「信仰」と聞くと、「信じて仰ぐ」とそれぞれのオツムに構築されたマトリックス回路が作動する。仏教とも神道でも何かを信じて仰いでいる。ゆえに、オレの信仰、あなたの信仰・・・、それぞれの信仰を大切にとなるのが一般的。かくして信仰を論じると、けっこう一部のプライドを刺激するようだ。この単語自体が日本語マトリックスなのだ。わたしはあえてフェイスと言う。
さて視力と言ったとき、オレの視力、あなたの視力とはならないであろう。それは与えられたセンサー、機能、能力。確かに視力の良し悪しはあるが、視力とは物理 的サブスタンスである電磁波をキャッチし、内的に実体化する能力。これは万人に共通。同じようにピスティス、すなわちフェイスも霊的サブスタンスをキャッ チし、実体化する能力なのだ。
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じフェイスの霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor4:13
つまりフェイスとは霊である!オツムで聖句をアレコレいじくって、その読解や解き明かしをするのではない。それは単なるオツムのマトリックス。霊的サブスタンスを知るのは霊。フェイスは霊的領域へのチャネル、ポータル。ヘブル11章1節の「フェイス」には定冠詞がないことに注意と何度も指摘している(Heb 11:1)。ニューエイジも フェイスを用いている。ただわれわれとはチャネル、ポータルが異なるのだ。われわれのそれはジーザス。
フェイスにより語り出された言葉、つまりレーマは霊であり、いのちである(John 6:63)。語り出された神の言葉は無益に帰ることはない、必ず何かを成し遂げる(Isa 55:11)。フェイスはわれわれの僕(しもべ)、私たちが命じたことを忠実に行ってくれる(Luke 17:8-9)。ある姉妹がある事について祈ると主の油塗と平安が与えられた。すると思い煩いとか不安や恐れが消失 した。祈りが通ったことは分かった・・・けど、私自身も何かしなくてよいのでしょうか?と言われた。僕は忠実に言うことを聞いてくれるのだ(Luke 17:6)。
ポイントは、誰の言葉をどう聞いて、どう語り出すか。ジーザスは内なる父の言葉を聞いてそのとおりを行った。またそれを語り出した。それだけ。彼のわざ は、聞いて、語り、行う、これだけ。私たちも同じ。ややこしいナントカ神学とかカントカ主義とか、そのようなマトリックスに絡め取られないこと。マインドが透明であれば明確に内なる神の声を聞くことができる。
「フェイスは僕である」にはまたぞろ異論があるようだ。「信仰」を日本語マトリックスで考えるむきは特にであろう。弟子たちが「神のわざを行うためには何を したらよいでしょうか?」と尋ねると、ジーザスは「父が遣わされた者を信じること、これが神のわざである」と答えた。ここで日本語マトリックスは、「ふー ん、行いではなく、信仰が大切なんだ」と考える・・・。
が、よく読んでほしい、ジーザスはそんなことを言っていない!信じること、つまりフェイスが神のわざだと言っているのだ。See? 人は何かせねば、と考 える。神はわたしがする、と答える。これがフェイス。フェイスは私の何かではない。神のわざ、つまりスーパーナチュラル。だからジーザスは「神のフェイスを持て」と言われる(Mark 11:22)。私たちのために何かを成してくだ さるのは神ご自身であると。自分で「信じます、信じます」とやって裏切られたと感じる者がけっこういるが、とんでもなく勘違いしているゆえだ。
フェイスは霊であり、神のわざであり、スーパーナチュラル。キリスト教の「使徒信条」云々とかのレベルではない。昔、近視の私は視力検査の際、あらかじめ 視力検査表を「リサツクケテヘコ」と暗記して、それを答えたものだ。何を言いたいか分かりますよね?これがキリスト教なる宗教。
マトリックスを離脱せよ。霊的センサーとキリストのマインドをアクティベーションせよ。「リサツクケテヘコ」は不要になる!

日本語で「信仰」と聞くと、それぞれのオツムに構築されたマトリックス回路が作動するゆえに、オレの信仰、あなたの信仰・・・となることを指摘している。これはけっこう一部のプライドを刺激するようだ。自分には自分の確固たる信仰があるのだ、とやかく言われる筋合いはない!と・・・。
視力と言ったとき、オレの視力、あなたの視力とはならないであろう。それは与えられたセンサー、機能、能力。確かに視力の良し悪しはあるが、視力とは物理 的サブスタンスである電磁波をキャッチし、内的に実体化する能力。これは万人に共通。同じようにピスティス、すなわちフェイスも霊的サブスタンスをキャッ チし、実体化する能力なのだ。それは霊による信力と言える。
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor4:13
つまり、フェイスとは霊である!オツムで聖句をアレコレいじくって、その読解や解き明かしをするのではない。それは単なるオツムのマトリックス。霊的サブスタンスを知るのは霊。フェイスは霊的領域へのチャネル、ポータル。ヘブル11:1(Heb 11:1)の"faith"には定冠詞がないことに注意と何度も指摘している。それは一般名詞、ニューエイジもフェイスを用いている。ただわれわれとはチャネル、ポータルが異なるのだ。われわれのそれはジーザス。
フェイスにより語り出された言葉、つまりレーマは霊であり、いのちである(John 6:63)。語り出された神の言葉は無益に帰ることはない、必ず何かを成し遂げる(Isa 55:11)。フェイスはわれわれの僕(しもべ)、私たちが命じたことを忠実に行ってくれる(Luke 17:5-10)。昨日のある姉妹の証:ある事について祈ると主の油塗りと平安が与えられた。すると思い煩いとか不安や恐れが消失 した。祈りが通ったことは分かった、・・・けど、私自身も何かしなくてよいのでしょうか?と。これがナチュラルなマインド。が、僕であるフェイスは忠実に言うことを聞いてくれるのだ。
ポイントは、誰の言葉をどう聞いて、どう語り出すか。ジーザスは内なる父の言葉を聞いてそのとおりを行った。またそれを語り出した。それだけ。彼のわざ は、聞いて、語り、行う、これだけ。私たちも同じ。ややこしいナントカ神学とかカントカ主義とか、そのようなマトリックスに絡め取られないこと。マインドが透明であれば明確に内なる神の声を聞くことができる。
「フェイスは僕である」にはまたぞろ異論があるようだ(Luke 17:5-10)。「信仰」を日本語マトリックスで考えるむきは特にであろう。ヨハネ福音書でも弟子たちが「神のわざを行うためには何をしたらよいでしょうか?」と尋ねると、ジーザスは「父が遣わされた者を信じること、これが神のわざである」と答えた(John 6:29)。ここで日本語マトリックスは、「ふー ん、行いではなく、信仰が大切なんだ」と考える・・・。
が、よく読んでほしい、ジーザスはそんなことを言っていない! 信じること(ピスティーオー)、つまりフェイスは神のわざである、と言っているのだ。See? 人は、何かせねば、と考える。神は、わたしがする、と答える。これがフェイス。フェイスは私の何かではない。神のわざ、つまりスーパーナチュラル。だから「神のフェイスを持て」(Mark 11:22)。私たちのために何かを成してくださるのは神ご自身であると。自分で「信じます、信じます」とやって裏切られたと感じる者がけっこういるが、とんでもなく勘違いしているゆえだ。
フェイスは霊であり、神のわざであり、スーパーナチュラルなしもべである。キリスト教の「使徒信条」云々とかのレベルではない。小学生時代、近視の私は見栄を張るため、視力検査の際、あらかじめ視力検査表を「りさつくけてへこ」と暗記して、それを答えたものだ。何を言いたいか分かりますよね? これがキリスト教なる宗教。「使徒信条告白~!」とかは「りさつくけてへこ」。キリスト教なるマトリックスを離脱せよ。霊的センサーとキリストのマインドをアクティベーションせよ。見える人には「りさつくけてへこ」は不要なのだ!

ここでもサイエンスは聖書をフォローする。フェイスはこのサブスタンスを変化・生成させる。するとなんの努力も力みを要らずに山が動く(⇒フェイスは霊のサブスタンスを変化・生成させる@YouTube)。
神の信を持て。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。 ―Mark 11:22-24

フェイスは「われはアレを信ず、コレを信ず・・・」とやることではない。それは単なるお題目。フェイスは霊である。ジーザスは「神のフェイスを持て」と言われた(マルコ11:22)。なぜなら私たちの得た霊は世の霊ではなく、神の霊だから。信じたのに癒されないとかの罠に陥ることなかれ。ただ霊のバイブレーションに浸れ!

今年のノーベル賞の受賞テーマの一つがエンタングルメント(量子もつれ)の立証だった。波動関数を共有するふたつの量子が時空間を超えて相関するというものであるが、これで局所的実在性が否定されたのだ。つまり時空間に存在するものであれば、相対性理論によって支配されるので、互いの情報は光速を超えて伝達することは不可能。ところが量子もつれの状態にある量子は高速を超えて互いに関係し合うことができることが証明されたのだ[1]このためアインシュタンインはSpooky(気味の悪い)減少だとため息をついた。
白いキリスト教神学の論争にカルバンVSアルミニウスなるものがある。救いは神の定め(確定論)によるのか、人間の自由意志によるのか(偶然論)と争って、互いに異端~とやりあっている愚かなテーマである。これについてはかつて再建主義の故富井氏とディスカッションしたことがある(⇒ログ)。
結論を言えば、判断不能。人間の認識能力には確定と偶然を識別することは不可能なのだ(⇒過去関連記事)。さらにいわゆる自由意志なるものが幻想であることも分かってきている。
では救いとは何だったのか。かつてこんな記事をモノしたことがあるが、さらに進んで議論したい。
エンタングルメントなる現象は確定していない2つの量子状態の重なりが観測によって確定するとするものだが、スピリチュアルな経験もまったく同じ。救われた状態と救われてない状態が霊的領域では重なりとなっており、私がフェイスした瞬間に救われた状態が私において確定する。フェイスは聖霊のプロンプトに私が応答した結果である。自由意志と思っているものは実は後付けなのだ。
われわれはキリストとスピリチュアルな波動関数を共有し、エンタングルメント(もつれ状態に)されている。よってイエシュアは言われた、「地で解くことは天でも解かれており(完了形)、地で縛るものは天でも縛らえれている(完了形)[2] … Continue reading」(Matt 16:19)。それは時空を超えたスピリチュアル・リアリティあるいはサブスタンス。YHWHのわざは天地創生のときより完成されている(Heb 4:13)。われわれは肉体にておいてはこの物理的な五感領域に生きているが、霊においてはすでにキリストとともに御座についている(Eph 2:5)[3]だからパウロは肉体的には離れている者を霊においてっ裁くことができたのだ(1Cor 5:3)。。まさにエンタングルメントである。
重なり状態にある量子は観測によってひとつの状態に確定する。それと同様にあらゆる可能性の重なり状態としてスピリチュアル・サブスタンスは存在しているが、それをフェイスはこの五感の領域において確定する。それがわれわれの経験である。
いま、信(フェイス)とは願われる実質(サブスタンス)、まだ観測されていないこと(プラグマ)の現出(エビデンス)である。-ヘブル11:1(私訳)
キリストとエンタングルメントし、御子の信(pistis)のうち(en)に生きるってこんな安楽はないでしょう。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信のうちで、生きているのである。-Gal 2:20(改)
邦誤訳の問題点はすでに指摘しているが、たとえば「洗礼」なる訳語も大変にまずい。これは単なる儀式だ。真理はバプテスマ、それは浸し込むこと。我々はキリストにインプラント(Gk.sumphutos)されたからキリストとひとつ(Rom 6:5;1Cor 6:17)。
そもそもフェイスは霊(2Cor 4:13)(☞過去記事群)、エンタグルメントによりキリストと私はその霊を共有している。「使徒信条告白~」なんてものは単なる式文に過ぎない。
かくして私たちはキリストとバイブレーションを共有しているだけでよいのだ(☞バイブレーションについてhこちらの記事群を参照)。
その時、聖霊は霊の感光またプロンプト(促し)を与えてくださり、それに応答する形(これを自由意識と思っている)で私たちが語り、また働くとき、天のサブスタンスが地に実体化する。まさに天になるとおり地にもなるのだ。このメカニズムはフォティーゾと言われることはすでに説いている。
キリストと私たちはその人間性、死と復活、昇天、そして着座を共有しているのだ。この事実をサタンは隠しておきたい。だから信仰に励め~、聖化~、奉仕伝道、献金、会堂建造、教勢拡大、日本民族総福音化の決起集会~と騒ぐわけ。ほとんど喜劇のレベルではあるが、以下自粛。

わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。-2Cor 2:10-11
神は人の内に霊を造られた(Job 33:4)。霊は内なる神の光。その霊は人の心の奥深くも知る。実は自分の霊は自分のことをよく知っている。が、人の心は歪んでいる(Jer 17:9)。その真実から逃れるために、実にいろいろな企てをする。自分が満たされていること、自分には信仰があることなどを、自分で証明しようとして・・・・。ああ、それ自体、自分の内なる空虚を証明しているではないか。そのような作為は、自分の真実から逃れるための哀しきもがきなのだ。自分が霊的に空虚であることを認め、あらゆる取り繕いを放棄して、真に頭を垂れた者は幸いだ。
聖書で「良心」(これは現代用語である)と訳された単語はsuneidesis、sun(with)+eido(percept)、つまり「共同知覚」だ。英語ではco-perceptionである。私の霊と御霊が共に証しすることだ(Rom 8:16)。岩波訳では「内奥の意識」と訳している。マラキ書では「霊の名残」とも(Mal 2:15)。それは聖霊と共なる知覚であり、霊の感覚である。よってヘブル書では「感覚により善と悪を識別する」とあるのだ(Heb 5:11)。感覚はもちろん生命現象である。
ちなみに、新改訳(訳のバイアスが多すぎる)ではpneumaをほぼすべて「御霊」と訳すが、pneumaが聖霊と明示されている箇所は20数か所であり、他は人の霊か聖霊かの判別が難しい。新共同訳は聖霊と思われるものを”霊”と表現しているが、それは訳者にとって「思われた」だけだから要注意。真理は、両者は区別ができない、のだ。
例えば、2コリント4:13(2Cor 4:13)の”spirit of faith”についてVincentは
Spirit of faith: not distinctly the Holy Spirit, nor, on the other hand, a human faculty or disposition, but blending both; faith as a gift of the Spirit of God.
と注解する。私の霊と聖霊がブレンドされていると。そもそもフェイスは霊、スピリットである。「使徒信条告白~、われはナントカを信ず~」などは単なる式文だ。霊的リアリティ(サブスタンス)を知覚(eido)し、また感覚(aisthētērion)すること、これが霊の機能であり、そのリアリティに沿って生きることがニュークリーチャーの標準。
そしてそれを外すことが罪、つまりハマルティア(的外れ)。それはいわゆる善悪とは関係ない。善を行ってもこの標準を外れるならば立派な罪である。そこでメタイノイア(思い改め)、すなわちマインドの方向を主に向かって変えることが求められるのだ。それはスピリチュアル・ターゲットに照準を据えることである。
主に結合される者は主とひとつの霊になるのである。-1Cor 6:17

おなじみの説話。ニッポンキリスト教でよく聞かれる説教は、私たちも傷ついた人に寄り添って、良きサマリヤ人になりましょう!・・・だ。実に胡散臭い。
良きサマリヤ人はだれ? それはジーザス。強盗に襲われて半殺し状態であった者はだれ? 私たち。強盗はだれ? もちろんこの世の君、サタン。レビ人や祭司はだれ? 宗教だ。つまり宗教は人を救わない。
ジーザスはご自分が良きサマリヤ人であると言われる。傷に油(聖霊)とぶどう酒(血)を注ぎ、包帯をして(罪の傷の覆い)、ロバ(ご自分が乗る動物)で宿まで運び(ジーザスが用意された住処)、費用を払い(贖いの代価)、さらに不足があれば追加の支払いの約束までしてくださった。WOW!
われわれは単に「死後天国に行ける」といった幼稚な福音ではなく、今、ここで、不足があれば良きサマリヤ人が支払ってくださるとの約束を得ているわけ! God’s Kingdomは、今、ここに、すでにある!
前に、いわゆる黄金律、「あなたのしてもらいたいことを人にもせよ」が誤訳であると指摘した。
なぜか人は、何かをしないではおれない習性を有している。何かをしていないと落ち着かないのだ。が、神はわたしがすると言われる。フェイスは私たちのしもべ。
主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」-ルカ17:6
よく読んでほしい。言うことをきくのだ! カギはからし種ほどのフェイス。それはサイズの問題ではない。砂粒ほどではダメ。ここでも人はサイズにこだわる。信仰を増し加えてくださいと。フェイスは、あるか、ないか。ポイントは種にはDNAがあること。DNAがあればそれは自ずと繁殖するのだ。
視点を自分から神へとチェンジすること。それは実に安楽な道。
人を豊かにするのは神の祝福である。人の労苦は何も加えない。―箴言10:22
するとまた、私を祝福してください、と叫ぶ。ノー、すでに祝福されている。
神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。-エペソ1:3
ええ、そんな安易なことでいいの? そんな都合のいい話があるの? アブソリュートリー・イエス! 私たちには不足分を払ってくださる良きサマリヤ人がついてるのだから。宗教を離脱せよ、WOW!
キリスト教なる宗教は常に自分のあり方を気にするが、フェイスは常にイエシュアを意識する。ベクトルの向きが逆なのだ。セルフからキリストへ、これがメタノイア=思い改め=だ。


フェイスは霊的領域の諸々のサブスタンスを実体化する―それこそがフェイスの機能である。-W.ニー

まことに同意だ。今日のメッセでもここを語った。ニッポンキリスト教もこの言葉で惑わされている。センセイたちがそもそもね。そしてその病識が欠如している。これは主流派経済学者も同じ。加えてプライドが絡んで救いがたいわけ。
フェイスは霊のサブスタンスを得て、言語化すること。アダムは動物を呼んだ、それがその名前になったのだ。逆に言えば、自分が望まないことは言語化しないこと。言語化すればそれは概念として残るから。祝福と恵みを語れ! 旧いマトリックスを脱ぎ捨てよ!
いま、フェイスとは望まれるサブスタンス、まだ観測されていないことの現出である。-ヘブル11:1(私訳)
信じた(=サブスタンスを得た)、それゆえ語るのである!(2Cor 4:13)

神の御心においては天地の基が置かれる前から、創造も、キリストの贖罪も(Rev 13:8)[1]この聖句の「世の初めから」が「ほふられた」にかかるか、「いのちの書に書かれて」にかかるかは議論がある。Alforfdなどはペテロ書(1Pet … Continue reading、私たちの選びも(Eph 1:4)、黙示録(完了形で書かれている)の完成も、すべては既定路線だった。それらは神の信仰においてはすでに成就しているのだ(Heb 4:3)。それらは神の信仰の実体であり(Heb 11:1)、時に従って(Gal 4:4)神が語り出すことにより、それぞれが時空間において現出し、成就した(Heb 11:3)。
そして今尚、継続されている。私たちはその神の信仰のうちに置かれている(cf.Gal 2:20)。だから私たちにおいて御言葉は必ず実現し、成就する。たとえそれらが人間の知恵には不可能であると思えても、だ。なぜなら神のフェイスだから! イエスは人間としてそのことを実証された。しかも同じ業を私たちにもせよ、さらにそれができると言われる(John 14:12)。
鍵は思い(nous=mind)がトランスフォーム(metamorphoo)され、神のフェイスと同じことを語ること。「告白」の原語は”homologeo”,i.e.homo=同一の、logeo=ことば(logos)。つまり「同じ事を語る」こと。「私の信仰だ!」などと主張することなく、神のフェイスに私のそれを飲み込んでいただくのだ。
生きているのはもはやわたしではなく、キリストである。今、肉(五感領域)にあって生きているわたしは、・・・御子のフェイスにあって(Gk.en=in)生きている。Gal 2:20
聖書を道徳や宗教の書として、あたかも清く・正しく・美しく生きるためのルールブックすることなどは愚かにして大いなる損失。それは単なるキリスト教なる宗教である。御言葉は神のフェイスの実体(Substance)であり、告白(Decree)であり、しかもこう書かれている:
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。-Isa 55:11
私たちが霊に反映あるいは共鳴された神のロゴスを霊により語り出すならば、それは必ず成就する。かくしてフェイスは僕として働くのだ(Luke 17:7-8)。フェイスは霊である。その霊を受けること、そして語り出すのだ(☞御霊で変調された言葉を語る)。
「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13

救いは律法を行うことによるのではなく、御子イエスを信じることによる。
これがプロテスタントの金科玉条とする信条だ。ルターはパウロのロマ書においてその真理を発見し、自らの葛藤から解かれた。ところがヤコブ書を見ると、人は信仰だけによって救われるのではない、信仰は行いによって全うされると書いてある。これは困った。俺はもう律法を行おうと努力することにはトラウマがあるのだ。そこで、ルターは叫んだ、ヤコブ書は木草藁の書だ!
ここにルターの根本的誤りがある。すでに上の記事でプロテスタントの過ちについては書いているが、彼らの中心には自己(セルフ)が生きているわたしが律法を行うことによるではなく、わたしが御子を信じることによると。自分がどちらを選択するかと常に問うのだ。つまり律法と信仰を対立概念にしている[1] … Continue reading。そもそも訳が悪い。
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。-ローマ3:20(新改訳)
ここの主語はだれか。「わたしが」である。が、原意は違う。
Because by works of the Torah not one of all flesh will be justified before Him, for through the Torah is the full knowledge of sin.-Rom 3:20(HRB)
律法のワーク(deeds;行い)、原語はエルゴンだ。「わたしが律法を行うことによる」のではない。「律法の働きがわたしを義と認めない」のだ。この点、新改訳は巧妙に訳者のオツムのマトリックスによる誤訳があちこちに散見されるので要注意だ。しかし、御子のフェイスがわたしを救う。
even the righteousness of YAHWEH through the faith of Yahshua Messiah toward everyone and upon all those believing-Rom 3:22(HRB)
わたしが中心にいて、律法を行うか、御子を信じるか、という構図がルターのマトリックス。聖書は、律法がわたしを救うか、御子のフェイスがわたしを救うかの構図。主語を入れ替えられているわけ。そこで「わたしが律法を行う」ことにトラウマを覚えているルターはヤコブを拒絶した。
しかしながら、ヤコブが主張していることは違う。ヤコブは言う、自由を与える完全な律法を見つめよと(James 1:25)。ルターは言うであろう、自由の律法?! 律法は俺に苦痛だけを与えたのだ!と。対してヤコブは言う―
信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。・・・ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。-ヤコブ2:17-22(新共同訳)
この「行いが伴わないなら」とある訳を真に受けると、「わたしが行わないなら」と主語が「わたし」になる。が、原意を英語で言えば”So also faith, if it does not have deeds, is dead being by itself.” つまりdeeds(複数形)を持つ/持たないを問われるのはフェイスである。deeds(ergon=働き)を持たないフェイスはそれ自体では死んでいる。もっと言えば、deedsの欠落したフェイス[2] … Continue readingはあり得ないと言うのである。ここで問われているのはフェイスである。
ゆえにアブラハムのフェイスがそのdeedsと同労し、deedsを根拠として(ek)フェイスが完成された(22節)。この「共に働き;同労する」の原意は”to put forth power together with and thereby to assist”(Thayer)であり、力を与え、それにより助けとなるの意味だ。つまりフェイスはdeeds(ergon=働き)をする力を与え、その助けをし、共に働く。ここの主語は「わたしが行う」のではなく、「フェイスがわたしに行わしめる」のだ。
そもそもフェイスは霊である。「われはナントカを信ず~」といったものではない。それは単なる教条告白(儀式)の式文だ。
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:13
霊は人を生かし、語らせる。それはいのちであり、パワーである。なぜ? それは御子のフェイスだから。
生きているのはもはやわたしではない。キリストがうちに生きている。今、肉にあって生きているわたしは・・・御子のフェイスにあって(en)生きるのだ。-Gal 2:20
御子のフェイスは私たちが生きる領域である。そのキリストは今や命を与える霊である。残念ながら、モーセ律法自体はいのちを与えることができなかったのだ(Gal 3:21)。だから不完全であったゆえに新しい祭司制度がたてられた(Heb 7:11☞祭司制と律法について)。
So also it has been written, “The first man, Adam, became a living soul.” The last Adam a life-giving Spirit.-1Cor 15:45(HRB)
この霊は聖霊によりわれわれの霊のうちに伝達された。そしてフェイスもこの霊から生み出される。フェイスには諸々の行いをする命の力が満ちている。ゆえにフェイスを語り出せば、フェイスはわれわれの言うことを聞くのである。
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。-Luke 15:22
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。-Luke 17:5-6
フェイスはわれわれのしもべとして語り出されたことを成し遂げる。ジーザスはうちなる父の言葉を語り出されるとそのとおりになった。また彼のわざはうちなる父のわざであった。われわれも同じだ。わたしがするのではない。フェイスの霊がわたしたちを通してわざをなすのである。これが恵みである。だから律法(行い)と恵みは対立概念ではない。パウロは言う―
キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。-Rom 15:18-19
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10
主語を転換せよ! セルフを離脱せよ! かくして―
生きるのはわたしではなくキリスト!(Gal 2:20)
References[+]
↑1 | この点、今回のメッセでも語ったが、文系オツムはきわめてナイーブ(=幼稚)だ。概念のレベルですぐ矛盾するとか対立するとか言い出すわけ。自由意志と神の選びの問題、いわゆるアルミニウスVS.カルバンの対立も同様。これについてはかなり前に指摘したが、それを判断することは不可能であるとカオスの理論は教える。量子論の世界では電子などは波動でもあり粒子でもある。波動VS.粒子の対立概念を超えたところに物理的リアリティーは存在しているのだ。 |
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↑2 | これは”フェイス”とカギカッコをつけるべきであろう。しばしば、自分にはフェイスがあると思っていても、実はそれは思い込みに過ぎないことはよくあることだ。だからダビデは思い込みの罪から守ってくださいと祈っている(Ps 19:13)。 |

いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ観測されていないことの現れである。-Heb 11:1(私訳)
よく自分の信仰を云々する向きがある。自分には信仰があるとかないとか。あるいは自分が信仰によって何かを頂ける人間ではないとか、小さなものに過ぎないとか。あの人の信仰は偉大とか、純粋とか・・・。これらはみな自意識過剰症候群だ。つねに自分の何かを強迫的に気にする傾向が、特に、ニッポンキ業界には多い。
実は信仰はそのようなこととは一切関係がない[1] … Continue reading。信仰、もっと正確には信(pistis)とは実体(hupostasis)、サブスタンスだからだ。それは天地創世の時にすでに完成されていた神のリアリティー(Heb 4:3;Rev 13:8)。私とは関係なく存在する。そのサブスタンスそのものが信なのだ(Heb 11:1)。
そもそも世界はそのサブスタンスがframe化されたもの(Heb 11:3)。肉の目には目の前の事実がサブスタンスよりも現実感を伴う。それがリアリティだと思っている。しかし主の目にはサブスタンスの方が現実よりもリアルだったのだ。だから五つのパンで五千人を養うこともいとも容易いことだった。私たちも霊の目が開けると目の前の事象よりもサブスタンスの方がよりリアルになる。天のポータルとして霊的領域のサブスタンスにアクセスし得る能力を得ている。キャッシュ・ディスペンサーのように、そこからいくらでも天の富を引き出せるのだ。
サブスタンスに触れたとき、私たちは願っていたものを「得た」と分かる。たとえ、目の前にはまだ存在していなくても(☞信仰と希望について)。くどくど長たらしく祈る必要もない(Matt 6:7)。ふっと霊を開けば良いのだ。霊のサブスタンスと自分の間に何か薄紙のようなものを挟み込んではならない。ダイレクトにソレに触れるのだ。神の国は<今・ここに>あるのだから。キリスト教のあれこれのややこしい教えの体系を捨て去れば、見える。
私たちは内側に神の国を得ている新創造だ。天の父はわたしの持っているものはすべてあなたのものだと言われる(Luke 15:31)。御子イエスは私たちが彼とおなじ業、さらにもっと大いなる業をなすと約束された(John 14:12)。聖霊はそのことを地上に現出させ、実際に行われる。まことに私たちは神の国のパワーポイントなのだ!
このときに大切なことがある。
預言者の霊は預言者に服従するものである。-1Cor 14:32
この御言葉はすごい。預言者の霊(複数形)とは何か?もちろん聖霊の(現れ)こと。Vincentはこう解説する:
The movements and manifestations of the divine Spirit in the human spirit, as in 1Cor 12:10.
1コリント12:10にあるように人間の霊における神聖な霊の種々の動きや諸々の現れのことを指す。ここでは私たちが癒しの言葉や知識や知恵の言葉を語り出すとき、聖霊は-もちろん、いわずもがな、聖書の御言葉の原則に反しない限りであるが-私たちの意志に服されるのだ。ゆえに私たちはサブスタンスに触れたら、すなわち信を得たら、語り出すこと。あるいはその自覚がなくとも、御言葉をDecree(法的効力の宣言)すること。これで一つの霊的任務が完結するのだ。ただ恵みを受けて気持ちよくなりたいだけの人もいると思うが、私たちは祭司であり預言者。そして王として権威を行使する必要があるのだ。まことに
「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じフェイスの霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13
フェイスは霊である。その霊を解き放つこと。神はサブスタンスを「XXよ、あれ」と解き放たれた。するとXXは存在するに至った。この原則は私たちも適用されるのだ。しばしば魂(特に思い=マインド)ががんじがらめになっている人は言葉を発せない。敵に縛られたまま、黙々とその中で生きることに慣れてしまっている。2,3年前に誘拐犯に監禁された女性が自由にコンビニに出入りしながらも助けを求めなかった事件があった。彼女はその犯人との関係で構築された空間のプロトコルに従っていれば命だけは保証されると刷り込まれたのだ。これはDVを受ける妻やパワハラを受ける会社員なども同じ。彼らは声が挙げられなくなる。人はこうして何かの奴隷にされるのだ。
かつてのアメリカの黒人奴隷と同様に、すでに奴隷解放宣言が発効しているのに、彼らはあえて奴隷状態でいる方が楽なのだ。人はしばしば貧困・病気・困難・弱さ・自己憐憫など、ネガティブな状況にあえて留まるものだ[2] … Continue reading。彼らにとってはそこがコンフォート・ゾーンになっている。だから主イエスは盲人に対して、「あなたはわたしに何がしてほしいのか」とか、「治りたいか」と質問された。その「治りたい」という意思表示が癒しあるいは解放への第一歩なのだ。
References[+]
↑1 | よく自分の”信仰”に信仰を置くミスを犯す傾向がある。私たちの信はサブスタンス。自分の”信仰”を見ていると罠に落ちるのだ。人の何かによるものではないのだから。「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にあって立つのではなく、神の力にあって立つためでした」-1Cor 2:5 |
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↑2 | この時に正当化のためによく使われるのが、イエスは病人を招くために来たとか、健康な者に医者は要らないとか、彼は弱者に寄り添ったとか・・・。これらは自己憐憫の投影に過ぎない。イエスは決して同情はしなかった。目の見えない盲人の目に泥を塗ってシロアムの池に行って洗えと命じた。なぜそこで目を開けなかったのか。フェイスは行いによって完成されるのだ。主は彼を同情し、寄り添ったのではない。あわれんで、その状態から解放されたのである。同情(sympathy)と憐れみ(compassion)は異なるものである。同情はしばしば自己憐憫ワールドを肯定し、その中に人を置き去りにするのだ。 |

うちの薬剤師の奥さんの薬局では最近は電子マネーで支払うらしい。あるおじいちゃんに、残高が足りませんので、三千円チャージしてく ださい、と言ったらしい。で、そのおじいちゃん、三千円を”支払う”と、なんと「ツリをくれ」とクレーム・・・。何度説明してもついに分かってもらえなったとか
率直に言えば、私たちより上の世代と関わるのはけっこううっとおしい。さすがに最近はメッセのテープを分けてくれという人はいなくなったが、DVDとCDの区別がつかなかったり、自分のケイタイの設定を教えてくれとか、セレブの”三番目”の賛美は何と質問するも自分が来てからの三番目だったり、セッティングしたカメラスタンドを動かしてしまったりと。話しでもこちらのジョークが通じない、逆に相手が何を言いたいのか不明。微妙に感覚がズレるのだ。
これがけっこうイラっとクルわけ[1] … Continue reading。いろいろ問題を訴えるが、たいていの場合、自分で作り出しているだけ。本人はそのカプセルに幽閉されて、自分が見えないまま、無限ループに落ちている。ここにプライドが絡むとほぼ脱出は不可能になる。それを否むことができないのだ。というわけで、まあ、最近はさっとスルーしているが・・・。
要するに共有している時代や価値観のマトリックスが全く異なるわけ。生きている領域がかなり違っていることは否めない。どこに境目があるかと思ったが、どうもネットとの関わり方で決まるかもだ。もちろんこれはアダム系にある私が構成したマトリックスであるが。
これは霊的にも全く同じ。未信者は神なんていないが当たり前のマトリックスに生きている。彼らにとっては物質の世界がすべて。せいぜい心を大切にとかのレベルだ。今のニッポンの状況はアベちゃん現象でわかるとおり、その行きつくところまで到達した感がある。一言、卑しい。
あなたがたはこの世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであれ、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2(岩波訳)
自分の生き方や信条や個性や感じ方などをあくまでも主張する人々がいる。オレはオレ、私は私であることが大切だと・・・。彼らを見ているとひたすら種々の活動や主張に次から次へと没頭し、それはある種強迫的ですらある。それに没頭していないと自分のアイデンティティーが保たれないかのように・・・。一言で言えば、霊的に空疎なのだ。
私たちは絶えず自分の十字架を負う必要がある。それはまずマインドを絶えず変えること。上のおじいちゃんのように、現ナマのマトリックスに絡め取られていると電子マネーが使えない。理解もできない。これが自分を自分のマトリックスに幽閉する人々のあり方だ。自ら捨てない者は決して新しい創造としての生き方やその霊的資産を得ることはない。そしてその空疎さは周りにはわかってしまう。霊のあり方は決してごまかせないのだ。彼らは活動することによってその空疎を補償しようとするのだが、かえってそれが空疎さを証明していまう。
神のバイブレーションと共振すること(Ps 19:1-3)。これは神の声を聞くことであるが、魂(Soul)―特にナチュラルなマインド-が邪魔をする。いわんや、自分を主張すればするほど、神との距離が離れる。まことにジーザスの声を聞く者は生きるのだ(John 5:25)。私たちの霊的有用性は、活動ではない、聞くことにある。聞けばフェイスが息吹かれる。それは霊を受けることである。フェイスは霊である。そして語り出すのだ。その語り出された言葉は無意味に返ることはなく、必ず言い送ったことを成し遂げる(Isa 55:11)。それは神の業である。ジーザス自身がそのように生きたのだ。
神に属する者は神の言葉(レーマ)を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。-John 8:47
マルタはジーザスの足元に座るマリアに憤りを覚え、ジーザスに訴えた。が、彼はマリアは大切なことをしているのだと言われた(Luke 10:40-42)。それは―ジーザスの声を聞くこと。聖霊は自分勝手に語るのではなくジーザスの言葉を語るのだ(John 16:13-14)。かくして、私たちの有用性はどれほど聞くことができるかにかかっているのだ。
持っている者で聞く者はますます豊かになる。-Matt 13:12[2]写本により「聞く者」が落ちている。

かつてニッポンキリスト教ではアメリカキリスト教のベストセラーなる『境界線』なるものがもてはやされた。が、これは心理学と処世術にみ言葉をまぶしたもの。精神医学的には自我境界と言う、世の心理学の焼き直しに過ぎない。
バウンダリー。これ、きわめて巧妙な偽りである。フェイスには境界線などはない! エクレシアにも境界線などはない。あるのは五感の世界とシックスセンスの世界を分けるライン。しかし、フェイスはそのラインをも突き抜ける。フェイスは時空間を超える。われわれはクロノスに生きてはいない、永遠のNOWに生きる者。それはカイロスの世界。神は天を裂いてくださったのだ(Isa 63:19;Mark 1:10)。
バウンダリー、限界は自ら設けてしまうのだ。彼らは勝手にラインを引くのだ。面白いもので、そのような人々は必ずそれに応じた試みを受ける。神はそのバウンダリーに気づけ、と言われるのだが・・・。。突き抜けよ! 境界線を破壊せよ!
神のフェイスを持て。信じる者にはすべてが可能である-JESUS
クリスチャンがアレコレ問題や病を抱えて葛藤し、時には自分の心をやりくりし、オツムの中でグルグルと理屈をこねくり回すのは、結局五感の領域に幽閉されているからだ。フェイスはそこを破る。フェイスは霊的領域のサブスタンスをこの五感で感知する物理的領域にダウンロードする(Heb 11:1)。フェイスはシックスセンス、それは超能力なのだ。信じます、信じます、と念仏を唱えることではない! 神の領域を見ること、霊的世界を透視すること。われわれは自分が見たものを得るのだ。
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。-Gen 3:6
ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。」-Gen 13:14-15
クリスチャンで五感に束縛されている人はきわめてアップダウンが激しい。ちょうど航空機が対流圏飛行をするようなもの。外界の気流の影響をモロ受けるのだ。しかしクリスチャンはそこにいない。私たちは世のものではなく、キリストとともに天の座についている(John 8:23;Eph 1:20)。はあ、オレ、ここにいるんだけど・・・という人はフェイスを知らない人。クリスチャンは大気の流れの影響を受けない成層圏を飛行する航空機と同じ。雲の上を突き抜けるならば、そこはつねに快晴。乱流もなく、静かな空間が広がる世界。
2018年、テイクオフの年。世はどの領域もタービュランス(乱気流)状態。雲の下は動乱の年となる。われわれは雲の上、成層圏を飛ぶ。雲の上と下、どちらに生きるのか。その差が明確に現れる。

イエスは言われた、羊は門であるわたしを通して出入りする、と(John 10:7-9)。どこと、どこを? 前にも指摘したが、私たちはこの世の者ではない(John 17:14)。物理的時空間において、自然法則により支配されている存在ではない! 確かに私たちの血肉はその法則に縛られている。が、私たちの本質は肉体すなわち物質ではない。霊である。神から生まれるものは霊である(John 3:6)。
私たちは神のDNA(種)をインヒュージョンされ、新しく生まれた生命体(1John 3:9;James 1:18)。つまりニュー・クリーチャー(2Cor 5:17;Gal 6:15)。新生命体。その生息場所は霊的領域である。私たちはキリストともに天に座している(Eph 2:6)。血肉は天に入ることはできない(1Cor 15:50)。Are you with me? 私たちがこの物理的肉体の五感によって感知できる領域にのみとどまるのであれば、それは天の領域に生きることではない。それは肉にすぎない。
私たちはアダムにある時代の経験によって物理的時空間の法則を、たとえ物理法則の難解な数式を知らずとも、感覚的に知っている。私たちが二足歩行をするための微分方程式はどれほどに複雑なものとなるであろうか。しかしだれもが何気に歩く。これが肉体のいのちの能力である。
同じように、霊的領域において複雑な真理は知らずとも、霊が経験的にその領域の法則を理解する。それはフェイスの法則(Rom 3:27)。いのちの御霊の法則である(Rom 8:1-3)。その領域のリアリティー、サブスタンスをこの五感の領域に現出させること、これがフェイス(Heb 11:1-3)。
そのためには語ること。預言の霊は預言者に服する(1Cor 14:32)。それはイエスの証(Rev 19:10)。預言とは神のことばを預かって語り出すこと(☞預言とは;預言の霊的機序)。イエスも自分が語る言葉は御父のことばであると言われた(John 14:24)。彼は預言したのだ。
今、私たちのうちに住まわれる御霊はイエスのことばを受けて、私たちに伝達する(John 16:13-14)。それは霊的バイブレーションとして私たちの霊に共鳴する。フェイスは霊である。そのバイブレーションを語り出すのだ。自分のオツムの何かを語っても何も起きない。いわゆる聖書をアナウンサーが朗読しても何もわざを証しない。今、ここで、神の霊的波動を受けること。そして語り出すこと。これがまことの預言。
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じフェイスの霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:13
この時、次の言葉が成就する。
このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。-Isa 55:11
この「言葉」はdabar。メッセでも語ったが、へブル語のdabarはmatter、実質、実体という意味だ。箴言に
事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。-Prov 25:2
とある「事」もdabar、すなわち言葉だ。神の言葉は隠されている。神の国はだれかれに明らかにされることはない。探した者、そして見出した者がその実質、サブスタンスに与ることできる。神の国はミステリー、奥義なのだ(Matt 13:11)。
物理的領域と霊的領域の狭間に生きる私たちは、ジーザスというポータルを通して両者を往来し、私たちのうちにすでに到来している神の国の実質、dabarを探り、それを見出すこと。これがサブスタンスを掴むこと。信じることとはまさにサブスタンスをゲットすることだ。そして信じたら物理的領域へと語り出す(2Cor 4:13)。語れば、それはなる!
私たちは肉にある者であるが、肉に従って生きるものではない(Rom 8:4;2Cor 10:3)。霊に従う者。霊の領域を物理領域に現す者だ。このとき神は私たちの唇の実を創造される(Isa 57:19)。かくしてそれは天になるとおり、地にもなる。神の国は地に降りてくる。究極にはエクレシアの完成である新エルサレムは地上に下るのだ!

フェイスは霊のサブスタンスを変化・生成する―Dr.Luke from Luke Osamu Karasawa on Vimeo.
いま、フェイスとは願うサブスタンス、まだ観測されていない事の現出である。-Heb 11:1(私訳)

祈りって何でしょう。キリスト教のお勤め? あるいは打つ手がなくなった時、もはや神に祈るしかないと。それは何か虚無感を覚える祈りのイメージです。
祈りは、ひとつは霊的呼吸です。エロヒムから生まれたエロヒムの霊をもつクリスチャンは祈ることなしに生きることはできません。肉体が呼吸を止めることができないのと同様に、祈りは霊的生命を維持するのです。ニッポンキ業界の牧師たちは良く言います、祈れ、祈れ、祈り倒せ~!とか💦 私はこう言います、祈りをやめてごらん、祈りが何か分かるよ、と、
もう一面では、祈りとは霊的サブスタンスの操作だ。たとえば人類は電波(電場と磁場の相互作用)をマクスウェルの法則に従って自由に制御できる。電波は見えないし、触れないし、五感では感知できないが、音、映像、熱、光・・・と姿を変えて、この時空間に現出する。これをフレーム化という(Heb 11:3)。最近ではDNAですら編集することができる。
同じように霊的世界の法則をつかむと、そのサブスタンスを操作できるようになる。たとえばイエスはラザロの死を聞いたとき、彼は眠っているだけだと言われた。が、弟子の指摘を受けると、いや、死んだのだと言われ、あえて4日待って彼を起こしに行った。そのとき、彼の霊の中ではすでにラザロは蘇っていたのだ。イエスはそのサブスタンスを明確に掴み、見ていた。イエスにとっては霊的サブスタンスの方が物理的死よりもリアルだったのだ。かくしてイエスは死を支配、統治したのだ。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、観察されていないことの現出である。-ヘブル11:1(Dr.Luke訳)
クリスチャンの任務はいのちにあるキリストと共なる統治(Dominion)である(Rom 5:17)。そもそも、地とあらゆる生物を治めよ、と神は言われた(Gen 1:28)。地とは物質的世界のこと。われわれはこの物質的世界を支配できるのだ。イエスは男だけで五千人を五つのパンと二匹の魚で心ゆくまで満腹させた。嵐と波を叱り、静められた。水の上を歩いた。すべて彼はこの物理法則を超える世界を証明したのだ。天が裂かれ、神の国がこの物理的時空間に介入していることをデモンストレーションしたのだ。信じる者はイエスと同じ業、否、それ以上の業ができるとイエスは言われた(John 14:12)。これ、もちろん私たちがいくら踏ん張っても無理。鍵は何か。
神のレーマには不可能なことは何もない。-Luke 1:37(原語)
フェイスはレーマを聞くことから生まれる(Rom 10:17)。それはサブスタンスをゲットすること。敵の策略はクリスチャンをしてこの霊的次元に関して無関心あるいは無力さに閉じ込めることだ。電波を制御するマクスウェルの法則を知らなければ、テレビもスマホも実現しない。つまり電波が実体化されないのだ。
同じようにクリスチャンの目から霊的法則を封じ込めれば、霊のサブスタンスは実体化されない。つまり天の御心が地にならないのだ! かくしてクリスチャンをして五感の世界に限局化させておくこと、これが敵のもっとも有効な策なのだ。目先の楽しみや問題や病気、あるいは自己啓発や自己実現の追求に落ちるとき、クリスチャンは敵にとって無力化される。
もし私たちが霊的サブスタンスの扱い方を100%把握し、習熟したら、完全にイエスと同じことができるのだ。地上で父の御心を100%実現できる! われわれがこれに目覚めることをサタンはもっとも恐れている。われわれはすでに天に座し(Eph 1:20)、王とされているのだ(Rev 1:6)。われわれの本質は新創造、新しい生命体なのだ(2Cor 5:17)。このアイデンティティーに気づくとき、私たちの生き方は根底からひっくり返される!
ヤハヴェ・エロヒムは彼らを祝福して言われた、生めよ、増えよ、地に満ちよ。そして地を治めよ、と。