かくして、キーワードは、<私ではなくキリスト(not I, but Christ)>。すべての根源なるお方から生じる信(フェイス)、それは私たちの再生されたエロヒム属の霊から生じるのである。なぜ? YHWHエロヒムはご自身のすべてをわわれわれに分配(インパーテーション・インプラント)してくださったからだ。よってシェマティックには次のようになる-
この「行いが伴わないなら」とある訳を真に受けると、「わたしが行わないなら」と主語が「わたし」になる。が、原意を英語で言えば”So also faith, if it does not have deeds, is dead being by itself.” つまりdeeds(複数形)を持つ/持たないを問われるのはフェイスである。deeds(ergon=働き)を持たないフェイスはそれ自体では死んでいる。もっと言えば、deedsの欠落したフェイス[2] … Continue readingはあり得ないと言うのである。ここで問われているのはフェイスである。
ゆえにアブラハムのフェイスがそのdeedsと同労し、deedsを根拠として(ek)フェイスが完成された(22節)。この「共に働き;同労する」の原意は”to put forth power together with and thereby to assist”(Thayer)であり、力を与え、それにより助けとなるの意味だ。つまりフェイスはdeeds(ergon=働き)をする力を与え、その助けをし、共に働く。ここの主語は「わたしが行う」のではなく、「フェイスがわたしに行わしめる」のだ。
この霊はエロヒムの霊、この霊を受けたものはYaHaWeHエロヒムの霊的DNAを組み込まれたニュークリーチャー。この霊こそが新しいアイデンティティであり、これからすべての天的なものが流れ出るのだ。聖も義もフェイスも、あらゆるYaHaWeHエロヒムのすべてがそこにすでにある。その方はHAYA ASHER HAYA=I-AM THAT I-AM=であるゆえに。そのI-AMが私にとってのXとなられる(ginomai)。ゆえにI-AM THAT I-AM X。このXに私たちのあらゆるニーズを代入することができる(☞I-AMのパワー)。これが「わたしの名にあって祈り求める」の意味である。
祈り求めているうちに、ふとサブスタンスに触れると、私たちは願っていたものを「得た」と分かる。たとえ、目の前には物理的には存在していなくてもだ。分かるから分かる。I know that I know. そのためにはくどくど長たらしく祈る必要もない(Matt 6:7)。ふと霊を開けば良いのだ。神の国は、<今・ここに>あるのだから。フェイスはNOW現象である!
but godliness is profitable unto all things; to the health of the body, and the welfare of the soul; to the things of this life, and of that which is to come; to themselves and others, though not to God, or in a way of merit: