iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
Search Result For: 自由意志

すでに何度も指摘しているが、<カルバン(決定論=神の意志)VSアルミニウス(偶然論=人の意志)>の神学ギロンはナンセンスである。われわれの認識能力として、決定論か偶然論を識別することはできないのだ。詳細は次の記事にある再建主義者との議論のログを参照のこと。
そもそも人の自由意志なるものが幻想であることは脳科学でも証明されつつあるし、聖書の言うところでもある。
同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。・・・しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。-Gal 4:3-9
つまり諸霊は人間のマインドに干渉するのだ。世の人はほぼ無意識的にその影響を受けているが、自分の決断や好みなどがその働きの結果であるとはまったく考えていないでしょう。

さて、今回、FBで紹介しておいたこのクリップ、実に面白い。人間の意識作用は無意識レベルでの反応の後付け講釈であると。
つまり意識は、諸霊や自分の無意識の反応を受信して、それを解釈したものであるのだ。自由意志なるものも、実は無意識が生み出した何らかの決定がやや遅れて意識化されたものにすぎない(受動的意識仮説)。
かくして大脳なるものは、一種の受動的受信機であるとする説が浮上する。何かを生み出すと言うよりは、何かを受信し、それを意識の中で構成するのだ。事実、聖書ではこう言われている:
夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが・・・-John 13:2
どうように福音もロゴスがわれわれの心に撒かれることである。
それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが・・・-Mark 4:31
つまり私たちのマインドに撒かれたロゴスは私たちの心の中で成長、増殖する。これがサブコンシャスのレベルで行われるのだ。もちろん聖霊の働きによる。そしてその聖霊は私たちの腹から川川となって流れ出る(John 7:39)。
The spirit of man is the lamp of YAHWEH, searching all the inward parts of the heart.-Prov 20:27
私たちの霊は聖霊と共に働き、サブコンシャスのレベルに浸透し、探索する。こうして無意識の領域において私たちの魂の再構成がなされる。
かくして、われわれの好みや意志決定などはほぼサブコンシャスのなせる業であり、いかにあてにならぬものかは、大恋愛の末に結婚した芸能人があっという間に離婚することで分かるであろう。ではわれわれはどこに意識の根拠を置くのか。もちろん御言葉=ロゴスである。
だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉(ロゴス)は、あなたがたの魂を救うことができます。-James 1:21
そこでこう奨励されている:
キリストの言葉(ロゴス)があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。-Col 3:16

ここの「内に」とは単なる意識の表象としてではない。サブコンシャスの領域に至るまで御言葉が浸透することを意味する。これはもちろんキリストの体性メモリを再現する聖霊による。御霊と御言葉は共に働き、私たちの魂のサブコンシャス(無意識)の領域をも作り変えるのである。もちろんキリストの形へと!

この論点についてはかつて今は亡き再建主義者富井健氏と論争した記録がある☞https://bit.ly/3EKjDnu

本日のこの番組、おもしろい。神学などは愚かな議論をしていることがよくわかる。かつて再建主義者と論争した際のログを参照のこと。
主のみ心を行うと称して、しばしば自分のサブコンシャスの欲求が意識に投影されるだけのことってよくある。リキ入れる人ほどね、これも逆説。


東京裁判が終わり対日講話がなされたのが1952年、その数年後ぼくは大森に生まれた。その頃の東京下町はまだ戦争の傷跡が残り、白い着物をまとった手足のない傷痍軍人があちこちに見られた。映画の『三丁目の夕日』や『20世紀少年』の世界そのものだった。

GHQの刷り込みで「アメリカは自由と平等にして正義の国;日本は天皇マンセーで断罪された国」、「アメリカいいもん;ソ連悪もん」の単純な二元論的世界観に生きていた。学校給食はパサパサのコッペパンとまずいマーガリンと味のない脱脂粉乳。アメリカ軍の残飯だと言われた。
TVは「ララミー牧場」、「ローハイド」、「名犬ラッシー」、「宇宙家族ロビンソン」、「コンバット」、「逃亡者」など、アメリカのドラマばかり、キラキラしていた。
その後、60年代のケネディ暗殺・安保闘争・ベトナム戦争・月着陸、70年代の荒んだヒッピー文化・しらけ文化;一方ではモーレツ経済成長、80年代の黄金期バブルで「ジャパン・アズ・ナンバーワン」、90年代のバブル崩壊・ゼロ経済成長・阪神地震・サリン事件、2000年代に入って911や311、緊縮財政による経済停滞少子高齢化社会。そして今コロナ騒動、ウクライナ戦争と。
まあ、こうしてみると昭和はボラティリティ(変動幅)が実に大きいが、平成はその名のとおり平板な時代、そして令和は「和を令」される時代だ。あらゆることがデフレ化し、縮小均衡へ向かう縮み志向社会。ちなみに最近の若者は風呂なしの築5,60年の家賃3万ほどのアパートを好むらしい

80年代にアングラで言われていたディープステイトなどのシカケが2000年代に入って911やワクチンで表に現れてきた。白い連中の国家と白いキリスト教のヤラセや欺瞞も暴かれている。極私的には20年くらい前からGHQのWGIPによる刷り込みに気づき始めたが、ここへきてようやく真相の深層が見えてきた。911以降は特にだが、当時、現代は壮大なフェイクを見せられているとブログに書いている。
一方でまことにソロモンが言う通り、知識が増すと憂いも増すとあるとおり、この国のゆくへはどうなるのかと思うところ。敵の仕掛けた舞台装置の上で踊らされているだけの国、一応主権国家とされるも、岸田のアホヅラで分かる通りアメリカのポチである。リバイバル音頭を踊りたいニッポンキ業界には何らの実質的影響力もなく、過疎化限界集落に落ちぶれている。これが四回去勢を受けた国家の現状である。
覚醒が必要だ。緊縮財政による経済停滞も主権喪失も真実を知らないことによる。知識の欠如によってわが民は滅びる、と聖書にあるとおり。GPS(God Positioning System)により自分の現在位置と向かっているベクトルを知ること。そのベクトルも必ずしも自由意志で選んではいないのだ。巧妙に誘導された結果、現在の様を呈している。
世は所詮浮世狂言であるが、その人生ゲームにおいて何に導かれるのか。聖書では諸霊(ストイケイア)とか時代の霊(アイオン)と呼ばれているが、これはいわゆる「世間の風」とか「社会の空気」(山本七平)として感知される。今のニッポンは糸の切れたタコ、風の吹くままにふらふらと、あるいは波に揺られるクラゲ、その象徴がポチ面の岸田である。対して安倍は一応自覚はあったのかもしれない。
かくして聖書予言的にはあらゆる領域で終わりの時代の兆候を見ることができる。ノンクリの方々には話が飛躍し過ぎで、ほぼ妄想話であると思うが、「イエシュアは戻る」というのがわれわれの信じるところだ。最終的にはその時に真の正義と平和が実現する。それまでこの国にはどんな存在意義があるのだろう。単なる生存舞台としての国家なのか、あるいは一部のクリが言うように、ユダヤの血を引く聖書的意義を持つ国なのか。正直これが今でもわからない。
・・・・が、とりあえず僕は今日も生きるわけで。

世事 都て訛たり 一石
當年 風貌 細腰(さいよう)多し
浮客 時を痛む 髪己(すで)に皤(しろ)し
何(なん)ぞ人生に耐えん 胡蝶の夢
今に到り識(し)る可(べ)し 事都(すべ)て訛(か)なるを
※訛=フェイク

すでに主のからし種が育ってどんな野菜よりも巨大になり鳥が巣を作る樹木に至ることの意味を説いた。これは啓示録2-3章の七つのエクレシアが歴史的展開を予言していることとも関係することも指摘した。
軽く復習しておくと―エペソ(=好ましい)においてニコライ派(教団教職制度)の行いが入り、スミルナ(=苦難)で迫害を経験し、ペルガモ(=結合)で世との混合がなされてニコライ派の教えが確立、サタンの座が設定される。続くテアテラ(=香の祭事)でイゼベルが仕切る仰々しい儀式が確立、そこにはサタンの深みが存在し、サルデス(=残りの者)でいわゆる宗教改革がなされるも、実質は死んでおり、フィラデルフィア(=兄弟愛)においてわずかの力でも証しを守り、ラオデキヤ(=民衆の意見)では豊かになった、目が見えるとしつつ、実体はその逆であり、イエシュアを追い出している。
見かけは立派でも、そこには邪悪な鳥や獣が自分のよすがとして集まる場、まさに現在の世のひとつの組織・機関と堕したキリスト教の姿である。この様を私はエジプト・バビロン化していると言ってきている[1]バベルの塔の動機は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」であった(Gen … Continue reading。その最期は次のように啓示されている:
天使は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。
すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって富を築いたからである。」
わたしはまた、天から別の声がこう言うのを聞いた。「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
彼女がおごり高ぶって、ぜいたくに暮らしていたのと、同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』
それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある主だからである。」-Rev 18:2-8
物を隠すのにもっとも発見しにくい場所はどこか? それは大衆の目が置かれる公衆の場である。サタンが隠れてその仕業をするには、まさかのキリスト教の中がもっとも適していることは分かるであろう。キリストはキリスト教なる宗教を作るためにロゴスが肉体を取られたのでもないし、聖書はキリスト教の経典でもない。キリスト教の偽善を告発したニーチェは、キリストとキリスト教を同一視したためにあのような最期を遂げたのだ。見事にサタンに騙された末路である。
これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。-2Cor 2:11
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。-Eph 6:11
この新改訳における「策略」とある原語は、前者はnoema、後者はmethodeiaである。noemaとは意図・動機・思惑であり、methodeiaは方法・手法・姦計である。つまりサタンはその意図や思惑を具体的手法や方法によりこの世界に実体化する。その拠点として、まさにキリスト教は絶好の場である。
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。-Eph 4:26-27
この「機会」とある原語はtopos、それは足場・手がかりの意味である。サタンはこちらの心の中のtoposをフッキングする。つまりこちらに何か聖霊による以外の意図や動機や思惑がある場合、サタンはそれに応じたエサを投げてくるのだ。決して彼は無理強いはしない。そのエサに喰いつくときも、私たちは自由意志で選んだと思わされるのだ。カルトによるMCやセールスの巧妙なやり方も同様である。そもそも自由意志なるものは幻想である。
同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。-Gal 4:3
さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。-Eph 2:1-2
つまり諸霊が我々のマインドに働きかけ、それに応じて意思決定をさせられていたのだ。だから奴隷である。クリスチャンであっても、動機や意図に不純なものがあれば、そこにピンポイントで働きかけてくる。「自分は自分の人生を自分で選んで、誰にも縛られず自由意志によって生きている」などという錯覚に陥ることは致命的である。
イエシュアと物理的に接していたユダもなんの動機や意図だったのかはわからないが、サタンは彼のうちに裏切る「思い」を入れた(John 13:2)。マインドはストイケイア、アイオーン、さらにサタンなどの霊的エンティティとの接点である。それに従って意志決定した彼の末路は言うまでもない。

マルクスも使徒行伝の兄弟姉妹が物を共有し、資産を分かち合っていたとする記述から共産主義の着想すなわち種を得て、それを成長させて思想とし、共産党として政策により実行したのだ。その末路は人類史上最大の虐殺を行ったことは言うまでもない。
エペソでニコライ派の種がまかれ、ペルガモで育ちサタンの座が据えられ、テアテラで中世の暗黒時代、サルデスでその娘たちとも言えるプロテスタント諸教派が生まれたが、まさにキリスト教の巨大樹木化と共産主義の成長は同じプロセスを再現している[2]ニッポンキリスト教とニッポンが合わせ鏡であるように、キリスト教と共産主義も同じと言えるかもしれない。共産主義は立派な宗教である。。どちらもその中で自己の生存の担保(=生活の保障と食い扶持の確保)とアイデンティティおよびプライド(=自己価値の確立)のよすがとする。これが鳥や獣が集まる動機である。

この図はエクレシアの実質(野菜)が諸霊と人間の肉により修飾されて巨大化する過程を描いたものである。現在の問題はエクレシアが巨大化したキリスト教の中に幽閉されていること。キリストと聖書がキリスト教の専有物であるかのようにみなされていることだ。巨木は虚木である[3]これは善悪を知る知識の木の成長した姿とも言える。対してエクレシアはいのちの木の増殖であり(Col … Continue reading。主は「わたしが地に戻るときに地上に信がみられるであろうか」と言われるのだ(Luke 18:8)。

この意味で私は20年以上にわたり、キリスト教をエクソダスせよと訴えている。それはエレミヤ書16章においてイスラエルに呼びかけられているとおりである。啓示録の七つのエクレシアで言えば、フィラデルフィアである。彼らは力はわずかであったが、主によって御名と御言葉を否まなかったとして賞賛され、叱責の言葉はスミルナとともにまったくない。そして神の名と、神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、主の新しい名を書き記していだけるのだ(Rev 3:7-13)。
References[+]
↑1 | バベルの塔の動機は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」であった(Gen 11:4)。まさに現代のボクシたちの切望するところであろう。サタンはこの自分の住処を暴かれることをもっとも嫌うであろう。ゆえに私の指摘にはキリスト教徒からの聖書の論理を無視した感情的反応がなされるであろう。 |
---|---|
↑2 | ニッポンキリスト教とニッポンが合わせ鏡であるように、キリスト教と共産主義も同じと言えるかもしれない。共産主義は立派な宗教である。 |
↑3 | これは善悪を知る知識の木の成長した姿とも言える。対してエクレシアはいのちの木の増殖であり(Col 2:19)、それはブドウの園であり、また一粒の麦の増殖である麦畑である。 |

今年のノーベル賞の受賞テーマの一つがエンタングルメント(量子もつれ)の立証だった。波動関数を共有するふたつの量子が時空間を超えて相関するというものであるが、これで局所的実在性が否定されたのだ。つまり時空間に存在するものであれば、相対性理論によって支配されるので、互いの情報は光速を超えて伝達することは不可能。ところが量子もつれの状態にある量子は高速を超えて互いに関係し合うことができることが証明されたのだ[1]このためアインシュタンインはSpooky(気味の悪い)減少だとため息をついた。
白いキリスト教神学の論争にカルバンVSアルミニウスなるものがある。救いは神の定め(確定論)によるのか、人間の自由意志によるのか(偶然論)と争って、互いに異端~とやりあっている愚かなテーマである。これについてはかつて再建主義の故富井氏とディスカッションしたことがある(⇒ログ)。
結論を言えば、判断不能。人間の認識能力には確定と偶然を識別することは不可能なのだ(⇒過去関連記事)。さらにいわゆる自由意志なるものが幻想であることも分かってきている。
では救いとは何だったのか。かつてこんな記事をモノしたことがあるが、さらに進んで議論したい。
エンタングルメントなる現象は確定していない2つの量子状態の重なりが観測によって確定するとするものだが、スピリチュアルな経験もまったく同じ。救われた状態と救われてない状態が霊的領域では重なりとなっており、私がフェイスした瞬間に救われた状態が私において確定する。フェイスは聖霊のプロンプトに私が応答した結果である。自由意志と思っているものは実は後付けなのだ。
われわれはキリストとスピリチュアルな波動関数を共有し、エンタングルメント(もつれ状態に)されている。よってイエシュアは言われた、「地で解くことは天でも解かれており(完了形)、地で縛るものは天でも縛らえれている(完了形)[2] … Continue reading」(Matt 16:19)。それは時空を超えたスピリチュアル・リアリティあるいはサブスタンス。YHWHのわざは天地創生のときより完成されている(Heb 4:13)。われわれは肉体にておいてはこの物理的な五感領域に生きているが、霊においてはすでにキリストとともに御座についている(Eph 2:5)[3]だからパウロは肉体的には離れている者を霊においてっ裁くことができたのだ(1Cor 5:3)。。まさにエンタングルメントである。
重なり状態にある量子は観測によってひとつの状態に確定する。それと同様にあらゆる可能性の重なり状態としてスピリチュアル・サブスタンスは存在しているが、それをフェイスはこの五感の領域において確定する。それがわれわれの経験である。
いま、信(フェイス)とは願われる実質(サブスタンス)、まだ観測されていないこと(プラグマ)の現出(エビデンス)である。-ヘブル11:1(私訳)
キリストとエンタングルメントし、御子の信(pistis)のうち(en)に生きるってこんな安楽はないでしょう。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信のうちで、生きているのである。-Gal 2:20(改)
邦誤訳の問題点はすでに指摘しているが、たとえば「洗礼」なる訳語も大変にまずい。これは単なる儀式だ。真理はバプテスマ、それは浸し込むこと。我々はキリストにインプラント(Gk.sumphutos)されたからキリストとひとつ(Rom 6:5;1Cor 6:17)。
そもそもフェイスは霊(2Cor 4:13)(☞過去記事群)、エンタグルメントによりキリストと私はその霊を共有している。「使徒信条告白~」なんてものは単なる式文に過ぎない。
かくして私たちはキリストとバイブレーションを共有しているだけでよいのだ(☞バイブレーションについてhこちらの記事群を参照)。
その時、聖霊は霊の感光またプロンプト(促し)を与えてくださり、それに応答する形(これを自由意識と思っている)で私たちが語り、また働くとき、天のサブスタンスが地に実体化する。まさに天になるとおり地にもなるのだ。このメカニズムはフォティーゾと言われることはすでに説いている。
キリストと私たちはその人間性、死と復活、昇天、そして着座を共有しているのだ。この事実をサタンは隠しておきたい。だから信仰に励め~、聖化~、奉仕伝道、献金、会堂建造、教勢拡大、日本民族総福音化の決起集会~と騒ぐわけ。ほとんど喜劇のレベルではあるが、以下自粛。

この説は興味深い。
James asserted that a universe-wide consciousness beamed human consciousness into our brains “as so many finite rays,” just as the sun beams rays of light onto our planet. Our brains, being limited in their capabilities, he said, generally filter and suppress real consciousness, while sometimes allowing ‘glows of feeling, glimpses of insight, and streams of knowledge’ to shine through. He called this idea ‘transmission-theory.’
これはまさに今の私のメッセの指摘と一致する見解である。ブレインには種々のビームが差し込んでくるのだ。
ブレインはトランスデューサー[1] … Continue readingとの説。つまり何かを受信し、変換する装置であると。
私はマインドはフィジカル領域とスピリチュアル領域の接点であると著書で書いた。聖書は人間は諸霊に従っていると。スピリチュアルな「声」を聴いて、それを思考から思想へと、さらに行動へと変換しているのだ。
この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。-Eph 2:2
たとえばマルクスの共産主義は聖書[2] … Continue readingからヒントを得た彼の思考が思想へと体系化され、ついには共産主義革命として実体化した。その結果は、数億人の虐殺だ。人の自由意志なるものも幻想であるとすでに言ってるが、空理空論のキリスト教神学なども同様である。
では、YHWHエロヒムのロゴスから生み出された私たちニュークリーチャーはどうなのか? もちろんYHWHエロヒムの思い・感情・意志がわれわれの魂に反映するのだ。そのメカニズムがフォテーィーゾ。フェイスは聞くから生まれる。ポイントはどなたの「声」を聴くかである。
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。-John 10:27
ゆえに聖書にはこうある-
だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。-Luke 8:18
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。-Mark 4:33
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。-Rom 10:17
だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」-Heb 3:7-8
References[+]
↑1 | トランスデューサー(変換器)は測定、情報転送を含む様々な目的のために、ある種類のエネルギーを別のものに変える装置で、通常電気的、電子的な素子または電気機械である。たとえばセンサのようにある物理量を電気信号に変える素子、機器などである。広義では、トランスデューサーは1つの形態から別のものに信号を変えるあらゆる装置と定義される。@WIKI |
---|---|
↑2 | 使徒行伝2:44-45「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」同4:32「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」 |

神の選びと人の自由意志の関係はいわゆる「カルバンVSアルミニウス論争」として知られているが、われわれサイエンティストから観るとナンセンスであることをすでに何度も指摘している。そもそも自由意志なるものが幻想であることも(☞参照)。われわれは聖霊のプロンプトに応じただけなのだ。


ここで想起するのがエサウとヤコブの選びであり、諸葛孔明と司馬懿の選びである。
主はエサウを憎みヤコブを愛した(ロマ9:13)
ヤコブ、まさに狡猾さの極みの男。なぜだ?
三国志でも天は劉備ではなく曹操を選んだ。彼ら亡き後、諸葛亮の計略により胡盧谷で火に囲まれる司馬懿、亮が「司馬懿は炎の中で死を免れぬ。先帝よ、ついに大漢再興の時が来た!」と感涙の声を上げるも、なんと豪雨が。天は諸葛亮を退け、司馬懿を選んだ。なぜだ?
諸葛亮は言う:事を謀るは人にあるが、事を成すは天にある、と。
ソロモンも言う:人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。-箴言16:9
もしあの時雨が降らなかったなら、その後の歴史はどうなっていたのか? 歴史に”IF”はないのだが、つい考え込んでしまう。しかし往年の司馬懿は諸葛亮恐怖症に陥る。ことわざにいわく:死せる孔明、生ける仲達を走らせる、と。かくして常に思うのだ、俺はエサウとヤコブ、劉備と曹操、そして諸葛亮と司馬懿のどちらだろうか? なぜだ?
なぜ? という問いにはサイエンスは答えられない。否、哲学も、神学も、あらゆる学問も答えられない。そもそもなぜ自分が生きているのか?という原点の問いにも解答はないのだから。
人は、何故?と問う故に苦しむのだ-Dr.Luke-
まことにわれらは陶器、主は陶器師、かくしてソロモンの箴言に戻る:
すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。

かつて書いた記事を再録しておこう:(こちらも参照されたい☞人間の聖書的啓示と現代精神科学)
今、教会史をざっと眺めております。黙示録にも予言的教会歴史が描かれているのですが、時系列の中で起きている教会歴史ですね。まあ、Philip Schaffの著書などを繰るべきなのでしょうが、時間があまりありませんので、あくまでも「ざっと」です。一言で言えば、下で述べたキリストの固定化による互いの異端排除の歴史・・・。これに政治が絡むといわゆる西洋史が構成されるわけ。
で、面白かったのが、アレキサンドリアのオリゲネス(185-254)の人間論。彼は人間が、肉、魂、霊の3部分からなるとしているわけ(Trichotomy)。もちろん御言葉にそう書いてあるわけですが。で、この魂(psyche)が知性・感情・意志からなることは現代の脳科学でも実証的に説明される(詳細はこちら)。ここで問題となるが、果たしてこれらの精神機能が大脳の物理化学的現象へと還元されるのかどうかと言う点。これについては昔から議論されてきたことであるが、例えばノーベル賞学者の神経生理学者エックルズは、精神活動は大脳の物理化学的現象に還元し得ず、サイコン(psyche:魂)と物質との相互作用から生じるとして、当時としてはサイエンスから逸脱せざるを得なかった。しかし最近では利根川博士ら、他の分野を制覇した学者たちが精神の問題を考えており、ようやくサイエンスの一分野として確立されつつある(→その一例)。前に触れたクオリアの問題もそのひとつ。
さて、ここで問題となるのが、もし精神現象を大脳の物理化学的現象に還元すると(養老孟司氏の『唯脳論』の立場☞心ってのは脳の働き)、人間の精神活動とコンピューターには本質的違いはなくなり、複雑さの度合いの違いとなってしまう。これでは決定論そのものであり(カルヴァンは喜ぶかも)、では、人間の自由意志とは何かと言う問題が起こるわけ。まあ、前にも述べたようにカルヴァンvsアルミニウス的なill-posed(無意味)な神学的議論はさて置いて、大脳生理学的に見るならば、自由意志は大脳のニューロン・ネットワークの電流とシナプスでの神経伝達物質の反応の「ゆらぎ」によるとするしかなくなるわけ。現にペンローズがマイクロ・チューブによる量子脳理論を提唱している。すると私がイエスを信じたことも、量子物理化学的ゆらぎによるわけだ。簡単に言えば、偶然の産物。
しかし聖書では人間は単に物理化学的存在のみではなく、霊的存在であることを啓示(これは証明できない、一方通行的提示)している。つまり人間の体(soma)と霊(pneuma)の接点として魂(psyche)が生じたわけだ(Gen 2:8)。この辺りはG.H.ペンバーが詳細に論じている。この立場に立つならば、サイエンスとなりえない霊の領域と大脳(物質)の相互作用として魂の機能、つまり精神活動がなされることになる(エックルズ的立場)。すると霊と物質はどのように相互作用するのかという問題が生じるが、これはまた難題なので、とりあえず置いておく。
ここで自由意志を論じる際には、欲求の問題を避けることはできない。聖書が啓示する人間の欲求についてはガラテヤ書が次のように言う:
肉は霊に反して欲し、霊は肉に反して欲するからである。-Gal 5:17(岩波訳)
ここで「欲する」と訳された原語は”epithumeo”であり、別の箇所では「情欲(lust)」とも訳されている(Matt 5:28など)。要するに相当に強い意味であり、医学的には「情動する/欲動する」と訳せる。つまり肉には固有の欲動があり、霊にも固有の欲動がある。
実際、それらは互いに対立し合っており、その結果、欲することを、あなたがたは行えなくなるであろう。-Gal 5:17
ここの意味をローマ書7:15,19(Rom 7:15;19)と同じ意味で解することがよくなされるが、私の著書『真理はあなたを自由にする』でも指摘したが、これは誤解である[1] … Continue reading。例えばVincentは
・So that (ἵνα)-
Connect with these are contrary, etc. Ἵνα does not express result, but purpose, to the end that, – the purpose of the two contending desires. The intent of each principle in opposing the other is to prevent man’s doing what the other principle moves him to do.・Cannot do (μὴ ποιῆτε)-
A mistake, growing out of the misinterpretation of ἵνα noted above. Rather, each works to the end that ye may not do, etc.・The things that ye would (ἃ ἐὰν θέλητε)-
The things which you will to do under the influence of either of the two contending principles. There is a mutual conflict of two powers. If one wills to do good, he is opposed by the flesh: if to do evil, by the Spirit.
として、”so that”を結果として訳すことは不適としている。つまり私たちが肉に従えば、肉は御霊を抑圧して、御霊の欲することができなくなり、逆もまたしかりだと言うのである。よってパウロは前節で
あなたがたは霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲望を満たすことはないであろう。
と言う。ここに自由意志が介入する。もっと言えば、肉の欲動を抑えるのは霊であると言うわけ。肉(Gk:sarx、En:flesh)は大脳生理学的には辺縁系あたりの海馬に蓄えられている情動と記憶の複合体がその実体である私は考えている。私たちの肉体は未だ古い創造に属するものであるから、この大脳辺縁系の問題を避けては通れない。この意味でいわゆるホーリネスの「全き聖化」なる教えなどがいかに人間を無視したものであるかは以前にも指摘した。それは人間性疎外であり、人をある種の狂気へともたらす(これはネット上およびリアルの”壊れたクリスチャン”を見れば分かるでしょう)。キリスト教倫理や教育では決して解決できない課題なのだ。「聖化」を「肉の欲動の消滅」と理解したら、これはもう人生暗黒、まさに人を狂わせるでしょう。パウロはローマ7章で、主イエスに感謝した後に、
かくして私自身は、理性においては神の律法に隷属しているのだが、しかし肉においては罪の法則に隷属しているのである。-Rom 7:22-23
と証している。どこぞの実行では、自分の罪を紙に書いて、木の十字架に釘で打ちつけるそうだが、まさにナンセンスを絵に描いている。Are you with me?
さて、ここでのポイントは、肉が欲動すること自体、また霊が欲動すること自体、これらは私たちの自由意志の及ばない領域の現象なのだ! お分かりになります。これが分かれば、ホーリネスの人々のようなクルシチャン(苦しちゃん)状態から解放されるでしょう。もっと言えば私の責任ではないのです!私の責任は、肉の欲動と霊の欲動のどちらを選択するか。ここで霊を選択するならば、ただちに十字架の死の力が働き(Rom 6:6)、肉を沈静化するでしょう。これが解放です。しかし肉を選ぶならば、霊は抑圧されるでしょう(1Thess 5:19)。これは内なる自責感と圧迫を生みます。
つまり肉の欲動そのものは大脳辺縁系の問題、もっと言えば深層心理(無意識)の領域の問題となり、私の意志が及ばないのです。私たちの魂はこの霊の欲動と肉の欲動が意識として実体化される場です。あなたはどちらを選びますか?これが私たちへのチャレンジです。そこで
肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平和です-Rom 8:7(岩波訳)
とあるとおりです。
以上が聖書に沿った実存的人間モデルです。私はこれを元に「霊精神身体医学(Pneuma-Psycho-Somatic Medicine)」を提唱しているわけです。すでに97年にWHOでも「霊的健康」と言う概念を盛り込んできています。ただし、現在のところ、これをサイエンスとして記述することがはたして可能なのか不可能なのか、それすらも分かっていません。もっと言えば、物理化学的実在である脳がそれとシンクロして生じさえる脳機能(精神)を理解し得るか否か、これも解けていません。
・・・というわけで、オリゲネスからつい話が膨らんでしまいましたが、「精神とは何ぞや」-私はこれをつらつらと高校時代、いや、思い起すと小学校4年位から考えているわけで、聖書の啓示によって体験的な理解は得たのです。が、思想として記述し得ても、サイエンス化することができていない。が、ぼーっと考えていると人生は退屈ということがないのですね。で、ついに○○歳・・・。昔ならばもうお終いの歳なのであります。
少年老い易く、学なり難し。


ロマ書5章の「アダムの違反と同類の罪」(Rom 5:14)と同7章の「内住の罪による罪」(Rom 7:17)の違いについてはすでに指摘した。一人の違反により罪(Sin)が世に入り、死が全人類に沁み込んだ(田川訳)(Rom 5:12)。現経綸の体は「死の体」ゆえ、罪(Sin)に抗せないため、アダムにあって生まれた人は時系列のある時点で自らの意志により罪(sins)を必ず犯す。律法を持つ者は律法により、律法を持たない者は良心によりそれは認知される(Rom 2:14-15)。
そして罪は罪と死の法則により、この体の中に働き出す(Rom 7:21-23)。このゆえに現経綸の体は「罪の体」とも呼ばれる(Rom 6:6)。ローマ7章のパウロの葛藤は、神の律法を行おうとする思いの法則に逆らって罪と死の法則が働くことにより、これら三種類の法則(Laws)によってがんじがらめになっている状態である。
律法により罪(Sin)はその悪性度を強める(Rom 7:13)。まことに死のとげは罪、罪の力は律法である(1Cor 15:56)。ついにパウロは叫ぶ、自分はなんとみじめなのだ、誰がこの死の体から救ってくださるのか、と(Rom 7:24)。そしてイエス・キリストに感謝を捧げるのだ。が、その直後こう告白する:
わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心思いでは神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである-Rom 7:25。
彼はデュアルワールドに生きていることを告白しているのだ。そしてロマ8章では新しい法則が導入されて、パウロは葛藤から解かれる道を見出す。
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 –Rom 8:1-2
それは自己努力の問題ではなく、法則による。重力の法則を飛行の法則が打ち消すのと同じことだ。飛行機に乗ったら誰も自分で飛ぼうとしない。あるいは落ちないようにシートにしがみつくことも無意味である。ただ、安息して座るだけだ。まことに
信じた者は自分のわざをやめて安息に入る。-Heb 4:3
しかもその罪(Sin)はキリストが罪とされることにより(2Cor 5:21)、その肉体において処罰され、すでに主人の座から引き下ろされている(Rom 8:3)。それは毒を抜かれたウイルスのようなものである。ただ、われわれが霊の領域を出て、それに同意するときには、依然として罪(sins)を犯す余地がある。その時にはイエスの血潮が用意されている(1John 1:9)。
パウロが生きるデュアルワールドは、ひとつはナチュラルな五感の領域、ひとつはスーパーナチュラルな霊の領域である。罪と死の法則は五感の領域で働く;対していのちの御霊の法則は霊の領域で働く。パウロはこうも言う-
もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。-Rom 8:10
エロヒムの霊を分与されて、その種(sperm;DNA)をインプラントされたニュークリーチャーとはもちろん霊の領域の存在である。そこにはキリストが生きておられる、否、聖霊が来られるとき、父と子もその人のうちに共に住まうのである(John 14:23)。ニュークリーチャーの本質は、体でも魂でもなく、霊である。
ここで魂(知・情・意)の位置が問題となる。それは体と霊のはざまに存在し、どちらの影響を受けるのかが問われる。体の五感による物理的サブスタンスの影響を受けるのか、霊の感覚(Heb 5:14)による霊的サブスタンスの影響を受けるのか。前者は肉の人と呼ばれるが(1Cor 3:3)、後者は霊の人と呼ばれる(1Cor 3:1)。そしてその間に魂の人が存在する(1Cor 2:14)。
義人はフェイスによって生きる(Heb 10:38)、フェイスとは願われるサブスタンスとその現出である(Heb 11:1)。問題は五感の領域からいかに解かれるか? パウロは言う-
なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。-Rom 8:13
ここの「霊」には定冠詞はない。つまり必ずしも御霊のことではない。五感の働きを無効にするのは霊である。ガラテヤ書においても-
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。-Gal 5:16-17
ここの霊も必ずしも御霊とは言えないが、御霊は私たちの霊と共に働くことは指摘しておく(Rom 8:16)。この節はロマ7章の葛藤とは異なる。ロマ書は三つの法則の対立であり、ガラテヤ書は霊と肉の対立である。しかも「自分のしたいと思うこと」とは前節の「肉の欲望」であり、それを無効にするのは霊であるとパウロは指摘する。
かくしてパウロが証しするとおり、ニュークリーチャーたるわれわれは、スーパーナチュラルな霊の領域とナチュラルな五感の領域のデュアルワールドに生きている。魂はそのはざまで選択の自由があるのだ。この点においてエデンの園におけるアダムの立場にあるとも言える。カルバンは全的堕落と称して、自由意志の働きさえも認めないが、自由意志は今もなお働くのだ。意志の力は救いをもたらさないが、意志による応答はYHWHの救いへともたらす。
霊のうながしか、五感のうながしか、魂はそのどちらに応答するか、つねに選択を問われている。この意味で英国のColin Urquhartは「フェイスとはチョイスである」と言っている。

光の二重性はわれわれの五感によるモデルを逸脱する。モデルが先にあるのではない、存在が先にあるのだ。 存在と五感による世界モデルは必ずしも一致しない。神学におけるYahawehの「三一性」にしても、「自由意志VS確定意志」にしても、単なるモデルのレベルのギロンに過ぎない。光は視覚、音は聴覚・・・という具合に対象に応じたセンサーによりYahaweh存在そのものに触れることが重要。それが霊(スピリット)だ。あなたのリッパなオツムではないのだよ。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。-1コリント1:21
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理[1] … Continue readingをもって礼拝しなければならない。-ヨハネ4:24

今回のメッセでも指摘しているとおり、神の意志と人の自由意志の相克は無意味であることは、かつて再建主義の富井氏との議論において指摘した。現在、スパムのためにそのBBSを閉鎖しているので、簡単に触れておく。
人が救われるのはその自由意志によるのか、神の選びによるのか。もし神の選びによるのであれば、選ばれていない人は救われないのか? あるいは神の意志のみが行われるのであれば、私の祈りなどは無意味ではないのか? 私が今祈ることはたして神の意志に従っているのか、それとも神の御心に受けれられないのではないか?・・・等々。
アダムの堕落も彼の自由意志によるものであると通常は考える。いわく、神は人をロボットとして作られたのではなく、自ら愛し、自らご自身に従うために、自由意志を与えられたと。しかるにアダムはそれを乱用してしまったとする。確かに現象としてはそのとおりであり、一応の説明は可能だ。が、一方では聖書はこう告げる-
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。-ロマ8:20
この被造物には人は含まれないとする人々がいるようであるが、その立場に立って考えても、人を除いた被造物が虚無に服したのはアダムの罪のためであることは否定できない[1]ロマ書8:22(Rom 8:22)では「すべての被造物」とあることを指摘しておく。、ゆえにその結果を生んだアダムの罪は神の意志によることになる。これが論理的帰結だ[2] … Continue reading。原因は神の意志によらず、結果だけは神の意志によるとするのは論理的にも破綻している。
そもそも人に自由意志を与えたのも神の意志である。この場合の神の意志は、よくキリスト教徒が何かの選択をする際に、「これは神の御心だろうか、自分の意志だろうか」とか悩むようなものではない。アダムは確かに自由意志を用いたが、その意志の結果さえ、神の意志によるのだ。つまり五感の領域における誰々の意志というよりも、時空間を超えた永遠の神の意志である。この領域ではすべて神のわざは完成しているのだ(Heb 4:3)。
これでいわゆる二重の選びを唱えたカルバンと、人の自由意志の働きの介入を唱えたアルミニウスの議論が生まれるわけだ。単純に言って、確定論と偶然論の二項対立である。救世軍の山谷少佐はアルミニウス的立場にあり、中間領域なる神学概念をもって、人の自由意志と天使的勢力との関わりに基づくモデルを提示されている。
この点については自然科学の視点からすると、認識論の限界があり、確定と偶然をそもそも区別することはできないのだ。つまりコインを投げてできる裏表の系列(偶然論)とある規則に基づいて生み出された数列(確定論)は1:1に対応するのである。これが現代のカオスの理論が示す人間の認識についての事実である。つまり、カルバンVS.アルミニウスの議論はナンセンスなのだ。神の意志と人の意志を同一平面においてしまうゆえに、コンフリクトが起きるわけだ。

さらに、イスラエルとエクレシアの選びについても、置換神学などが唱えられる。いわく、イスラエルは霊的イスラエルであるエクレシアに置き換えられたゆえに、その選びは終了したと。数年前、バチカンもそのような決議を行った。が、これも二つの選びを同一平面上に置くことによる罠である。これについては次の記事を参照されたい:
また、律法と恵みの関係や、行いと信仰についても同様に同じ平面上で考えると対立が起きる。これがルターの誤り、ひいてはプロテスタントの根本的ミスであることもすでに指摘しているところだ。
- 律法と恵みについて
- 律法とクリスチャンについて
- パウロとヤコブについて
- ルターの義認論の誤り-「律法を行うことではなくキリストを信じること」ではない-
- ルターの嫌ったヤコブ書の真理:フェイスはエルゴンをワークアウトする
- プロテスタントの「信仰義認」の根本的誤り
神の愛(人を赦したい)と義(人を裁く必要性)も二項対立するところであるが、神の第二格位のロゴスがジーザスとして人間となられ、十字架においてその二つを見事に実証(弁証ではない!)された。YHWHが両当事者としてご自身の本性を証されかつ宇宙の秩序を守られたのだ[3]旧約は人が神の基準を満たせば祝福されるという片務契約、新約は神が両当事者の責任を全うした双務契約である。。
神の意志と人の意志も一見対立するかのように見えるだろうし、ニッポンキリスト教徒はしばしばその葛藤でクルシチャン化するのも事実である。よく引かれるのが、ゲッセマネでの主の祈りである。が、あの祈りは特殊任務を帯びたジーザスにとっても特異的な祈りである。われわれに字義通りに当てはめるのは自滅を招く。それはあの十字架(The Cross)のためのものだから。われわれは主の十字架を担うことはできない。主は「各自の十字架を負ってわたしに従え」と言われるのだ(Luke 9:22-24)。
天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。-Isa 55:9
つまり、同一平面上では二本の平行ではない直線は交わる。が、3Dにおいては平行でなくても交わることがないのだ(ねじれの関係)。その二本はガチンコしない。かくして一見二項対立するように見える事柄も次元を上げるならば、矛盾なくそれぞれが存立し得るのである[4] … Continue reading。
いつも掲載しているこの図を再度ご覧下さい。聖書はいのちの次元と善悪を知る次元において立体的に理解する必要がある。

再建主義者のシェーマと対比すると、その必要性がよく分かると思う。

実はこのように次元を上げる作業は数学や物理ではよく行われること。例えば、ニュートン力学(ガリレイ変換)と電磁気学(マックスウェルの方程式)は矛盾した。が、すべての慣性系において「光速度一定」と「物理方程式は同一の形に書ける」ことを前提にして、アインシュタインはローレンツ変換により相対性理論を構築した。物理現象をとらえるマトリックスの次元を上げたのだ。かくして現在は宇宙は10次元ないし11次元のヒモからなることが提唱されている(超弦理論)。
永遠のNOWにおいては神のわざはすでにすべて完成している。十字架もすでに天地創世の時にあったのだ[5] … Continue reading。
もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-ヘブル4:3
地上に住む者で、天地創造の時から屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは・・・-啓示録13:8[6] … Continue reading
この永遠の領域においてすでに成っている事(サブスタンス)が時系列の中において実体化するのである。これがフェイス。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ観測されていないことの立証(現出)である。-Heb 11:1 (私訳)
言いたいことは何か。神の意志をこの五感の領域において、私の意志と並列すること自体がとんでもない僭越なことであるのだ。神の意志はこの領域を超える。それは永遠の領域においてすでに成就している意志であるから。その成就したサブスタンスを、<今・ここ>で実体化すること。これがわれわれのフェイスである。
十字架も人が効果で尊いからジーザスが身代わりになってくださったとかする幼稚なむきがあるが、主の死は単なる身代わりではなく(⇒1ペテロ3:18は単なる「身代わり」を意味するのか?)、全旧被造物を終わらせたのである。そして復活により、すべてを新しくされた。これが永遠のリアルである。
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。-2コリント5:17
この永遠の事実に応じるとき、それがわたしにおいて実体化(経験化)される。ここで私の自由意志(イニシャル・フェイスとでも言える)が働くが[7] … Continue reading、もちろんそれは聖霊の働きによるものである。つまり神の意志によるのだ。
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。-1コリント12:3
ロマ書8章の議論は、旧創造と新創造の対比であり、われわれは新創造の初穂として、時系列における完全なる贖いの完成(=体の変貌)を待ち望んでいる。そして被造物もまた同じなのだ。そもそも神のご計画のすべては神の証のためあり、神のいのちの増殖のためである。つまりエロヒム属の拡大。これについては、私の「新創造セミナーI,II」を参照されたい[8]YouTubeではスライドを提示しておりません。動画をご希望の方はDVDをお求めください。。くれぐれも神の意志を自分の人生において誤解乱用することがないようにしてもらいたい。下手するとそれは自滅あるいは他滅を招くことになりかねないからである[9]自責感で苦しむクルシチャンもいるし、人が神の名の下にあってはどんな残虐もなし得ることは歴史が証明しているであろう。。
References[+]
↑1 | ロマ書8:22(Rom 8:22)では「すべての被造物」とあることを指摘しておく。 |
---|---|
↑2 | 例えば、今、グラスが落ちて割れてしまったとして、これは神の意志であるとする。なぜ割れたか。それは誰かが落としたからである。では、その人が落としたことは神の意志になるのか、否か、と問うてみれば、明らかであろう。これは論理的に「p⇒q」が正しい時、pを満たす集合Pはqを満たす集合Qに含まれる。そのQが神の意志であるならば、当然にそれに含まれるPは神の意志になることは自明である。感情論や神学云々以前のお話である。 |
↑3 | 旧約は人が神の基準を満たせば祝福されるという片務契約、新約は神が両当事者の責任を全うした双務契約である。 |
↑4 | われわれのオツムの中の概念は、上の画像のように実体(サブスタンス)の影に過ぎないのだ。影を論じるのがキリスト教神学。これでややこしい不毛なマトリックスが構築される。ちなみに佐藤優氏は神学についてこう語っている。 |
↑5 | 使徒行伝はこう語る:このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した(Acts 2:23)。これは永遠の領域の十字架が時系列の中に神のフェイスにより現出することである。 |
↑6 | 邦語訳では「天地創造の時から、屠られた・・・」とするが、これは不適切である。永井訳は「天地創造の時から」を「屠られた」に修飾している。 |
↑7 | ここで大切なのは、われわれの意志の「力」には救いのパワーはない。が、意志することは可能。それは御言葉に対する応答と言っても良い。このとき、私の意志と神の意志がハマルのだ。 |
↑8 | YouTubeではスライドを提示しておりません。動画をご希望の方はDVDをお求めください。 |
↑9 | 自責感で苦しむクルシチャンもいるし、人が神の名の下にあってはどんな残虐もなし得ることは歴史が証明しているであろう。 |

これからのテレビは4K。つまり横約4,000ドット、縦約2,000ドット、800万画素の超細密映像の時代だ。原理は縦糸と横糸のマトリックスのクロスポイントの液晶が色を発する仕組みだ。霊的真理もこれと同じ。
人はオツムで考えたがるもの。例えば、有名なカルバンVS.アルミニウスの論争。カルバンは神の予定(二重予定説)によりある人は救われ、ある人は滅びへと至るとし、人の自由意志の介在を一切認めない。アルミニウスは人の自由意志がその人を救いへともたらすとする。単純に言えば、確定論VS.偶然論の対立。これについては、すでに人の認知能力として、確定と偶然を識別することはできないことを指摘している。
あるいは行いと信仰(あえてこう言っておく)の対立。パウロは人が救われるのはただ信仰によるとし、ヤコブは信仰のみではなく行いによるとする。これについてもシナジー効果として、まことのフェイスは自ずと行い(エルゴン)を内包するものであると指摘した。
関連して、フェイスの由来も、「神を信じる」ではなく、「神のフェイス」(Mark 11:22)、「御子に対する信仰」ではなく、「御子のフェイス」(Gal 2:20)であることも指摘した(⇒記事群)。この対格による理解がルターの過ちであり、プロテスタントの根本的誤謬の原因であるも指摘した(⇒記事群)。カギは、「私ではなくキリスト」である(Gal 2:20)。キリストご自身が義と聖と贖い、さらに知恵、すなわちフェイスとなってくださったのだ(1Cor 1:30)。
かくして人間のオツムにおいては矛盾対立する要因が、実は縦糸と横糸のクロスポイント=十字架=においては何ら葛藤することなく成立、証しされている。だから、<今・ここ>において私は救われ、ニュークリーチャーとされているのだ(2Cor 5:17)。オツムによる納得ではなく(=弁証)、霊的法則に乗ることによりこの霊的ファクト(=実証)が重要なのだ(Gal 6:15)。この霊的ファクトを私の身体と魂(知・情・意)を通して表出すること。これが神をエミュレートすることだ(Eph 5:1⇒神をエミュレートする-God-OS)。
この縦糸と横糸の霊的マトリックスの密になればなるほど、霊的理解力、ビジョン、啓示の解像度がアップする。神の声や幻は、聖霊派がよくやるような「主はこう言われます~」といったものではない。よく「霊を見る」とか、「声を聴く」とか、自慢気に吹聴するむきがあるが、これは単なる霊能力、恐山のイタコか沖縄のユタのようなものだ。TVが液晶の縦横のマトリックス上において映像や音声が実体化されるように、啓示も御言葉の縦横のマトリックス上において幻や声として実体化されるのだ。御言葉をバイパスした霊的現象は危険であると指摘しておく。クリスチャンは神のロゴスであるジーザスというポータルを通して霊的領域とコンタクトするのだ。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。-John 10:9
かくして私たちのマインドの中に組み込まれる御言葉のマトリックスが細密になればなるほど、正確に神の意志を把握し、あらゆる問題に対してキリストのマインドが応答するようになる。御言葉の粗雑な理解はむしろ有害、御言葉を勝手に解釈して自滅する者がいるのだ(2Pet 3:16)。内側に御言葉を密に組織構成されること。これこそが神の豊かさを享受するカギである。
キリストの言葉(ロゴス)があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。-Col 3:16-17

今日、占いまがいの個人預言とか世界情勢に関する預言とかが蔓延っている。中にも傾聴に値するものもあるが、大抵はいかがわしいものである。再臨の時期を預言し、見事に外れるケースすら出ている時代。本稿では預言の霊的機序を明らかにしたい(初出:リバイバル新聞2003年5月25日号掲載記事原稿)。
霊的真理や実行にはコインのように二面性、すなわち本質面と経綸(機能)面がある。預言は御霊と人の霊との関わり方と密接に関連し、その実行では人の霊に関する霊的知識と旧新約の相違を十分に理解する必要がある。
御霊の関わりの二面性
御霊の関わり方は旧新約で決定的な相違がある。旧約では御霊は人の上に(upon)、その職務の遂行のために経綸的かつ機能的に臨んだ。新約では内的ないのちとして内住される(in)。旧約では神の霊はある意味で、単に神の霊であったが、新約では人なるイエスの霊に住み人間性を経験した霊として、イエスのパースンとわざを証しする霊として下った。よって聖霊は「イエスの御霊」、「キリストの御霊」と呼ばれる(Acts 16:7;1Peter 1:11)[1] … Continue reading。
旧約では神は預言者たちに部分に分けて語ったが、新約では御子にあってすでに語った(Heb 1:1-2)。そして御子、すなわちロゴスはすべての信者のうちにある。よって神はモーセやエリヤではなく「これ(イエス)に聞け」と言われる(Matt 17:5)。この塗り油(原語)がすべてを教えるから誰からも教えてもらう必要はない(1John 2:27)。それぞれが直接に主を知るゆえに、互いに主を知れと言って教える必要もない(Heb 8:11)。あちこちの自称”預言者”の託宣(oracle)を求めてさ迷う必要はない。では新約の預言とは何か?
預言の本質面と経綸面
新約の預言の本質的機能はキリストの体の建て上げである。エバがアダムのあばら骨から建て上げられた(buid up;原語)ように(Gen 2:22)、私たちエクレシアもキリストの息(いのち)を吹き込まれ、御言葉が内的に組織されて建て上げられる。このいのちの発生分化の過程を霊的代謝あるいはメタモルフォーシスと呼ぶ。イエスが「わたしが話したことば(レーマ)は霊であり、いのちである」と言われたとおり(John 6:63)、預言の本質的機能はいのちなることば(レーマ)を解き放つことである(本質的預言)。
これに対して、例えば隠れた真実や罪を指摘したり、将来の事を知らせたり、勧告や警告の言葉、知恵や知識の言葉を与えることは機能的預言である。これは神の計画を進展させる経綸的機能を果たす。
預言の霊の見極め
預言(特に本質面)は語る人の人間性と切り離せない。預言の霊はイエスの証しである(Rev 19:10)。これはイエスに”ついて”の証ではなく、イエスのパースンそのものである。外来性の神の言葉を預って語るのではなく、御霊によって織り込まれたキリストご自身が私たちの人間性を通して内発的に語る。また預言の霊は預言者に服するから(1Cor 14:32)、人の自由意志を無視したり、トランス状態や変性意識状態で語られるものではない。これらはむしろ危険である。
預言の生成機序(メカニズム)
様々の状況において霊のうちにある重い霊的感覚(センス)が生じる。その重さゆえに神の前でうめきを覚え、霊のエキササイズがなされる。この時ある種の苦しみと葛藤を経験するが、これが深いほどその重要性を知る。
こうして祈りと黙想、また御言葉と対峙するうちに、あらゆる真理に導く御霊の照明の下でそれは徐々に熟して内的に言語化される(☞フォティーゾ)。ついにこれを外的言語として語り出す時、重荷も解放される。それまでの苦しみや葛藤が深いほどに、ことばに霊的エネルギーが蓄積され、また御霊の油も豊かに塗り込まれ、光と権威と力に満ちる。こうして語り手は解放され、任務を果たしたことを知る。
聞く側はそのことばに塗られたキリストの霊に触れ、単なる知識ではなく、光といのちに触れて潤される。霊は生き生きと躍動し、いのちの感覚が生まれ、解放感と平安、満足感と充足感が満ちる。このことばが内的に組織され、内なるキリストが形作られる。すなわち、本質的預言はメタモルフォーシス、あるいはスピリチュアル・メタボリズム(霊的新陳代謝)を触媒する。
経綸的な預言はあくまでも神の主権により神が適切な器に適切な時に適切な言葉を与えるのであり、この聞いた言葉を語り出すとき経綸的な預言となる。
霊と魂の分離の必要性
預言の言葉は魂の思いに去来する諸々の観念や表象とは明確に異なり、霊に響くあるいは映るものである(☞フォティーゾ@YouTube)。この識別には霊と魂の分離が必要である。神の言葉は生きていて魂と霊を分離し、種々の考えや思惑を露にする力がある(Heb 4:12)。預言者は御霊のメスである御言葉による霊と魂の分離手術を受ける必要がある。この手術には痛みが伴なうが、その痛みに比例して分離も明確であり、そのことばは澄み、光と洞察に満ちる。人々はそのことばの前で自分の真実を暴露され、神の御前にひれ伏すように導かれる。人の霊は自分のすべてを知り、同様に神の霊は神の深みを知るのである(1Cor 2:11)。霊に投影された霊的サブスタンスを魂のマインドで言語化あるいは映像化することにより、人間の言葉として翻訳し、五感の領域に神の意志やパワーを表出する。これが預言である。
語り出されたわたしの言葉は虚しく帰ることはない。必ず言い送ったことを成し遂げる。-Isa 55:11

救いは律法を行うことによるのではなく、御子イエスを信じることによる。
これがプロテスタントの金科玉条とする信条だ。ルターはパウロのロマ書においてその真理を発見し、自らの葛藤から解かれた。ところがヤコブ書を見ると、人は信仰だけによって救われるのではない、信仰は行いによって全うされると書いてある。これは困った。俺はもう律法を行おうと努力することにはトラウマがあるのだ。そこで、ルターは叫んだ、ヤコブ書は木草藁の書だ!
ここにルターの根本的誤りがある。すでに上の記事でプロテスタントの過ちについては書いているが、彼らの中心には自己(セルフ)が生きているわたしが律法を行うことによるではなく、わたしが御子を信じることによると。自分がどちらを選択するかと常に問うのだ。つまり律法と信仰を対立概念にしている[1] … Continue reading。そもそも訳が悪い。
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。-ローマ3:20(新改訳)
ここの主語はだれか。「わたしが」である。が、原意は違う。
Because by works of the Torah not one of all flesh will be justified before Him, for through the Torah is the full knowledge of sin.-Rom 3:20(HRB)
律法のワーク(deeds;行い)、原語はエルゴンだ。「わたしが律法を行うことによる」のではない。「律法の働きがわたしを義と認めない」のだ。この点、新改訳は巧妙に訳者のオツムのマトリックスによる誤訳があちこちに散見されるので要注意だ。しかし、御子のフェイスがわたしを救う。
even the righteousness of YAHWEH through the faith of Yahshua Messiah toward everyone and upon all those believing-Rom 3:22(HRB)
わたしが中心にいて、律法を行うか、御子を信じるか、という構図がルターのマトリックス。聖書は、律法がわたしを救うか、御子のフェイスがわたしを救うかの構図。主語を入れ替えられているわけ。そこで「わたしが律法を行う」ことにトラウマを覚えているルターはヤコブを拒絶した。
しかしながら、ヤコブが主張していることは違う。ヤコブは言う、自由を与える完全な律法を見つめよと(James 1:25)。ルターは言うであろう、自由の律法?! 律法は俺に苦痛だけを与えたのだ!と。対してヤコブは言う―
信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。・・・ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。-ヤコブ2:17-22(新共同訳)
この「行いが伴わないなら」とある訳を真に受けると、「わたしが行わないなら」と主語が「わたし」になる。が、原意を英語で言えば”So also faith, if it does not have deeds, is dead being by itself.” つまりdeeds(複数形)を持つ/持たないを問われるのはフェイスである。deeds(ergon=働き)を持たないフェイスはそれ自体では死んでいる。もっと言えば、deedsの欠落したフェイス[2] … Continue readingはあり得ないと言うのである。ここで問われているのはフェイスである。
ゆえにアブラハムのフェイスがそのdeedsと同労し、deedsを根拠として(ek)フェイスが完成された(22節)。この「共に働き;同労する」の原意は”to put forth power together with and thereby to assist”(Thayer)であり、力を与え、それにより助けとなるの意味だ。つまりフェイスはdeeds(ergon=働き)をする力を与え、その助けをし、共に働く。ここの主語は「わたしが行う」のではなく、「フェイスがわたしに行わしめる」のだ。
そもそもフェイスは霊である。「われはナントカを信ず~」といったものではない。それは単なる教条告白(儀式)の式文だ。
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:13
霊は人を生かし、語らせる。それはいのちであり、パワーである。なぜ? それは御子のフェイスだから。
生きているのはもはやわたしではない。キリストがうちに生きている。今、肉にあって生きているわたしは・・・御子のフェイスにあって(en)生きるのだ。-Gal 2:20
御子のフェイスは私たちが生きる領域である。そのキリストは今や命を与える霊である。残念ながら、モーセ律法自体はいのちを与えることができなかったのだ(Gal 3:21)。だから不完全であったゆえに新しい祭司制度がたてられた(Heb 7:11☞祭司制と律法について)。
So also it has been written, “The first man, Adam, became a living soul.” The last Adam a life-giving Spirit.-1Cor 15:45(HRB)
この霊は聖霊によりわれわれの霊のうちに伝達された。そしてフェイスもこの霊から生み出される。フェイスには諸々の行いをする命の力が満ちている。ゆえにフェイスを語り出せば、フェイスはわれわれの言うことを聞くのである。
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。-Luke 15:22
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。-Luke 17:5-6
フェイスはわれわれのしもべとして語り出されたことを成し遂げる。ジーザスはうちなる父の言葉を語り出されるとそのとおりになった。また彼のわざはうちなる父のわざであった。われわれも同じだ。わたしがするのではない。フェイスの霊がわたしたちを通してわざをなすのである。これが恵みである。だから律法(行い)と恵みは対立概念ではない。パウロは言う―
キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。-Rom 15:18-19
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10
主語を転換せよ! セルフを離脱せよ! かくして―
生きるのはわたしではなくキリスト!(Gal 2:20)
References[+]
↑1 | この点、今回のメッセでも語ったが、文系オツムはきわめてナイーブ(=幼稚)だ。概念のレベルですぐ矛盾するとか対立するとか言い出すわけ。自由意志と神の選びの問題、いわゆるアルミニウスVS.カルバンの対立も同様。これについてはかなり前に指摘したが、それを判断することは不可能であるとカオスの理論は教える。量子論の世界では電子などは波動でもあり粒子でもある。波動VS.粒子の対立概念を超えたところに物理的リアリティーは存在しているのだ。 |
---|---|
↑2 | これは”フェイス”とカギカッコをつけるべきであろう。しばしば、自分にはフェイスがあると思っていても、実はそれは思い込みに過ぎないことはよくあることだ。だからダビデは思い込みの罪から守ってくださいと祈っている(Ps 19:13)。 |

聖書には一見すると種々の矛盾点が散見する。すでにメッセでも語っているが、たとえば香壇の位置。出エジプトでは聖所にある(至聖所の幕の手前;Exo 30:6)が、ヘブル書では幕の後ろつまり至聖所だ(Heb 9:4)。ここに旧約と新約のドラスティックな相転換を見ることができる(☞幕屋の秘密)。
さて、きわめて初歩的な質問であるが、ジーザスが十字架につけられた日と時刻はいつでしょう? なんだ、金曜日の朝9時から午後3時まででしょう・・・がいわゆるキリスト教徒の答えであろう。しかし、事はそう単純ではない。
共観福音書では、その日は過ぎ越し[1]Pesach。このヘブル語の意味とピクトグラムがまた深いのだ。と除酵祭の第一日にして、安息日の準備の日であると記録されている(Matt 26:17;Mark 14:12;Luke 22:7)。安息日は金の夕から土の夕までだから、それは木の夕から金の夕であり、ユダヤの日付でニサンの14日。そしてニサン14日の夜(木の夜)、いわゆる最後の晩餐(=過ぎ越しの食事)をとられ、15日の深夜(金の零時ころ)捕縛され、夜が明けてから裁判にかけられ、その午後十字架につけられた(金の9時から15時)。そして葬られニサン17日の早朝(日の朝)に復活された。
ところがヨハネを見ると、ジーザスを総督官邸に連行した者たちは過ぎ越しの食事を汚れないで摂るために官邸に入らなかったとある(John18:28)。つまり過ぎ越しの食事の前だ。さらに十字架の日は特別の安息日(ニサン15日)の準備の日であり、遺体をそのままにすることのないように足を折ろうとしたが、すでにジーザスはこと切れていたとある(John 19:31)。すると、これはニサンの14日になる。
うん? ジーザスも弟子たちも最後の晩餐をしたことは共通しているが、それっていったい何だったのか? 過ぎ越しの食事とすれば共観福音書とヨハネ福音書で矛盾が生じるのだ。はたしてジーザスの十字架刑はニサン14日それとも15日?
さて、ここでこれらの証言をどのように突き合わせていくべきか。それとも聖書の記事は適当だから、おおまかなレベルで理解すべきなのだろうか? さらに主の復活は初穂であるから、初穂の祭り(ニサン16日)との関係は? はたまた出エジプトでマナは6日目には二日分が降ったのだが、それとの関係は?
・・・というわけで、今週はこの謎解きにかなり楽しい時間を費やしました。かなり面白いことが発見できたと思いますが、次回のメッセでご披露するつもり。聖書は先入観や今の時代感覚で読むとまったく理解不能。一枚の平面上で見るから矛盾が出るのだが、次元を上げるとキレイに解ける[2]これもマトリックスの違いによるのだ(☞マトリックス・シフテド)。。イスラエルとエクレシアの関係もなども同じ平面上で見ると置換神学などが生まれてくるわけ(☞教会とイスラエルの関係について)。

次元を上げよ! 例えば、平行でない二本の直線は同一平面上だと必ず交わるが、空間においては交わらないように配置できる(ねじれの位置関係)。聖書の一見矛盾する事も、これと同様に次元を上げることによってきれいに理解することができるのだ[3] … Continue reading。
パウロは言う、キリストの愛の幅・長さ・高さ・深さを知れと(Eph 3:18)。つまり4次元だ。至聖所(神の臨在の場)は3次元立方体(完全立体)だったが、キリスト(神の臨在そのもの)は四次元の立方体[4] … Continue reading。数学的には超立方体というが、これを3次元で展開するとどの四方から見ても十字架となる。十字架は神の愛と義という一見矛盾するものを矛盾なくに証しする場である[5] … Continue reading。
一般に、矛盾とかジレンマとは二つの要素を同じ平面上に乗せることによるのだ。聖書を理解するには3次元空間ではなく、神の次元から見る必要がある。神の視線をもって見れば、すべての事は、たとえば人生の葛藤や問題もきれいに配置され、むしろ美しくすら見えるようになるだろう。
天が地を高く超えているようにわたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。-Isa 55:9
References[+]
↑1 | Pesach。このヘブル語の意味とピクトグラムがまた深いのだ。 |
---|---|
↑2 | これもマトリックスの違いによるのだ(☞マトリックス・シフテド)。 |
↑3 | 聖書は実に数学である。たとえば153匹の魚とか、創世記1章1節にはπが、ヨハネ福音書1章1節にはeが暗号化されている。これらふたつは宇宙を記述するための基本定数である。さらに\(-e^{i\pi}=1\)などは父・子・聖霊なるYHWHを表していると言える(☞iPAIの覚醒)。 |
↑4 | 新エルサレムは一辺12,000スタジオンの立方体。それは小羊の花嫁であり、神の臨在そのものだから神殿もなく、それ自体が神の栄光で輝く。それはエクレシアの完成した姿だ。文字通りの都市なのどではない。都市が小羊と結婚はできないでしょう。 |
↑5 | 神は愛であるゆえに人を裁けないが、裁かなければ神の義に抵触する。愛と義は両立し得ない? あるいは神がすべてを定めているのであれば(決定論)、人が何をしようが(自由意志)無意味となる。神の予知と人の自由意志は両立し得ない? ・・・といった神学論争のテーマは次元が低い議論なのだ。 |

いつもの再建主義の富井氏の論。救いとは神学の問題ではなく、新しく生まれること、ニュークリーチャーとなることなのだが・・・。キ業界にトロイの木馬が仕掛けられていることはその通りだ。またプロテスタントの根底は誤りだと極私的にも指摘しているが、ちょっと彼とは立場が異なる。
tomi 2018/02/19(月) 18:14 福音派は悪魔教に乗っ取られた
そのとおりだと思います。ただジェームズ1世は、王権神授説を唱えるフリーメイソンだったという話があります。 ブッシュ家の先祖がこのGun Powder Plotに加担したらしいです。 福音派はイエズス会員になりました。イエズス会の世界支配のために活動するセクトになりました。悪魔教に乗っ取られたので、聖書的な神学が受け入れられなくなった。 メイソンはイギリスを中心とする世界政府を目指したから、ローマ・カトリックを中心とする世界政府を目指すイエズス会と対立したのかもしれません。 しかし、イギリスがEUに参加したことからわかるように、今は、メイソンとイエズス会は協力関係にあるのではないでしょうか。 |

先にこの聖句について、邦語訳の「身代わりに」は意訳であると指摘した(☞キリストは私をオーバーライト(上書き)した&ワンショット@YouTube)。これについてダビデ某なる方が異議を唱え、Dr.Lukeのギリシャ語の文法的読み違いであり、Dr.Lukeには私的解釈をするべきではないとのペテロの言葉を送る、と言われているとある方が教えて下さった。
ざっと拝見したが、いかにもニッポンキ業界福音派(?)のオツムのマトリックスに住んでおられる立派な方のようで、普通こういった絡まれ方をされる場合、スルーするのが私の基本姿勢なのだが、ここはとても重要な聖句なので、先の記事に改めて補充しておく。
彼は、前置詞”υπερ”が属格の”αδικων”を支配するので、その意味は”in stead of”で「身代わり」だとするわけ。いかにも受験英語のパターン学習をされたかのような感じではあるが、とても良い問題提起となっている。”υπερ”は確かに二格(属格:日本語的には「~の」)と四格(対格:日本語的には「~を」)を支配し、二格の場合は「~のために、~の代わりに」と訳し、四格の場合は「~の上に、~を超えて」と訳すことにされている。が、これはあくまでも「公式」の話。
例えば、Pulpit Commentaryでは―
The preposition used in this clause (ὑπέρ) does not necessarily convey the idea of vicarious suffering, as ἁντί (Matthew 20:28; Mark 10:45; comp. also 1 Timothy 2:6) does; it means simply “in behalf of,” leaving the character of the relation undetermined; here the context implies the particular relation of substitution (comp. Romans 5:6; also St. Peter’s description of our Lord as “the Just,” in Acts 3:14).
“υπερ”は”αντι”のような「代理としての苦難」の意味は必ずしもなく、単に「~のために」の意味であり、その関係性は定義されていない。が、文脈からみると「置き換え」の意味が示唆される・・・と、私が指摘するとおり、「身代わり」は意訳であることを指摘している。
この格のイメージがとても重要なのだが、いわゆる主格(一格)を「主語」、属格(二格)を「~の」、与格(三格)を「~に」、対格(四格)を「~を」と公式化すると受験英語的に機械的に公式を当てはめるだけになるわけ(さらに聖書ギリシャ語では呼格がある)。ここで
・一格:主語、同一性を表す
・二格:距離感がない近い関係、融合性を表す
・三格:相互的関係性、伝達を表す
・四格:一方的関係、距離感を感じる対象、目的
のイメージが大切。前置詞をイメージでとらえる必要があることは英語でも言えることだ。特に、二格は距離感がない融合性をイメージすることを頭においてほしい。
さらに重要なのは、邦訳ではここを「正しい方が悪い者たちの身代わり」とするのだが、原文には定冠詞がない点。”δικαιος υπερ αδικων”、英語では”just for unjust”。つまり「不義のために義が」となる。かくして二格を支配する”υπερ”、その原義は英語では”over,hyper”、独語では”uber(ウムラウトは略)”、いずれにしても「上に」の意味であり、それが接触・融合しているイメージを形成する。だから、Dr.Luke的には「オーバーライト」となるわけ。義が不義をオーバーライト(上書き)した。
そもそも、ちゃんと記事を読んでほしいが、私も身代わりの側面を否定するわけではない(☞十字架とは)[1] … Continue readingが、重要なのは、古いもの(不義)が新しいもの(義)により書き換えられた事実なのだ!
キリストにある者は新しい創造(ニュークリーチャー)。見よ、すべてが新しくなった(2Cor 5:17)。単なる身代わりとするから(これは法的側面)、私たちは罪ゆるされた哀れな罪人に過ぎない~というニッポンキ業界のボクシたちの説教に堕するわけ。まあ、その世界に住みたい向きはご自由にどうぞなのだが・・・。この「新しい」は”kainos”、それは年齢的な意味(これは”neos”)ではなく、本質的にフレッシュであるの意味だ(Strong)。
旧約でも犠牲となる動物に祭司は手をおく。これは犠牲と自分が同一視・一体化されることを意味する。動物の死は自分の死なのだ。キリストが裁かれて死なれたとき、私も裁かれて死んだ。そしてキリストの復活においても私も復活した。それは不義が義にオーバーライトされ、新しい創造である。
YHWHエロヒムは新しい種属を生み出されたのだ。十字架のみわざは単なる法的立場としての無罪宣告ではない。古い私が死に、新しい私(霊的存在)に置き換えられたこと(☞十字架ってなんでしょう)。その意味でPulpit Commentaryが指摘するとおり、”substitute”でもあるわけ。これで単なる「身代わり」ではないことはお分かりいただけたかな[2] … Continue reading
というわけで、ギリシャ語やヘブル語を当たるのも、単に語学オタク化して、脳内空転するのではなく、日本語マトリックスから解かれて、霊のサブスタンスそのものに触れることが重要なのだ。表面的に言葉を弄ぶことは、西部氏と同じ結論を招くだけ:弁論は虚しい、と。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、見ていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)
オツムの空転的マトリックス(キリスト教神学)を離脱して、霊の領域に入り、その豊かなサブスタンスを享受すること。これがフェイスであり、クリスチャンの特権なのだ。聖書は生命現象の書。フェイスはスーパーナチュラルなシックスセンスである。覚醒した者は幸いである。
References[+]
↑1 | こういったノゾキ穴から見た光景だけで鬼の首を取ったように論じる輩が多過ぎる、ニッポンキ業界には。これで反論されるとさらにいきり立つのだが。 |
---|---|
↑2 | なお、ダビデ氏は、ガラテヤ2:20やマルコ11:22などに関して、「キリストの信仰」や「神の信仰」ではなく、「キリストに対する信仰」また「神への信仰」であると、なぜかこだわっておられる。またDr.Kさんにもいろいろとからんでおり、Dr.Lukeと混同してる節もある(苦笑)。ギリシャ語の知識があるのでプライドが疼くのかもだが。推測するところ、おそらく私たちの関与、自由意志の関わりが必要だ、と主張されるのだろう。これについては例の「カルバンVSアルミニウス」論争や、半ペラギウス説がどうのこうのとなるので、ここではスルー。これは以前に再建主義の富井氏と対話した際に指摘している。さらに私のプロテスタントのいわゆる「信仰義認」の誤りの記事についても異議を唱えておられるが、これは不毛な論争になるのでスルー。霊のサブスタンスを得ていないと単なる言葉上のやり取りになるので・・・。 |

ヨブ記の本質はどこにあるのか。神の前で絶対的に正しくかつ忠実だったヨブの元にサタンが神の前に出て、彼を試すことを許される。その後のヨブは惨々たる状態に陥る。しかも彼は自分はこのような目に遭う理由がないと、あくまでも自己の正当性を主張する・・・。神はなぜこのような目に自分を会わせるのか[1] … Continue reading。神は与え、また神は取られる・・・[2] … Continue reading。彼は完全にマインドの闇に陥っている。
神がサタンの試みを許可したゆえにヨブは苦難に落ちたのか?神はあえてサタンに人を試みさせるのか?アブソリュートリー・ノー!!!御言葉はこう語っている。
恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった。-Job 3:25
彼はすでに自分がこのような状況になることを恐れていたのだ。彼について御言葉はこう証言している:
この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。-Job 1:5
彼は恐れに基づいていけにえを捧げていた。つまり彼のフェイスには穴が開いていた。そこをサタンはつけこんだのだ。ニューエイジ的に言えば、引き寄せの法則。彼自身がサタンに正当な権利を与えてしまっていた。FEARとは”False Expectation Appearing Real”だ。まさに恐れていることが実現する。
メッセでも語っているが、自分が同意することはそれを自分の上の権威とすることだ。つまりヨブは恐れに同意することにより、ヨブ自身がサタンに許可を与えていたのだ。ゆえに自由意志を損なわない神はそれを防ぐことはできない。
むしろ、逆に神はサタンの仕業を制限して、ヨブを守られたのだ。決して神がヨブに対してサタンを用いて試練を与えたのではない!このようなマインドから、映画『ポセイドン・アドベンチャー』の牧師メンタリティに陥る。「神よ、お前は何人の犠牲を要求するのかぁ!」と。しばしば人はこう叫ぶ、「なんで神がいるのにこんな悲惨を放置しているのかぁ」と。
これは神を告発すること。恐るべき罪である。ある試みを受けた友人のBlogのコメント欄に、カトリックと思われる人が書いている:「ある神父の本に、天の国の入口で神様がなさるのは『生きている間つらい想いをさせて申し訳なかった』と謝る事だそうです。」・・・。嗚呼、なんということを!
神が病気を送ってわれわれを訓練するとか、サタンを用いて苦難をもって罪を裁くとか、いわゆる”罰当たりメンタリティー”はどこから来るか[3]これはジーザスの苦しみと十字架を無効にすることである!。それこそあの世界を欺く者がルーツである。このようなメンタリティーに陥るならば、某集会の教えのように自己矛盾に落ちていることすら気がづかない。私たちの益のために神が送った病気を医者によって直してもらう?[4] … Continue readingはあ?
そのようなメンタリティーは神の癒しや神の救いすらを拒絶してしまうのだ。神は絶対に善。ゴッド・イズ・常にグッド!誰が自分の子をしてそんな目に合わせたいだろうか。ヘブル書で父は子を訓練するとあるではないか、とある人々は言い出す。そのとおりだ。それは訓練であって、ヨブのような悲惨な災難ではない。ヨブは自分のフェイスの穴と、自己正当化に気づくべきだったのだ。
かくして最後にようやく
あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。-Job 42:2-6
と告白する。自分を退け・・・なんと素晴らしい証ではないか。われわれは神の前に自分の正しさとか忠実さによって良しとされるのではない。キリストが私の義となってくださり(1Cor 1:30)、キリストとの一体化により私自身も神の義とされるのだ(2Cor 5:21)。神がわれわれに謝罪するのではない、われわれが悔い改めるのだ。
しかもヨブは神の主権に服し、友人を許して祈ると、2倍の祝福を得ているのだ。神はアブラハムにイサクを要求されるが、イサクは取り去られたか?ノー!アブラハムはすでに山に登る前に「わたしと子供は礼拝をして戻ってくる」と証言している(Gen 22:5)。彼は復活を信じていたのだ。しかも彼は「礼拝をして」と言っている。「苦難を克服して」とは言っていない!それは礼拝。Are You with me?
サタンに欺かれるならばわれわれのマインドは神をさえ告発する。神よ、あなたは不正だ!と。しばしば障害者などを扱う教師や福祉に携わる人の心の奥底にはこのような神に対する告発が隠されている。神よ、あなたはこれらの人々をこんな状態にしているが、私はこれらの弱い人々に寄り添っているのだ、と。
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。-Jer 17:9
イエスはご自分の元に来た病んでいる人をすべて癒された。フェイスには常に応えてくださる。ゴッド・イズ・常にグッド!ここでもいわゆる宗教としてのキリスト教の価値観や思想やメンタリティーを捨て去る必要がある。神がサタンの試みを許されるのではない。神はサタンに制限を与えるのだ。なぜ?それは自分がサタンに許しを与えてしまっているから。もし神の制限がなければ、サタンはそれこそ究極までわれわれをいたぶる。彼は、盗み、殺し、滅ぼす者だから。
自分が何を聞いて、何に同意するか。病気が癒されない人の特徴は間違った対象に自ら同意している。医者に同意するともらったクスリを止めるのが恐ろしくなる。10種類も、下手すると30種類ものクスリを飲まされる。医者を回るためには時間とカネと労力を投入するが、そのために礼拝には来る体力もなくなってしまう。本末転倒であろう。だから神は介入できない。まず気づくべきだ。自分のフェイスの穴に。自分が何に同意し、何を信じ、何に委ね、何に頼っているのか。それがあなたを支配するのだ。
ヨブの最後のように、自分を退けて、悔い改める者は幸いである[5] … Continue reading。
References[+]
↑1 | 自分のまいた種の刈り取りは論外ですから、念のため。歯を磨かなければ虫歯になるのが道理。虫歯になってから奇跡によって金歯を求めるのはナンセンス。聖霊派は喜ぶであろうが。 |
---|---|
↑2 | 私はクリスチャンになりたての頃、神があえて苦難を与えるとの教えに恐れおののいた。神が許可されたら、誰に救いを求めたらいいのだ?それは恐怖である。ゆえに神に素直に申し述べた、ぼくはヨブのような人生を歩むことはムリです、主の祈りでも、試みに会わせないでくださいと祈れとあるのです。ぼくの人生は結局安息と喜びに常に満たされているのだ。目の前に苦難と見えることが起きても、ぼくは歯を食いしばることはない。ただちに主に助けを求める、するとすぐに救い出されるのだ(1Cor 10:13)。 |
↑3 | これはジーザスの苦しみと十字架を無効にすることである! |
↑4 | 念の為に言っておくが、医学を否定しているのではない。医学は一般恩恵、フェイスの有無によらず誰もがそのメリットを享受できる。神の癒しは特別恩恵。それはただフェイスによる。問題は「医学>神の言葉」の不等式にある。 |
↑5 | 「悔い改め」なる単語もよろしくない。それは後悔することではなく、マインドの方向転換。自分から神へと向き変えることだ。あるいは初期設定を再設定すること。一度自分の生きるマトリクッスをクリアにして、神のマトリクッスにシフトすることである。 |

しばしばキリスト教徒は、私の願いではなくあなたの願いがなりますようにと祈る。が、心の中にはある種の疎外感が残りつつ・・・。疎外感は孤児の霊の兆候。
神学論争するつもりはないが、私の意志と神の意志、これら二つを対立関係においてしまう。いわく、バプテスマのヨハネは、自分は衰え、あの方は栄えると言った。よって私たちは衰えるのだと。またゲッセマネの園で主が祈られたように、私の意志ではなく、あなたの意志がなるように、と。これが自我を十字架で否むことだと。
これらははっきり言って宗教だ。ヨハネは旧約の終わり、ゲッセマネにおいては主は自分の役割をすでに知っておられたのだ。
これらのクルシチャンは父を知らない。それは孤児の霊のなせるワザなのだ。孤児は絶えず父の認知を求め、あれこれと気を回して、歓心を買おうとする。自分の業やあり方によって受け入れられようとする。かくして十字架で自己を否むと称して、自己疎外に陥り、ついには消耗するのだ。なんの喜びも得られないままに。
が、父は私たちに、何を求めるのか?と言われる。イエスも盲人に対して、「わたしに何をしてほしいのか」とあえて問うた。私たちは率直に自分がほしいものを求めるのだ、イエスの名にあって(In Jesus’ Name)。すると何でも与えられる、と主は約束された。それは私たちの喜びが満ちるためだ! 私たちが喜ぶことは父の栄光なのだ。これが真の父と子の関係である。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。-ヨハネ15:11
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。-マタイ7:11
与えることは父の喜び、受けることは私たちの喜びである。私の意志を申し上げるとき、父の心の中にそれは置かれ、また父は私たちの最善を与えようと意志される。この私の意志と父の意志が絶妙に組み込まれて、サブスタンスが形成される。私が真に欲しいモノがわかり、父と私たちがそのサブスタンスを共有するとき、私たちは「得た」と分かるのだ。これが信仰の瞬間だ。するとあとは時間の流れの中でそれは実体化される。神の方法とタイミングに従って。
私たちはその実体化の時を楽しみにしつつ待つのだ。忍耐をもって、と言うと、これまた宗教の霊に憑かれた人は歯を食いしばるイメージを持つが、これも違う。私たちは確実に願ったものを得ることが出来る。ゆえに心待ちにその時を待つのだ[1] … Continue reading。大いなる期待をもって。もう、すでに得たから、得るのだ。すでに得たのだから、歯を食いしばる必要はない。父は富んだお方、寛容であり、慈愛に満ち、与えることを喜ばれるお方。なぜ、その方に対して、歯を食いしばる必要があろうか。
神は私の意志を最大限尊重される。次の約束は真実である。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。-Phil 4:6
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに-Eph 3:20

しばしばキリスト教徒はこの二つを対立関係においてしまう。いわく、バプテスマのヨハネは、自分は衰え、あの方は栄えると言った。よって私たちは衰えるのだと。またゲッセマネの園で主が祈られたように、私の意志ではなく、あなたの意志がなるように、と。これが自我を十字架で否むことだと。これらははっきり言って宗教だ。ヨハネは旧約の終わり、ゲッセマネにおいては主は自分の役割をすでに知っておられたのだ。
これらのクルシチャンは父を知らない。これは孤児の霊のなせるワザなのだ。孤児は絶えず父の認知を求め、あれこれと気を回して、歓心を買おうとする。自分の業やあり方によって受け入れられようとする。かくして十字架で自己を否むと称して、自己疎外に陥り、ついには消耗するのだ。なんの喜びも得られないままに。
父は私たちに何を求めるのか?と言われる。私たちは率直に自分がほしいものを求めるのだ、イエスの名によって。何でも与えられると主は約束された。それは私たちの喜びが満ちるためだ!私たちが喜ぶことは父の栄光なのだ。これが真の父と子の関係である。
私の意志を申し上げるとき、父の心の中にそれは置かれ、また父は私たちの最善を与えようと意志される。この私の意志と父の意志が絶妙に組み込まれて、サブスタンスが形成される。私が真に欲しいモノがわかり、父と私たちがそのサブスタンスを共有するとき、私たちは「得た」と分かるのだ。これが信仰の瞬間だ。するとあとは時間の流れの中でそれは実体化される。神の方法とタイミングに従って。私たちはその実体化の時を楽しみにしつつ待つのだ。
忍耐をもって、と言うと、これまた宗教の霊に憑かれた人は歯を食いしばるイメージを持つが、これも違う。私たちは確実に願ったものを得ることが出来る。ゆえに心待ちにその時を待つのだ。大いなる期待をもって。もう、すでに得たから、得るのだ。すでに得たのだから、歯を食いしばる必要はない。父は富んだお方、寛容であり、慈愛に満ち、与えることを喜ばれるお方。なぜ、その方に対して、歯を食いしばる必要があろうか[1] … Continue reading。
神は私の意志を最大限尊重される。次の約束は真実である。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。-Phil 4:6
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに-Eph 3:20
父の懐に生きること―これがダイナミックなフェイスのカギである。