iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
タグ: エクレシア

- 引用聖句:Acts 8:37;9:4;John 3:3;3:6;1Cor 1:2;Eph 1:23 etc.
- 次回:2023年3月5日(日)(パン裂きを再開します)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

すでに主のからし種が育ってどんな野菜よりも巨大になり鳥が巣を作る樹木に至ることの意味を説いた。これは啓示録2-3章の七つのエクレシアが歴史的展開を予言していることとも関係することも指摘した。
軽く復習しておくと―エペソ(=好ましい)においてニコライ派(教団教職制度)の行いが入り、スミルナ(=苦難)で迫害を経験し、ペルガモ(=結合)で世との混合がなされてニコライ派の教えが確立、サタンの座が設定される。続くテアテラ(=香の祭事)でイゼベルが仕切る仰々しい儀式が確立、そこにはサタンの深みが存在し、サルデス(=残りの者)でいわゆる宗教改革がなされるも、実質は死んでおり、フィラデルフィア(=兄弟愛)においてわずかの力でも証しを守り、ラオデキヤ(=民衆の意見)では豊かになった、目が見えるとしつつ、実体はその逆であり、イエシュアを追い出している。
見かけは立派でも、そこには邪悪な鳥や獣が自分のよすがとして集まる場、まさに現在の世のひとつの組織・機関と堕したキリスト教の姿である。この様を私はエジプト・バビロン化していると言ってきている[1]バベルの塔の動機は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」であった(Gen … Continue reading。その最期は次のように啓示されている:
天使は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。
すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって富を築いたからである。」
わたしはまた、天から別の声がこう言うのを聞いた。「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
彼女がおごり高ぶって、ぜいたくに暮らしていたのと、同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』
それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある主だからである。」-Rev 18:2-8
物を隠すのにもっとも発見しにくい場所はどこか? それは大衆の目が置かれる公衆の場である。サタンが隠れてその仕業をするには、まさかのキリスト教の中がもっとも適していることは分かるであろう。キリストはキリスト教なる宗教を作るためにロゴスが肉体を取られたのでもないし、聖書はキリスト教の経典でもない。キリスト教の偽善を告発したニーチェは、キリストとキリスト教を同一視したためにあのような最期を遂げたのだ。見事にサタンに騙された末路である。
これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。-2Cor 2:11
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。-Eph 6:11
この新改訳における「策略」とある原語は、前者はnoema、後者はmethodeiaである。noemaとは意図・動機・思惑であり、methodeiaは方法・手法・姦計である。つまりサタンはその意図や思惑を具体的手法や方法によりこの世界に実体化する。その拠点として、まさにキリスト教は絶好の場である。
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。-Eph 4:26-27
この「機会」とある原語はtopos、それは足場・手がかりの意味である。サタンはこちらの心の中のtoposをフッキングする。つまりこちらに何か聖霊による以外の意図や動機や思惑がある場合、サタンはそれに応じたエサを投げてくるのだ。決して彼は無理強いはしない。そのエサに喰いつくときも、私たちは自由意志で選んだと思わされるのだ。カルトによるMCやセールスの巧妙なやり方も同様である。そもそも自由意志なるものは幻想である。
同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。-Gal 4:3
さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。-Eph 2:1-2
つまり諸霊が我々のマインドに働きかけ、それに応じて意思決定をさせられていたのだ。だから奴隷である。クリスチャンであっても、動機や意図に不純なものがあれば、そこにピンポイントで働きかけてくる。「自分は自分の人生を自分で選んで、誰にも縛られず自由意志によって生きている」などという錯覚に陥ることは致命的である。
イエシュアと物理的に接していたユダもなんの動機や意図だったのかはわからないが、サタンは彼のうちに裏切る「思い」を入れた(John 13:2)。マインドはストイケイア、アイオーン、さらにサタンなどの霊的エンティティとの接点である。それに従って意志決定した彼の末路は言うまでもない。

マルクスも使徒行伝の兄弟姉妹が物を共有し、資産を分かち合っていたとする記述から共産主義の着想すなわち種を得て、それを成長させて思想とし、共産党として政策により実行したのだ。その末路は人類史上最大の虐殺を行ったことは言うまでもない。
エペソでニコライ派の種がまかれ、ペルガモで育ちサタンの座が据えられ、テアテラで中世の暗黒時代、サルデスでその娘たちとも言えるプロテスタント諸教派が生まれたが、まさにキリスト教の巨大樹木化と共産主義の成長は同じプロセスを再現している[2]ニッポンキリスト教とニッポンが合わせ鏡であるように、キリスト教と共産主義も同じと言えるかもしれない。共産主義は立派な宗教である。。どちらもその中で自己の生存の担保(=生活の保障と食い扶持の確保)とアイデンティティおよびプライド(=自己価値の確立)のよすがとする。これが鳥や獣が集まる動機である。

この図はエクレシアの実質(野菜)が諸霊と人間の肉により修飾されて巨大化する過程を描いたものである。現在の問題はエクレシアが巨大化したキリスト教の中に幽閉されていること。キリストと聖書がキリスト教の専有物であるかのようにみなされていることだ。巨木は虚木である[3]これは善悪を知る知識の木の成長した姿とも言える。対してエクレシアはいのちの木の増殖であり(Col … Continue reading。主は「わたしが地に戻るときに地上に信がみられるであろうか」と言われるのだ(Luke 18:8)。

この意味で私は20年以上にわたり、キリスト教をエクソダスせよと訴えている。それはエレミヤ書16章においてイスラエルに呼びかけられているとおりである。啓示録の七つのエクレシアで言えば、フィラデルフィアである。彼らは力はわずかであったが、主によって御名と御言葉を否まなかったとして賞賛され、叱責の言葉はスミルナとともにまったくない。そして神の名と、神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、主の新しい名を書き記していだけるのだ(Rev 3:7-13)。
References[+]
↑1 | バベルの塔の動機は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」であった(Gen 11:4)。まさに現代のボクシたちの切望するところであろう。サタンはこの自分の住処を暴かれることをもっとも嫌うであろう。ゆえに私の指摘にはキリスト教徒からの聖書の論理を無視した感情的反応がなされるであろう。 |
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↑2 | ニッポンキリスト教とニッポンが合わせ鏡であるように、キリスト教と共産主義も同じと言えるかもしれない。共産主義は立派な宗教である。 |
↑3 | これは善悪を知る知識の木の成長した姿とも言える。対してエクレシアはいのちの木の増殖であり(Col 2:19)、それはブドウの園であり、また一粒の麦の増殖である麦畑である。 |

しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。
この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。
そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子
に対するの信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。-Eph 4:7-13
ここにある使徒、預言者、福音宣教者(伝道者)、牧者/教師を五役とするカウントするむきがあるが、「ある人」は何回出現するか。四回である。つまり牧することと教えることは重なっているのだ。すなわち四役である。しかも牧者はリストの末席である。現在の牧師をトップとするキリスト教のあり方はまったくのハマルティアだ[1]ニッポンキリスト教では伝道師は牧師見習いの立場であるようだが、とんでもない誤りである。リストの順番をよく確認されよ!。
しかも邦誤訳ではギリシャ語の「ポイメン」を「牧師」とするが、これは誤訳である[2]「メタノイア」に「悔い」の意味はなく、「思い改め」とすべきことと同様に日本語に変換したときにズレが生じている。。歴史的に組織化されたキリスト教なる体系においては教職-信徒関係(=教職制度)が採用され、ちょうど公務員のキャリアとノンキャリアのような線引きが行われるが、このシステムに組み込まれると「師」が付与される。事実、伝道者は伝道師とも言うが、システム化されるか否か微妙だからだ。かくして正確には牧者(=世話人)である[3]英語の”Pastor”も”牧する者”の意味であり、これを「牧師」と訳すのは誤訳である。。教師も教える者。そこには線引きがない!
学校において教師と生徒の関係は一線を画した垂直関係であり、一方生徒間における役割分担、たとば級長、風紀員、図書係などは水平関係である。エペソ書で言う役割はこの生徒間における水平な関係性における役割分担であって、教職-信徒の垂直な関係性のそれではない(☞エクレシアの機能について)。この垂直関係を啓示録ではニコライ派の教えと実行と言う:
だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる。-Rev 2:6
同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。-Rev 2:15-16
この「ニコライ」と言う単語は「ニカオ(νικαν=conquer)+ラオス(λαός=people)」からなる。つまり「人々を支配・管理する」ことだ。当初のエペソ(=好ましいの意味)では単なる「行い」だったが、ペルガモ(=結婚・結合の意味)では「教え」として確立されている(☞エクレシアの歴史について)。
そして、これは牧師など教職制度に立つ者たちに対しての警告であるが、主ご自身がそれを憎みかつ戦うとまで言われているのだ! なぜか? われわれはみな兄弟姉妹であり、師はただお一人だから![4]エクレシアにおける諸事については長老がその任を執るが(使徒14:23)、ここでは詳細は触れない。
だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。-Matt 23:8[5]ここは「呼ばれてはならない」だから、呼ばれたい人には呼んであげればよろしい。責任は呼ぶ側にあるのではなく、呼ばれる側にあるから。
お分かりだろうか? 師を名乗ることは主の立場を侵害するとんでもない重罪である! 先生と呼ばれたいですか? それとも主に憎まれたいですか? これは有名どころの牧師たちやその家族の末路が幸いなものではないことにより証明されている。
さて、予型としての幕屋の立て板は四本の可視的棒で連結されたが、それでは全体をまとめられない。不可視の一本が貫いてひとつにされる(Exo 26:26-29)。見える四本は四役、見えない一本はもちろん聖霊だ。

幕屋の立て板がひとつに結合されるのは四役によるのではない。まして教団同士の一致でもない。御霊が貫いているゆえである[6]幕屋はキリストとエクレシアの象徴である。☞至聖所について。
壁板の中央の高さに位置する横木は、壁板の端から端まで渡す。-Exo 26:28
平和のきずなで結ばれて、御霊によるひとつを守り続けるように努めなさい。からだはひとつ、御霊もひとつである。-Eph 4:3-4

いわゆるニッポンキリスト教での神学校を出て、牧師按手を受けて、牧師に任職されるという制度は聖書にはない。新改訳は意図的な誤訳が頻繁に見られるが、中でも問題なのはこの箇所である。
何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。-2Cor 3:5-6
この「資格」なる誤訳がある意味で諸悪の根源である。この単語は”hikanos”であり、「十全性」あるいは「資質」と訳すべきである。いわゆる免状なのではない![7] … Continue reading 各奉仕を行う十分なる能力あるいは資質であり、その目的は教団や教派の教勢を伸ばすことなどではなく、キリストの体を建て上げること、それにより御子のフェイスと知識の一体性にあって成長し、キリストの充満の規模に至るためである(cf.岩波訳)。
そもそも邦誤訳の中で真理を考えることはニッポンキリスト教を生み出すだけと指摘している。統一教会が取り沙汰される昨今において、「教会」なる単語もそろそろ年貢の納め時であろう。原語はエクレシア。それはエク(から)+カレオ(呼ぶ)、つまり呼ばれた人々、直訳すれば「召衆」である。その定義は―
キリストの体、すべてにおいてすべてを満たす方の充満である-Eps 1:23(岩波訳、霊的定義)
至る所で私たちの救い主イエス・キリストの御名を呼び求めている人々-1Cor 1:2(物理的定義)
今日、牧師や神父を世における職業とされており、世において食うための手段となっていることが深刻な問題である。聖書は確かに福音を宣べ伝える者は福音によって生きるべきこと(1Cor 9:14)、またその権利を有すること(1Cor 9:12)を語るが、パウロは兄弟姉妹に負担をかけまいとしてそれを行使しなかったのだ(1Cor 9:15)。その権利とは教団や教派が担保するものではない。あくまでも主とその人との関係において確立するものである。互いの間での支え合いあるいは捧げ物も愛の関係である。
かくしてキリスト教なる宗教体系(マトリックス)にエクレシアが幽閉されているのだ。エジプト(世)からエクソダスして呼び出された者たちが、実は良き地なるキリストご自身ではなく、宗教の捕囚とされている。ゆえに二度目のエクソダスが必要であると私は20年以上訴えてきている。
見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう、「イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる」と言わず、 「イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる」と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。-Jer 16:14-15
聖書の真理に無知の間にはエクレシアを迫害したパウロのように許されているが、一度真理を知ったならば責任が生まれる。責任とは”responsibility”、応答性だ。いかに応えるか。しかしこれもワクチンと同じで、一度マトリックスにハマルと、見ても見えない、聞いても聞こえない、読んでも読めない症候群となる。いや、認めたくないがホンネであろう。なぜなら「食えなくなる」が一番の理由なのだ。ここがキリスト教という体系の根本的病理の根っこである。ニコライ派の行いと教えは忌むべきものである。
References[+]
↑1 | ニッポンキリスト教では伝道師は牧師見習いの立場であるようだが、とんでもない誤りである。リストの順番をよく確認されよ! |
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↑2 | 「メタノイア」に「悔い」の意味はなく、「思い改め」とすべきことと同様に日本語に変換したときにズレが生じている。 |
↑3 | 英語の”Pastor”も”牧する者”の意味であり、これを「牧師」と訳すのは誤訳である。 |
↑4 | エクレシアにおける諸事については長老がその任を執るが(使徒14:23)、ここでは詳細は触れない。 |
↑5 | ここは「呼ばれてはならない」だから、呼ばれたい人には呼んであげればよろしい。責任は呼ぶ側にあるのではなく、呼ばれる側にあるから。 |
↑6 | 幕屋はキリストとエクレシアの象徴である。☞至聖所について |
↑7 | そもそも免許は禁止されている行為を許される資格である。人の体は傷つけてはならないが、医師免許があれば可能。公道は車では走れないが、免許があれば可能。しかるに聖書の言葉を説くことはそもそも禁止などされていない。まあ、カトは別にしてだが。いや、プロでも教団内のタコツボしきたりではあるかもね。ともあれ牧師の資格とか免許のナンセンスさが分かるであろう。 |

もともとアダム(人)はYHWHエロヒムの形と様に創造された(Gen 1:26)。エバはアダムの成分からビルドアップされたアダムの骨の骨、肉の肉だった(Gen 2:22-23)。両者は同じ成分をシェアするひとつの有機体であり(Gen 2:24)、【すでに】YHWHエロヒムの似姿だったのだ。後はいのちの木の実(I-AMの実体)を内在化させればよかった。人と創造主はひとつとなれたはずだった(Eph 5:32)。
が、蛇は善と悪の木の実を食べればエロヒムの【ようになれる】と誘惑した。【すでに】YHWHエロヒムが人をご自分の似姿に創造されていたのに、何か不足があるかのように示唆したのだ。こうして人類は蛇のウソを飲みこみ、偽のアイデンティティ(不足してる~と叫ぶあり方)に落ち、延々と知識を増大し(Dan 12:4)、「神のようになる」ことを追求している。
キリスト教なる宗教も同じ、つねに不足してる、まだ十分でない、もっと清くされ、奉仕伝道、信仰に励め~と煽られる。外なる「善と悪の物差し」で常に自分の不足を測り続けるわけ。道元も言っている、
「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」-正法眼蔵現成公案。
最初、法は外にありその周囲を回るだけだが、フェイスにより物差しは内にいのちの御霊の法則として内実化(Gk.ginomai;Hb.haya)される。いのちを与える霊となられたキリスト(1Cor 15:45)は私の霊と「ひとつの霊」としてブレンドされている(1Cor 6:17)。
もはや生きるのはわたしではない、肉(五感領域)にあって生きるわたし(ソウル&ボディ・ハイブリッド)は御子【の】フェイスの中で生きる(Gal 2:20)。イエシュアが生きるので私たちも生きる(John 14:19)。これがYHWHのエミュレータ(イミテートではない)になることだ(Eph 5:1;1Tim 3:16)。
フェイスのカギは御子に【対する】ではない! キリスト【を】信じまーすは分離状態、これがキリスト教。フェイスは御子【の】フェイスのうちに生かされる。これが一体化(Oneness)。「使徒信条告白~、我はナントカ・カントカを信ず~」なんて延々とやってるから明治時代からこのキ業界成長しないわけ。戦後GHQのバックアップでキリスト教は社会化されてすでに地の塩ではなくなってしまった。もはやお笑いでしょう。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実体・実質)、まだ見ていないことのエビデンス(証拠・現出)である。-Heb 11:1(私訳)
客体と主体は溶け合う。精子と卵子が一体になることはその型(タイプ)である。神と人がともに住む(Rev 21:3)。人が神殿そのものなのだ(Eph 2:21)。だから新エルサレムにはもはや神殿は不要(Rev 21:22)。[1]一部のキリスト教徒は新エルサレムを物理的都市と思ってるらしいが、子羊の花嫁なのだよ(Rev 21:2)、都市が花嫁になれるかな?それはYHWHの臨在そのもの(シェキナグローリー)、拡大した立方体であり(至聖所の形)、かつては幕屋や神殿の奥に隠されていたが、いまや隠されていないキリストの充満なるエクレシア(Eph 1:23)の完成体(前田護郎訳など)。祈りを象徴する香壇は新約では至聖所にあるのだ!(Heb 9:4、出エジプト30:6と比較せよ!☞幕屋の秘密@YouTube)。
取り損ねたいのちの木の実体として私たちのうちに内在化されたキリストとエクレシアの究極、YHWHと人の究極的Onenessの奥義である[2]現代物理学の用語でいえば、波動関数(バイブレーション)を共有することによるエンタグルメントだ。。かくしてエデンの園の二本の木々で始まった神と人類の物語は、新天新地において一本の木として完成するのだ[3]Rev 22:2、ここは「両岸にある」とあるが、木は単数形だ。。

世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。-John 17:6
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」-John 8:58
イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。-John 14:9
「わたしはある」とはいる/いないの問題ではない。モーセに対してYHWHはこう出現された:
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖のエロヒムが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
エロヒムはモーセに言われた、「わたしは、有って有る
者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。エロヒムはまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖のYHWHエロヒム、アブラハムのエロヒム、イサクのエロヒム、ヤコブのエロヒムが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。 -Exo 3:13-15
YHWHとはヘブル語ではこうなる:

これはヘロデがイエシュアの罪状書きに記したセリフであるが、律法学者たちはこれを見て慌てふためいたのだ。なにしろそこには「ヨッド・ヘイ・ヴァヴ・ヘイ」とあったからだ。それはI-AM(ありてある)のとこしえの名。しかもそれは呼び名なのだ。
ありてあるとはI-AM-THAT-I-AM。ヘブル語では-

すなわちイエシュアとは「YHWHがわが救い」の意味であるから、イエシュアを呼ぶとき、I-AMを呼んでいるのだ[1] … Continue reading。その名はすでにイエシュアにより明らかにされた御名であり、呼び名である。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神があるもの(原語)であること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。-Heb 11:6
実はサタンは御名を憎悪しておりかつ同時に恐れている。だからクリスチャンの口を塞ぐのだ。そもそもエクレシアの可視的定義は-
コリントにある神のエクレシアへ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。-1Cor 1:2
HRBではもっと明確である-
to the Congregation of YAHWEH which is in Corinth, those having been sanctified in Messiah Yahshua, called out saints, with all those calling on the name of our Master Yahshua Messiah in every place, both theirs and ours:
サタンは自分を隠すことによりその仕業をなす。正体を暴かれることを最も恐れる。当時はキリストVS.ユダヤ教の対立、現代ではキリストVS.宗教体系化されたキリスト教。ペルガモでサタンの座が入り込んでいるわけで、あの者が自分を隠すには最適の場所がキリスト教である。彼の隠れ家としては最適だ(☞エクレシアの歴史について)。
わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。-Rev 2:13
この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。-Rev 2:20
またイゼベルについては-
彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』-Rev 18:7
と暴露されており、彼女はやもめであることを認めがたいのだ。そこでイゼベルはキリストの花嫁であるエクレシアを詐称し、それを自分の足下に置きたいのだ。主ご自身が裁くであろう(Rev 2:16)。
私たちはイエシュアの証人である(Acts 1:8)。イエシュアはすでにご自分をI-AMであると御名を明らかにされている。同時にイエシュアは100%父を露わにされた。ここでいつもながら「黙示録」なる訳語が悪い、「啓示録」である。啓示とは開かれたもの。すでに何も隠されていない。ゆえにそれはイエス・キリストの啓示である(Rev 1:1)。
ボクシの説教でも「かみっさまわ~」が連呼される現代おいて、生の御名を回復する必要がある! 御名は生きている![2] … Continue reading
自分を隠したい霊はサタンの霊。イエシュアは私たちを通してご自身を現されるのだから。イエシュアはその肉体を通してYHWHエロヒムを現された。私たちはその肉体を通してそのイエシュアを現す。こうしてI-AMが私たちの肉体を通して表現される[3] … Continue reading。これがエウセベイアの神秘である。われわれの霊は魂を肉体を通じて聖霊とブレントされつつ流れ出る。
われわれの体は文字どおりキリストの体である。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。-1Cor 6:20
現経綸の体でもこれが可能だ。いわんや次の経綸において得る霊の体はどれほどであろうか!?
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。-Phil 3:21
一瞬にそれはトランスフォームされるのだ(1Cor 15:52)。これこそが私たちの究極の希望。
主よ、来たりませ!
References[+]
↑1 | よく聖霊派あたりでは、聖霊様~とやったり、父なる神様、子なるキリスト様、聖霊様と三者に義理立てるとか説教するボクシもいるが、イエシュアはYHWHが救い、すなわち父・子・聖霊をすべて含む名である! イエシュアを呼べばI-AMを呼んでいるのだよ。 |
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↑2 | アメリカでもオバマ時代においてJesusの名を消し去ることがなされた。彼らにとって実に目障りなのだ。しかし私たちにとっては甘い御名であり、呼び求めるときにはエクスタシーに包まれる名である。ここで霊の本質が明らかにされる。 |
↑3 | 肉体そのものが汚れているとするのはグノーシスである。彼らはイエシュアが汚れた肉体を持つはずがないとして、あのイエシュアは仮の姿であるとした(仮現論)。これに対してヨハネは「わたしたちが見てさわったもの」として明確にイエシュアの物質性を証しされている。パウロも「御子は、肉によればダビデの子孫」とし、霊的には「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」と証言する(Rom 1:2-4)。 |

最近、FBの投稿をブログで掲示できなくなったので、ツイッターから転載する。
— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) June 29, 2022
And Jehovah God buildeth up the rib which He hath taken out of the man into a woman, and bringeth her in unto the man; 創世記2:22。アダムはYHWHの形に創造されたが(bara)、エバはそのあばら骨から建てられた(banah=build up)されたのだ。そしてエクレシアはキリストの肉の肉、骨の骨だ(エペソ5:30)
For we are members of His body, of His flesh, and of His bones. (HRB)
新エルサレムを何かの「都市」と思ってるボクシがいる。「都市」が子羊の花嫁になれるのって。ほんと彼らは考え方が俗物的だね。前田護郎訳では注において、それは「キリストの花嫁である信徒の集まりである」と書いている。その形状は立方体。
もはや主の臨在は幕屋や神殿の奥に隠されていないのだ。しかもビッグサイズ。キリストは一粒の麦として地に撒かれ復活し、今やいのちを与える霊(1Cor 15:45)として私たちの霊に住まれる。麦(キリスト)が撒かれたら麦(キリスト)が増殖するのだ。当たり前のこと。かくしてエロヒムのいのち(Zoe)が増殖したのだ。コロサイ2:17は「神の成長を成長する」。邦誤訳は田川訳と岩波訳は正確だがあとはみな訳者の脳内分泌液で汚されている。

この記事、実にインスパイアされる。カギはオーガニック。
からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。-1Cor 12:12
ここでパウロは「キリストの体の場合も同様」とは言っていない。「キリストの場合も同様」である。この違い分かりますか? 宗教にいる人には? でしょう。イラスト的には前者は右、後者は左です[1]ある兄弟は右の状態を「キリスト教の会」と称している。。一粒の麦が撒かれたら麦が増殖する。ブドウの枝はブドウであり、その実、すなわちブドウが増殖する。

エクレシアはキリストの充満(エペソ1:23)。これも「満ちておられる場所/ところ」ではないことは何度も指摘している。充満そのもの(左図)。
つまりエクシアとはキリストなのです。
キリスト教会(あるいは「キリスト教の会」)は罪赦された哀れな罪人の集まりですが(ある兄弟は「キリスト教の会」とも)、エクレシアとはひとりの新しい人、ニュークリーチャー。
宗教に過ぎないキリスト教をエクソダスせよ。あ、残りたい方はご自由に。

エクレシアと何か? その原意は”ek(=from)+kaleo(=call)”、つまり呼び出された存在である。教会なる訳語はまったく不適。よって私はエクレシアとそのまま称している(時に不本意ながら便宜的に「教会」も使うが・・・)。そしてその定義は
- 可視的には:コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。-1Cor 1:2(口語訳)
- 霊的には:この教会はキリストの体、すべてのものを、すべてのものの中に満たす方の充満である[1]岩波訳では、この方はキリストであると注をしている。-Eph 1:23(岩波訳)
可視的な定義は、イエスの御名を呼び求めている人々にして、キリストにあってきよめられ、聖徒として召された方々。お分りだろうか? 教団や教派、あるいはナントカ同盟だの、カントカ宗教法人ではない。また罪赦された哀れな罪人の集まりでもないのだ。
霊的には、いつも指摘しているが、その方が満ちておられる場所とかところではない。充満(plerooma)そのものだ。つまりたい焼きはアンコの充満であると言ったら、その本質はアンコであろう。皮はその入れ物に過ぎない。たい焼きの本質は皮ではなく、アンコ。エクレシアとはキリストの充満、すなわちその本質はキリストである。
エバはアダムが眠らされている間にその脇腹の骨からビルドアップされた。アダムは創造されたが、エバはアダムの成分からビルドアップされたのである。
And Jehovah God buildeth up the rib which He hath taken out of the man into a woman, and bringeth her in unto the man; -Gen 2:22(YLT)
そして
人は言った、「これこそわが骨の中の骨、わが肉の中の肉。彼女は妻(イッシャー)と呼ばれよう、夫(イーシュ)から取られたのだから」。-Gen 2:23(岩波訳)
つまりエバはアダムの成分によって構成されており、ある意味、アダムの分身である。さらに、続ける―
このゆえに、人はその父と母とを見捨てて、妻と結び合う。彼らは一つの体となる。-Gen 2:24(岩波訳)
パウロはこれは奥義であるとする。
事実、自分の肉〔体〕を憎んだ者はいまだかつて一人もおらず、反対にそれを養い、いわたわるものである、キリストもまた教会を〔養い、いたわる〕ように。私たちはキリストの体の肢体である。それゆえ、人は父と母のもとを去って、その妻と固く結ばれ、二人は一つの肉〔体〕となる。この奥義は偉大であり、私は〔このことを〕キリストに、そして教会に関連づけて言っている。 -Eph 5:29-32(岩波訳)
すなわち、キリストがエクレシアを養いいたわるのは、自分の肉体を養い、いたわることであり、アダムとエバが一つの肉体になることは、キリストとエクレシアのことであるとする。お分りだろうか?
キリストが眠らされている間にその脇腹の血と水から、霊により生み出されたエクレシアはキリストの成分そのものであり、キリストと一つである。つまり葡萄の枝は葡萄であるように、まことの葡萄の木であるキリストの枝であるエクレシアも葡萄、つまりキリストである。
あるいは一粒の麦が撒かれたら、コメがなるのではなく、多量の麦がなるように、一粒の麦であるキリストが撒かれたら多量のキリストがなるのである。当たり前であろう? 事実、パウロは言う-
あなたがたのうちにキリストが形造られるまで・・・-Gal 4:19(岩波訳)
「形造られる」の原語は”morphoo”である。英語では”form”。母の胎内で受精卵が分裂を繰り返して、徐々に分化しつつ、具体的な形を構成することである。かくしてキリストはエクレシアとして増殖するのだ。ゆえに-
神の増殖を増殖する。-Col 2:19[2]田川訳と岩波訳は正確に訳しているが、他の邦誤訳は全滅
神、正確にはYaHaWeHエロヒムはご自身のいのち(Zoe)をこの地上において増殖することが当初の意図であった。これがいのちの木であるが、アダムはそれを摂り損ね、彼から絶縁された[3] … Continue reading。これを人としてリバースしたのがイエシュア・ハ・メシア、つまりキリスト・イエスである。
またパウロはこう言っている-
なぜならば、からだが一つでありつつも多くの肢体を持つように、また〔逆に〕からだに多くの肢体がありつつも一つのからだであるように、キリスト〔自身〕もまたそうだからである。-1Cor 12:12
お分りだろうか? 体における肢体の多様性を指摘している文脈で、パウロは「キリストの体もまたそうだ」とは言っていない。「キリストもまたそうだ」と言っている。つまりパウロは体とキリストを完全に同一視している。ゆえにここは「それぞれの多様性を認め合いながら、一致を保ちましょう」といった牧師の説教課題などではなく、体であるエクレシアとキリストの同一性を論じる節である。頭と体が分離されたら死である。これがキリスト教なる宗教。

事実、続いてパウロは論じる―
というのも、私たちすべては、一つの霊において(en)一つのからだ〔になるように〕とバプテスマを受けたのだから・・・・。-1Cor 12:13(岩波訳)

カギは、一つの霊の中で。この霊とはもちろん聖霊であるが、聖霊は今やキリストの御霊とも言われ、いのちを与える霊となられた(1Cor 15:45)キリストを私たちの内に臨在される。たい焼きで言えば、これがアンコであり、エクレシアの本質である。
わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。・・・わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 –John 14:16-20
聖霊が来られるその日にはキリストが私たちのうちで生きられる! 聖霊派のように父・子・聖霊をバラバラにしてはならない。この三者は有機的に働いておられる。譬えれば、父はプログラマー、聖霊はOS、そして子はそのOSにおいて機能するアプリである。その聖霊は―
けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。 –John 16:13-15
つまり聖霊はキリストのメモリを私たちに伝達する。それはキリストを追体験すること。キリストの体性メモリが私たちにおいて再現されるのだ。こうしてキリストが私たちをとおしてワークアウトする。
かくしていずれ御子が現れる時には―
愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。 –John 3:2
この「似る」の原語は”homoios”、つまり「同形質の」である。父・子・聖霊、つまりYaHaWeHなる最も高きエロヒムとはパースンとしては異なるが、われわれはその霊的DNA(種)を継承する家族として、同質の形質を有するのである。そしてついには-
この彼はすべてのものを彼に従わせることのできる力によって、私たちの卑賎のからだを〔も〕、彼の栄光のからだと同じ形に変容してくださるであろう。-Eph 3:21(岩波訳)
この「同じ形」の原語は”summorphos”、つまり”sum(=with)”+”morpho(form)”である。共に構成すること。かくして私たちの霊はすでにエロヒムの霊を分かち与えられた存在、魂はキリストのそれと同様に再構成されつつあり、ついにこの体もキリストの体と同形化される。まことにYaHaWeHエロヒムのいのちの本質がわれわれにおいて地上で再現されるのだ。
もともとアダムはYaHaWeHエロヒムの形と様に似せて造られている。それは地上において彼をご自身のイメージとするため。Dr.Heiserは”imager”と呼ぶ。そして地上をご自身の代理として統治すること。これがYaHaWeHエロヒムの目的である。
キリストはご自身の体をビルドアップされる。つまりキリストはボディビルダーである!
食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし神は、それもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。-1Cor 6:13
自意識から諸々の苦悩が生まれることはすでに言うまでもないであろう。その自己(セルフ)からの解放こそ自由への道である。そのためにキリストがご自身のボディコンシャスであるように、われわれも聖霊の宮としてボディコンシャスに生きること。セルフコンシャスからボディコンシャスへの転換を!

我々が五感の領域で経験するあれこれ、それは何によって生み出されているのだろう。「あれこれ」とはアイオン(αἰών)、Strongによればこうある:
From the same as G104; properly an age; by extension perpetuity (also past); by implication the world; specifically (Jewish) a Messianic period (present or future): – age, course, eternal, (for) ever (-more), [n-]ever, (beginning of the, while the) world (began, without end). Compare G5550.
Vincentはこう解説している:
Lit. the ages. The world or worlds as the product of successive aeons.
つまりわれわれの時系列的経験、五感によって感知される諸事象を意味する。そしてヘブル書はアイオンは目に見えるものから生じるのではなく、見えないものから生じると証言する:
信仰によって、この世が神の言葉によって造られたこと、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。-Heb 11:3(岩波訳)
Through faith we understand that the worlds were framed by the word of God, so that things which are seen were not made of things which do appear. (KJV)
「言葉」はレーマ、「造られ」はフレーム化あるいはレンダー、すなわち五感の領域にあらしめるの意味(田川訳では「整える」)、「理解している」の原意はヌース(思い)により把握する、である。信仰という単語は不適切であるとすでに繰り返しているが、フェイスとは五感を超えたシックスセンスであり、スーパーナチュラルなスピリチュアル・パワーである。
現代量子論によると、量子は波動でもあり粒子でもある。ド・ブロイは物質は波であるとして、λ=h/mv=h/p (p=mv)とした。λは波長である。これを波動方程式に組み込むことによりシュレディンガー方程式が構成され、それは実験結果ときれいにフィットした。ところがその意味が問題となった。波動関数φとは何か。ボーアやアインシュタインとの論争の中で、それは粒子の発見確率を意味するとされた[1]φの絶対値の二乗|φ|2が確率密度関数を表すとするもの。。つまり波動は局所的実在としての波ではなく、確率分布という情報であるとするのだ。
これは局所的実在を否定するペル不等式の破れと言う形で証明されることになった。詳細は省略するが、二つの波動関数を共有する量子は距離に関係なく一方のスピンが決まると他方のスピンが決定してしまう。すなわち光速を超えて情報が伝達するという、相対性理論と合致しない現象の存在が証明されてしまったのだ。これをエンタグルメントと呼び、アインシュタインはspooky(不気味)な現象と呼んだ。
つまりこの量子は「五感で感知される時空間を超えて存在する何か」とするしかなくなるわけだ。このことを「局所的実在性が否定された」と言う。なんとも不思議ではないか。この世界を造る物質を分解していくと、分子→原子→電子・中性子・陽子→クオーク→弦となるのだが[2] … Continue reading、その電子などの量子は局所的実在ではない何かなのだ。では私たちの体はいったい何なのだ? 確かに五感によって知覚されているではないか、しかしその究極的構成要素は五感の領域を超える何かであるとは???
まさに「見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解」せざるを得ないのだ。それはレーマすなわち言葉すなわち情報がフレーム化したもの、あらしめられた(レンダーされた)ものなのだ。パワーポイントで投影された映像は、もとをただせば0と1の集合体、あるプロトコル(規則)に従って構成されたマトリックス、すわなち情報である。それがPCとプロジェクターによりフレーム化(レンダー)されたものである。0と1の集合体はわれわれはその意味をすぐには理解できないが、フレーム化(レンダー)されるとき、五感で感知し得る意味が生じるのだ。これと同じことをヘブル書は説いてる。
さらに、もっと原意に正確に訳すと
By faith we are apprehending the eons to adjust to a declaration of God, so that what is being observed has not come out of what is appearing.(CLV)
アイオンは神の宣言に適合するようにあらしめられるのだ。神の宣言とは語り出されたロゴス、ヘブル語ではダバー(dabar)、それは実質・実体そのものである。われわれが五感の領域で感覚/知覚して経験する事象はYHWHエロヒムの発出したロゴスそのものに適合するあり方とされたアイオンである。
そしてヘブル書は宣言する:
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって(の中で)、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって(を通して)、もろもろの世界を造られた。 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質(ヒュポスタシス)の真の姿であって、その力ある言葉(レーマ)をもって万物を保っておられる。-Heb 1:1-3
御子とはYHWHエロヒムのロゴス(John 1:1)、すなわちダバー(dabar)、実質・実体である。ここで大切な点は、YHWHエロヒムは御子にあって語られた(アオリスト)ことである。すでに語られた(過去形)。つまりYHWHエロヒムは御子にあってすでに宣言されたのである。何を?
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。-1Cor 2:9
五感では知覚できない、思いにも浮かばないことである。そしてそれは
なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって(あって)「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ(確立し)、油をそそいで下さったのは、神である。-2Cor 1:20-21
For as many promises as are of YAHWEH, in Him they are yes, and in Him are Amen, for glory to YAHWEH through us. But He confirming us and anointing us with you in Messiah is YAHWEH, even He having sealed us, and having given the earnest of the Spirit in our hearts.(HRB)
旧約において提示された神の約束はことごとくキリストにあって「アーメン」とされた。これは単に「アーメン」というセリフを唱えることではなく、その原意「アマン(אָמַן)」、すなわち「現わしむる・レンダーする」ことである。キリストこそはYHWHエロヒムの約束の成就された実体そのものなのだ。その方は死と復活を経ていのちを与える霊となられ(1Cor 15:45)、われわれのうちに聖霊により内住され、われわれもその方にあって確立される。
キリストの内に〔こそ〕神性の全き充満が形態化して宿っており、あなたがたはキリスト-すなわちあらゆる支配と権威の頭-にあって満々と満たされているのだから。-Col 2:9-10(岩波訳)
For in Him the whole fullness of Deity (the Godhead) continues to dwell in bodily form [giving complete expression of the divine nature]. And you[f] are in Him, made full and having come to fullness of life [in Christ you too are filled with the Godhead—Father, Son and Holy Spirit—and reach full spiritual stature]. And He is the Head of all rule and authority [of every angelic principality and power]. (Amplified)
ここの[f]の注としてVincentはこう説いている:
Rev., made full…. Not, ye are made full in Him, but ye are in Him, made full. In Him dwells the fullness; being in Him, ye are filled.
YHWHエロヒムの充満であるキリストが内住されるゆえに、われわれもその方の充満とされているのだ。詳訳ではこう訳されている:
というのは、彼のうちにこそ神性の全充満<神という方>が肉体の形をもっていつまでも宿られる<神性の完全な表現がなされている>からです。そしてあなたがたは彼のうちにあり、満ち満ちた者とされる<満ち満ちたいのちになる>のです<<キリストにあってあなたがたもまた、神、すなわち父、子、聖霊に満たされ、霊的に完全な身たけに達するのです>>。また、彼は、すべての支配と権威<あらゆる天使的主権と力>のかしらです。
かくしてわれわれを通してその神のすべての約束が「アーメン」とされる、つまり実体化されるのだ。キリストがなされたことをわれわれも再現、あるいは追体験するのである。ゆえに主は言われた:
わたしを信じる者はわたしのわざをなし、さらに大いなる業をなす。わたしが父のもとに行くからである。-John 14:12
ジーザスは父の元に行かれ聖霊をわれわれに注がれた。そしてその内住の聖霊はキリストの御霊としてわたしたちのいのちとして充満する。キリストの御霊はわたしたちの霊から魂へと浸透し(ペネトレーション)、わたしたちの魂をキリストの魂の形へと再構成し、死ぬべき体にすらいのちを与え、われわれはキリストの再現となる。われわれのうちにキリストが構成(モルフォー)されるのだ(Gal 4:19)。ゆえに―
この教会(エクレシア)はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているもの(Gk.充満)に、ほかならない。-Eph 1:23(口語訳)
新改訳などにあるように満ちておられる「場所」とか「ところ」ではない(口語訳はまだ良心的に訳している)。充満そのものがエクレシアである(岩波訳では正確に訳されている)。すなわちキリストである。われわれの体と魂はいわばガンダムスーツ、それは本質ではなく、キリストの充満そのものがエクレシアなのだ。白いキリスト教の神学などは捨てよ!
お分かりだろうか? YHWHエロヒムはご自身のいのちをまずキリストにあって実体化し、この五感の領域にあって現わされた。キリストは死と復活をとおしていのちを与える霊となられ、物理的存在に拘束されない霊としてわたしたちのうちに時空間を超えて内在される。そのキリストの成就されたすべてが五感の領域にある私たちの体と魂をとおして再現されるのだ。これがエロヒムをエミュレートすることであり(Eph 5:1)、その増殖である(Col 2:19)。
エロヒムの成長(増殖)を成長(増殖)する。-Col 2:19(原意、田川訳と岩波訳は正確)
かくして地上においても天になるとおり御旨(=五感で知覚できない意志のサブスタンス)が現出するのだ(=実体化されて知覚されるリアリティーとなる)。天には罪も病も貧困もトラブルもない! われわれはそのリアリティーを<今・ここで>享受する。フェイスはそのサブスタンスであり、エビデンスである(Heb 11:1)。それは永遠のNOW体験。PTL✨

再建主義ではモーセ律法により国家を統治するべしと主張する。かつてはイスラエルのみに与えられたモーセ律法はキリスト以降超民族化されたからであるとする。しかるに-
モーセ律法がレビ系の祭司制度であり、キリストはメルキゼデク系祭司制度をもたらしたことはヘブル書7章で論証されている(Heb 7:1-10)。レビがアブラハムの腰の中にいたときに、アブラハムがメルキゼデクに十分の一を捧げたことにより、レビもメルキゼデクに捧げたことになる(☞包括の原理について)。すなわち「レビ<メルキゼデク」とする(☞祭司制と律法について)。
そしてここで重要な点はー
ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。
祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。
このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。
というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。
このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。
この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。
ポイントは-
- 祭司制度の変更により前の律法は廃止され、律法が変更された。
- イエスはレビ系ではなく、ユダ族出身である。
- イエスは律法によらず、いのちの力(デュナミス)により大祭司として立てられた。
つまりキリストのもたらした新しい祭司制度はそもそもモーセ律法には準拠していないのだ! (☞クリスチャンと律法)
ではモーセ律法は何に変更されたのか? これはすでに何度も繰り返している、いのちの御霊の法則である。

私たちがこのいのちの御霊の法則によって歩むとき、律法は自ずと満たされる(Rom 8:4)。これはちょうどMS-DOSの時代にはコマンドを正確に打ち込んで初めてアプリケーションが使えたのに対して、WindowsではアイコンをクリックするだけでOKとなったのと同様である。今や個々のコマンドを覚える必要もないし、過ちなく打ち込む努力も要らない。Windowsは全自動となった。しかるに、WindowsにはMS-DOSも包含されている。Windowsを使うときには自動的にMS-DOSも使っているのだ。が、今時だれもMS-DOSをインストールしないであろう。
かくしてWindowsがMD-DOSの上位バージョンとされたように、いのちの御霊の法則はモーセ律法の上位バージョンである。MS-DOSが一部のPCオタクのみが使えたのに対して、Windowsはだれでも使えるのと同様に、モーセ律法はいのちの御霊の法則に包含される形で超民族化された。生のモーセ律法は廃しされたであり、そのものが超民族化されたわけではない。
かくして私たちニュークリーチャーであるエクレシアも、御霊のうちに歩むとき、今回のメッセで語ったように、いのちを与える霊となられたキリストと御霊にあってエンタングルメントするとき、モーセ律法の支配下にはいないのだ。それはモーセ律法を無視することではなく、超越することである。
モーセ律法を守ろうとすればロマ書7章のパウロの葛藤に落ちるであろう。それはレビとエンタングルメントするからである。いのちの御霊の法則に乗るのであれば、キリストとエンタングルメントする。すると天のキリストのあり方は時空を超えて地において現わされる。
かくして御子が御父のイメージャーであったのとジャスト・セイムに(John 14:9)、われわれは御子のイメージャーとなる。これが-
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。-John 14:13-16
の成就である。ゆえにわたしたちはこう言うべきである-私を見た者はキリストを見たのである。

イエスがユダヤ人の王であれば、イエスを王とする国が、ユダヤ系クリスチャンに与えられなければならない。「いや、1948年に建国された今のイスラエル国がその再建されたイスラエルである」とユダヤ人は言うかもしれない。
しかし、もしそうであれば、紀元70年から1948年までの間、ユダヤ人には国がなかった、ということになる。
これは、旧約の約束が約1900年間反故にされたということを意味する。しかも、今のイスラエル国は反イエスである。
このイスラエル国を、再興されたイスラエルと見なすことはできない。
イエスにおいて旧約聖書が成就された(マタイ5・17)以上、紀元70年までに、イエスを王とするイスラエルは再興されなければならない。
どのように再興されたのか。
私は、日本においてであると考える。
つまり大前提として、AD70年までに旧約聖書がすべて 成就したことがある。なぜならイエスは十字架で「完成した」と言われたからとする。よって、AD70年と1948年の間にも再興されたイスラエルが存在すべきなのだ。かくしてこれが日本であると・・・。
この記事の中で「普遍的イスラエル」と「民族的イスラエル」という対比をしている。前者は超民族的なエクレシアのことであり、後者はいわゆる民族的なユダヤ人国家であろう。極私的にはエクレシアとイスラエルの関係を次のように理解している。すなわちいのちの次元と善悪知識の次元の二平面における区別である。あくまでも創世記に基づくべきであろう(☞エクレシアとイスラエルの関係について)。

富井氏は律法についても、「民族的な」それが「超民族的な」ものにバージョンアップしたとする。極私的には、MS-DOSがWINDOWSにUPしたように、レビ系の石の律法は廃棄されたが(Heb 7:18)、それを包含する上位互換のメルキゼデク系のいのちの御霊の法則にバージョンアップしたと理解している(Heb 7:12)。イエスはいのちのちからにより大祭司として立てられたのだ(Heb 7:16)。そもそもイエスはレビ族ではない!つまりモーセ律法とは関係なく立てられたのだ(☞祭司制と律法について)。

そもそもアブラハムに与えられた約束は、その430年後に入った律法により無効にされることがなかった。その約束とは単数形の種、すなわちキリストであった。YHWHエロヒムの意図は当初から、律法ではなく、キリストであったのだ(☞神のエコノミー-いのちのディスペンセーション-)。
ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。-Gal 3:16-17

聖書は宗教本ではないことはすでに繰り返し、繰り返し強調している。いわゆるキリスト教なるマトリックをエクソダスせよとも。
見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう、「イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる」と言わず、「イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる」と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。-Jer 16:14-15
エジプトはファラオ(世の君)が支配するこの世、追いやられた国々(捕囚の地)とは宗教である。どこへ帰還されるのであろう。先祖に与えた良き地(カナンの地)、すなわちキリストご自身である。そのキリストは十字架の死において、その血をもってわれわれのすべての罪々(sins)を洗い清め、古い私を終わらせ、その復活において新しい在り方となられた。
「最初の人アダムは生きる魂(Gk)となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。-1Cor 15:45
旧創造であるアダムは生きる魂(a living soul)となったが、最後のアダムにして、第二の人であるキリストは命を与える霊(a life-giving spirit)となられた。魂次元から霊の次元への跳躍である。もちろんキリストは肉体をもって復活し、今や天に上げられているが、同時に肉体に制限されない在り方を得たのである。ゆえに聖霊が来られるとき、キリスト・イエスご自身が私のうちで命となられる。
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。-Col 3:4
それが新創造であるエロヒム属である。YHWHエロヒムの命を分与された存在。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。-1John 4:13
さらにわれわれはキリストの思い(マインド;nous)を得ている。
「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。-1Cor 2:16
われわれは自分の魂由来の思いを聖霊から独立して用いることはしない。魂を否み、聖霊のもたらすキリストの思い、すなわちキリストの言葉とわざをもって意識するのである。
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。・・・あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。・・・しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。-John 14:23-26
聖霊が来られるとき、父と子が来られるのである。すなわちYHWHエロヒムの全パースンが私たちのうちに内住される。この聖霊はイエスの言葉とわざを証しし(実体化)、イエスが私のうちに実感をもって生きられる。そしてそのお言葉を意識に上らせ、私たちはその言葉によって、すなわちキリストの思いによってすべてを意識するのだ。これを聖霊のメモリーと呼ぶ。
聖霊はちょうどOSのような存在であり、ご自分を証しされることはなく、聖霊にあって、ちょうどアプリのようにイエスが生き、イエスは御父の言葉とわざを証しされる。こうしてYHWHエロヒムが私を通してエミュレートされるのだ。
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神をエミュレートする者となりなさい。-Eph 5:1
ここの子供とは養子ではなく、生み出された者、すなわち命を共有している存在(Strong)、さらに「倣う」とある原語の本来の意味はエミュレートである。Windowsマシンにエミュレーターをインストールすれば、Mac iOSを走らせることができるようになる。無骨なWindowsマシンで洗練されたMacのソフトが走るのである。これと同様に、無骨はわれわれの肉体を魂を通して、霊のうちにおられるYHWHエロヒムがエミュレートされる。ゆえに
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子の信にあってです。-Gal 2:20
肉にあって(=体と魂)生きているわたし(自己意識)は、自分の資源によって生きるのではなく、神の子のフェイスにあって生かされるのである。フェイスとは霊的実体(サブスタンス)であり、その現出である(Heb 11:1)。かくして霊のリアリティが私の肉体と魂を通して五感の領域へと実体化される。こうして五感で感知できない霊のリアリティ(サブスタンス)が、五感で感知できるようになる。あたかも目に見えない電波に乗せられた映像や音声やメールがスマホにより五感の領域に現わされるのと同様である。
この時、私たちは五感の領域における事実や経験を自己意識で判断したり、評価したり、意思決定したりしないようになる。すなわちキリストの意識とバイブスが共鳴することにより、キリストの意識によって処理することが可能となる。地上におられたキリストの内的経験が私の魂と体に再現されるのである。この意味で私たちはキリストの意識の追体験をする。
これはすなわちYHWHエロヒムの命(Zoe)の増殖であり、キリストの自己形成である。
わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで・・・-Gal 4:19
キリストが私のうちにモルフォー(形成)される。すなわちキリストがエクレシアとして増殖するのだ。ゆえに
エクレシアはキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の充満です[1]満ちておられるところとか場ではない。ところや場に満ちるといった考え方がキリスト教を生む。キリストの充満である。。-Eph 1:23
神の成長を成長する[2]あるいはエロヒムの増殖を増殖する。。-Col 2:19(岩波訳;田川訳)
かくしてエクレシアとはキリストである! 人間が組織した宗教団体などでは毛頭ない。それは生ける有機体であり、YHWHエロヒムの命と意識を共有する存在である。エクレシアはオーガニックに成長する(Mark 4:26-29)。
聖書は生命現象の書である!

エクレシアはキリストの充満。キリストは神性があますところなく形を取られた存在。われわれはその方にあって完成されている。うちにモルフォーされるキリスト、それは人手によらないオーガニックな生命現象である。

現憲法以下、財政法にしても、日銀法にしても、戦後の日本を弱体化するシカケがあることは否定できない。財務官僚も法律に忠実なだけなのだ。国民はまったく知らずに、働けど働けどわが暮らし楽にならず。で、ダメ出しの最後は二千万貯めとけと。
60年代のきな臭さ、70年代のアパシー、80年代の空踊り、90年代のバブル崩壊、その後の30年近い停滞デフレ時代。なぜこうなったのか。目先の改革とかは無意味。トロイの木馬を駆除しないと。それは何か?
財政法第4条にはこうある-
- 国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。
- 前項但書の規定により公債を発行し又は借入金をなす場合においては、その償還の計画を国会に提出しなければならない。
- 第1項に規定する公共事業費の範囲については、毎会計年度、国会の議決を経なければならない。
これについては共産党がこう指摘する-
この規定は、戦前、天皇制政府がおこなった無謀な侵略戦争が、膨大な戦時国債の発行があってはじめて可能であったという反省にもとづいて、財政法制定にさいして設けられたもので、憲法の前文および第9条の平和主義に照応するものです。
この点について、現行財政法の制定時の直接の起案者である平井平治氏(当時、大蔵省主計局法規課長)は、当時の解説書(「財政法逐条解説」1947年)で、次のようにのべています。
「戦争危険の防止については、戦争と公債がいかに密接不離の関係にあるかは、各国の歴史をひもとくまでもなく、わが国の歴史をみても公債なくして戦争の計画遂行の不可能であったことを考察すれば明らかである、……公債のないところに戦争はないと断言しうるのである、従って、本条(財政法第4条)はまた憲法の戦争放棄の規定を裏書き保証せんとするものであるともいいうる」
こうした、財政法での国債発行の原則禁止と憲法の戦争放棄との関連は、年間5兆円近い軍事費をもつ「軍事大国」となり、その財源に赤字国債があてられている今日、戦後の原点としてあらためてふまえなければなりません。
要するに軍事大国化することを抑制するための法律だ。刃物を持つと人を刺すかもと恐れる強迫神経症だ。これについては佐藤氏がこのように主張している-
その著書『平和主義は貧困への道 または対米従属の爽快な末路』においても述べている。
わが国の平和主義が、非現実的な観念論に終始しがちなことは、よく知られている。それにより、戦争の危険がかえって高まりかねないことも、しばしば指摘されてきた。
「平和主義は戦争への道」というわけだが・・・誰も気づかない事実を明かそう。
平和のもとで、国はたいがい繁栄する。ところが戦後日本の平和主義は、貧困を不可避的にもたらすのだ!
平和主義、それは貧困への道なのである! !さらに、誰も気づかない事実を明かそう。
わが国の保守は、平和主義の非現実性を長らく批判してきた。ところが、ほかならぬ保守も、自覚しないまま平和主義を信奉しているのだ!
右も左も貧困が好き! 日本が落ちぶれてきたのも、当然の話ではないか?!こうしてわが国は、誇りと絶望のはざまで対米従属の経路を歩む。
そのことを批判する主張も、決して珍しくはない。しかし、誰も気づかない事実を明かそう。
従属が深まり、行き詰まれば行き詰まるほど、日本人は爽快になってくるのだ!
対米従属の末路、それは爽快なものなのである! !「何だって、そんなバカな! どうしてそんな話になるんだ?! 」
あなたの疑問はもっともである。何かがおかしいのは明らかだ。とはいえ、おかしいのは何なのか?
日本の低迷や没落の陰にひそむ、7つの真実をさぐることで、「利口な者ほどバカをやらかし、国の方向性を誤る」現状を脱却し、未来にいたる道を示す。
今回、習近平の国賓来日は阻止された。ある意味コロナにより日本は守られたとも言える。しかしながら経済の差は広まる一方。GDPも中国1,300兆、日本は30年間ほぼ500兆前後。軍事費はもちろんダントツの差(ほぼ4倍)。

かくしてこのままだと次の悪夢が成就する蓋然性が高いのだ。
さて、その朝鮮半島は、戦後に北と南に分裂しました。
ということは、チャイナと直接国境を接する北朝鮮の軍事的脅威を取り除くためには、基本的外交戦略としては、常に北と南が軍事的緊張関係にあることが大事となります。
北と南が敵対関係にあって、相互ににらみ合いの状態にあれば、中共にとっては半島による軍事的脅威を減少させることができるからです。ところが戦後に起きたもうひとつの大きな変化として、チャイナの海軍力の増強があります。
海上の国境線で見るならば、中共から見た日本は、東シナ海で国境を接する国、ということになります。
つまり海上の国境線でみるならば、日本はチャイナの隣国、という位置づけになるのです。するとどういうことになるかというと、日本は中共にとって、(海上で)国境を接する敵国という扱いになります。
その海上を奪う、あるいは海上の覇権を確立して中共の国力を増強するためには、簡単に言えば日本の西日本が日本から分裂して中共の傘下に組み込まれることが、中共にとって好ましい国家戦略となります。その手始めが琉球の独立運動であり、大阪都構想であるわけです。
GHQにより歴史を消去され、アイデンティティを失った国が日本である。極私的には歓迎はしないが、聖徳太子以降天皇は政治権力と切り離された祭司としての権威であった。明治憲法でこれが一体化され、その後の歴史は悲惨なものとなったが、おそらく天皇を排除してこの国は成り立ちえないであろう。共和制などは土台無理である。
ただ、極私的には今回、コロナ騒動のお陰で習近平の国賓来日が阻止され、香港問題でついにその可能性は消えた。こういった摂理的な事態によって、主が守ってくださっている感じがあるのだ。福島原発2号機がなぜか致命的な爆発をしなかった。原因はいまだに不明だそうだ。コロナでも感染者数も死亡数も圧倒的に低い。何か主の憐みのベールで被われている感覚を覚えている。
ハラリ氏が指摘した通り、人類は認知革命により共同幻想を共有することにより生存してきた。これが環境とダイレクトに本能によって関わる動物とは違う点である。共同幻想を持ちえない共同体は存立し得ないのだ。GHQは見事にこの共同幻想を消し去った。かろうじて、なぜか知らないが日本には天皇がいる、これって何?といった理解しか残っていない―現に私がそうだったように。
天皇をユダヤ教の祭司の末裔であるとして、聖書的根拠を与えようとする人々も、必死で自分自身のアイデンティティーの確立に努めているのだ。久保有政氏や再建主義の富井健氏などがその旗手である。極私的には物理的アイデンティティーは歴史の中における肉のものであるからさほど関心はない。エクレシアとは新しい一人の人、ニュークリーチャー、エロヒム属にして、キリストの充満である。
そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。-Col 3:11
われわれはジーザスが言われた通り、主と同様に世にはいるが、世のものではない(John 17:14)。このデュアリティに生きている存在がクリスチャンである。エクレシアは霊的にはエペソ1章23節で定義される通り、キリストの充満であり(Eph 1:23)、物理的には1コリント1章2節で定義される通り、いたるところで主イエス・キリストの御名を呼び求める人々である(1Cor 1:2)。
よってこの経綸に生きる間、世との接触は不可避であり、世の立場、世からの収入、世における資産なども必要なのだ。もちろん主は豊かに備えてくださることは言うまでもない。この意味で、この日本と言う国の在り方と行く末に大いなる憂いを覚えていることは否定できない。主がこの国と同胞を憐れんでくださるように! So be it!

主は牧者を散らすと言われてる。まことの牧者はジーザスただおひとり。

いつもの再建主義の富井氏の論。なるほど、契約的合一と存在論的合一の区別か。確か以前に、聖霊が来られるとき父と子は契約的に私たちの内に住まわれると主張していた。存在論的には、あくまでも地上には聖霊がおられるだけと。
要するに前から指摘しているように、いのちの面の理解が欠如しているわけ。私たちの霊はYahawehエロヒムにより分与されたエロヒム属の霊だ(1John 4:13)。それはYahawehの種であるロゴスから産み出された存在。ロゴスを内在化された者はエロヒムである(John 10:35)。
確かに今の旧創造に属するボディには罪(Sin)が残るが、それはすでに無力化されている(Rom 8:3)。そして今、私たちは神の義とされている(2Cor 5:21)[1] … Continue reading。そしてわれわれニュークリーチャーは律法に対して死んだゆえに、律法の下にはいない(Rom 7:6)。
私は聖書の真理を理解するために善悪を知る知識の木といのちの木の平面、すなわち経綸的側面と本質的側面と区別している。聖霊と人間の関り、イスラエルとエクレシアの関係など、この二面で理解する。すべては新しく生み出されたいのちの問題である。私のフレームから見ると、富井氏は経綸的な世界に生きていると言える。だから律法がクローズアップされ、本質的な質の変化もないと言う立場に陥るのだ。
というわけで、これも資料として採取させていただこう。
クリスチャンになったら、自分の本質そのものが変化し、もはや罪人ではなくなり、神の子になるのだろうか。
そうではない。
契約的合一と存在論的合一を区別しなければならない。そうしないと汎神論になる。
クリスチャンになることは、キリストの体である教会の一員になることを意味する。
キリストと教会は、「契約的に」合一しているのであって「存在論的に」合一しているのではない。
教会は、キリストではない。
「夫と妻は一人である」という教えは「夫と妻の二人は存在論的に一人になった」ということを意味しない。
人格はそれぞれ別である。
夫婦は「契約的に一人」なのである。
われわれがクリスチャンになり、キリストの体の一員になったからと言って、われわれがキリストそのものになるわけではない。
われわれが本質的に持っている自分の罪人としての性質が変わるわけではない。
それゆえ、われわれは、自分のことを罪人として自覚すべきである。
「クリスチャンになったらキリストの御体の一員になったのだから、本質が変化したので、もはや罪人ではない」という教えは、異端である。
「私と妻は一人である。だから私は女でもある」と言えないのと同じである。
契約的合一は、構成員の本質に変化を生じさせない。

エクレシアといわゆるキリスト教会はどう食い違うのか[1] … Continue reading。エクレシアとはキリストの充満(プレローマ)、つまりキリストご自身だ。これがエクレシアの霊的定義である[2]可視的エクレシアの定義は「いたるところで私たちの主イエス・キリストの御名を呼び求めている人々である」(1Cor 1:2)。。邦語訳(邦誤訳)で、その方の満ちておられる【ところ】とするから的外れ。彼らの理解では「ところ=エクレシア」であり「キリスト≠ところ」だから、「キリスト≠エクレシア」となる。それはハマルティア。日本語の呪縛から解かれよ!
このエクレシアとはキリストの体、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。-Eph 1:23
つまりエクレシアはキリストの充満(岩波訳、Eph 1:23)、ひとりの新しい人(Eph 2:15)。つまりキリストそのものだ。邦語(誤)訳で理解してはならない。

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。-1コリント12:12
パウロはここで「キリストの体の場合も同様」とは言っていない。「キリストの場合も同様」と言っている。パウロはキリストと体を同一視しているのだ[3] … Continue reading。お分かりになるだろうか、白いキリスト教神学の洗脳を受けているキリスト教徒の皆さま。
われわれはひとつの体の中へとバプテスマされたのだから。
For by one Spirit we were all baptized into one body-whether Jews or Greeks, whether slaves or free-and have all been made to drink into one Spirit. -1Cor 12:13 (NKJV)