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Dr.Luke的日々のココロ
タグ: エロヒム

呪いと裁きの善悪二元論の道から祝福と恵みのいのちの一元論の道へ回帰せよ-聖書と歎異抄の共通項-
FBで面白い画像を見つけた。John Rockの言葉である[1 …
FBで面白い画像を見つけた。John Rockの言葉である[1] … Continue reading。人に誤りを指摘することと、人に真理を得させることは別のことである、と。まさに律法と恵みの致命的相違である。

YHWHエロヒムはエデンの園の中央に二本の木を植えた。善と悪を知る知識の木といのちの木だ。アダムとエバの行為は繰り返すまでもないが、その結果として彼らはYHWHエロヒムのように「善と悪を知る者」になった(Gen 3:22)。そしてYHWHエロヒムは彼らが罪を得たまま永遠に生きることがないようにいのちの木への道を遮断された(Gen 3:24)。
アブラハムに対する約束は律法を超えてひとつの種、すなわちキリストだったのだ(Gal 3:16)。律法はアブラハムの430年後にモーセを通して天使らを介して与えられたが、アブラハムへの約束を無にすることはなかった(Gal 3:17)。パウロは「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです」(Gal 3:20)と指摘している。つまり律法は「人が神に従うならば神の祝福を得る」という双務契約であるが、恵みは「神がすべてをなす」という片務契約である。
ゆえにYHWHのロゴスたる方が物質化されて人となられた、つまり両当事者となってくださった(主客一体)。イエシュアは神・人(God-Man)である。これが恵みである。

そしてキリストたるイエシュアは死と復活を経て命を与える霊となられ(1Cor 15:45)、今やわれわれのうちに住まう(1John 4:13)。生きているのはもはやわたしではなくキリスト、肉にあって生きるわたしは御子のフェイスにあって生きる(Gal 2:20)。最初の「生きているキリスト」はスーパーナチュラルなスピリチュアル・リアリティ、「肉にあって生きている私」はナチュラルなフィジカル・リアリティだ。つまりわれわれはデュアル・アインデンティを有している[2] … Continue reading。
さて、ひるがえってわが国の親鸞の『歎異抄』にいわく、
みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ、さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも自行になすなり。
要するに善悪の二元論に生きることは、法則の不思議に頼らず、自分の心のやりくりに頼むことであり、自力の業である、と言うわけ。まさにクルシチャンの精神状態だ(苦行の道)。かくして親鸞の結論は
弥陀[3] … Continue readingの誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
弥陀の誓願不思議に助けられて生きることが極楽浄土への道であると。親鸞はそれを易行という。聖書的にはイエシュアのいのちの御霊の法則に助けられまいらせるわけ。まさにガラテヤ書の言うところである。これが神の国に生きるコツ。絶えず善悪の基準で計らって生きることは死の道、呪いと裁きの道、いのちで生きることは赦しと祝福の道である。

また親鸞は「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言ったが、イエシュアも言われる、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(Matt 9:13)。つまり「正しい人」は招かれないのだ。なんという神の逆説。
宗教の道にある人は自力により善悪を判断して、罪を犯さないように、キリスト教徒として正しく立派な振る舞いをして生きようとする(自力本願)。つまり招かれていないことを心底では知っているゆえに努めるのだ。しかし招かれていることを知っている人はそのようなモガキはしない。弥陀の誓願ならぬ神の意志により助けまいらされるからである(他力本願)。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。・・・事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。-Eph 1:4;2:8
ちなみに道元も自身の作為によらず法に乗る生き方をこう書いている、
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。-正法眼蔵現成公案
そしてわれらの主はこう言われる:
わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂の命(原語)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂の命(原語)を失う者は、それを救うのである。
鍵は魂の努めによらず、自己を忘れ、自己から離れること。まことに心身脱落・脱落心身するとき、いのちの御霊の法則が作動するのだ。すると、律法の要求も満たされる(Rom 8:4)。お分かりだろうか。それはうちなるキリストが働き出てくださることである。かくして主は言われる、
わたしが生きるのであなた方も生きる。-John 14:19
律法は単に善悪を指摘するだけであるが、キリストはその実体としてうちに生きている。まさにJohn Rockの言葉通りであろう。罪を指摘するのではなく(Rom 8:1)、義としてくださった(2Cor 5:12)。うちなるいのちなるキリストが生き出てくださること。そのために神であるロゴスは人となり(ヒュポスタティック・ユニオン)、両当事者として債権債務関係を全うしてくださった(Col 2:14)。まさに主客一体のリアリティーである。ウォッチマン・ニーは「われわれは自発的にキリストを私とせよ」と言っているが、まさにこのことである。
かくして今、うちなるキリストはフェイスにより実体化される。
フェイスのうちにあることを確認せよ、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。-1Cor 13:5(私改)
フェイスによってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。-Eph 3:17
フェイスの道は神の誓願(御心)により、うちなるキリストに助けまいらされる道、平安と安息、そして満足の道である。
References[+]
↑1 | 彼は経験論的認識論を提唱。人は生まれたままではタブララサ(白板)であり、経験により世界を認識するとする。対象そのものが持つ性質を第一性質、主観的なそれを第二性質とし、第二性質のみをわれわれは知るとした。現代的にはクオリアである。光の本質はある波長の電磁波であるが、脳はそれを色として構成する。まさに「色即是空」だ。 |
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↑2 | パウロは死の体から解放されて神に感謝すると叫んだ後、自分は肉では罪に仕えており、マインド(原語)では律法に仕えていると証言している(Rom 7:25)。 |
↑3 | 仏教はもともと礼拝対象を持たない。釈迦も人間であり、自分を礼拝するなと命じており、葬式などにも関わるなと戒めている。「弥陀」とか「法」と言うのは宇宙の法則。禅者はアダムにある人間の自然な法則に従って生きることを志向するわけだ。自分のはからいをやめて(=心身脱落)、「万法に証せられる」わけ。しかしキリストのいのちは得てはいないし、私たちの意味では救われない。救いはイエスの名によることは言わずもがなだ。その意味でユダヤ教が実体たるキリストの影であったように、「弥陀」も真理の「影」と言える。 |

白いキリスト教のボクシのいう罪赦された哀れな罪人メンタリティから解かれよ!

Anyone who becomes seriously involved in the pursuit of science becomes convinced that there is s spirit manifested in the laws of the universe, a spirit vastly supelior to that of man. -Albert Einsten
「科学を真剣に追求する者たちはみな、宇宙の法則の中にはある霊が存在することを確信させられる。それは人間の霊をはるかに越える霊である。」-アルバート・アインシュタイン
All matter originates and exists only by virtue of a force. We must assume behaind this force is the existence of a couscious and intelligent Mind. This Mind is the matrix of all matter. -Max Planck
「あらゆる物質はある力によって生み出され、存在するに至った。われわれはこの力の背後に意識的かつ知的なマインドの存在を認めなくてはならない。このマインドはあらゆる物質のマトリクスである。」-マックス・プランク
聖書にはこうある:
・初めに(=時間)神は天(=空間)と地(=物質)を創造された。-創世記1章1節[1]創世記の「初め」は時空間の開始点としての初めであり、ヨハネ福音書の「はじめに」は時空間を超えた永遠の領域におけるはじめである。
・神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。-ローマ書1章20節
・神は霊である。-ヨハネ福音書4章24節
・託宣/イスラエルについての主の言葉。すなわち天をのべ、地の基をすえ、人の霊をその中に造られた主は、こう仰せられる。-ゼカリヤ書12章1節
・信によって、わたしたちは、この世界が神の言葉(=レーマ)で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 -ヘブル書11章3節
最近の『超弦理論』では11次元時空間における膜構造をなすスーパーストリングの振動、バイブレーションが宇宙を構成していると言う[2]アイキャッチ画像は11次元のうち、丸まっている6次元空間。カラビー・ヤウ空間と呼ぶ。その性質はまだほとんどわかっていない。。聖書はすでに紀元前千年頃にこう言っている:
・その響き(=弦)は全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。-詩篇19篇4節
現代物理学の最前線では神の存在を認めざるを得ないのだ。この神とはYHWHエロヒム、エロヒムの中の最も高き存在Elyon、日本のアニミズム的「八百万の神」ではない[3]これらの神々も世界に配置されたエロヒムとも言える。。宇宙のクリエイター、創造主そのもの。最近は「サムシング・グレイト」によるID理論(インテリジェント・デザイン説)が欧米のサイエンティストに流行しているが、この存在は誰か。私の著書『神の新創造』ではこれらのアインシュタインやプランクの発言に応答する内容となっている。

Dr.Heiserの著書ともかぶる内容であるが、人類は三つの反逆をYHWHエロヒムに対して行っている。エデンの違反、ブナイ・ハ・エロヒムとの混交、そしてバベルの反逆である。これをその人間性においてリバースしたのがイエシュア・ハ・メサイアである。詳細はこちらを参照されたい。

TODAY’S CELEBRATION SEP 19, 2021:GPS-ゴッド・プロジェクション・システムII-主の定義したスーパーナチュラルなアインデンティティ
引用聖句:Exo 7:1;John 10:34-35;Jame …
- 引用聖句:Exo 7:1;John 10:34-35;James 1:18;1John 3:9;Rom 6:3;Eph 2:6;2Cor 5:17;Gal 6:15;Eph 4:24;2:10;Ps 45:2-18 etc.
- 2021年9月26日(日)(セレブ終了後バプテスマがあります)
- 場所:鶴見駅前ホール第一・二会議室
- 時間:13:00-17:00
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップ

ここでずっと紹介しているDr.Heiserの発言は、私の主張を見事に裏付けてくれる。彼は古代中東語七か国語に通じるハードコア・アカデミスト。スーパーナチュラルを説いているが、ペテンコステや聖霊派とはまったく関係ない。
Christian history and Christian thought is not the context of the biblical writers, and so it cannot be the correct context for interpreting what they wrote.#TheBibleUnfiltered
— Michael S. Heiser (@DRMSHPhD) June 5, 2021
彼の著書に基づいた私のセミナーはこちら。

はじめに神は天と地を創造された。聖書の冒頭の言葉であるが、これすでに罠である。ヘブル語原語は、Elohim(エロヒム)は天と地を創造された、である。エロヒムを神と訳した段階でいわゆる白いキリスト教神学が生まれる。エロヒムはEloah(エロア)の複数形であるが、これをいわゆる「三位一体の神」と同一視することが問題となる。聖書においてはエロヒムは多数存在するのだ[1]これはすでにDr.Heiserの著書を紹介しているので参照してほしい。
ここではひとつ例証を挙げておく。

われわれが信じているいわゆる神はYaHaWeH(I-AM)であり、最も高きエロヒムである[2]要するにエロヒムは生物学の分類のように霊的生命体のカテゴリーであり、ランクがあるのだ。。他のエロヒムはYaHaWeHにより各地に配置されたのだ。申命記32:8は通常-
いと高き者は人の子らを分け、諸国民にその嗣業を与えられたとき、イスラエルの子らの数に照して、もろもろの民の境を定められた。 -Deut 32:8
と訳されている。が、原文は「ブナイ・ハ・エロヒムの数に照らして」が正解である。つまりアダムの子孫を世界に配置したとき(cf. 使徒行伝17:26,Acts 17:26)、同時にブナイ・ハ・エロヒムをも配置されたのである。ブナイ・ハ・エロヒムとは「神々の子ら」と直訳できるが、要するにエロヒムが世界各地に配置されたのである。そしてYaHaWeHエロヒムの嗣業はあの地であり、ヤコブの子らであった(Deut 32:9)。YaHaWeHはかの地からご自身のいのちの増殖を開始され、現在ご自身のいのちを分与されたエクレシアとしてエロヒムの増殖が起きている。
体全体はこの頭によりもろもろの関節と靭帯を通じて支えられ、一つに結び合わされ、神〔に由来するところ〕の成長を実現してゆくのである。-Col 2:19(岩波訳)
この〔〕の部分は訳者による補充であり、脚注には「直訳は、神の成長を成長する」とある。田川訳はそのままに訳している。すなわちエロヒムの成長(増殖)を成長(増殖)する(☞詳細はこちらを)。いずれにしろ西方教会を経由した白いキリスト教神学などはすでにヘブル語の世界観からは逸脱していることは何回も繰り返しておく必要がある。
References[+]
↑1 | これはすでにDr.Heiserの著書を紹介しているので参照してほしい。 |
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↑2 | 要するにエロヒムは生物学の分類のように霊的生命体のカテゴリーであり、ランクがあるのだ。 |

そう、街は大きな鳥かごなのね、みんな飛べないの
人間の心理とは事に面白いものだ。貧困者がMMTを否定し、財務省の緊縮財政を是とし、クルシチャンが自分を縛る宗教の儀式や伝統を擁護する。かつて人質が誘拐犯に心理的な共感を覚える事件が起き、それをストックホルム症候群と呼ぶ。
1973年8月、ストックホルムにおいて発生した銀行強盗人質立てこもり事件(ノルマルム広場強盗事件)において、人質解放後の捜査で、犯人が寝ている間に人質が警察に銃を向けるなど、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取っていたことが判明した。また、解放後も人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行った。
人は、突然に事件に巻き込まれて人質となる。そして、死ぬかもしれないと覚悟する。犯人の許可が無ければ、飲食も、トイレも、会話もできない状態になる。犯人から食べ物をもらったり、トイレに行く許可をもらったりする。そして犯人の小さな親切に対して感謝の念が生じる。犯人に対して、好意的な印象をもつようになる。犯人も人質に対する見方を変える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ストックホルム症候群
悪魔は全世界を欺く者(Rev 12:9)。まことに世界(οἰκουμένη)は欺かれている。緑のタヌキが当たり前に当選するこの国。この世界には言わずもがなキリスト教なる宗教体系も含まれる。すなわちフェイクである。このフェイクの鳥かご(=マトリックス)の中で、ある価値基準に従って生き、その基準を満たすべく努力する。それがまったくハマルティア(的外れ)であったとしてもだ。
それどころか、自分を束縛し、自由を奪う者を擁護すらするようになる。自分の属する教団や牧師を懸命に守ろうとする。それはソレがその人のアイデンティティーの一部に組み込まれたことを意味する。つまり自分を擁護しているだけなのだ。自分の歩み、自分の達成、自分の記憶・・・・etc. われわれエロヒム属はキリストの達成と記憶により生きるのだが。
こうしてそのマトリックスの中で延々と過ごすことになる。啓示録12:9の全世界の単語”οἰκουμένη”の語源は”οἰκέω”であり、Strongによると-
to occupy a house that is, reside (figuratively inhabit, remain, inhere); by implication to cohabit: – dwell.
すなわち、居住する領域、つまりこの五感の領域である。この五感の領域はわれわれの五感のセンサーによって感知され、電気信号に変換され(コード化)、大脳においてデコード化されて知覚として内的に実体化される。これをクオリアと呼ぶ。このクオリアの集合体の体系-マトリックス-がその人にとってのパーソナル・リアリティーであり、その最大公約数的部分がいわゆる常識的世界観である。これが共同体とその文化や慣習からズレると、人格障害として、社会や他者との摩擦を生じるようになり、無意味なトラブルを生じる。
人はみなこのマトリックスの中に閉じ込められている。だから、コロナ怖い、マスクしよう、マスクしない奴は非国民だ、経済を止めても自粛、国が何もしなくてもひたすら忍耐・・・。ついに5月の消費動向指数は実質▲16.5%と脅威の数値を記録した。

失業率が1%上がると、自殺者数が2,300人程度増加する。今はUber Eatsなどのギグ・ワークにより日々食つなぐ若者が増加している。が、彼らは止まれない独楽のようなもので、長期の人生設計は描けない。こうして自分の体と魂を売っているのだ。まことにバビロンの商品は、金・銀・宝石・・・・・奴隷・人の魂とあるとおりだ(Rev 18:12-13)。
キリスト教も同じ。鬱病になる牧師は多いことはもはや常識だ。さらに自殺する牧師も増加しているようだ。コロナ騒動で食うに困る牧師も出ているらしい。そして彼らを援助することが近喫の課題とか叫ぶ向きもある。愚かしい、まずいラーメン屋のオヤジを誰が援助するだろうか。店をたためば良いのである。簡単な事だ。
(2021.06.05追記:ついに『牧師のリジエンスー逆境でも燃え尽きない再起力』なる本が出てしまった😱)
信徒も「かみっさまわ~」とヒスるワンパタンの説教を聞かされて、毎日曜日のお勤めをこなすことにより自分の信仰のアリバイを作っている。ある有名牧師が自分は50年間ただの一度も日曜礼拝を休んだことがない~と豪語していた。ま、ご勝手にどうぞだ。それも今回のコロナで見事にストップされた。日曜礼拝などに出る出ないはフェイスとは関係ない。聖書は「集まることをやめるな」と勧めているが、それは宗教儀式を守れと言うことではない。
ニッポン社会とニッポンキリスト教は合わせ鏡だとずっと指摘しているが、どちらも経済的デフレに霊的デフレで縮小するだけ。なにしろキリスト新聞がこのように証ししているくらいだ。

キリ新は絶滅危惧種、教会は限界集落。極私的には廃墟になるべしと前から言っている。まことの主の業はその廃墟から芽生えるのだから。キリスト教なるマトリックは消え去るのみ。かくして、鳥かごから飛び立ち、ケージから逃れる方法はフェイス。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質・実体)、まだ観測されていないことのエビデンス(証明・現出)である。-Heb 11:1(私訳)
エレミヤ16章にあるとおり、宗教の捕囚からの第二のエクソダスをせよ!

「地を治めよ」(Gen 1:28)-この原初的委託を今の経綸においていかに成し遂げるのか。いつもの再建主義の富井氏の論は次の通りである。
それは風呂場が神の国であり、その中のカビのコロニーがサタンの領域で、それをカビキラーで駆逐するようなものであると・・・。
さて、聖書はいかに語るか-
【賛歌。アサフの詩。】エロヒムは神聖な会議の中に立ち/エロヒムの間で裁きを行われる。
「いつまであなたたちは不正に裁き/邪悪な者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/邪悪な者の手から助け出せ。」
彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
わたしは言った/「あなたたちはエロヒムなのか/皆、エルヨンの子らなのか」と。-詩編82:1-6
エロヒムは霊的生命体の総称であることは何度も繰り返している。いわゆる白いキリスト教はこの概念を取り違えていわゆる一神教を生み出した。エロヒムは生物の分類の「ドメイン」とか「属」とか相当するメタ概念であり、その最も高きエロヒムがありてあるYHWH (EHYAH ASHER EHYAH) である。この詩編ではElyon (The most High)とされている。

この神聖な会議にはエロヒムが参加している。裁定を行うのはYHWHである。そしてわれわれエロヒムの霊をインプラントされて、エロヒムから生み出されたニュークリーチャーも参加するのだ。われわれ(の霊)はすでに栄光化されたエロヒムの霊。文字通りのYHWHエロヒムの子供である[1]われわれはエロヒムとして同じ生命をYHWH(父・子・聖霊)とシェアしている。が、YHWHとはパースンとしては異なることはすでに何度も述べている。。

天とは霊的領域であり、そこには諸々のエロヒムが存在する。地とはこの物理的五感の領域であり、霊的領域のリアリティーを<今・ここ>に実体化するパワーがフェイスである。そこで主は天を裂いて地に介入された(Mark 1:10)。すでにソドム・エジプト化されたキリスト教の「エロヒムの概念」を文字通りメタノイア(マインド・シフト)する必要があるのだ。オリジナルな聖書の啓示はマルチ・エロヒム・ワールドである(エロヒム自体が複数形)。
イエシュアは詩編82編を引用して言われた-
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたはエロヒムである』と書いてあるではないか。
エロヒムの言を託された人々が、エロヒムといわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。-John 10:34-36
ここの「託された」とある原語は”ginomai”であり、存在せしめる・内在化するの意味である。すなわちYHWHエロヒムの種(霊的DNA)を組み込む(infusion)ことに他ならない。
御父は、御心のままに、真理の言葉(ロゴス)によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。-James 1:18
肉から生まれるのは肉であり、霊から生まれるのは霊である。-John 3:6
神から生まれた存在は皆、罪を犯しません。神の種(sperm)がこの内にいつもあるからです。これは神から生まれたので、罪を犯すことができません。-1John 3:9
つまりわれわれ(の霊)はエロヒムの種を組み込まれており、われわれ(の霊)はエロヒムである。自分のアイデンティティーをしばしば肉(=体と魂とその在り方)においているのが、キリスト教徒である。これで再建主義のように、メーソンやイルミナティの陰謀を祈りによってモグラたたきのように駆逐することに追われるのだ。
エロヒム属としての統治の仕方は、まさにこの神聖な会議において開始される。この決議あるいは裁定を地において執行するのだ。別にわれわれがリキを入れて反逆の霊ども(彼らもエロヒムである)と戦うのではない。最も高きエロヒムの裁定を得て、それを宣告するだけ。この天と地はエロヒムの権威のネットワークであり、すべてエロヒムはYHWHエロヒムに服さざるを得ない。
ゆえにイエシュアはこう宣言された-
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」-Matt 28:18-20
われわれは神聖な会議の参加者(議員)として、このYHWHエロヒムのマトリックスとプロトコルに従って振舞うのみ。するとそれは自ずと現出する。これがフェイスであり、「天に御心がなるとおり地にもなるように」の実際であることは言うまでもない。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実体・実質)、まだ見ていないことのエビデンス(証明・現出)である。-Heb 11:1(私訳)

ここでも、メッセでも繰り返し指摘しているが、Elohimを「神」とか”God”と、YHWHを「主」とか”LORD”と訳してはならない。特に”God”は元々バビロンのいわゆる神の名称である。もとより「神」は日本の概念であり、聖書の原語におけるElohimやYHWHからは相当に離れている。
このElohimが霊的生命体の”residence”あるいは”domain”であることはDr.Heiserがその著書 “The Unseen Realm: Recovering the Supernatural Worldview of the Bible “において解き明かしていることはすでに私のセミナーでも紹介している。
これらの概念の差はいわゆるキリスト教の歴史の中で構成されたキリスト教神学が元凶であり、それはオリジナルの聖書のマトリックスとはかけ離れた人造のマトリックスである。
最近ではこのことが徐々に広まりつつあるが、たまたま発見したこのチャンネルは私とほぼ同じ見解である。
まずはElohimに関して-
最も高きElohimであるYHWHについて-
そして新しい霊的生命体としてのわれわれについて-
特にこのビデオでは、先に書いた通り、われわれが二つの領域-霊的領域と物理的領域-に生存する存在、デュアリティに生きていることを指摘している。
要するにクリスチャンとはキリスト教徒などではないのだ。教団や教派に属し、正統なキリスト教の教義を信じて、毎週日曜日の午前の正当な礼拝に出席して、立ったり座ったり、牧師の説教と祝祷を受けてお勤めご苦労様です、と。これは単なる宗教のマトリックスのプロトコルに過ぎない。
聖書は生命現象の書である。われわれはエロヒムの霊をインプラントされたニュークリーチャー。うちにはYHWHが住まい、特にキリストが生きて下さる存在。つまりYHWHのエミュレーターである(Eph 5:1)。
鳥のヒナは孵化したときに始めた見たモノを親鳥と刷り込まれる。ニッポンキリスト教で”生まれた”者はそこで初めて見たモノを「信仰」と刷り込まれる。これで延々とキリスト教の中で生かされることになる。
終わりの時代、YHWHエロヒムはこのような宗教のマトリックスからご自身のZOEをインプラントされたエクレシアを解き放とうとされていることを感じる。まことに一度言語の罠にハマるとそこから抜け出ることが困難であることは、ザイセイハタン論者がMMTを理解しないか、あるいはあえて拒絶することからもわかる。たとえそれが滅びへの道であったとしても。
真理を知り、真理はあなたがたを自由にする、ことを身を以って体験した者は幸いである。

いま、フェイスとは・・・で始まるヘブル書11章。旧約のいわゆる信仰の偉人たちのリストである。彼らを見てあなたはどう感じるであろうか。ああ、私など凡人の及ぶところではないと・・・。が、よく読んでほしい。最後の節にこうある-
さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちを外しては彼らが全うされることはない。-Heb 11:39-40
英語では、彼らは”without us”では完成されないのだ! WOW! 裏を返せば、われわれにより完成される。自分をこの英雄の業と比較してみよ。とてもではないが太刀打ちできない、と感じるであろう。しかし、主もこう言われる-
あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。-Luke 7:28
お分かりだろうか。これは業の問題ではない、存在の問題である。旧約の英雄たちは信仰によって義とされ、証しされたが、「約束のもの」は受けなかった。それは何か?
いのちである。ZOE、非受造のYHWHエロヒムのいのちである。エデンの園において善悪を知る知識の木と永遠のいのちがあった。YHWHエロヒムは人類にどちらを採ってほしかったのであろうか? アダムは種に従って創造されたのではない。YHWHエロヒムの形(image)と様(likeness)に従って創造された。すなわちYHWHエロヒムのimager(Dr.Heiser)であり、mirror(The Mirror Bible)であるはずだったのだ。しかし・・・・。
このいのちの実体として、YHWHエロヒムのサブスタンスが形をとって宿った存在として、YHWHのロゴスなるジーザスは人間性を取られた。そして死と復活を経て贖いを終え、昇天、着座された。この全プロセスにはわれわれも含まれている(☞包括の原理について)。
それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び無効となり、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。-Rom 6:3-8
それは完了した(John 19:30)。これこそが、旧約の聖徒とわれわれを区別するキーワードである。われわれはキリストに「結びついて」、キリストの経験をすべてシェアしているのだ。この単語は”sunphutos”、”sun”(共に)+”phuo”(発芽する・成長する)である。KJVでは”implanted together”、「共に植え込まれた」である。
キリストの内に〔こそ〕神性の全き充満が形態化して宿っており、あなたがたはキリスト-すなわちあらゆる支配と権威の頭-にあって満々と満たされているのだから。-Col 2:9-10(岩波訳)
極私的にはAmplified Classicの訳を好んでいる-
9 For in Him the whole fullness of Deity (the Godhead) continues to dwell in bodily form [giving complete expression of the divine nature].10 And you [f]are in Him, made full and having come to fullness of life [in Christ you too are filled with the Godhead—Father, Son and Holy Spirit—and reach full spiritual stature]. And He is the Head of all rule and authority [of every angelic principality and power].
この[f]とある注はVincentによるものだが、次のようにある―
Rev., made full…. Not, ye are made full in Him, but ye are in Him, made full. In Him dwells the fullness; being in Him, ye are filled.
詳訳聖書も参考までに紹介しておく-
というのは、彼のうちにこそ神性の全充満<神という方>が肉体の形をもっていつまでも宿られる<神性の完全な表現がなされている>からです。そしてあなたがたは彼のうちにあり、満ち満ちた者とされる<満ち満ちたいのちになる>のです<<キリストにあってあなたがたもまた、神、すなわち父、子、聖霊に満たされ、霊的に完全な身たけに達するのです>>。また、彼は、すべての支配と権威<あらゆる天使的主権と力>のかしらです。
このキリストの内にインプラントされることにより、YHWHエロヒムのいのち、ZOEにより満たされ、完成されているのだ。それは業の問題ではなく、存在の問題である。まさに、これを旧約の偉人たちは得ることができなかったのだ。
エクレシアはすべてにおいてすべてを満たす方の充満である。-Eph 1:23
東方キリスト教では、西方キリスト教神学で言う「聖化(sanctification)」に代えて「神化(Theosis;Deification)」と呼ぶ。ウォッチマン・ニーの正当な後継者であり現代唯一の預言者と自称したウイットネス・リーは、「神性と人性が混ざり合って(mingling)、教会は礼拝対象としての神格を持たない神になる(さらに、父・子・聖霊と教会は四位一体であるとまで!)」と説いた。「二性を混ぜる」とか「神格を持たない神」とはほとんど意味不明である。
彼も白いキリスト教のマトリックスをエクソダスできていなかったのだ。エロヒムを「神・God」と、YHWHを「主・LORD」としたことが罠である。エロヒムとは霊的生命体の分類名(ドメイン)である。
All beings called elohim in the Hebrew Bible share a certain characteristic: they all inhabit the non-human realm. By nature, elohim are not part of the world of humankind, the world of ordinary embodiment. Elohim—as a term—indicates residence, not a set of attributes; it identifies the proper domain of the entity it describes. Yahweh, the lesser gods of His council, angels, demons, and the disembodied dead all inhabit the spiritual world.
https://theremnantradio.com/wp-content/uploads/2019/12/Theosis.pdf
エロヒムには諸々の霊的エンティティが存在する。その中の最も高きエロヒムがYHWHである。Yahawehと母音を振っておくが、この霊的存在が、父・子・聖霊にいますエロヒムである。YHWHはエロヒムであるが、エロヒムだからと言ってYHWHとは言えない[1] … Continue reading。この概念は白いキリスト教では無視されている。これが白いキリスト教の諸問題のルーツでもある。
すなわち、われわれキリストの死と復活にインプラントされて霊が再生され、YHWHの霊的DNAをインヒュージョンされた者は、エロヒムなのだ(正確にはわれわれの霊)。Dr.Heiserも「現経綸ではこの神聖な霊が肉(flesh=体と魂)の中に埋もれている」と言う(☞Do We Become Gods? A look at Theosis with Dr. Michael Heiser)。
われわれ(の霊)はYHWHエロヒムのDNAをインプラントされたエロヒムであり、YHWHとはパースンは異なるが、同じ生命体として存在している。これはヨハネ10章においてジーザスが証しされる通りである-
神のロゴスを内在化された者たちはエロヒムと呼ばれている。-John 10:35
HRBにおいてはこの個所についてこう注釈する-
It is the wonderful potential of human beings to repent of their sins and be baptized in the family name of YHWH and have an elder lay hands on them for the receiving of the Ruach H’Chodesh (Holy Spirit) and become a literal child of Elohim.
Dr.Heiserは次のように言う―

エロヒムを「神々」と訳してはならないのだ。ヘブル語の生の意味で理解する必要がある。使徒たちはこう証ししている-
神から生まれた
人存在は皆、罪を犯しません。神の種がこの人存在の内にいつもあるからです。この人存在は神から生まれたので、罪を犯すことができません。-1John 3:9[2]存在としたが、原語は”pas”、「すべて」である。
ここを「人」とすることが罠であることはすでに指摘している(☞神の新創造:神の霊的遺伝子工学)。

御父は、御心のままに、真理の言葉(ロゴス)によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。-James 1:8
イエスがメシアであると信じる存在(pas)は皆、神から生まれたました。-1John 5:1
信じる機能は私の肉(soul-body complex=魂・体複合体)のものではなく、霊のものである(☞フォティーゾ:霊的光の感光)。ここで重要なのは霊と魂の分離である(☞霊と魂の分離について)。フェイス(何度も言うが「信仰」とは言いたくない、あえて言えば「信」あるいは「信覚」)とは「我はナントカを信ず~」と言ったものではない。
いま、フェイスとは望まれるサブスタンス(実体・実質)、まだ観測されていないことのエビデンス(証拠・現出)である。-Heb 11:1(私訳)
われわれニュークリーチャーはその実質としてZOEをインプラントされているエロヒム属である。ただし、魂はメタモルフォーシスによりキリストのそれに同形化されつつあるが、体の贖いは携挙の時である。霊はすでに(already)神性をシェアするパーフェクトな存在、魂はキリストのそれを再現しつつあり(being)、体は未来においてキリストの霊の体と同じ体に変えられる(will be)。この三つの時制が、時空間にあって生きているエクレシアの理解には不可欠である。
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。-Rom 8:23[3] … Continue reading
かくしてYHWHエロヒムのロゴス(sperm,種、DNA)を撒くとき、われわれはエロヒム属を刈り取る。こうしてエロヒムが増殖するのである(☞エロヒムの増殖)。
この頭の働きにより・・・神の成長を成長する。-Col 2:19(田川訳、岩波訳注)
これは「神」ではなくエロヒムが適切であることは言うまでもないが。これこそがYHWHエロヒムのエコノミーである。

いつもの再建主義者の主張―
聖書の思想、つまり、神の思想の中心は契約である。
神は契約的な存在であり、契約は神の本質である。
3人の神々が契約によって一人として存在される。
・・・
神は互いに異なる存在であるが、契約によって合一しておられ、そのことを男女の結婚を通じて啓示しておられる。
・・・
個人と集団の二つを両立させるにはどうしたらよいだろうか。
「契約を守る」ことである。
集団の利益のために個人の権利を制限し、調整するような契約を作り、それをメンバーが厳守するならば、その社会は発展する。
なぜならば、それが神ご自身のあり方だからである。
神は、個々の位格が全体のために働き、契約を完璧に守られるので、個性を犠牲にすることなく全体が完全に調和して働いておられる。
キーワードは「契約」。すべては契約的になのだ。YHWHの三一性も、われわれがキリスト族またキリストの体とされたのも、父と子がうちに住まわれるのも契約によるのだ。
対して、私は言おう―聖書の中心はいのちであると。アダム系のいのちからキリスト系のいのちに死と復活を通して転換され、その霊の中にいのちとしてYHWHを得ている存在がニュークリーチャー、エロヒム属であり、キリストのうちにインプラントされて、同じDNAを共有するキリストの体の肢体とされた存在がエクレシアである。
エクレシアとはすべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満である。-Eph 1:23
この方とはキリスト。キリストはいのちであり、このいのちの充満こそがエクレシアである。たい焼きは餡子の充満と言ったら、たい焼きの本質は餡子である。同様にエクレシアとはキリストの充満であると言ったら、エクレシアの本質はキリストである。すなわちいのち(Zoe)そのものである。
あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。-ヨハネ17:22
ここの「ひとつ」とはVincentによれば-
hice:One (ἕν)
The neuter, not the masculine εἶς, one person. It implies unity of essence, not merely of will or of power.
意志とか能力のだけではなく、エッセンスの同一性である。それはすなわちいのちの共有そのものである。契約は単に意志と能力の一致を意味するが、それを超える父と子のあり方がこの「ひとつ」である。
そして新約におけるキリストの祭司制については-
というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。-ヘブル7:14-17
キリストは律法、すなわち旧契約によって立てられたのではなく、いのちの力によって立てられたのだ! そして旧契約は廃棄された(Heb 7:18)。お分かりだろうか? キリストは律法の中に生まれ、割礼を受け、律法を完全に守られた。が、その祭司としてのアイデンティティーは律法に基づかないのだ! それはいのちに基づいている!
YHWHエロヒムはそのキリストを与えれることをアブラハムに約束された。その約束は430年後に入った律法により無効にされなかった(Gal 3:16-18)。アブラハムへの約束(契約)はいのちなるキリストを与えるためのものである。そのキリストは今やいのちを与える霊として(1Cor 15:45)、私たちのうちに住まい、私に代わって生きて下さる(Gal 2:20)。それはいのちの御霊の法則によるのであり、この法則に乗って生きる時、自動的に律法の精神も満たされるのである。
かくして、聖書、特に新約における中心テーマはいのちである。
追記:その後、富井氏からこのような反応があった(ここを意識したのか否かは不明だが)。
神のご計画では、いずれディープステートは解体され、代わりに再建主義のクリスチャンが政権を取る。
クリスチャンになるということは、新しい創造である。
クリスチャンは、アダムが土から造られたように、まったく新しく造られたのである。
もはやアダムとの契約は切れた。
契約的にアダム族ではなくなった。
それゆえアダムが負った運命である「永遠の死と刑罰」から解放された。
イエス・キリストは、マリアの胎の中で御霊によって創造された。
イエス・キリストは、アダムとの血縁関係はない。
それゆえ、イエス・キリストにつくわれわれも、アダムとの血縁関係はない。
ただし、この離縁は「契約的に」である。
実際にわれわれの肉体はアダムから引き継いでいる。
われわれの肉体は「死ぬべきからだ」である。われわれがそれを脱ぎ捨てて、新しい「御霊のからだ」を与えられるまで、新創造は「契約的」であって「実際的」ではない。
新創造は認めるも、それは実際的ではなく、契約的であると。意味がよく理解できないが、私の理解はこうである:
霊はYHWHが分与してくださった再創造されたエロヒムの霊であり、パーフェクト(Heb 12:23)。魂(思い・感情・意志)はメタモルフォーシスの過程にあり(Rom 12:2;2Cor 3:18)、体は旧創造に属し、これは主の再臨の際に瞬時に霊の体に変貌する(1Cor 15:51-52)。つまり、魂は新創造と旧創造の狭間に生きているのだ。ゆえにパウロが、自分は地上の幕屋(体)の中でうめいていると証しするとおりである(2Cor 5:2)。だから、再臨を待ち望むのだ(Rom 8:19;23)。
なによりも、フェイスはサブスタンス(実体・実質)である(Heb 11:1)。新しい共同訳でもようやくそうした模様だ。
ところが再建主義ではすでにAD70年に(最初の)再臨と(集団的な)携挙も起きている。今の我々にとっての携挙とは肉体の死であり、死後に霊の体を与えられる、と言うわけである。すると、地上に生きている間は契約的であり、死後は実際的であると言うのであろうか?

というわけで、エロヒム属であるニュークリーチャーたるわれわれはI-AMによって定義されているのだ。I-AMとはYHWH。最も高きエロヒム。そのいのち(Zoe)をインプラントあるいはそのDNAをインヒュージョンされて存在=i-am=である。Yahaweh家に産み出されたエロヒム属である。
繰り返すがエロヒムは霊的生命体のカテゴリー(Dr.Heiser)。それは「神」とか”GOD”と訳した結果、いわゆるキリスト教ができてしまったのだ。
というわけで、大拙の真似をすればニュークリーチャーとは”AS-I-AM-NESS”と言える。ヨハネ10:34「ロゴスを内在化された者たちはエロヒムと呼ばれている」に対して、HRBは次のようなコメントを入れている。
This psalm is talking about mankind’s great potential to become a literal child in the family of Yahweh.
如。それは主体と客体がひとつになること。われわれはI-AMとひとつ。キリスト【を】信じるのではなく(対格)、御子【の】フェイスによって生きる(属格)。それはキリストの息吹きを呼吸することだ。
霊とは息、息とは自分の心。心はその人そのもの、呼吸はその人のあり方の表現。長生きは深くてゆっくりした呼吸(長息き)による。かくして霊的呼吸は心を整える。あなたの心を見張れ、いのちのすべてはそこから湧き出でる。

御子はYahawehのフェイスである-Dr.Luke from Luke Osamu Karasawa on Vimeo.
聖書はすべてYahawehエロヒムの証しである。

いつもの再建主義の富井氏の論。多分に疑問は感じるがオモシロイので、CLIPさせてもらおう。日本が「回復された真のイスラエル」であり、日本人はユダヤ人であるというわけだ。
まず旧約のユダヤ教徒が日本に到達し、それが物部氏。神道の基礎を据えた。次にユダヤ人で新約の原始キリスト教徒の秦氏が到来し、日本文化の基礎を構築した。しかし、その後藤原氏が表に立ち、彼らは裏に回っている。いずれその逆転が起きる。そのことがカゴメ歌で予言されている・・・。
そして聖書的キリスト教が広まれば、元々IQの高い日本人が世界をリードするとも。
統治主義の再建主義とフィットする魅力的な説であるとは思う。が、そもそも黙示録の成立時期がAD70前であることはほとんどあり得ないし、再建主義自体が崩壊するわけで。民族的(=肉的)なアインデンティティは、ネオ・ホモサピエンスであり、ニュー・ブリードであり、エロヒムであるわれわれには何も意味がないのだ。ユダヤ人が日本に到来していたこと、日本人のDNAとユダヤ人のそれが共通性を持つことなどは認めるにしても、So What?なのだ。
日本人とユダヤ人の類似性と相違性についてはこちらの私の論文を参照されたい。
tomi 2020/01/18(土)03:56
裏が表に回る時代が到来した
>実は原始キリスト教が日本に伝播されていた可能性は非常に高いと思います。
まさにそうです!このご理解に達した方はまだごくごく少数ですが、今後、広まると思います。
>時系列がだいぶおかしくなりますが、日本各地の国譲り、これは先行して渡来していたイザヤの末裔、イザナギ、イザナミの末裔がダビデの蘖であるイエスキリストとの血統、戻りますがダビデの血統に「国」を譲った事だとしたら筋が通る事柄が多いと思います。
まったく同意します。ペルシャによってバビロン捕囚から解放された離散ユダヤ人であった秦の始皇帝の配下である徐福が物部氏の祖ですが、おそらく彼らはユダ族ではなかったのではないでしょうか。後に、神武天皇というユダ族の末裔が秦氏として渡来して、国譲りが行われたと考えるとつじつまが合います。
>日本の国譲りには大きな交戦をせず行われた事柄が多いと思います。それは「血統を何よりも大切にする」(混血をするな、または選民思想)ユダヤ思想のなせる業なのではと思います。
そのとおりですね!!!
>それと、この当時の「国」というのは今でいう一種の「宗教団体=政」だったと考えれば、由緒による国譲りが大きな交戦無くして行われた事の根拠にもなります。
まさに。
>先行して渡来していたユダヤ教は原始キリスト教に「宗教団体=政」を譲ったのかもしれません。
物部神道は旧約の信仰に則り、かつて動物犠牲をしていたらしい。それを新約の信仰であった秦氏が禁止した。その禁止役として使わされたのが禰宜だと言います。秦氏以降、動物犠牲の本質であるイエス・キリストの犠牲を象徴する「赤い鳥居」が設置された。
>それと、1500年~江戸時代にかけての比較的新しい「観音様」の裏側にイエスキリストが描写されているケースが多いって知ってました?(笑)観音様のポーズってイエスの描写と似てません?
空海が景教の寺院で洗礼を受けましたが、師匠である惠果和尚が「聖徳太子の日本が本場であるからこれ以上教えることはない。日本のために帰国しなさい」と言ったと聞いたことがあります。
聖徳太子の母親穴穂部間人皇女はペルシャ人でした。間人=波斯人=ペルシャ人ですから。ペルシャには離散ユダヤ人が多数おり、聖徳太子はユダヤ人ではなかったかと思います。誕生伝説もキリストそっくりです。
>キリスト教はご存知の通り敬虔なクリスチャンになると「信仰を語るな」誰もいない一人の部屋で主に祈りなさいとなります。
イエスは「すべての造られた者に福音を伝えよ」と言われたので、信仰を語るなとは言われていません。
>神社のみならず、「仏教を装った隠れキリシタン」はかなり多くあると思います。
そう思います。物部氏と秦氏は現在裏に回っており、藤原氏(中臣氏)が前面に出ていますが、これがひっくり返る時が来ると思います。それがカゴメ歌において予言されています。
籠神社の宮司が「伊勢神宮(中臣系)に頭を押さえつけられている」と言っていました。
しかし、八咫烏によると、「いずれ外部から解き明かしをする者が現れ、日本の真の国体が原始キリスト教であるということが明らかになる」と彼らは信じており、それが現在ではないかと思います。
>これこそまさに「本当の事は表に出ない」となり、聖書やユダヤ、キリスト思想をよく理解していない人達がやたら「陰謀論」的な事を語るのかと思います。
まさにそのとおりですね!!!
八咫烏によると、これまで仏教などでカモフラージュされてきたのが日本という国です。
日本は「裏を見ないとわからない」国仕掛けがされている。
>思考の根底に思想理解が無いから理解出来ず、謎が多くなり、陰謀だ!となるのかと思います(笑)
そう思います。


あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちはエロヒムである』と書いてあるではないか。Yahawehの言葉(ロゴス)を内在された人たちが、『エロヒム』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。-ヨハネ10:34-35(Dr.Luke改)
御父は、御心のままに、真理の言葉(ロゴス)によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。-ヤコブ1:18
Dr.Heiserの言葉にある”like”を日本語的に理解してはならない。AとBは本質的に異なるものであるが両者は似ているとするのが日本語のマトリックス。しかしLongmanではこう解き明かす:
like – with the same or similar qualities; of the same type
質が同じ(似ているも含むが)あるいは同一のタイプを意味する。つまりわれわれはジーザスと同じ質を有するのである。それはエロヒムであることだ[1] … Continue reading。エロヒムを「神」と訳すことが罠であるとすでに何度も指摘している。エロヒムとは霊的生命体の総称であり、その最も高き方がYahaweh=父・子・聖霊=である。
私たちはその方のロゴス(DNA)を継承しているエロヒムであり、Yahaweh家の子供なのだ。もちろんパースンとしてはYahawehとは異なる。これは同じ家庭に生まれても両親とはパースンを異にするのと同様。しかし同質のDNAを内在化され同じ生命をシェアしているのである[2]2016年2月の時点では私自身エロヒムの理解が十分ではなかったため、「神属人類の誕生@YouTube」という表現をしている。。繰り返すが、ニッポンキリスト教の「罪赦された哀れな罪人」のセルフイメージを捨てよ[3]クリスチャンなる呼称もそろそろ適さないかもしれない。ニュー・クリーチャーである。もちろんキリスト教徒などは論外である。。
References[+]
↑1 | われわれは体・魂・霊からなる。体‐魂コンプレックス(=肉;flesh)は地上のものであるが、霊はジーザスとまったく同じに世のものではない。それはエロヒムである。 |
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↑2 | 2016年2月の時点では私自身エロヒムの理解が十分ではなかったため、「神属人類の誕生@YouTube」という表現をしている。 |
↑3 | クリスチャンなる呼称もそろそろ適さないかもしれない。ニュー・クリーチャーである。もちろんキリスト教徒などは論外である。 |

いつもの再建主義の富井氏の論。なるほど、契約的合一と存在論的合一の区別か。確か以前に、聖霊が来られるとき父と子は契約的に私たちの内に住まわれると主張していた。存在論的には、あくまでも地上には聖霊がおられるだけと。
要するに前から指摘しているように、いのちの面の理解が欠如しているわけ。私たちの霊はYahawehエロヒムにより分与されたエロヒム属の霊だ(1John 4:13)。それはYahawehの種であるロゴスから産み出された存在。ロゴスを内在化された者はエロヒムである(John 10:35)。
確かに今の旧創造に属するボディには罪(Sin)が残るが、それはすでに無力化されている(Rom 8:3)。そして今、私たちは神の義とされている(2Cor 5:21)[1] … Continue reading。そしてわれわれニュークリーチャーは律法に対して死んだゆえに、律法の下にはいない(Rom 7:6)。
私は聖書の真理を理解するために善悪を知る知識の木といのちの木の平面、すなわち経綸的側面と本質的側面と区別している。聖霊と人間の関り、イスラエルとエクレシアの関係など、この二面で理解する。すべては新しく生み出されたいのちの問題である。私のフレームから見ると、富井氏は経綸的な世界に生きていると言える。だから律法がクローズアップされ、本質的な質の変化もないと言う立場に陥るのだ。
というわけで、これも資料として採取させていただこう。
クリスチャンになったら、自分の本質そのものが変化し、もはや罪人ではなくなり、神の子になるのだろうか。
そうではない。
契約的合一と存在論的合一を区別しなければならない。そうしないと汎神論になる。
クリスチャンになることは、キリストの体である教会の一員になることを意味する。
キリストと教会は、「契約的に」合一しているのであって「存在論的に」合一しているのではない。
教会は、キリストではない。
「夫と妻は一人である」という教えは「夫と妻の二人は存在論的に一人になった」ということを意味しない。
人格はそれぞれ別である。
夫婦は「契約的に一人」なのである。
われわれがクリスチャンになり、キリストの体の一員になったからと言って、われわれがキリストそのものになるわけではない。
われわれが本質的に持っている自分の罪人としての性質が変わるわけではない。
それゆえ、われわれは、自分のことを罪人として自覚すべきである。
「クリスチャンになったらキリストの御体の一員になったのだから、本質が変化したので、もはや罪人ではない」という教えは、異端である。
「私と妻は一人である。だから私は女でもある」と言えないのと同じである。
契約的合一は、構成員の本質に変化を生じさせない。

YHWHエロヒムは言葉=情報=によりすべてを創造された。すなわち生命は情報つまり言語である。その言語は4つの塩基配列。3つづつがコドンとして原則的に1つのアミノ酸に対応する。そしてアミノ酸の配列がタンパク質。
DNAの塩基はA-T(U)、C-Gとペアを作る。さらに相同染色体がペアを作る。必ず“連れ(Mate)”がいるのだ。まことにイザヤ書にあるとおり。聖書はキリスト教の経典でもないし、倫理や道徳の書でもない。【生命現象の書】である。すなわちスピリチュアル・サイエンスだ。聖書をキリスト教なるマトリックスから解放せよ!
主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ、主の霊が集めたものだからである。-イザヤ34:16
$$
-e^{i\pi }=1
$$
円周率とネイピア数と虚数単位は自然界を記述する数学の基本定数である。次のように1は分解できる。まさに三位一体を象徴する(☞iPAIの覚醒@YouTube)。これがわずかでも狂うと宇宙は崩壊するのだ。

ここで「神」に当たるヘブライ語elohimは、eloah(神)の複数形である。
https://biblehub.com/…
つまり、直訳すると「神々」なのである。
しかし、「仰せられた」に当たるwayyomerは、動詞amarの三人称単数。
主語が複数なのに、述語が単数。
明らかに「三位一体」を啓示している。
さらに、
「さあ人を造ろう」の「造ろう」に当たるnaasehは、動詞asahの一人称複数。
神々の間での相談と合意があったことを示している。
この一節だけで、神は存在論的に複数、契約的に単数であることがわかる。
この事はすでに私の『神の新創造-自然法則を超えるマインドのパワー』でも指摘しているし、 エロヒムの概念と日本語の「神」あるいは”GOD”はずれていることはすでに指摘している。
エロヒムは霊的生命体の総称であり、もっとも高きエロヒムが父・子・聖霊、その御名がYahawehだ。それを「主」とか”LORD”と訳してはならない。エロヒムはYahaweh以外にも存在するし、われわれの霊もエロヒムである。
つまり「エロヒム」とは生物分類学の「門」とか「属」に相当するメタ概念なのだ。もう一歩だね。
契約的にひとつではなくて、いのちにおいてひとつなのだ。