iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
タグ: サブスタンス

- 引用聖句:;Heb 1:3;4:3;Isa 11:1;60:21;Eph 2:10;Ps 139:15-16 etc.
- 次回:2023年2月19日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

これは興奮しますね、昨年のノーベル賞のテーマ、ベル方程式の破れ。それは局所的実在性というより、実在性そのものが壊れていることの証明であるとHotta先生。
一方で、素粒子物理学の加速器実験では、10のマイナス18乗メートル程度の微小な世界でも、局所性を保つ相対論的場の理論で正確に記述されていることが、既に知られています。したがってフェアな実証科学的立場をとるのならば、ベル不等式の破れは、局所性ではなく実在性が壊れていることを意味します。
— Masahiro Hotta (@hottaqu) January 6, 2023
では、なぜ宇宙は、またわれわれは”存在”するのか。聖書的に言えば、世界(アイオン)がYHWHエロヒムのレーマによりフレーム化されたように、現在も御子のレーマによって支えられているのだ。
彼(御子)は神の栄光の反映(流出)、〔神の〕実体の刻印であり、その力ある言葉(レーマ)によって万物を担っており・・・。-Heb 1:3(岩波訳)
つまりYHWHエロヒムのレーマの流出と反響がこの宇宙を成り立たせている根源である。それはYHWHエロヒムのバイブレーション。
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌 もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
この日はかの日に語りつたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響き(=バイブレーション)は全地にあまねく、その言葉(=ミレー)は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。-Ps 19:1-4
この宇宙には五感では知覚されずとも”何か”が満ちており、伝搬している。つまりYHWHエロヒムの弦の振動としてのマトリックスなのだ。それと感応して、受信すること。そして語り出すこと。これがフォティーゾである。それはうちなるいのちを与える霊となられたキリストを知ることである。
それは彼らの心が励まされ、愛において一つに結び合わされ、満ち溢れるばかりの、まったく欠けるところのない豊洞察に、神の奥儀の認識に、〔すなわち〕キリストの〔認識〕に至るように〔と願ってのことである〕。この方の中に知恵と知識のすべての宝隠されている。・・・キリストの内に〔こそ〕、神性のまったき充満が形態化して宿っており、あなたがたはキリスト-すなわちあらゆる支配と権勢の頭-にあって満々と満たされているのだから。・・・体全体はこの頭によりもろもろの関節と靭帯を通じて支えられ、一つに結び合わされ、神の成長を成長するのである。-Col 2:2-19(岩波訳)
その時、あなたはソレをゲットする! 2023年、あなたの思いが形になって現出する年である。

今年のノーベル賞の受賞テーマの一つがエンタングルメント(量子もつれ)の立証だった。波動関数を共有するふたつの量子が時空間を超えて相関するというものであるが、これで局所的実在性が否定されたのだ。つまり時空間に存在するものであれば、相対性理論によって支配されるので、互いの情報は光速を超えて伝達することは不可能。ところが量子もつれの状態にある量子は高速を超えて互いに関係し合うことができることが証明されたのだ[1]このためアインシュタンインはSpooky(気味の悪い)減少だとため息をついた。
白いキリスト教神学の論争にカルバンVSアルミニウスなるものがある。救いは神の定め(確定論)によるのか、人間の自由意志によるのか(偶然論)と争って、互いに異端~とやりあっている愚かなテーマである。これについてはかつて再建主義の故富井氏とディスカッションしたことがある(⇒ログ)。
結論を言えば、判断不能。人間の認識能力には確定と偶然を識別することは不可能なのだ(⇒過去関連記事)。さらにいわゆる自由意志なるものが幻想であることも分かってきている。
では救いとは何だったのか。かつてこんな記事をモノしたことがあるが、さらに進んで議論したい。
エンタングルメントなる現象は確定していない2つの量子状態の重なりが観測によって確定するとするものだが、スピリチュアルな経験もまったく同じ。救われた状態と救われてない状態が霊的領域では重なりとなっており、私がフェイスした瞬間に救われた状態が私において確定する。フェイスは聖霊のプロンプトに私が応答した結果である。自由意志と思っているものは実は後付けなのだ。
われわれはキリストとスピリチュアルな波動関数を共有し、エンタングルメント(もつれ状態に)されている。よってイエシュアは言われた、「地で解くことは天でも解かれており(完了形)、地で縛るものは天でも縛らえれている(完了形)[2] … Continue reading」(Matt 16:19)。それは時空を超えたスピリチュアル・リアリティあるいはサブスタンス。YHWHのわざは天地創生のときより完成されている(Heb 4:13)。われわれは肉体にておいてはこの物理的な五感領域に生きているが、霊においてはすでにキリストとともに御座についている(Eph 2:5)[3]だからパウロは肉体的には離れている者を霊においてっ裁くことができたのだ(1Cor 5:3)。。まさにエンタングルメントである。
重なり状態にある量子は観測によってひとつの状態に確定する。それと同様にあらゆる可能性の重なり状態としてスピリチュアル・サブスタンスは存在しているが、それをフェイスはこの五感の領域において確定する。それがわれわれの経験である。
いま、信(フェイス)とは願われる実質(サブスタンス)、まだ観測されていないこと(プラグマ)の現出(エビデンス)である。-ヘブル11:1(私訳)
キリストとエンタングルメントし、御子の信(pistis)のうち(en)に生きるってこんな安楽はないでしょう。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信のうちで、生きているのである。-Gal 2:20(改)
邦誤訳の問題点はすでに指摘しているが、たとえば「洗礼」なる訳語も大変にまずい。これは単なる儀式だ。真理はバプテスマ、それは浸し込むこと。我々はキリストにインプラント(Gk.sumphutos)されたからキリストとひとつ(Rom 6:5;1Cor 6:17)。
そもそもフェイスは霊(2Cor 4:13)(☞過去記事群)、エンタグルメントによりキリストと私はその霊を共有している。「使徒信条告白~」なんてものは単なる式文に過ぎない。
かくして私たちはキリストとバイブレーションを共有しているだけでよいのだ(☞バイブレーションについてhこちらの記事群を参照)。
その時、聖霊は霊の感光またプロンプト(促し)を与えてくださり、それに応答する形(これを自由意識と思っている)で私たちが語り、また働くとき、天のサブスタンスが地に実体化する。まさに天になるとおり地にもなるのだ。このメカニズムはフォティーゾと言われることはすでに説いている。
キリストと私たちはその人間性、死と復活、昇天、そして着座を共有しているのだ。この事実をサタンは隠しておきたい。だから信仰に励め~、聖化~、奉仕伝道、献金、会堂建造、教勢拡大、日本民族総福音化の決起集会~と騒ぐわけ。ほとんど喜劇のレベルではあるが、以下自粛。

善と悪の領域は共にナチュラルな五感の領域、いのち(Zoe)の領域はスーパーナチュラルな霊の領域である。イエシュアが「わたしの羊は門なるわたしを通して出入りする」といわれる通り(John 10:9)、イエシュアというポータルを通ってこのふたつの次元に生きるデュアルな存在である。それはフェイスによって可能となる。

善と悪の平面からいのちの平面に跳躍すること、これがフェイス。そして霊のサブスタンスを五感領域において実体化する(substantiation)。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質)、まだ見ていないプラグマ(完成された事)のエビデンス(現出)である。-ヘブル11:1(私訳)

いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質・実体)、まだ見ていないことのエヴィデンス(証拠・現出)である。-ヘブ11:1(私訳)
— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) October 20, 2022
※「こと」はpragma、その意味は「成し遂げられた事」である。

この記事は面白い。映画”Son of God”の金髪で青い目の白人”Jesus”はウソである。そもそも白人が作り上げた虚構が白いキリスト教だ。哲学とシンクレティズムしていわゆるキリスト教神学をでっち上げた[1] … Continue reading。イエシュアはそもそもキリスト教の教祖などではない。
聖書には
神はヤペテ(白人種)を大いならしめ、セム(黄色人種=ユダヤ人など、イエシュアも)の天幕に彼を住まわせられるように。カナン(黒人種)はそのしもべとなれ。-Gen 9:27
とある。白人は元々ユダヤ人の聖書をあたかも自分たちのものであるかのように、”Judeo-Christianity”を看板に帝国主義・覇権主義をもって世界を植民地化し、搾取し、牛耳ってきた。今もその構造は続いている。
しかるに白人はユダヤ人をゲットーに閉じ込め、蔑み、迫害した。つまり彼らから聖書すら搾取し、自分たちの専売特許にしてしまっているのだ。が、日本人は彼らを保護したことは歴史の事実である。そしてユダヤ人も日本人との親和性を証ししている。
西洋史とキリスト教史はほぼ重なるし、世界史もそのダイナミクスの影響を受けている。日本はある面でこの白人の横暴に対して抵抗し、あの戦争でアジア諸国を彼らの植民地状態から解放した。ただ、彼らのマネをしてしまったのだ。だから彼らの手の上に乗せられ、その中で動かされて敗戦。
現代においてあらゆる政治経済の制度あるいはプラットフォームを白人が作っている。日本人はその上で踊らされているだけ。コンピュータのOSもTRON(無償)なる優秀なものがあったのに、WINDOWSやiOSに負けた(隠れて普及しているが)。オリンピックでも日本人が躍進するとたちまちルールを変えられる。
ところが日本人は白人とその文化・社会に憧れ、劣等感を感じつつ、SDGsやPCなどのスローガンに乗せられ、搾取されている。ギャンブルでも政治経済でもプラットフォーマー(胴元・仕掛け人)が必ず勝つのだ。ほんとこの国民は実にオメデタイ国民である。
白いキリスト教から聖書を取り戻すこと。そして霊的に覚醒すること。これがわたしが(白い)キリスト教からのエクソダスを主張している理由だ。
またこの記事も興味深い。いわゆる仏教と量子論の絡みについて述べている。サイエンスは五感の領域をいかに認識し、記述するかがすべてだ。これを定式化したものが物理法則。つまり現実世界の認識論、そしてモデル構築である。
フェイスが(キリスト教なる)宗教ではないように、仏教も本来宗教ではない。前者はスピリチュアル領域の認識(論)であり、後者はこの五感の領域の徹底した認識(論)である。「色即是空」などはまさに物理学そのものだ。残念ながら人文系の文系オツムではほぼほぼ理解不能であろうが。
かくして現代物理学をやっていると両者の世界観の共通性を意識するようになるのだ。たとえばこのサイトなどはまことに面白い。
下に紹介した物理と仏教のサイトにあった、華厳経の現代訳を紹介しましょう。道元の『正法眼蔵』はここでも何度も紹介していますが、「有時の巻」にも相通じます。
微細なる世界は大きい世界であると知り、大きい世界は微細なる世界であると知り、
少しの世界は多くの世界であると知り、多くの世界は少しの世界であると知り、
広い世界は狭い世界であると知り、狭い世界は広い世界であると知り、
一つの世界は限りない世界であると知り、限りない世界は一つの世界であると知り、
限りない世界は一つの世界の中に入ることを知り、一つの世界は限りない世界の中に入ることを知り、・・・
限りなく長い時間はほんの一瞬であり、ほんの一瞬は限りなく長い時間であると知り、・・・
異なる時間の中に異ならない時間があることを知り、異ならない時間の中に異なる時間があることを知り、限りある時間は限り無い時間であると知り、
限り無い時間は限りある時間であると知り、無量の時間は一念であると知り、
一念は無量の時間であると知り、一切の時間は無時間に入ることを知り、無時間はあらゆる時間に入ることを知ろう・・・
要するに仏典とは元々、自然あるいは世界をどう認識し、どう関わるかを提示する。ある意味で認識論のひとつなのだ。その際私たちの心が映す映像(世界モデル)を正確に構成しないで、自分の欲や野心で歪むことにより、苦が生じると言うわけ。その世界が無知蒙昧、偽りの世界。道元も<今、この時>の瞬間に生きること、すなわち<前後裁断>を提唱している。物理的には<今、この時>はまさにディラックのδ関数であり、それに対する反応がインパルス応答(グリーン関数)であり、人生はこのたたみ込み(convolution)なのだ。
悩み多き人は、インパルス応答の時定数が長く、いわゆる「尾を引く」人であり、自由を得ている人は、この時定数が短く、前後が裁断されている。それは「後ろを省みず、前を慮らす」の生き方。そして私たちの神は、永遠の”AM“である。まさに永遠の現在なる方。この方のうちに安んずること、これが私たちの人生である。かつて山谷少佐が指摘されたように(→記事)、「禅の真理契機を完成するキリスト」なのだ。キリストこそまことの実存、ディラックのδ関数の実体であり、その方に対する応答の畳み込みこそが、私たちキリスト者の「生」と言える。
References[+]
↑1 | いわゆる教会の歴史は啓示録に予言されている。ペルガモは結婚・結合の意味であり、世とのそれを行った教会だ。そこにはなんとサタンの座があるのだ! |
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もともとアダム(人)はYHWHエロヒムの形と様に創造された(Gen 1:26)。エバはアダムの成分からビルドアップされたアダムの骨の骨、肉の肉だった(Gen 2:22-23)。両者は同じ成分をシェアするひとつの有機体であり(Gen 2:24)、【すでに】YHWHエロヒムの似姿だったのだ。後はいのちの木の実(I-AMの実体)を内在化させればよかった。人と創造主はひとつとなれたはずだった(Eph 5:32)。
が、蛇は善と悪の木の実を食べればエロヒムの【ようになれる】と誘惑した。【すでに】YHWHエロヒムが人をご自分の似姿に創造されていたのに、何か不足があるかのように示唆したのだ。こうして人類は蛇のウソを飲みこみ、偽のアイデンティティ(不足してる~と叫ぶあり方)に落ち、延々と知識を増大し(Dan 12:4)、「神のようになる」ことを追求している。
キリスト教なる宗教も同じ、つねに不足してる、まだ十分でない、もっと清くされ、奉仕伝道、信仰に励め~と煽られる。外なる「善と悪の物差し」で常に自分の不足を測り続けるわけ。道元も言っている、
「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」-正法眼蔵現成公案。
最初、法は外にありその周囲を回るだけだが、フェイスにより物差しは内にいのちの御霊の法則として内実化(Gk.ginomai;Hb.haya)される。いのちを与える霊となられたキリスト(1Cor 15:45)は私の霊と「ひとつの霊」としてブレンドされている(1Cor 6:17)。
もはや生きるのはわたしではない、肉(五感領域)にあって生きるわたし(ソウル&ボディ・ハイブリッド)は御子【の】フェイスの中で生きる(Gal 2:20)。イエシュアが生きるので私たちも生きる(John 14:19)。これがYHWHのエミュレータ(イミテートではない)になることだ(Eph 5:1;1Tim 3:16)。
フェイスのカギは御子に【対する】ではない! キリスト【を】信じまーすは分離状態、これがキリスト教。フェイスは御子【の】フェイスのうちに生かされる。これが一体化(Oneness)。「使徒信条告白~、我はナントカ・カントカを信ず~」なんて延々とやってるから明治時代からこのキ業界成長しないわけ。戦後GHQのバックアップでキリスト教は社会化されてすでに地の塩ではなくなってしまった。もはやお笑いでしょう。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実体・実質)、まだ見ていないことのエビデンス(証拠・現出)である。-Heb 11:1(私訳)
客体と主体は溶け合う。精子と卵子が一体になることはその型(タイプ)である。神と人がともに住む(Rev 21:3)。人が神殿そのものなのだ(Eph 2:21)。だから新エルサレムにはもはや神殿は不要(Rev 21:22)。[1]一部のキリスト教徒は新エルサレムを物理的都市と思ってるらしいが、子羊の花嫁なのだよ(Rev 21:2)、都市が花嫁になれるかな?それはYHWHの臨在そのもの(シェキナグローリー)、拡大した立方体であり(至聖所の形)、かつては幕屋や神殿の奥に隠されていたが、いまや隠されていないキリストの充満なるエクレシア(Eph 1:23)の完成体(前田護郎訳など)。祈りを象徴する香壇は新約では至聖所にあるのだ!(Heb 9:4、出エジプト30:6と比較せよ!☞幕屋の秘密@YouTube)。
取り損ねたいのちの木の実体として私たちのうちに内在化されたキリストとエクレシアの究極、YHWHと人の究極的Onenessの奥義である[2]現代物理学の用語でいえば、波動関数(バイブレーション)を共有することによるエンタグルメントだ。。かくしてエデンの園の二本の木々で始まった神と人類の物語は、新天新地において一本の木として完成するのだ[3]Rev 22:2、ここは「両岸にある」とあるが、木は単数形だ。。

あなたがたはこの世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであれ、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2(岩波訳)
メタノイアはメタ+ノウス、メタは「超越的」あるいは「ある方向へ」の意味、ノウスはマインド、思いである。すなわち主の方向にマインドの方向を変えることだ。この意味で「悔い改め」は不適であると何度も指摘している。「悔い」の意味などはない。
神のみこころに添った悲しみは、【悔いのない】、救いに至る【悔い】改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。-2Cor 7:10
って、自己矛盾でしょう。正確には「悔いのない思い改め」だから。新改訳は田川さんの言う通りなのだよ。
自分の生き方や信条や個性や感じ方などをあくまでも主張する人々がいる。オレはオレ、私は私であることが大切だと・・・。彼らを見ているとひたすら種々の活動や主張に次から次へと没頭し、それはある種強迫的ですらある。それに没頭していないと自分のアイデンティティーが保たれないかのように・・・。一言で言えば、霊的に空疎なのだ。
私たちは絶えず自分の十字架を負う必要がある。それはまずマインドを絶えず変えること。電子マネーの意味が理解できないおじいちゃんのように、現ナマのマトリックスに絡め取られていると電子マネーが使えない[1]薬剤師の奥さんいわく、あるおじいちゃんが電子マネーで支払うと言うので、3千円チャージしてもらったら、お釣りをくれと求められたと。。理解もできない。これが自分を自分のマトリックスに幽閉する人々のあり方だ。自ら捨てない者は決して霊的富を得ることはない。そしてその空疎さは周りにはわかってしまう。霊のあり方は決してごまかせないのだ。彼らは活動することによってその空疎を補償しようとするのだが、かえってそれが空疎さを証明していまう。
神のバイブレーションと共振すること(Ps 19:1-3)。これは神の声を聞くことであるが、魂(Soul)―特にナチュラルなマインドが邪魔をする。いわんや、自分を主張すればするほど、神との距離が離れる。まことにジーザスの声を聞く者は生きるのだ(John 5:25)。私たちの霊的有用性は、活動ではない、聞くことだ。聞けばフェイスが息吹かれる。それは霊を受けることである。そして語り出すのだ。その語り出された言葉は無意味に返ることはなく、必ず言い送ったことを成し遂げる(Isa 55:11)。それは神の業である。ジーザス自身がそのように生きたのだ。
神に属する者は神の言葉(レーマ)を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。-John 8:47
マルタはジーザスの足元に座るマリアに憤りを覚え、ジーザスに訴えた。が、彼は、マリアは大切なことをしているのだと言われた(Luke 10:40-42)。それは―ジーザスの声を聞くこと。聖霊は自分勝手に語るのではなくジーザスの言葉を語り、ジーザスを栄光化する(John 16:13-14)。かくして、私たちの有用性はどれほど聞くことができるかにかかっている。

今晩は中秋の満月だ。美しく月が光っている。ちょっと宇宙に思いを馳せてみた。

一部のクリに「宇宙は存在しない」とか、「地球が平らだ」とかのたまうむきがある。ほぼ相手にするまでもないのだが、これまでサイエンスの先人に対する冒とくである。またキリストの名を貶めることにもなる。
さて、もっと突き詰めると、「存在って何か」ってことにぶち当たる。量子論のレベルで、ベルの不等式がアスペにより否定されたことによって、局所的実在性が否定された。いわゆるエンタグルメント現象である。量子コーチなるものはせめてこの程度の知識は得てからにしてほしい。
すると次のような主張も重みが出るのだ。
EMAN氏はこう述べている(https://eman-physics.net/quantum/bell.html):
舞台裏に何がある
我々の生存,いや我々だけでなく,全ての存在の舞台となっているこの宇宙.その舞台裏に,離れた 2 点間の状態を「同時」に操る仕組みが存在している.この「同時」というのは,我々が考える時間の概念を超越した意味での「同時」だ.なぜなら時間は,現在の理解の枠組みでは,この宇宙という舞台の一部であるから.・・・
個人的な思索
私は物理を離れたところでふと思う.私は宇宙の片隅にいるちっぽけな存在に過ぎないが,私が取った行動,決断,思いの全てが,即座に全宇宙のあらゆる場所に何らかの影響を与えているのではないだろうか.この宇宙は巨大で複雑な「生き残り頭脳ゲーム」のようなもので,私は普段の生活で何の気も無しに重要なレバーを引っ張っていることがあるのかも知れない.
あるいはこんなことを思ったりする.
私は今ここにいて,この小さな身体が私の全てだと思っているが,この私という存在は,全宇宙が複雑な組み合わせによって,この場所に作り出した影のようなものに過ぎないのではないだろうか.私をここに生かすために全宇宙規模で複雑な計算が行われている.私の本体は全宇宙であり,私の意志はどこか別のところで全宇宙を用いて決定されているのかも知れない.
この「仕組み」とは何か?聖書ではこう答えている:
” Through faith we understand that the worlds were framed by the word of God, so that things which are seen were not made of things which do appear. ”-Heb 11:3(KJV)
「信によって我々は、此の世が神の言葉によって整えられたのだ、と理解している。すなわち見える事象は(表面に)現れた現象から生じたわけではない。」同田川訳
「 信によって、この世が神の言葉によって造られたこと、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。」同岩波訳(信に訂正)
世とはアイオン、言葉はレーマだ。つまり神のレーマは時空間を超える存在(サブスタンス)。これが時空間においてフレーム化(物質として実体化)されたと言うわけ。
まさにベル不等式のほころびはこの時空間を超える「仕組み」-マトリックス-を想定せざるを得ないのだ。
なお、フェイス(pistis)を「信仰」などとすることなかれ。それは五感を超えるスーパーナチュラルにしてスピリチュアルなシックスセンスである。「使徒信条告白~、われはナントカを信ず~」なんてものではないからさ。私たちニュークリーチャーは時空を超えたスピリチュアル領域でキリストとエンタグルメントしているのだ。

ニッポンキ業界の致命的勘違い、それは悲劇を生む。われはナントカを信ず~とかいったいわゆる信仰告白は単なる式文。まったくのハマルティアである。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実体・実質)、まだ観測されていないことのエビデンス(現出・証拠)である。-Heb 11:1(私訳)

宇宙はなぜ存在し、その大きさは、その向こうは、その運命は・・・と実にロマンをかき立てる。その存在の理由は、何者かが作ったか、偶然に存在に至ったかの二つの可能性がある。現代科学でも造物主の存在を認めざるを得ないところに立ち至っているが、ではそのアイデンティティーは?が次の問題となる。
我々的にはもとより、「ありてある者」すなわち”I-AM”であり、その名をYHWHと称する他の何かの原因によらず存在する存在そのものである。存在とは何か?といった哲学的問題はこのI-AMを抜きにしては解決できない。なぜなら存在の原因を探ると無限後退性の罠に陥るからである(☞科学と信仰)。
聖書は次のように啓示する:
信仰によって、この世が神の言葉(レーマ)によって造ら(フレーム化さ)れたこと、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。-Heb 11:3(岩波訳)
Through faith we understand that the worlds were framed by the word of God, so that things which are seen were not made of things which do appear. (KJV)
この意味でこの世界はプログラマーI-AMによるシミュレーションであると言えるのだ。そして現代物理学の最前線でもリアリティーはある何かによるシミュレーションであるとする説が唱えられている。
Princeton physicist Hong Qin creates an AI algorithm that can predict planetary orbits.The scientist partially based his work on the hypothesis which believes reality is a simulation.The algorithm is being adapted to predict behavior of plasma and can be used on other natural phenomena.
いわゆる物理学は現象を観察して一般法則を導き(帰納法)、その法則を用いて未来を予測したり(演繹)、現象をコントロールするのだが、その法則性を抜きにして、時空間を格子状に区切りAIを学習させて惑星の運動などを再現することができるというわけ。つまり法則はブラックボックスとしたまま、世界を記述できるのだ。
これは有限要素法として知られている手法にAIを組み合わせたものだが、その手法による我々がリアリティーとみなしている世界の再現(シミュレーション)が可能であることは、すなわちわれわれがリアリティーとみなしている世界そのものが何者かのシミュレーションであると結論できることになる。
湯川秀樹は世界は連続ではなく、蜂の巣のような素領域(クオンタム・フィールド)によって構成されるとする説を晩年に唱えていた。
つまりこの時空”連続”体と通常みなされている世界は、実は連続ではなく、離散(ディスクリート)であるというわけだ。その各素領域に種々の物理量(作用素)が与えられており、その挙動により各種の素粒子が生まれ、物理現象が生じると言う。その振る舞いを誰かがデザインしているとするのだ[1]すでに人間を超える高度の知性がデザインしたとするInteligent Design仮説(ID理論)が提唱されている。。
そこで例えばこのビデオを見てみると、時空間の中で「シャボン玉が割れる」という現象を1秒間に50,000フレームで高速撮影したものをスローで再生すると、実に美しい世界を見ることができる。これは1秒を50,000分の1の区間に切ったことになる。では10万分の1にすれば、100万分の1にすれば・・・とテクが高度になればその間隔を無限に小さくできる。それはどこまで可能なのだろうか?
ここで素領域とか素時間間隔といった説が浮上する。世界はつながっておらず、飛び飛びのエネルギーレベルしかとり得ない量子(離散)のような、それ以上は分割不可能な領域や時間があるだろうとするのだ。エネルギーや振動数が離散ならば、空間や時間が離散であってもおかしくはない。逆にその方が一貫性がある。まことに不思議な感覚を覚える次第。
ここで道元の時間論が浮上する。彼はこう言う:
たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
正法眼蔵-現成公案
かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。
生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
われわれが生きるプラットフォームは、クロノス(物理的時間)における過去でもなく、未来でもない。ただ現在のみ。夏目漱石も「前後を切断せよ。みだりに過去に執着するなかれ。いたずらに将来に望を属するなかれ。満身の力をこめて現在に働け。」と言っているようだ。後悔や不安はまさに前後が裁断されていないことによって生じる。ただしこれは主観的時間論ではあるが、意識における時間も連続ではなく切れていると言うわけだ[2]なお、最近では時間は意識から生み出されるものであり、物理的絶対存在としての時間などは「ない」とする説も提出されている。まことに
Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. -Heb 11:1
かくしてアインシュタインによりニュートンの絶対空間と時間が否定されたように、われわれがリアリティーとみなしている絶対世界も何かから創出されているとする方向に進んでいるわけ。まさにそれはヘブル書が啓示する通りのところなのである。かくしてサイエンスはバイブルを後追いしている!
References[+]
↑1 | すでに人間を超える高度の知性がデザインしたとするInteligent Design仮説(ID理論)が提唱されている。 |
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↑2 | なお、最近では時間は意識から生み出されるものであり、物理的絶対存在としての時間などは「ない」とする説も提出されている。 |

この記事は実に面白い。かつて学生時代に読んだ京大の小針氏の確率論の中で、妄想であるとしつつも、この三つの等価性を予言されていた。今日、まことに物理理論として提案されているのだ。
- There is no dark matter. Instead, information has mass, physicist says
- The mass-energy-information equivalenceprinciple
この論文の中で提示されている三つの等価性の図

もしこれが真理であるとすれば、YHWHのレーマを解放することは物理的領域のエネルギーや質量の分布を変えることになるのかもしれない。女が主の衣の房に触ったジーザスはデュナミスが流れ出るのを感じたのだ。
この記事の中で示した聖句の重みを覚える次第である。
By faith we understand the ages to have been framed by the Word of YAHWEH, so that the things seen should not come into being out of things that already appeared. –Heb 11:3 (HRB)
信仰によって、この世(アイオン)が神の言葉(レーマ)によって造られた(フレーム化された)こと[1]ここは「レーマに適合するように(adjust to)」とある(CLV)、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。(岩波訳)
われわれもまたキリストの内にインヒュージョンされた者として、キリストと同じわざをなし得るのだ。それはYHWHの言語を用いることによる。状況に対して「ある(haya)」とされたYHWHの言葉(dabar)をスピリットにより語り出す。それがレーマであり、このように語り出されたYHWHの言葉は無益に帰ることはないのだ(Isa 55:11)。
これを私はこのように定式化している:<レーマ=ロゴス×スピリット>。フェイスはスピリットである。つまりロゴスとフェイスを混ぜること(Heb 4:2)。その時、<客観的事実(霊のサブスタンス)×フェイス=主観的経験>となるのだ。
フェイスを語り出せ! 山は動き出して海に沈む!


ジーザスの愛にとどまるとき、希望が生まれ、希望は信(フェイス)にスーパーインポーズされ、それは願うサブスタンス。こうして信・希望・愛は有機的に五感の領域において経験し得るのだ。

我々が五感の領域で経験するあれこれ、それは何によって生み出されているのだろう。「あれこれ」とはアイオン(αἰών)、Strongによればこうある:
From the same as G104; properly an age; by extension perpetuity (also past); by implication the world; specifically (Jewish) a Messianic period (present or future): – age, course, eternal, (for) ever (-more), [n-]ever, (beginning of the, while the) world (began, without end). Compare G5550.
Vincentはこう解説している:
Lit. the ages. The world or worlds as the product of successive aeons.
つまりわれわれの時系列的経験、五感によって感知される諸事象を意味する。そしてヘブル書はアイオンは目に見えるものから生じるのではなく、見えないものから生じると証言する:
信仰によって、この世が神の言葉によって造られたこと、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。-Heb 11:3(岩波訳)
Through faith we understand that the worlds were framed by the word of God, so that things which are seen were not made of things which do appear. (KJV)
「言葉」はレーマ、「造られ」はフレーム化あるいはレンダー、すなわち五感の領域にあらしめるの意味(田川訳では「整える」)、「理解している」の原意はヌース(思い)により把握する、である。信仰という単語は不適切であるとすでに繰り返しているが、フェイスとは五感を超えたシックスセンスであり、スーパーナチュラルなスピリチュアル・パワーである。
現代量子論によると、量子は波動でもあり粒子でもある。ド・ブロイは物質は波であるとして、λ=h/mv=h/p (p=mv)とした。λは波長である。これを波動方程式に組み込むことによりシュレディンガー方程式が構成され、それは実験結果ときれいにフィットした。ところがその意味が問題となった。波動関数φとは何か。ボーアやアインシュタインとの論争の中で、それは粒子の発見確率を意味するとされた[1]φの絶対値の二乗|φ|2が確率密度関数を表すとするもの。。つまり波動は局所的実在としての波ではなく、確率分布という情報であるとするのだ。
これは局所的実在を否定するペル不等式の破れと言う形で証明されることになった。詳細は省略するが、二つの波動関数を共有する量子は距離に関係なく一方のスピンが決まると他方のスピンが決定してしまう。すなわち光速を超えて情報が伝達するという、相対性理論と合致しない現象の存在が証明されてしまったのだ。これをエンタグルメントと呼び、アインシュタインはspooky(不気味)な現象と呼んだ。
つまりこの量子は「五感で感知される時空間を超えて存在する何か」とするしかなくなるわけだ。このことを「局所的実在性が否定された」と言う。なんとも不思議ではないか。この世界を造る物質を分解していくと、分子→原子→電子・中性子・陽子→クオーク→弦となるのだが[2] … Continue reading、その電子などの量子は局所的実在ではない何かなのだ。では私たちの体はいったい何なのだ? 確かに五感によって知覚されているではないか、しかしその究極的構成要素は五感の領域を超える何かであるとは???
まさに「見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解」せざるを得ないのだ。それはレーマすなわち言葉すなわち情報がフレーム化したもの、あらしめられた(レンダーされた)ものなのだ。パワーポイントで投影された映像は、もとをただせば0と1の集合体、あるプロトコル(規則)に従って構成されたマトリックス、すわなち情報である。それがPCとプロジェクターによりフレーム化(レンダー)されたものである。0と1の集合体はわれわれはその意味をすぐには理解できないが、フレーム化(レンダー)されるとき、五感で感知し得る意味が生じるのだ。これと同じことをヘブル書は説いてる。
さらに、もっと原意に正確に訳すと
By faith we are apprehending the eons to adjust to a declaration of God, so that what is being observed has not come out of what is appearing.(CLV)
アイオンは神の宣言に適合するようにあらしめられるのだ。神の宣言とは語り出されたロゴス、ヘブル語ではダバー(dabar)、それは実質・実体そのものである。われわれが五感の領域で感覚/知覚して経験する事象はYHWHエロヒムの発出したロゴスそのものに適合するあり方とされたアイオンである。
そしてヘブル書は宣言する:
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって(の中で)、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって(を通して)、もろもろの世界を造られた。 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質(ヒュポスタシス)の真の姿であって、その力ある言葉(レーマ)をもって万物を保っておられる。-Heb 1:1-3
御子とはYHWHエロヒムのロゴス(John 1:1)、すなわちダバー(dabar)、実質・実体である。ここで大切な点は、YHWHエロヒムは御子にあって語られた(アオリスト)ことである。すでに語られた(過去形)。つまりYHWHエロヒムは御子にあってすでに宣言されたのである。何を?
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。-1Cor 2:9
五感では知覚できない、思いにも浮かばないことである。そしてそれは
なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって(あって)「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ(確立し)、油をそそいで下さったのは、神である。-2Cor 1:20-21
For as many promises as are of YAHWEH, in Him they are yes, and in Him are Amen, for glory to YAHWEH through us. But He confirming us and anointing us with you in Messiah is YAHWEH, even He having sealed us, and having given the earnest of the Spirit in our hearts.(HRB)
旧約において提示された神の約束はことごとくキリストにあって「アーメン」とされた。これは単に「アーメン」というセリフを唱えることではなく、その原意「アマン(אָמַן)」、すなわち「現わしむる・レンダーする」ことである。キリストこそはYHWHエロヒムの約束の成就された実体そのものなのだ。その方は死と復活を経ていのちを与える霊となられ(1Cor 15:45)、われわれのうちに聖霊により内住され、われわれもその方にあって確立される。
キリストの内に〔こそ〕神性の全き充満が形態化して宿っており、あなたがたはキリスト-すなわちあらゆる支配と権威の頭-にあって満々と満たされているのだから。-Col 2:9-10(岩波訳)
For in Him the whole fullness of Deity (the Godhead) continues to dwell in bodily form [giving complete expression of the divine nature]. And you[f] are in Him, made full and having come to fullness of life [in Christ you too are filled with the Godhead—Father, Son and Holy Spirit—and reach full spiritual stature]. And He is the Head of all rule and authority [of every angelic principality and power]. (Amplified)
ここの[f]の注としてVincentはこう説いている:
Rev., made full…. Not, ye are made full in Him, but ye are in Him, made full. In Him dwells the fullness; being in Him, ye are filled.
YHWHエロヒムの充満であるキリストが内住されるゆえに、われわれもその方の充満とされているのだ。詳訳ではこう訳されている:
というのは、彼のうちにこそ神性の全充満<神という方>が肉体の形をもっていつまでも宿られる<神性の完全な表現がなされている>からです。そしてあなたがたは彼のうちにあり、満ち満ちた者とされる<満ち満ちたいのちになる>のです<<キリストにあってあなたがたもまた、神、すなわち父、子、聖霊に満たされ、霊的に完全な身たけに達するのです>>。また、彼は、すべての支配と権威<あらゆる天使的主権と力>のかしらです。
かくしてわれわれを通してその神のすべての約束が「アーメン」とされる、つまり実体化されるのだ。キリストがなされたことをわれわれも再現、あるいは追体験するのである。ゆえに主は言われた:
わたしを信じる者はわたしのわざをなし、さらに大いなる業をなす。わたしが父のもとに行くからである。-John 14:12
ジーザスは父の元に行かれ聖霊をわれわれに注がれた。そしてその内住の聖霊はキリストの御霊としてわたしたちのいのちとして充満する。キリストの御霊はわたしたちの霊から魂へと浸透し(ペネトレーション)、わたしたちの魂をキリストの魂の形へと再構成し、死ぬべき体にすらいのちを与え、われわれはキリストの再現となる。われわれのうちにキリストが構成(モルフォー)されるのだ(Gal 4:19)。ゆえに―
この教会(エクレシア)はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているもの(Gk.充満)に、ほかならない。-Eph 1:23(口語訳)
新改訳などにあるように満ちておられる「場所」とか「ところ」ではない(口語訳はまだ良心的に訳している)。充満そのものがエクレシアである(岩波訳では正確に訳されている)。すなわちキリストである。われわれの体と魂はいわばガンダムスーツ、それは本質ではなく、キリストの充満そのものがエクレシアなのだ。白いキリスト教の神学などは捨てよ!
お分かりだろうか? YHWHエロヒムはご自身のいのちをまずキリストにあって実体化し、この五感の領域にあって現わされた。キリストは死と復活をとおしていのちを与える霊となられ、物理的存在に拘束されない霊としてわたしたちのうちに時空間を超えて内在される。そのキリストの成就されたすべてが五感の領域にある私たちの体と魂をとおして再現されるのだ。これがエロヒムをエミュレートすることであり(Eph 5:1)、その増殖である(Col 2:19)。
エロヒムの成長(増殖)を成長(増殖)する。-Col 2:19(原意、田川訳と岩波訳は正確)
かくして地上においても天になるとおり御旨(=五感で知覚できない意志のサブスタンス)が現出するのだ(=実体化されて知覚されるリアリティーとなる)。天には罪も病も貧困もトラブルもない! われわれはそのリアリティーを<今・ここで>享受する。フェイスはそのサブスタンスであり、エビデンスである(Heb 11:1)。それは永遠のNOW体験。PTL✨

TODAY’S CELEBRATION Dec 12, 2021:GPS-ゴッド・ポッシビリティ・システム-フェイスは可能性を実体化する
引用聖句:Rom 5:12;1Cor 15:22;2Cor 1 …

これ、実に興奮するではないか。古典的粒子のような実在は存在しない。これはペル不等式の破れで、アインシュタインが「不気味な現象」と呼んだエンタグルメントが証明されたことによる[1] … Continue reading。量子論は情報理論であって、量子の実在がいかなるものかを論じる学問ではない。つまり量子の本質あるは本体はいぜんとして未知なのだ。なんともエキサイティングではないか✨
Through faith we understand that the worlds were framed by the word of God, so that things which are seen were not made of things which do appear. -Heb 11:3(KJV)
信によって我々は、此の世が神の言葉によって整えられたのだ、と理解している。すなわち見える事象は(表面に)現れた現象から生じたわけではない。田川訳
信仰によって、この世が神の言葉によって造られたこと、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。岩波訳
ここの”worlds”は”aion”、つまり世の時系列的な変化する様相を言う。ゆえに複数形で訳されている。”framed”はちょうどパワーポイントのサブスタンス(実質)は1と0の集合体(プログラム)であるが、PCで変換されてプロジェクターで投影されるとスクリーンというフレーム内に人間にとって意味のある映像となるように、われわれが五感によって経験する世界も、その実質である神の言葉(rehma)が投影されてフレーム化されたものというわけ。
IT FROM REHMA
ベル(CHSH)不等式の破れから古典力学的粒子のような実在は存在しないことが実験でわかったので、そのような実在が決して出てこない理論を考え、実験で計測できる観測値の出現確率を求めるのが、量子力学です。#入門現代の量子力学 pic.twitter.com/DdanbKjDcy
— Masahiro Hotta (@hottaqu) October 15, 2021
「量子力学は情報理論である」という考え方は、そもそもはジョン・ウィーラーの晩年の思想であるIt From Bitが発端です。また「世界は量子情報からできている」と考える”It From Qbit”という現代的な考え方を端的に表しています。量子情報(Qbit)から全ての存在(It)が創発しているというものです。
— Masahiro Hotta (@hottaqu) October 15, 2021