iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
タグ: デュナミス

- 引用聖句:;1Cor 4:20;John 6:53;56;63;7:38;Heb 4:2;James 2:22;Levi 11:3-4etc.
- 次回:2023年2月26日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

TODAY’S CELEBRATION Feb 20, 2022:愛のフェイスタッチは主のデュナミスを解放する
引用聖句:Gal 5:6;Matt 16:19;John 1: …
- 引用聖句:Gal 5:6;Matt 16:19;John 1:27;13:5-8;Luke 7:36-50;8:44-48 etc.
- 次回:2022年2月27日(日)
- 場所:新横浜ホール第九会議室
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

TODAY’S CELEBRATION JULY 25, 2021:GPS-ゴッド・パワー・システム
引用聖句:Gen 1:2;Ps 19:1-7;1Cor 6:1 …
- 引用聖句:Gen 1:2;Ps 19:1-7;1Cor 6:17;Heb 1:3;7:16;2Cor 3:17-18;John 6:63;Luke 1:80;2:40;Eph 1:19-23;Prov 10:22 etc.
- 2021年8月1日(日)
- 場所:鶴見駅前ホール第一・二会議室
- 時間:13:00-16:00
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップ

TODAY’S CELEBRATION Jun 06, 2021:I-AM のスーパーサブスタンシャル・パワーXVIII-Jehovah Uzi
引用聖句:Ps 28:7;1Cor 1:18;24;4:20; …
- 引用聖句:Ps 28:7;1Cor 1:18;24;4:20;2Cor 12:9;Eph 1:19-20;Eph 3:16;1Pet 1:5 etc.
- 2021年6月12日(日)
- 場所:鶴見駅前ホール4F第一&二会議室
- 時間:13:00-16:00
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップ

主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。・・・エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。-Gen 2:5-10
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。-Rev 22:1-2
信じる者の腹から御霊は川々となって流れ出る。-John 7:38

前回のメッセで「努力が必要」と言われたが、努力は不要とも言っているけど、これはどう理解すべきかとのお問い合わせがあった。明日のメッセで語る内容とちょうどかぶったので、その内容を少しだけ―
小池百合子の動機はすべて自己粉飾にあり、その根底には満たされていない基本的欲求が潜んでいる。マズローの五段階欲求は有名だが、もちろんこれに霊的欲求は含まれていない。まあ、あえて言えば、自己超越が相当するかもしれないが。

このチャートは借り物だが、下位の欲求が満たれていない場合、上位の社会的あるいは承認欲求をもって埋め合わせをしようとする。が、これはあくまでも外形のものであるゆえに、つねに取り繕いをせざるを得ない。
この根本的な欲求が満たされていない場合、それがコンプレックス(感情観念複合体)となり、その人の生きる動機あるいは動力となることがある。フラストレーションや憎しみをバネにする生き方である。それは常に取り繕いであるために、小池氏のように関係する人々とことごとくトラブルを起こし、真実な人間関係は築けない。
クリスチャンはアダム系のいのち(体-魂複合体)において死んだものであり、キリストと共なる復活により新しい霊のいのち(Zoe)をインヒュージョンされ、新しい霊的パワーの源泉が設置された存在である。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1Cor 15:10
「今日のわたしがある」とは”I am what I am”であり、テトス2:14(Titus 2:14)にある”peculiar”に対応する言葉である(☞われわれのアイデンティティーはI-AMの領域で定義される(テトス2章14節))。詳細はメッセにて。
さて、ここでパウロは「働いたのはわたしではなく、共にある神の恵みである」と証しする。「共にある」は”sun”であり、恵みは”charis”、ヘブル語では”chen”である。ピクトグラムはヘトはテント・壁の意味、ヌンは種・子孫・継続の意味である。すなわち恵みとは、テント(壁)の中で種が永続することである。
ポイントは何か。ガラテヤ2:20にあるとおり、生きているのはもはやわたしではなく、キリストである。今、肉にあって生きているわたしは御子のフェイスにあって生きるのである。この新しいエロヒム属の霊の中に聖霊によりYHWHが住まわれる(John 14:23)[1] … Continue reading。
主は言われた、
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。-John 14:18-19
お分かりだろうか。ジーザスが生きるので私たちも生きる、つまり、私の古いアダム系のいのちのエネルギーによるのではなく、キリスト系の新しいいのちのエネルギーによって生きるのだ。ここにいのちの交換が行われる。その場が十字架である。
この時、聖霊の伝達されるYHWHエロヒムのいのちのエネルギーが私の生きる力の源泉となる。
それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ。-Jer 2:13
YHWHの力あるいはフォースには四種類があることは前にも語っている(☞Yahawehのフォースは4種類ある)。このフォースが私の生きる原動力となる。このフォースが私の霊の内から流れ出て、私の魂と体を通してアウトプットされる。これがクリスチャンのいわゆる働きとなるのだ。決してアダム系のいのちのパワーによるのではない。それはむしろYHWHの業を阻害する。
事実、ジーザス自身もそのようにして生きた。
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。-John 14:12
彼は父を生きる原動力としてその業を行った。ゆえに-
つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。-Acts 10:38
彼はあくまでも人として振舞った。神として振舞ったのであれば、どうしてその業の理由を「神がご一緒だったから」と言えるのか。つまり彼の業は内なる聖霊による御父の働きの現出であったのだ。
御子は神のサブスタンスの現れであり(Heb 1:3)、神性が余すところなく形をとってそのうちに住んでいる(Col 2:9)。その方は今やいのちを与えれる霊として聖霊にあって私の内におられる(1Cor 15:45)。よって私たちエクレシアはキリストの充満である(Eph 1:23)[2] … Continue reading。
かくして私たちの生きる原動力はいのちなるキリストそのものであり(Col 3:4)、キリストは御父の完全なる表現である(John 14:7)。私たちが「かみっさまのために何かをするとかしない」とかではない。私たちが「かみっさまの御心に従って生きるとか生きない」とかの問題でもない。生きる原動力が何かである(☞信仰と精神分析について)。
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。-Phil 1:21
かくして私たちというテント(壁の中)において、撒かれた種であるキリストが増殖するのである。まことにエロヒムの増殖を増殖するとあるとおりである(Col 2:19)。
Exchange the Power Source!

あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。-マタイ22:29

「内なる、霊的な美に注意せよ。それは表情に反映するから。」-ドロレス・デル・リオ
彼女は1920年代のメキシコ出身の女優。聖書の「力(=フォース)」には何種類かあるが、デュナミスは美徳だ。聖霊派がよくやる念を込めた悪霊追い出しや、金歯金粉、天使の羽根が舞うことなどではない。長血を患う女がフェイスによりジーザスにタッチしたとき、この美徳が流れ出て、彼女を癒した。われわれの内なるキリストこそがデュナミスである。
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力(デュナミス)、神の知恵たるキリストなのである。-1コリント1:24
またエペソ1:19-20には4種類の力が出ている。
and what the transcendent greatness of His power (dunamis) for us who are believing, in accord with the operation (energeo) of the might (ischus) of His strength (kratos), which is operative (energeo) in the Christ, rousing Him from among the dead and seating Him at His right hand among the celestials…-Eph 1:19-20
デュナミス、エネルゲオ、イストュス、クラトス。これについてはマイメッセをどうぞ。
聖霊様充満~、油注ぎ~とヒステリックに叫ぶ人たちに注意せよ!すでに油は注がれている、【頭】に。キリストの頭首権に服することこそが、油塗られるカギだ(Ps 133:1-5)。

さて、この聖句、岩波訳だと-
自らに備わった栄光と卓越した力によって私たちを召された方を、私たちが知ることにより、イエスの神的な力が私たちに生命と敬虔についてにすべてのことを与えている。この栄光と卓越した力によって、私たちには、貴い偉大な約束が与えられている。それは、これらにより、あなたがたが、この世界がもたらす、そして欲望がもたらす滅びから逃れて、〔イエスの〕神的な本性に参与するようになるためである。
さらに田川訳によれば-
我々をご自身の栄光と徳によって招き給うた方を認識することによって、生命及び敬虔へといたる一切の事柄を、その方の神的な力が我々に贈って下さったので、その栄光と徳によって尊く偉大な約束が我々に贈られたのであるが、それは、その栄光と徳によってあなた方が神的な質にあずかる者となるためでなのであれ、あなた方は此の世で欲望において朽ちることから免れるのであるが。
第一の「力」は”aretē”、意味は
From the same as G730; properly manliness (valor), that is, excellence (intrinsic or attributed): – praise, virtue.(Strong)
つまり、男らしさ、すなわち洗練さや徳。Thayerによれば
1) a virtuous course of thought, feeling and action
1a) virtue, moral goodness
2) any particular moral excellence, as modesty, purity
徳のある考え方、感じ方、行為を言う。第二の「力」は”dunamis”、
1) strength power, ability
1a) inherent power, power residing in a thing by virtue of its nature, or which a person or thing exerts and puts forth
1b) power for performing miracles
1c) moral power and excellence of soul
1d) the power and influence which belong to riches and wealth
1e) power and resources arising from numbers
1f) power consisting in or resting upon armies, forces, hosts
つまり魂の洗練性による力・能力であり、”aretē”とも重なる。単なるいわゆる力とかパワーではない。そこで続いて、「神の本性」あるいは「神的な質」に参与できるのである。この「本性」とか「質」とされているのは”phusis”、意味はStrongによれば
From G5453; growth (by germination or expansion), that is, (by implication) natural production (lineal descent); by extension a genus or sort; figuratively native disposition, constitution or usage: – ([man-]) kind, nature ([-al]).
Thayerでは
1) nature
1a) the nature of things, the force, laws, order of nature
1a) as opposed to what is monstrous, abnormal, perverse
1b) as opposed what has been produced by the art of man: the natural branches, i.e. branches by the operation of nature
1b) birth, physical origin
1c) a mode of feeling and acting which by long habit has become nature
1d) the sum of innate properties and powers by which one person differs from others, distinctive native peculiarities, natural
characteristics: the natural strength, ferocity, and intractability of beasts
まとめると「発芽による増殖・自然の生殖」また「事の性質・力・法則・秩序」である。ゆえに「神的な本性」とは「神から生み出された種の増殖とその力や法則」のことである。つまりエロヒム属の増殖である(⇒エロヒム属の誕生)。
神の増殖を増殖する。-コロサイ2:19(原文)
事実、Strongによれば”a genus”、すなわち「属」だ。エロヒム(Elohim)とYHWHの違いについてはすでに何度も指摘しているが、エロヒムは生物の分類のような一種の霊的生命体のカテゴリーを指す。Dr.Heiserによれば「領域(sphere)」である。対してYHWHは父・子・聖霊にいます最も高きエロヒムの固有名詞だ。その意味は「ある(I-AM)」あるいは「在」である。他のエロヒムはもちろんYHWHにより創造された(⇒神の新創造セミナーII)。
かくしてヤコブやヨハネはこう証言する-
主は意図して我々を真理のロゴスによって生み出し給うたのだ。-ヤコブ1:18(田川訳)
神から生まれた者はみな罪をなすことがない[1] … Continue reading。神の種がその者の中にとどまっているからである。だから罪をなすことはありえない。神から生まれたからである。-1ヨハネ3:9(ibid)
大切なのは生まれること。それは生命現象であり、われわれはYHWHエロヒムの霊のDNAを分かち与えられたエロヒム属である。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。-1ヨハネ4:13(新共同訳旧版)
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたはエロヒムである』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、エロヒムといわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)・・・-ヨハネ10:34-35
この「託された」と訳されている単語は”ginomai”で、Thayerによれば
1) to become, i.e. to come into existence, begin to be, receive being
2) to become, i.e. to come to pass, happen
2a) of events
3) to arise, appear in history, come upon the stage
3a) of men appearing in public
4) to be made, finished
4a) of miracles, to be performed, wrought
5) to become, be made
「あらしめられる」あるいは「なる」と言うべきであり、ロゴスがうちにあらしめられるようになった者たちはエロヒムである。ロゴスとは種、すなわち”sperma”、精子である。その本質はDNA。すべてはこのYHWHエロヒムのDNAが発現することによってなされる(Mark 4:26-29)。神のわざはわれわれのうちに生きるYHWHが私たちの魂と血肉とを通して現れ出ることによるのだ[2] … Continue reading。ゆえにパウロはこう証する-
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1コリント15:10
究極的にジーザスは言われた-
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。-ヨハネ14:12
それは内なる神を働き出すこと。これが恵みのわざである。敬虔(eusebeia)の奥義とは[3] … Continue reading、肉において現れる神である(1Tim 3:16)。これを初穂としてデモンストレーションされたのがジーザスその方である。
神に愛される子供として、神をエミュレートする者となりなさい。-エペソ5:1
ここは通常は「神に倣う者」とあるが、それでは人間の真似をする猿である(⇒生み出された子として神をエミュレートする)。いのちのレベルが異なる。エロヒムなるYHWHを人間のいのち(=アダム属のいのち)でどうして真似し得ようか。この聖句の意味は「生み出された子としてエロヒムをエミュレートする」のである。
それはちょうど無骨なWindowsマシンにおいてハイセンスなMacOSを走らせ、Macのソフトを働かせることができる。これをエミュレートと言う。われわれの肉(体-魂複合体)において、エロヒム属の霊のうちに住まわれるYHWHエロヒムが生きてくれる。私の魂と体を通してYHWHの思い・意志・感情が言動として表出されるのだ(⇒霊の機能と魂・体との相互作用について)。
人間ジーザスは100%父を現された(John 1:14)。ここの「現された」の原文は”exēgeomai”、意味は”to consider out (aloud), that is, rehearse, unfold: – declare, tell”(Strong)、”to lead out, be leader, go before”(Thayer)である。つまり父を導き出し、リハーサルしたのだ。これこそエミュレートの意味である。ジーザスの言葉と業が彼由来のものではなく、父のものであったように(John 14:10)、われわれの言動すべては、いのちを与える霊となられたキリスト由来のものである(1Cor 15:5)。そのために聖霊が与えられた-
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」-ヨハネ16:13-15
聖霊はジーザスの言葉とわざを私のうちで証しされる霊である(⇒聖霊のメモリー)。父と子の関係を、キリストと私の関係に平行移動すればよろしい。だからジーザスは言われた-
父がわたしを愛されたのと同じ程度にわたしもあなたがたを愛する。-ヨハネ15:9(修正は私による)
父がわたしをお遣わしになったと同じ程度に、わたしもあなたがたを遣わす。」-同20:21(同)
かくして聖書が啓示するのはキリスト教なる宗教体系などでは決してなく、十字架の死と復活を通し、アダム系人類のわれわれの死んでいた霊にご自分のいのち(Zoe)をインプラントし、新しいキリスト系人類として生み出し、そのいのちが私たちの霊のうちから魂、さらに体へと成長し、われわれを通して表現されることである。こうしてわれわれは地上におけるYHWHエロヒムのミラー(The Mirror Bible)あるいはイメージャー(Dr.Heiser)とされるのである。YHWHエロヒムはご自身のDNAを地上において拡大増殖されるのだ。これこそがキリストの充満たるエクレシアであり(Eph 1:23)、神のオイコノミヤであり(Eph 1:10)、神の国の拡大である。

これは一昨日の証し。聖霊派では念を込めて「悪霊、出ろ~」とか、「ガンよ、癒されよ~」とか、やや見苦しいことを行う。あたかも恐山のイタコか、沖縄のユタあたりのような雰囲気を醸す。極私的には聖霊派のあの臭いは耐え難いものである。徹夜祈祷とか、早天祈祷とか、そもそも祈祷なる単語自体がキモイというの率直な感覚だ。
しかし、YHWHのワザは、イタコやユタのように念を込めた祈祷などは不要。デュナミス(=美徳・virtu)の流れで、こちらの状態とは関係なくスーっとなされる。だから、末期ガンの癒しがなされる時も、アレ?って感じ。デュナミスの流れに触れるには脱力すること。主の業はすべてエクレセレントなのだ[1]デュナミスの意味は、力や能力、そして魂の洗練性をも意味する。。


「内なる、霊的な美に注意せよ。それは表情に反映するから。」-ドロレス・デル・リオ
彼女は1920年代のメキシコ出身の女優。聖書の「力(=フォース)」には何種類かあるが、デュナミスは美徳だ。聖霊派がよくやる念を込めた悪霊追い出しや、金歯金粉、天使の羽根が舞うことなどではない。長血を患う女がフェイスによりジーザスにタッチしたとき、この美徳が流れ出て、彼女を癒した。われわれの内なるキリストこそがデュナミスである。
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力(デュナミス)、神の知恵たるキリストなのである。
1Cor 1:24
またエペソ書には4種類の力が出ている。
“and what the transcendent greatness of His power (dunamis) for us who are believing, in accord with the operation (energeo) of the might (ischus) of His strength (kratos), which is operative (energeo) in the Christ, rousing Him from among the dead and seating Him at His right hand among the celestials…”
Eph 1:19-20
デュナミス、エネルゲオ、イストュス、クラトス。これについては今週のマイメッセをどうぞ。

聖霊派では聖霊とは力を与える存在。だから「主の名によって悪霊よ、出ろ~」とかやる。祈りに念が籠ってる。しかし聖霊はまず第一にイエスを証しする霊である。
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。
しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。-John 14:16-21
そして-
その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。-John 16:14
聖霊は単に神の力ではなく、本質的にはジーザスを証しする霊である[1] … Continue reading。ゆえにキリストの御霊、イエスの御霊と呼ばれる。ジーザスが私のうちに生きるので、私たちも生きるのである。かくしてキリストは私たちのいのちである。
あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。-Col 3:3-4
かくして神の国はいのちとしてのキリストであり、キリストこそが神の永遠のご計画である。ゆえにマルコ書にあるとおり。
神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:29-29
一方で神の国は力(デュナミス)による統治である。御心が天になる通り、地にもなるように、と。天のリアリティーを地上に現出させること。それは再建主義のいわゆる統治主義ではない。あくまでもいのちにある統治だ。
もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。-Rom 5:17
罪により死が支配して、人々をその恐れの中に束縛している地上に、いのちをもたらし、死をも支配すること。
イエスは・・・こう命じられた[2] … Continue reading。「・・・行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。-Matt 10:7-8
これはキリスト教なる宗教の拡大ではない。むしろキリスト教は神の国の現出を阻害している。あれこれの神学や伝統や儀式などによって。神の国はロゴスのうちにはない。ドュナミスのうちにこそある。あれが正しいこれが間違っていると不毛な論議する現在のキリスト教、一方でなんでもOK、神に至る道はイエスの御名に限らない、モスレムと同じ神を礼拝している・・・・。
ある人が言っていた:
けだし名言。
彼は御父を100%現わされた。彼の言動こそが天の御心である。私は白いキリスト教と呼んでいるいわゆる西方の正統神学なるマトリックスは天のマトリックスとは別物である。それはダイナミックな神の国のいのちの躍動そのものである。
そして
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。-Heb 13:8
References[+]
↑1 | かの『聖霊様、おはようございます』で一世を風靡したベニー・ヒンは自分の教えの誤りを悔い改め、聖霊を単独で求めることは誤り。ジーザスを呼び求めれば聖霊が働く。聖霊は「ジーザス・アンリミテッド」だと言った。これは実に同意である。かつて『リバ新』で論説委員をしていた際、私が主張していたことである。まことに「聖霊派の聖霊知らず」である。 |
---|---|
↑2 | この命令は12弟子に対する限定的なものとするむきがある。しかし、マタイにはこうある「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」つまり使徒たちからすべての民に継承されるのだ。 |

ヨブは息子たちが神を呪ったかもしれないと思って捧げ物を捧げていた。
この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。-Job 1:5
一見きわめて信仰深いようであるが、彼の行動の根底には恐れがあるのだ。事実、彼は証ししている―
恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった。-Job 3:25
まことにFEAR(恐れ)とは「False(偽りの) Expectation(期待が) Appearing(現れて) Real(現実となる)こと」である。恐れはサタンの領域と直結し、死のパワーを解放する。対してフェイスは神の領域と直結し、いのちのパワーを解放する。
恐れの霊を受けてしまうと祈りが働かない。恐れを動機とする”祈り”はすでに恐れの霊によってドライブされているからだ。これは誰もが経験したものと思うが、祈りが単なる言葉の繰り返しになって、サブスタンスにタッチする感覚がないのだ。このような場合、さらに事態を悪化させるのは、自己弁護だ。霊的書物をよく知っていたり、頭脳がけっこう高級な方々によくみられる兆候であるが、アレコレの用語を用いて、自分の状態を分析したり、事態をあたかも客観的に冷静に把握しているかのような素振りを作ってしまうのだ。
大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる。-Job 38:14
われわれは地であり、そこに次から次へと様々なスタンプが押される。もちろん神の印も押されるのだが、しばしば敵の印を押されてしまうのだ。病気や欠乏や人間関係の縺れなど・・・、これらはこの世の霊が生み出しているマトリックスである。が、それに同意するとき、それは動かし得ないリアリティーかのように私たちに迫る。そのような状態で祈っても祈りは天に突き抜けることなく、空転して地に落ちてしまうのだ。その印は衣装をとっかえひっかえするように見かけの表現を様々に変える。しばしば自分で自己弁護のためにその装いを厚くしてしまうのだ。これがマインドの罠、要するに自縄自縛状態。自分のマインドの中に自分を幽閉してしまう。こうして神のデュナミスの流入をブロックするのだ。
はっきり言おう、フェイスがなかったら、ないと言えばよい。とても自分の病気が癒されるとは信じられないと本心を語ってしまうのだ。不思議なもので本心に立ち返るとき、神のタッチを受けるのだ。
そこで、彼は本心に立ち返って言った。-Luke 15:17
この瞬間、あれほどに縺れていた蜘蛛の巣がサッと解けてしまう。自分でどんなにもがいても得られなかったものが、瞬間的に「得た!」と分かる。すると平安がさあーっと心に満ち、喜びがこみ上げてくる。これがフェイスの瞬間だ。理屈ではない、ただ分かる。I know that I know. 終わった、得た、開かれた、解かれた、癒された、と分かる。それは完了形。サブスタンスを得た瞬間である。あとは時系列の中でこの物理的時空間にそれが現出してくる。もちろん瞬時に現れる場合もある。神のわざはすでに天地創世の時に完成しており、それがこの五感領域に現出するのだ。
もっとも神のわざは天地創世の時に完成していたのだ。-Heb 4:3
霊的な書物をたくさん読み、あるいは聖書の知識などは豊かに得ている人が、しばしば悲惨な事態を経験する場合が多い。その時に外から見ていると原因が分かるのだ。何が敵の侵入を許すポイントであるのか。敵が付け込む隙、フェイスの穴が見える。それが敵が接近する足台となる。ヨブのケースで明らかだが、引き寄せの法則的に自ら招いているのだ[1]ニューエイジで言われる用語の実質は元々は聖書由来なのだ。彼らはわれわれの本来のフェイスをパクっているだけである。。霊的知識とか霊的書物、あるいはフェイスの偉人たちの黙想集や証集などは役に立たない。あなたのフェイスが問われている! これはある意味崖っぷちであり、フェイスの有無が文字通り命運を決める。フェイスはきわめて単純。むしろややこしいリクツなどは知らない方がよいだろう。自己を偽らず、飾らず、単純に受けるだけ。これがフェイスを生む培地。まことに
天国は幼子のものである。-Mark 10:14
聖書を学ぶことも大いなる罠になる。聖書を知っていることはひとつのこと、フェイスを用いるのは別のことである。聖書をよく知っていてもフェイスのない人は山ほどいるのだ。御言葉は啓示、啓示は霊的領域を顕わに見せてくれる。それは言葉(ロゴス)の指し示すリアリティーに入り込み、それに直接タッチすることだ。このとき、神のデュナミスが流れ込むのが分かる。身体反応や情緒的反応として文字通り経験できるのだ。霊的サブスタンスが五感の領域であるこの物理的時空間に現出する。
それを聞いて、わたしの内臓は震え/その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び/わたしの立っているところは揺れ動いた。-Hab 3:16
これがフェイスのパワー。その意味で聖書の知識というマトリックスからも解かれる必要があるのだ。聖書を介して単なる知識ではなく、啓示を得ること、それはすなわち霊的領域のサブスタンスをゲットし、そのリアリティーに触れることだ。そのために霊をチューニングし、鋭敏にする必要がある。まことに神のバイブレーションにより地を柔らかくほぐされ[2]創世記1章2節の「神の霊が動いていた」の原意は、リラックスして振動しているだ。つまりバイブレーションである(☞詳細はこちらを)。、聖霊によるレーマを聞くことができる者は幸いである。

前にメッセにて紹介したコレ、シナジー効果。英語ではSynergy Effect。Wikiにはこうある:
相乗効果(そうじょうこうか、シナジー、英: synergy)とは、ある要素が他の要素と合わさる事によって単体で得られる以上の結果を上げること。反義語は相殺、中和。相乗効果により、全体の最適化、効率化が発揮される。自然、経済、社会、など様々な分野で、この効果は測される。
まあ、ニッポンキリスト教の神学や説教ではまず聞かれない単語であろう。最近、Dr.Lukeはやたらと「バイブレーション」とか「ポータル」とか「チューニング」とか、ニューエイジ系の単語を連発していると言われる向きもあろうが、それは彼らが聖書を知らないだけ。すべて聖書の中にある単語である。
で、このシナジー効果なる御言葉はどこにあるのか。
なぜならば、わたしたちは〔まさに〕神の同労者であり、あなたがたは〔まさに〕神の畑、神の建物なのだからである。-1Cor 3:9(岩波訳)
この同労者と訳された原語は”sunergos“=”sun”(union,with,together)+”ergon”(energy,work)だ。つまりSynenegyだ。それはエネルギーを共有して行動すること。ポイントはこうだ。アレコレのいわゆる奉仕活動に没頭するキリスト教界の常識に反して、私たちは何もしないこと。これがカギ。ジーザス自身が言われた:
はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。-John 5:19
「できる・できない」を示すギリシャ語は”dunamai”、それは”dunamis”つまりパワーがないということ。ジーザスは自分では何もできなかったのだ。が、彼は全能のわざを行った。われわれは結構自分でいろいろとできてしまう。が、死者を生かすことはまだしたことがない。カギは何か。エネルギーの問題である。
あのニッポンキリスト教でよく聞かれる「自我を否みぃ~!」がまったくの嘘である事を10年以上前から指摘しているが、われわれの魂の機能(思い・感情・意志)の機能停止することと勘違いしている人がかなりいる。自己の死とかも同じように無感覚や無活動と思い違いをしているのだ。
十字架は自己の死を実体化するが、それはエネルギーの源泉の切り替えである。ナチュラルな魂や体のパワーによる活動ではなく、スーパーナチュラルな神の霊のパワーによって生きること。これが十字架の本質(⇒自己における死について)。
煙をもうもうと吐き出す10馬力のジーゼルエンジンによらず、1,000馬力のクリーンな水素ガスエンジンに切り替えることなのだ。つまりナチュラルからスーパーナチュラルへの転換、これが十字架。倫理や道徳や宗教のオハナシではまったくない。
私たちはすでにスーパーナチュラルな誕生によりニュークリーチャーとされ、スーパーヒューマンにしてネオ・ホモサピエンスである。が、この大脳と同期する魂がこれまでの生き方のパターン、つまりマトリックスを捨てきれないのだ。これでカウンセリングや精神科や臨床心理などの罠に陥るのだ(⇒信仰と精神分析について)。
ゆえに依然として10馬力ジーゼルで生きようとして、周りに煙害と悪臭をまき散らす。これは「肉(flesh)の慣性」による(⇒肉について)。ちょっと待て、車は急に止まれない、というわけ。かくしてここを切り分けるのが十字架なのだ(⇒自己を否むことについておよび死と復活の原則について)。それはすべてフェイスによる。フェイスはその霊的サブスタンスを実体化するのだ(Heb 11:1)。
カギがお分かりでしょうか。それはエネルギーの問題、私たちは神のデゥナミスによって生きる。私たちはすでにキリストのマインドを持っているゆえに、それがアクティベーションされてナチュラルなマインドがスーパーナチュラルなマインドに座を譲るとき、キリストのマインド、感情、そして意志決定が私たちの魂(soul)において再現する。
つまりキリストが私たちの魂と体を通して生きるのだ。これがエペソ5:1(Eph 5:1)にある神をエミュレーションすること。そもそもジーザスは父をエミュレーションしたのだから。かくしてパウロは言っている、生きるとはキリストだ、と(Phil 1:21、新共同訳)。これを「キリストのために生きる」とか宗教的に勝手に解釈しないように。To Live is Christ! 聖書は生命現象の書なのだから。
私たちが父・子・聖霊の三位にいます神、YHWH=The most high Elohimのエネルギー(Dunamis)にチューニング(共鳴)し、そのインパーテーション(分与)を受ける時、Elohim属とされた新しい人類である私たちの霊において神の霊とのシナジー効果が起きる。さらに霊から魂・体へとデュナミスが流れ、このとき、何かが起きるのだ!
わたしを信じる者はわたしが行うわざを行い、さらにそれより大いなるわざを行う。わたしが御父のもとに行くからだ。-John 14:12
神はその生命現象に参加せよ、と私たちを招いておられる。「きよく・まずしく・ただしく・・・」といった宗教の霊から解かれよ!キリストは私たちを自由へと召し出してくださったのだから! パウロは言う―
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。-Phil 2:13
あなたのその願いを祈りと賛美と感謝によって大切に育てること[1] … Continue reading。それは神のエネルギーを注入されて健やかに育ち、豊かな実を結ぶのだ。これこそが霊のシナジー効果である。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしに住んでおり、わたしもその人に住んでいれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。-John 15:5


YHWHエロヒムのわざは時空間を超える。
もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-Heb 4:3
地上に住む者で、天地創造の時から屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。-Rev 13:8[1]邦訳では「天地創世の時から」を「その名が記されていない」にかけるが、これは「屠られた小羊」にかけるべきである。
イエスはラザロをよみがえらせるとき、すでに自分は復活であると宣言した(John 11:25)。はあ? イエスよ、あなたはまだ十字架についていないではありませんか? とナチュラルなマインドは考える。ノー! 確かにイエスはその後肉体をもって十字架につかれた。しかし神のサブスタンスとしてはすでに復活だったのだ! 何度も言うが、フェイスは時空間を超える永遠のNOW! イエスはつねにフェイスによって生きていた。彼はクロノスではなく、カイロスに生きていたのだ[2]クロノスは時計で刻まれる物理的時間、カイロスは神の時であり、それはクロノスを超えた永遠の現在の世界だ。。事実、KJVでは-
And all that dwell upon the earth shall worship him, whose names are not written in the book of life of the Lamb slain from the foundation of the world. –Rev 13:8
世界の基が置かれる時からほふられていた小羊の書に名の記されていない者は・・・が正解。いつも言うが日本語訳はよろしくない。世界の基が置かれる時にすでに小羊はほふられていたのだ! 復活は別にイースターに起こったわけではない。それは単にイエスが肉体を持って復活された日であって、霊的リアリティーとしてはすでに彼は復活だったのだ!
私たちはそのキリストの死と復活に包括されて、死んで、復活した存在(Rom 6:1-11)。これから未来において復活するのではない。すでに私たちも復活したのだ。Are you with me? その復活のパワー、デュナミスはどれほどのものであるかを知れ、とパウロは言う。デュナミスはダイナマイトの語源、それは爆発するのだ!
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。-Eph 1:19-21
われわれはこのキリストといっしょに天の座につかされているのだ(Eph 2:6)! まことにわれわれのマインドでは理解不能、スーパーナチュラル。が、信じることはできる。そのデユナミスに与るカギは、自分を絶えず脱ぎ捨てること。脱皮だ。自分を大事大事している人は恐れの霊の餌食になる。おくびょうな者は神の国に入ることはできないのだ(Rev 21:8)。
だから、古い人の会話を脱ぎ捨て、それは情欲の欺きによるものであり、思いの霊から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を着て、真理に基づいた義と真の聖なる生活を送るようにしなければなりません。-Eph 4:22-24(私訳)
情欲の欺きとは別に動物的欲求のことだけを言うのではない。先週のメッセでも語ったが、五感の欺きである。また邦語訳では「心の底から新たにされて」とあるが、これも違う。思いの霊が新たにされるである。われわれのマインドは霊から自立したがるが、そのマインドに霊が染み込むことを言うのだ。私たちのマインドは常に何か会話をしている。それが自分の言動に現れる。これが生き方である。つまりマインドに霊の浸透を受けて、そのアダム系の会話を改めることが新しい人を着ること。そのときキリストのマインドが私たちのマインドを支配するのだ。
正直に言うが、イースターを祭るって、ああ、この人は復活のパワーを知らないなあ、と分かってしまう。日々、瞬間瞬間が復活だ。それはスーパーナチュラルな五感を超えた世界の経験なのだ。WOW! そのとき、神のデュナミスをわれわれは経験する。それは内に仕掛けられたダイナマイト、スイッチを入れて自爆せよ!


ボクシ:Dr.Lukeは語り出された言葉は無為に帰ることなく、言い送ったことを成し遂げる(Isa 55:11)と言うが、自分を神にするのか?
小生:では、あなたは誰の言葉を語っているのですか?
ボクシ:もちろん神の言葉だ。ボクシは神の言葉を取り次ぐことが使命だ。
この会話の本質、分かります? 彼の言う神の言葉とは聖書の文字。表向き聖書の言葉(ロゴス)を文字通りになぞるだけ。が、ジーザスは言われた、わたしの語った言葉(レーマ)は霊であり、いのちであると(John 6:63)。つまり言葉には霊を乗せる必要があるのだ。それがフェイスによって語り出された言葉、つまりレーマ。
神の国はロゴスにではなく、デュナミスにある。-コリント4:20
この時、語り出された言葉は神の霊が塗り込まれたレーマとして、言い送った通りを成し遂げる。ゆえに今週のメッセでも触れたがルカ17章にあるとおり、フェイスは僕なのだ。いわゆる”Word of Faith”が異端だ、カルトだとヒステリックに叫ぶセンセイたち、あなたがたは自己撞着していることに早く気づいて下さいな。

クリスチャンの間で聖書解釈に致命的な違いが出ることがある。一番典型的なのが、プレミレとポストミレだ。イエスの再臨が千年期の前か後か。つまり現在が千年期なのか、否か。これはかなり本質的な相違だ。なぜ同じ聖書を読んでいて、かくも真反対の意見の対立が生まれるのか・・・。実に不思議だ。
が、極めれば、マインドの構成のあり方の差に帰着するのだ。われわれのマインドがいかなるパラダイムにより、いかなるデータベースを構築し、いかなる物差しによって物事を測るのか。これにより感情が影響され、意志決定がなれる。同じ事態に立ち至っても、人によって行動がまちまちになるのだ。もし神の国の直接的介入を信じていなければ、ステージ4のガンになれば、ほとんど絶望だ。死を少しでも伸ばして、そのときを待つのみとなる。しかし神の国の介入を信じる者はステージ4のガンをも支配できる。
神は言われた、「地を治めよ」と(Gen 1:28)。「地」とはこの物質空間のことだ。最初のアダムはその権威を失ったが、最後のアダム(キリスト)はそれを終わらせ、第二の人イエスは天と地のあらゆる権威を得た。そのキリストのうちに私たちは置かれ、またキリストは私たちのうちにいます。神の国はロゴスにではなく、デゥナミスにある(1Cor 4:20)。その復活の力(デュナミス)がわれわれのうちに働くのだ(Eph 1:19-20)!
神の国はすでに、<今、ここに>現存する。私たちはそのリアリティーあるいはサブスタンスのうちに生きているのだ。そしてこれが私たちを通して流れ出るならば、私たちの行くところどこでも神の国が臨在するようになる。キリストはそのことをエクレシアに託されたのだ(Eph 1:21-23)。
神の国の現出があるところでは、ハンカチに触れただけで、あるいは影に触れるだけであらゆる病が癒され、悪霊が追い出された(Acts 5:15;19:12)。クリスチャンたちがそろそろ言葉遊びはやめて、真にこの神の国のデュナミスを追求し、それを証明するべき時が来ていると最近深く感じている。
マインドのマトリックスが異なる者同士がいかに議論したところで、同じ結論になるはずもない。再度、神の国はロゴスにではなく、デュナミスのうちにある。その証はサタンにとってはもっとも恐るべきこと。だからクリスチャンをして不毛な議論に閉じ込めておこうとするのだ。その力の現れこそ、終わりの時代に生きるわれわれの召命の本質である。
神の御旨にチューニングされるためには、思い(マインド)が作り変えられている必要がある。私たちのマインド(Gk.nous)がリニューイングされていない限り、霊的知識も洞察も得ることができず、成長が止まる。同じところをグルグル回るだけのクルシチャン生活に陥るのだ。この物理的時空間であれこれしても、霊的領域にタッチしていないならば、永遠の価値はない。目に見えるものはテンポラリー、目に見えないものがエターナルなのだから。
私的に言えば、マインドは霊と魂の接点だ。Jessie Pen-Lewisはこう言っている、”If your spirit is closed, it is because your nous is closed.(霊が閉ざされているのは、マインドが閉じているからだ)”と。WoF(Word of Faith)を拒絶する人はそのようなマインドの構造を持っているゆえ。癒しに抵抗を覚える人もそのようなマインドの構造を捨てないから。私たちは自分の魂を否み、特にマインドが御言葉によって再構成されるとき、霊的世界にタッチできるのだ。霊的世界のサブスタンスをつかんで、自分の経験とし得る。マインドが開かれていればいるほど、霊的世界も開けるし、その豊かさにも与れるのだ。かくして富んでいる者はますます・・・だ。