- 2025-06-14
iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
タグ: フェイス

本書『神の新創造』、2015年に初版が出て、現在二刷目、まもなく三刷が出る予定です。ご愛顧ありがとうございます。
本書はいわゆるキリスト教の正統教義や儀式や慣習を説いたものではなく、ダイレクトに聖書の御言葉を解き明かしております。ほぼ4割は御言葉で占められています。
日本基督教団の某牧師が、「こんな神学を学んだことはない」とのたまったそうですが、御言葉を読んでないのでしょうか? ちなみにこのセンセイは「21世紀に日本に生きる自分と二千年前の中東に生きたイエスと何の関係があるのかと時々思う」と言われており、うつ病で医者の言葉を頼りとして生きているのだとか。
ニッポンキリスト教の刷り込みのない方やニッポンキリスト教に懲りてしまった方、そして何よりもスピリチュアルを追及しているニューエイジなどの方にお薦めできる本です。
◯聖書は読んだことがなかったので、まずこれを読もうと思い、購入しました。
めっちゃめちゃ分かり易く、引き込まれます。聖書のセカイにはまります。
◯自然、科学、聖書、人間の関係がわかりやすい
聖書は単なる古い書物ではなく、現在の自分、人間が生きる意味、自然、科学が全てつながっているのだということがわかります。今までのキリスト教の関連本とは全く違いました。ぜひ、生きているうちに読んでもらいたい一冊。
◯聖書の本質がわかりやすくまとまっています
壮大な聖書の内容が一冊にまとまっていて、しかもとてもわかりやすく説明されています。
ローマ人への手紙に書かれている、罪からの解放のメカニズムがよくわかりました。
ただひたすらに、キリストにフォーカスすることが大事だと気付かされる一冊。
牧師や教会員との関係で息苦しさを感じている人に希望を与え、教会に通うだけで満足している人には警鐘を鳴らす。キリストを信じていると自負する人なら、一度は読んでみるべき。
◯知りたかったことが知れた
面白くて、一気に2回読みました。この本で、聖書に書かれていることを科学的に信じるようになりました。
◯この本は、神学によって曇らされた現代キリスト教の改革。神の信を持て!その真意を伝えます。真理を求めるキリスト者必読!
◯最高の一冊
クリスチャンであるかないか、聖書の基礎知識があるとかないとか、教会に行ってるとかないとか、その様な事を無視して、是非人間なら、読んで欲しい本です。昔、ナルニア国物語で有名なCSルイスが「キリスト教の精髄」という本を出しましたが、ひょっとしたら、その名著を越えたかも知れない!
是非人間なら読んで欲しい!
◯YouTubeでいつも拝見していて買いました。
Dr.ルーク先生には、勇気や元気を貰えます! お話を聞いたり、ご本を読むうちに「キリストの本質」が学べます。何年教会へ通っても理解出来なかったことが、数か月で分かる感じがしました。キリストは死んだ「宗教」ではない、フェイスそのものです。人生観が変わります。
◯これを読んだら
職業牧師彼らの語りにTRUTHがないことがわかってきますし、聖書の読み方が全く変わります。どんな信仰書よりもオススメします。


注目すべきヨブ記と通底する神道神職の指摘-ヘブル11:1のフェイスに定冠詞はないがその意味は?
こちらの神職さんの発言、実に興味深い。まずは一読されたい。 9 …
こちらの神職さんの発言、実に興味深い。まずは一読されたい。
9割の日本人は勘違いしているけど「心配する」ことは、相手を呪うことと同じなんだよね
・子供の将来が心配
・夫の健康が心配 ・愛する人が無事でいられるか心配 もちろん心配って相手が好きで大事だから、生まれてしまう感情なんだけど… それは、
・子供が将来社会から落ちこぼれること
・夫が病気になってしまうこと
・愛する人が事件や事故にあうこと
これを想定してイメージしていることと同じなの 心配性の人は是非とも理解して欲しいことがあるのね
それは「人の意識が現実を創る」ってこと あなたが心配すればするほど、その現実を創造することになるんだよ だから… 心配するんじゃなくて「信じましょう!」
・この子の将来は安泰
・夫はずーっと人生を楽しめる
・愛する人は今日もちゃんと守られている
あなたがそう信じれば、ソウなりますよ
神はそれほどの力を人間に与えたのです
そしてその力を幸福な未来のために使いましょうよ
おおらかに幸福な未来を信じる!
これが神道的な生き方の基本です!
なんと面白いではないか。霊的法則を見事に喝破している。ヨブ記についてはすでに何度か書いているが、その悲劇のメカニズムはまさにこの方の指摘通りなのだ。
ヨブは正しい人であったが、サタンの訴えに対して神が許しを出したので、あのような悲劇を経験した。なぜ神は~・・・として、人間の不条理な実存的状況と神の意志との関係がうんちゃらかんちゃらって眉間に皺寄せる神学者たちのハマルティア論が誕生する。
しかしフェイスの法則から見れば実に単純なメカニズムである。彼はすでに息子たちのことを案じていた。また自分に不運がもたらされることを予期し、恐れていたのだ。ニューエイジ的に言えば、引き寄せの法則である。
事実、彼は-
こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。』と思ったからである。-Job 1:5
これは彼の敬虔な信仰の表明行為であったとするむきもあるが、それはハマルティア。書いてある通りに理解すべきであろう。そして彼には次々に災いがもたらされたが、これは神が意図されたことではない。ヨブのフェイスに穴がすでに開いており、そこにサタンがつけ込んのだ。むしろ神はヨブを守ろうとしている(Job 1:12)。
そしてヨブは 「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」Job 3:25)と告白する。まさにこれがヨブ記の本質なのだ。
”FEAR”(恐れ)とは”False Expectation Appearing Real”である。ネガティブ・フェイスとも言える。現にガンになる人はしばしば、やっぱりだと呟くことが多いと聞く。例えばこの方。
「あなたはがんです」と言われた瞬間、いちばん最初に思ったのは、正直に言うと「やっと私の番がきたな」でした。 私は小さいときから梅宮家のみんなががんにかかるのを見て育ち、いつか遺伝で自分もがんになると思っていました。父、梅宮辰夫は36歳で肺がんになり、4年前に81歳で逝去するまでがんと一緒に生きました。父の2人の妹もそれぞれ大腸がん、乳がんにり患しました。 だから、がんを告知されたときもあまり驚きませんでした。
想念は言葉として放出される際、霊が乗るのだ。これが日本語で言われる言霊である。ポジティブ・フェイスは聴いた御言葉にフェイスの霊を混ぜて(Heb 4:2)語り出すとき(2Cor 4:13)、それは御言葉のサブスタンスを実体化する。ヘブル語の言葉は”Dabar”であり、その意味は単にラベルとしての意味だけでなく、実体・実質の意味を持つ。
ヘブル11章1節のフェイスには定冠詞はない。つまりいわゆる聖書的フェイスに限るものではない。それはスピリチュアル・パワーとしての霊的能力を定義する。
「いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質・実体)、まだ観測されていない事実のエビデンス(現出)である。」-Heb 11:1(私訳)
これをいわゆる超能力者やニューエイジャーも用いているのだ。ただし、彼らがスピリチュアル・スフィアにコンタクトするチャネル(ポータル・門)はイエシュアではない。別のチャネルを用いている。つまり彼らのフェイスはリアルである。世のサイエンス的には「パラサイコロジー」と呼ばれる現象が生じる。これを頭から否定しかかるキリスト教徒は逆に見透かされているのだ。
かくして、人類は物理領域だけに生きる者たち(Sarxikos)、精神的領域に生きる者たち(Psuchikos)、そして霊的領域に生きる者たち(Pneumatikos)と分けられる。それぞれ、第一コリント書3章1節、2章14節。そして2章15節に啓示されているとおりである。神道者も十分に霊の領域の法則を知っており、それを用いているのだ。むしろキリスト教徒は空理空論の神学で霊の経験はほぼ欠如している。今のニッポンキリスト教界の惨状を見れば明らかであろう。
かつてニューエイジ的映画『スターウォーズ』に「フォース・アウェイクン」という作品があった。そして「フォースを使え!」と。彼らから霊的経験をゲットバックせよ。われわれは「フェイス・アウェイクン、フェイスを使え!」と。

最近、セレブにニューエイジに深く関わった方が来られている。彼らは霊的経験をかなり持っておられ、同時にニューエイジの危険性も熟知している。キリスト教会をあちこち彷徨ったが、オツムだけの教義で固められた宗教儀式であり、霊的に空疎であることを、バプテスマ1カ月後であるが見抜いている。
そう、ニューエイジャーはキリスト教徒などよりよほどフェイスを知っている。繰り返すが、ヘブル11:1のフェイスには定冠詞はない。それは一般名詞としての定義であり、彼らはシックスセンスである一般のフェイスを体験的に理解している。
Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.-Heb 11:1 (NKJV)
問題は、どのチャネルによるのか。あるいはどのポータル、つまり門を通るのか、である。彼はそれがジーザスであると分かった、と。われわれはジーザスという門を通して、出入りする。どこと、どこを?そう、この物理的時空間領域と霊的領域を、である。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。-John 10:9
ニューエイジが何をルーツとするか、ニッポン人はほとんど知らない。それは新しい時代、つまりキリストの時代の終焉を意味するのだ。キリストの時代は魚座の時代、そしてニューエイジの時代、水瓶座に支配が移ると。それは聖書のパクリ。ポータルも、チャネルも、バイブレーションも、サブスタンスも、マインドのパワーも、スピリットのパワーも、みな聖書にルーツがあるのだ。
実はニューエイジはジーザスが開いた。それは十字架の死と復活によるニュー・クリーチャーの誕生。十字架は霊的相転換。すべては新しくなった。ニューエイジャーに対して、私たちこそ真のニューエイジャーだと宣言すべきなのだ。
創価学会の方も霊的経験はいろいろとしてきたが、それはジーザスによるものではないことが分かった。真のポータルはジーザスだと。彼らの経験を否定するキリスト教徒がいるが、むしろ自分の霊的無知を証明してしまうのだ。彼らもフェイスを知っているし、経験もしている。ただポータルが異なるのだ。

量子の状態は波動関数Φとして、いくつかの状態Φi(i=1,2,3…,n)の線形結合
Φ=α1Φ1+α2Φ2+…+αnΦn , α12+α22+…+αn2=1
で表わされる。その個々の状態 Φi は線形作用素ハミルトニアン H の固有関数として定義される。それはヒルベルト空間のベクトルであるが、その固有値 Ei がエネルギー準位である。つまり―
HΦi=EiΦi , i=1,2,…,n
私たちが観測するまでは、状態関数Φは量子化されている限りにおいてあらゆる可能性を有する。しかし観測した時点で[1] … Continue reading、量子状態は決定され、その固有値であるエネルギー順位Eiも決まる。これは場の理論として説明されている。
霊的サブスタンスも同じなのだ。罪のゆるし、病のいやし、必要の満たしなど、天の領域はあらゆる可能性を持ちつつ、霊的場における霊の波動関数として展開している。それはすでに成就された事実。霊的真理。
神の業は天地創世の時以来完成されている。-Heb 4:3
が、この物理世界においてはある人は癒しを受けず、ある人は末期ガンすらもきれいに癒される。なぜ?
要するにフェイスなのだ。量子力学においては「観測」という人間の側の働きかけが量子の状態を決定する。同じように霊的領域においてはフェイスという人間の働きかけがサブスタンスの状態を決定する。十字架で成し遂げられたあらゆる可能性が、それぞれの人のフェイスによってこの五感の領域に実体化あるいは物質化される程度は異なるのだ。神が不公平なのではない! 問題はフェイスの有無だ。
すでにすべては成し遂げられている。永遠は完成している。その永遠の領域におけるあらゆる可能性として展開している霊的波動(バイブレーション)をキャッチして、今、ここに、実体化するパワー、それがフェイス。まことにヘブル書にこうあるとおりだ―
今、フェイスとは願われる実体(サブスタンス)、目に見ていない事柄の現出(エビデンス)である。―Heb 11:1(私訳)
それはキリスト教なる宗教のオハナシなどでは全くない。量子力学が宗教ではないのと同じだ。
フェイスの覚醒
フェイスによる霊的サブスタンスの実体化。空理空論的キリスト教神学など学ぶより、量子力学を学んだ方がどれほど益になることであろう。





わたしの主張はキリスト教なるマトリックスをエクソダスせよ、というものだが、実は仏教でも同様の事象が起きている。つまり、今見ている仏教の光景は本来の釈迦牟尼の説いたものではないのだ。彼は自分を拝むなと教え、僧は葬式に関わるなとも指示している。死者を拝することなどあり得ない。
では、「仏」とは何か?
それは究極のリアリティーである。事の実相、実体であり、外見ではなくそれを作り出している縁起だ。ゆえに仏教では「色即是空」と見抜いている。「色」はそもそもナイ! それはブレインが作り出した幻想、クオリアである。その実体は振動数の異なる電磁波であり、光子である。これが「仏」だ。そこで現代物理学者は仏教に関心を示すのである。
原仏教の本質は徹底した認識論である。
仏教も人の心についてかなり深く考究している。フロイト以前から無意識の働きを指摘し、心の縁起を説いている。これについては道元の『正法眼蔵』を何度も紹介しているので参照されたい。
大脳生理学者の主観的知見とも一致が見いだせる。
また道元は時間論についても現代物理学の知見とほぼ同じ見解を示している。
さらに親鸞の『歎異抄』と聖書の共通項もある。
かつて私も禅にはかなり関わっており、静岡臨済寺の倉内松堂師と一緒の写真もご紹介したり、永平寺76世管主秦慧玉師と間接的に関係していることも前に書いた[3]俳優の滝田栄氏も倉内松堂師に師事していたとのことで亜ある。。と言うわけで、実は私も得度を考えたこともあったのだ。今でも雲水には憧れがあるし、禅寺の生活には実に心惹かれる次第。彼らは野心に満ちて脂ぎった牧師先生よりもはるかにサラッと生きている。一言で言えば、捨てる生活、清々として。

元々、仏教では礼拝対象はない。各自自らが行を積んで自分の内なる仏性(真の自分や事の実相)に目覚めること―それがすべて。
しかるに道元の『正法眼蔵弁道話仏性の巻』によると、仏性とは
釋迦牟尼佛言、一切衆生、悉有佛性、如來常住、無有變易
すなわち、すべての衆生・事物が有しているが、
修せざるには現れず、証せざるには得ることなし
われわれは生まれてきたこの方、五感による知覚と認知により、自分の内側に内的世界のモデル(模型)を構築している。このモデルに従って人や事を判断して、好き嫌いや、喜びと悲しみなどを味わうのだ。よってそれらの感情は極めて根拠がないものだ。そこでパウロは「世の形に構成されてはならない。マインドを刷新し、造り変えてもらいなさい(メタモルフォーシス)」(Rom 12:2)と言う(☞マインドに関する記事群)。
禅においては、もちろんZOEを得てはいないし、アダム系のままではあるが、いわゆる「行」を積むことによりこの構築された自身の世界観をいったん解体し[4] … Continue reading、改めて自然に沿った、いわゆるありのままの歪みのない世界観を作り直す。人や事の外面ではなく、その実相・実体・真実を観る心の姿勢である。これはローマ書1章20節にも通じる(Rom 1:20)。
これが回心(えしん)であり、それは仏性を見出すことである。
道元が創始した曹洞宗の永平寺の生活はすべて規則尽くめである。朝四時に起きて、只座る。これを「只管打座」と言うが、悟りだとか解脱とかをも求めない(これらを求めることが迷妄だとする)で只座る。そして作務(さむ)。食事作法もトイレの入り方、風呂の入り方など、すべてが規則あるいは作法に従った生活。これらは「典座(てんぞ)教訓」・「辧道法(べんどうほう)」「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」などと言われる。
目指すは道元の『正法眼蔵現成公案』によれば
自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。佛のまさしく佛なるときは、自己は佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。
身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
つまり自分の意志の力や計らいによって法を掴み、法に乗ろうと努めるのではなく、法が先に働いて、それに応じることが悟りであると。よくクリスチャンも、「ロマ書8章のいのちの御霊の法則に従うにはどうすればよいのか」と問う、そこには自己がありありと生きてしまっている。自分が法則に従うと。
またガラテヤ2章の20節には「生きているのはもはや私ではなくキリストだ。今、肉にあって生きる私は御子に対する信仰によって生きる」と邦誤訳にあるが、ここにも自己がありありと生きてしまっている。生きているのは私ではないのに、私が御子に対して信仰するというわけだ。「悔いのない悔い改め」とか、ニッポンキ業界では当たり前にこの種の自己矛盾を起こしているが、それすら気づいていないのが致命的。何度も言うが、「御子に対する信仰」ではなく、「御子の信にあって(in)生きる」のだ。つまり自己を忘れ、自己を脱落して、法が自己を証してくれる。
身心脱落、脱落身心[5]この生き方は中動態的生き方とも言え、脳科学的にはデフォル・トネットワークモードとも言える。☞

この時に展開する主観的時間論は同「有事の巻」によれば-
たき木ははひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり、かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生(しょう)とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
前後裁断せり。「時間は幻想である」とアインシュタインも指摘している。時間の前後は物理的には無意味なのだ。すなわち主観的時間としても、私たちが生きることができるのは、後悔や傷の残る過去でもなく、不安や思い煩いに満ちた未来でもない。ただ今に生きる。大拙的には「アブソリュート・ナウ」。
さらに道元は指摘する-
生死のなかに仏あれば、生死なし。またいはく、生死のなかに仏なければ、生死にまどわず。
善と悪、生と死と言った二元論を越えたところに生きる、それが仏であると。まことに人類の悲惨の原因は善と悪を知る知識の木の実を食したことなのだ。
ただし、禅ではここまで
イエシュアは善と悪を超えたいのちの領域へとわれわれを跳躍させてくださったのだ。ここに禅者と基督者の致命的差異がある。
References[+]
↑1, ↑2 | John Rockは経験論的認識論を提唱。人は生まれたままではタブララサ(白板)であり、経験により世界を認識するとする。対象そのものが持つ性質を第一性質、主観的なそれを第二性質とし、第二性質のみをわれわれは知るとした。現代的にはクオリアである。光の本質はある波長の電磁波であるが、脳はそれを色として構成する。まさに「色即是空」だ。 |
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↑3 | 俳優の滝田栄氏も倉内松堂師に師事していたとのことで亜ある。 |
↑4 | 臨在宗では、知解分別(ちげふんべつ)では到底答えることのできない公案を用いて心理的に追い詰め、その世界観を一度壊す手法を取るが、公案禅あるいは看話禅という。対して只座り、掃除や食事の準備の中でそれを目論む禅を曹洞禅という。これを只管打坐と称する。いずれも論理や理屈や常識を超えたマインドの世界を志向する。 |
↑5 | この生き方は中動態的生き方とも言え、脳科学的にはデフォル・トネットワークモードとも言える。☞ |
↑6 | 私の著書『真理はあなたを自由する-ファクターXの再発見』でも、「信は完成した未来を現在に霊的に逆算する」と書いた。 |


すでに召された再建主義の富井氏との議論はかなり長期にわたった。ここでは繰り返さないが、私にとっては同じ聖書なる書物を読みながら、そこから構成する世界観が真逆であることに驚いた次第。いろいろ学ばせてもらったことも多々あるし、彼の生きるスタンスは評価していたのだ。
彼いわく、AD70年にすでにイエスは一度目の再臨をし、携挙も起きており、現在は千年期であると。この間に全世界が福音化され、国家司法もモーセ律法による体制となり、神の国が地上に設立されて後、二度目の「再臨」をされると(ポストミレ)。これでは「再々臨」ではないかと私は指摘したが、回答はなかった。
私の終末論に関する世界観も含めて、聖書を読む際には次のような原則に基づいて理解し、内的モデルを構成している[1] … Continue reading:
- 定律:書いてあることは書いてある通りに、書いてないことは無益な推論により断定あるいは判断をしない。
一応断ると、私はプレミレ(イエスの再臨後に千年期)に立つが、それは今までのところプレミレを捨てる理由がないからだ。再建主義の主張を詳細に調べても、プレミレを棄却するところまではいかない。もし今後、ポストミレを支持する十分なるエビデンスが与えられれば、私もポストミレに変わるかもしれない。
これは数理統計学的思考。すなわちある仮説H1を主張したい場合、その否定仮説H0(帰無仮説)を立てる。帰無仮説H0の上で今起きている事象の確率 p値を計算して、p が例えば5%未満のときH0が起きることはほぼあり得ないとしてH0を捨てる。これで危険率5%で(つまり実際にはH0が正しいことも5%はある)当初の仮説H1を否定し得ないとするわけだ(これを「「統計的に5%の有意水準にある」と言う)。
私の仮説H1はプレミレ。帰無仮説H0はポストミレ(この際、ア・ミレは除く)。聖書に書いてあること世界の諸現象からH0が成立する確率 p を推定すると、今のところきわめて低い。よって、判断ミスの危険が p だけ残る(これを第一種の過誤と呼ぶ)ことを承知の上で、ポストミレ説H0を捨ててプレミレ説H1は否定できないとしているのだ。これがサイエンティストの思考法だ。なお、第二種の過誤とは帰無仮説H0が間違っているのに棄却しない誤りのこと。
古い論争としては、<カルバンVS.アルミニウス>の議論がある。これについてはすでに何度も指摘している通り、人間の認識能力として判断し得ないが私の立場だ。判断する能力がないのに、判断するおろかさをキリスト教神学は犯す。人が救われるのは、神の意志(決定論)によるのか(二重予定説)、人の自由意志(偶然論)によるのか。これはちょうど光や電子などの量子が干渉という波動性を有すると共に、観測される時は粒子として、という量子論における二重性の問題と同様である。われわれはそれを解釈することなく、そのまま受け入れるしかない。
父、子、聖霊のいわゆる三位一体論も同様である。「父・子・聖霊は同時同在し、位格(ペルソナ)としては区別されるも本質においては同質(ホモウシオス)だ」と通常定式化されている。これはこれで良いと考えるが、創造者を被造物である人間の言葉の中に閉じ込めること自体、無理があると言うことは誰も分かるであろう。まあ、これが一応、「正統教会の立場」として、他の異端論と区別する錦の旗になるわけだ。これに加えて、二性一人格論(キリストは完全なる神性かつ完全なる人性を有する一人格をお持ちの方)なるキリスト論もあるが、理性でこれは理解できないであろう。平行移動してみれば、「人性と猿性を有する一人格なる存在」って何っ?てお話になるわけだから。

またセカンドチャンス論争なるものもある。生前は救いを受けなくても死後にすくわれるチャンスがあるとする説だ。これで互いに異端のレッテル貼りをしているニッポンキ業界の不毛かつ無意味な論争の例のひとつだが、かなり前に久保有政氏から上掲の本の旧版が送られてきた。『聖書的・・・』なるタイトルをみて読むまでもないと思ったが(「的」ってのが何によらず曲者)、極私的(おいおい、曲者だ)スタンスは定律のとおりである。
セコンド・エクソダスは書かれているが(Jer 16:14-17)、セコンド・チャンスは書かれていない。ただ過ぎ越しに二回チャンスがあるとは書いてある(Num 9:6-11)。これがセコンド・チャンスだ、と推論するのは自由だがぼくは判断しないし、それを論じる必要も覚えない。なぜなら死んだ家族のことを持ち出すのは信じたくない人の言い訳であることが多いからだ[2] … Continue reading。人数を集めたがるバベル憲章の下にあるセンセイにとっては大問題であるとは思う[3] … Continue reading。
フェイスは<今・ここ>で、あなた/わたしが主と御言葉にどう応答するか、これがすべて。ヨハネの運命はどうのと言うペテロにイエシュアが言われた言葉は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」だから(John 21:22)。
この意味でキルケゴールの言うとおり、まことに神の前の単独者として立つ必要があるのだ。現今のいわゆるキリスト教界がみんなで仲良く楽しいソーシャルサロン化あるいはタテノリガチャガチャのエンターテインメント化していることへの大きなチャレンジである。フェイスの歩みにおいて牧師任せにすることなく、内なる御霊に頼りつつ自ら聖書を読み解くスタンスを確立することこそ、霊的覚醒への道である。
References[+]
↑1 | サイエンスの思考形式は、演繹法と(不完全)帰納法がある。前者は「A=BかつB=CならばA=C」論理の流れを追う思考、後者は今まで観たカラスは黒だったから「カラスは黒い」とする思考(これには例外があることは分かるでしょう)。聖書もこのふたつの思考法で理解する必要があるが、しばしば、妄想や幻想が紛れ込むので面倒なのだ。 |
---|---|
↑2 | 使徒行伝には、「信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と書いてある。ぼくはこれを単純に信じるだけだ。その「家族」に亡くなった者も入るのか否か、それは知らない。 |
↑3 | 私の聖書の読み方をして、そんなちまちましたことやっても人は増えんよ、ドーンと行くんだ、ドーンととのたまった有名看板牧師がいたが、土建屋のおっさんかよと思ったものだ。 |

このビデオは昨今のグローバリズムのシカケを知るためのイントロとしては必見。あのWW2とは何だったのか。もっと言えば、日本にとって明治以降の近現代史とは何だったのか。現在、文科省検定教科書などがフェイクであることは論を待たないが、なおもこのビデオのような見方を「陰謀論」とする輩も多い。特にニッポンキ業界を代表する欺瞞に満ちた日本基督教団の左巻き優等生ボクシなどに見られるが、彼らは自身がMCされていることの病識が欠如している。

その世界史を見ることにおいて、林千勝氏と馬渕睦夫大使は微妙な見解の違いもあるが、<グローバリズムVS.ナショナリズム>の構図の基本的路線は一致している。両者ともユダヤ人あるいはユダヤ教の存在が特殊であるとするが、特に馬淵大使はユダヤ人に二種類あるとする。すなわちグローバリズム・ユダヤ人(以下、Gタイプ)とナショナリズム・ユダヤ人(以下、Nタイプ)。
Gタイプは金融の力をもって自分たちが世界のどこでも生きることができる舞台を作り上げることを目指す。いわゆる”Anywhere族”だ。これが林氏の指摘する世界をマネーの力で動かしているロスチャイルドやロックフェラー系として現れる。
Nタイプは「エレツ・イスラエル」、つまりあの地に帰還し、彼らの”メシア”(彼らはナザレのイエシュアを拒否している)を迎えて「ダビデ・ソロモンの栄光よ、再び!」と夢想する(これは幻想の中で”リバイバル音頭”を踊る連中と類似する)。いわゆる”Somewhere族”だ。(ただし、現国家としてのイスラエルを否定するユダヤ教原理主義者も存在している。)
WW2以後、GHQに仕掛けられたWGIP[1]War Guilty Information … Continue readingなどのシカケにより、日本は去勢されてニッポンと堕し[2] … Continue reading、経済的に利用価値があるとして、鵜飼の鵜のように現在も岸田などが用いられて搾取を受けている。この意味で名目上は主権独立国家とはされたものの、実質はGタイプの”植民地”である。
ニッポンキリスト教もこのワク組みにはめ込まれて、アメリカあたりの油注ぎの器にあやかって、オメデタイ連中が今もなお幻想の中で「リバイバル音頭」を踊らされている。
しかし、本来の日本はNタイプとは親和性があり、WW2の最中も杉浦千畝やフグ計画などによりユダヤ人を保護している。またNタイプのユダヤ人側も日本には親和性を覚えると証言している[3]ここにニッポンキ業界のその筋から日ユ同祖論なども生まれる素地がある。。
すでに述べているが、世界の動きは聖書のシナリオのとおりなのだ。
すなわちノア預言ー
(ハムの子)カナン(黒人の祖)は呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。セム(ユダヤ人の祖)の神(エロヒム)、主(YHWH)をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。神がヤフェト(白人の祖)の土地を広げ(ヤフェト)/セムの天幕に住まわせ/カナンはその奴隷となれ。-Gen 9:25-27
が白いキリスト教を掲げた帝国主義者が世界を自身の植民地とする潜在的ダイナミクスとなり、ゼカリヤ6章1-6節の四方に向かう四色の馬により配置される風(霊)が世界の地政学性質を決定している。
そして近現代史は、特にGタイプによるYHWHエロヒムの定めた民族と国境(および、性別や自然との関係)に関する秩序(使徒17:26;創世記1:26-27)に対する反逆、すなわち林氏も馬渕大使も指摘するとおり、再度”バベルの塔”の再建(世界統一への動き)を目論むダイナミクスにより展開されている。
ソドム・エジプト化したキリスト教もそのダイナミクスに組み込まれ、牧師たちはおのれの野心を実現するために「バベル憲章」の元で”信仰に励んで”いるのが現状。特に「一致~、いっち~、イッチー」とチャントするエキュメニカルなどはその最たる例である。
その舞台裏には人類を欺き、そそのかすあの者がいるのだ。
主(YHWH)なる神(エロヒム)が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』-Gen 3:1
この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。-Rev 12:9
時代を見るには創世記と啓示録がマストである。創世記では「種」が撒かれ、それから諸々の歴史を経て、啓示録では「実」が熟す。YHWHエロヒムの計画(オイコノミア)はご自身のいのち(Zoe)の増殖である。問題はYHWHの種とサタンの種、どちらを選ぶか、だ。
エロヒムの増殖を増殖する。-Col 2:19
それはキリスト教などというチンケな欺瞞の宗教ではない。イエシュアはその教祖でもなければ、聖書もその経典でもない。キリスト教が御名と聖書を専横しているに過ぎない。御名と御言葉を彼らから解放する必要がある。ゆえに私は「キリスト教をぶっこわーす!」とあえて挑発しているのだ。
ニュークリーチャーとされることはキリスト教に入信することでもないし、特定の「キリスト教の会」に属し、毎週つまらんボクシの説教を聴かされて、献金や奉仕に励むことでもない。<今・ここ>で、パーソナルにイエシュアに応答すればよいのだ。
現在、このイエシュアの予言の成就の兆候を見ていることは、誰も否定できないであろう。
イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。』-Matt 24:4-14
かくして世界は”すでに終わっている未来”、啓示録の世界へと突入しているわけである。
もっとも神のわざは天地創世の時から完成しているのである。-Heb 4:3
References[+]
↑1 | War Guilty Information Program、WW2は日本の悪行によるものとして、日本人の潜在意識に罪責感を植え付け、反日感情を持たせ、自己免疫疾患のように自身を痛めつけるように誘導するプログラム。これにより日本人の自我構造が分裂した。 |
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↑2 | 私は、日本はアメリカによる超長期対日政策により、開国=政治的去勢、原爆=軍事的去勢、バブル崩壊=経済的去勢、原発事故=倫理的去勢、と4回の去勢を受けていると考える。そのため、精神分析的に言えば、対米関係においてエディプス葛藤の克服に失敗しているために、自立はすでに不可能と見ている。 |
↑3 | ここにニッポンキ業界のその筋から日ユ同祖論なども生まれる素地がある。 |