iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
タグ: フェイス

- 引用聖句:1Pet 2:9;2Pet 1:3-4;Luke 9:41;11:29-32;John 6:54-56;Lev 17:11;John 17:6;11-12;8:24;28;Tit 3:5 etc.
- 次回:2023年2月5日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

これは興奮しますね、昨年のノーベル賞のテーマ、ベル方程式の破れ。それは局所的実在性というより、実在性そのものが壊れていることの証明であるとHotta先生。
一方で、素粒子物理学の加速器実験では、10のマイナス18乗メートル程度の微小な世界でも、局所性を保つ相対論的場の理論で正確に記述されていることが、既に知られています。したがってフェアな実証科学的立場をとるのならば、ベル不等式の破れは、局所性ではなく実在性が壊れていることを意味します。
— Masahiro Hotta (@hottaqu) January 6, 2023
では、なぜ宇宙は、またわれわれは”存在”するのか。聖書的に言えば、世界(アイオン)がYHWHエロヒムのレーマによりフレーム化されたように、現在も御子のレーマによって支えられているのだ。
彼(御子)は神の栄光の反映(流出)、〔神の〕実体の刻印であり、その力ある言葉(レーマ)によって万物を担っており・・・。-Heb 1:3(岩波訳)
つまりYHWHエロヒムのレーマの流出と反響がこの宇宙を成り立たせている根源である。それはYHWHエロヒムのバイブレーション。
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌 もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
この日はかの日に語りつたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響き(=バイブレーション)は全地にあまねく、その言葉(=ミレー)は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。-Ps 19:1-4
この宇宙には五感では知覚されずとも”何か”が満ちており、伝搬している。つまりYHWHエロヒムの弦の振動としてのマトリックスなのだ。それと感応して、受信すること。そして語り出すこと。これがフォティーゾである。それはうちなるいのちを与える霊となられたキリストを知ることである。
それは彼らの心が励まされ、愛において一つに結び合わされ、満ち溢れるばかりの、まったく欠けるところのない豊洞察に、神の奥儀の認識に、〔すなわち〕キリストの〔認識〕に至るように〔と願ってのことである〕。この方の中に知恵と知識のすべての宝隠されている。・・・キリストの内に〔こそ〕、神性のまったき充満が形態化して宿っており、あなたがたはキリスト-すなわちあらゆる支配と権勢の頭-にあって満々と満たされているのだから。・・・体全体はこの頭によりもろもろの関節と靭帯を通じて支えられ、一つに結び合わされ、神の成長を成長するのである。-Col 2:2-19(岩波訳)
その時、あなたはソレをゲットする! 2023年、あなたの思いが形になって現出する年である。


信(ピスティス)によって、この世(アイオン)が神の言葉(レーマ)によって造られたこと(フレーム化)、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。-Heb 11:3(岩波訳、一部改)

これ、ニューエイジでは「引き寄せの法則」などというが、真理である。いわゆるキリスト教の方が霊的法則に関しては無知というか、あえて避けている傾向がある。それで●●神学やxx神学でオツムだけの空転現象を起こしている。
主イエスの言葉はこうだ:あなたの信じたとおりになるように(Matt 8:13)。今の私たちが今の状態であるのは自分の信じていることの投影である。ヨブはそう証言している:自分の恐れていたことが起こった、と(Job 3:25)。よくガンに罹る人が言う言葉がある、恐れていたとおりになってしまったと・・・[1]FEARとはFalse(偽りの) Expectation(期待が) Appearing(現れて) Real(実際となる)である。。まことにネガティブなフェイスの実体化だ。神がヨブを試みたのではない。すでに彼のフェイスに穴が空いていた。そこにサタンが付け入ったのだ。そこで神はむしろヨブを保護した。神はなぜこんなに正しい人を試みるのか、とか、この人が癒されないのは信仰がないというのか、とか・・・これらの告発はその人のフェイスの穴を証明していている。
では、何をどう信じるのか。一生懸命「使徒信条」を告白してもそれは意味がない。あなたのサブ・コンシャス(無意識)の層で信じていることがあなたのホントのフェイスなのだから。いわゆる聖書勉強をしたところで、この層に変革がなされないのであれば、裏切られるだけであろう。よく、自分はこんなに一生懸命に聖書を学んでいるのに、そしてそれを一生懸命告白ているのに、思わしい結果が得られない、とつぶやく向きがある。はっきりと言うが、あなたは本当には信じていないのだ。イエスの打たれた傷により癒された、と何度も繰り返しても、あなたのサブ・コンシャスの層がそれを信じていない。そこにフェイスが生きていない。ゆえに癒しは現れない。まことに
人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。-Luke 6:45
あなたのフェイスは何気に、ふと口にするその言葉に現れている。むしろ意識のタガが外れたとき、あなたのフェイスは現れる。だから真に信じている人は、ふと意識が離れるとき、癒しを受けるのだ。癒されるのはいつか、いつか・・・と絶えず意識している人は、逆になかなか癒しが現れない。あなたの意識がむしろ邪魔をしているのだ。自分にとっての世界は自分自身のフェイスの投影である。あなたが、世の中はこうこう・・・・とつぶやくとき、それはあなたの内的世界を表現しているのだ。あなたはあなた自身に向かってつぶやいているにすぎない。今のあなたの状態、あなたの人生、あなたの健康・・・これらはすべてのあなたの自身のフェイスの投影である。まことに信じたとおりになっているのだ。
では、そこから抜ける鍵は。すでに何度も繰り返しているが、アイデンティティー、ポジション、アビリティ、インヘリタンスに覚醒すること。
意識の層だけでなく、無意識の層にまで聖霊のタッチを受けること。自然と、力を抜いている、何気な状態のときの自分の感情や言葉をよく観察すること。果たしてそれは御言葉の啓示にマッチしているかどうか。もし、いなかったら?ただちに、イエスの血をとり、悔い改めること。悔い改めとは後悔することではない[2]正確にはメタノイアとは思いを改めること。「悔い」の意味はない。「思い改め」が正確な訳である。。意識の向きを変えること。まずは意識的に御言葉の真理を選ぶ。このときに少なからず葛藤はある。が、聖霊に頼るのだ。このとき御霊は肉を処理してくださる(Gal 5:16-17)。それはスーパーナチュラル。究極的にサブ・コンシャスの層において御言葉が生きるとき、それは私のフェイスとなり、それが外側に反映される。まことにみ言葉どおりであると経験することになるのだ!
あなたの魂が繁栄しているようにあらゆることで恵まれ、繁栄するように-3John 1:2

現代では「キリスト教の会」はちんまりと社会化されて、無害無益なる世のひとつの宗教組織に堕している。「正統」なる看板を掲げて、ぼくのオリジナル標語「エホバ、統一、モルモンとは関係ありませーん」、「あなたの街のお気軽な教会へどなたでも歓迎します~」とね。
「そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった」(19:23)。
「さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります」(24:5)。
まことの福音を宣べるなら必ずただならぬ騒動を起こし、疫病のような人間、異端者の烙印を押される。今のように、いつもニコニコボクシ顔、なんでも愛して赦してみんなでおててつないで仲良くね~ってなものではない。
この点、かつての不敬事件を引き起こした内村鑑三などはその模範である。対して世に迎合した日本基督教団などは柏手を叩き、それにどころか主にある兄弟姉妹たちを官憲に売ったのだ。まことに主の目に忌まわしき存在である。
「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」。-ルカ16:15
時代も相当に煮詰まり、各分野において倒錯現象が起こり、善を悪、悪を善とする世相が当たり前になっている中で、真の福音を語るには官憲に売られるリスクすらあるのだ。
まことに腹をくくる時代である。


この記事はおもしろい。われわれは常に時間を意識、時間に追われていると感じている。だが、現代物理学の最前線では時間は幻想であると言う。過去・現在・未来は共にあるのだ。
われわれのフェイスも時空間を超える永遠のNOW。創世記の「はじめに」は時間の端点だが[1]この「はじめに」はベレシート、その中に全福音がコード化されていることは著書でも紹介している(☞「初めに神は」の秘密@YouTube)。、ヨハネの「はじめに」は時空を超える。我々は世(時空連続体)にはいるが、イエシュアと同じに世のものではない(ヨハネ17:14)。このデュアリティを意識することが世に飲み込まれない秘訣。
キリスト教なども世に属する宗教にすぎない。エクレシアはキリストの充満(Eph 1:23)、エロヒムの増殖(Col 2:19)。それはフィジカルな時空間を超えるスピリチュアルな生命現象である。世で何かを達成しようとか、世で自分を建て上げようとか、もがくのはやめよ、それは病むだけだから。スピリチュアルなアイデンティティを確立すること。
この完成している永遠のスピリチュアルなリアリティーを<今・ここ>で実体化することこそがフェイスである。すなわちそれは永遠が時空間に切り込む瞬間ともいえる。
道元の時間論は前後ありといえども裁断せり。現在に生きること。これを鈴木大拙はやはり永遠が切り込むと表現している。ただし彼の永遠はわれわれの意味での永遠ではないが。意識の流れを言うのだ。さらさらと流れ、何物にも心を留めおくことのない状態である。心は何かに固着する時に煩悶するものだ。
ちなみに左脳の梗塞でその機能を失った脳科学者の体験についてはこちらを参照されたい。左脳はシーケンシャルであるが、右脳は一瞬ですべてを把握する。過去を悔い、未来を案ずるのは左脳のシーケンシャルな機能のためだ。この意味でフェイスするときには多分脳の機能にも何か特徴的な現象が出現するものと思われる。
かくして私たちがキリストのうちにインプラントされ、キリストがうちに生きる経験は、まさに<今・ここ>におけるリアリティーであり、それは永遠の領域において生きているともいえるのだ。なぜならキリストは今、いのちを与える霊として(1Cor 15:45)、<今・ここ>に介入してくださるからである(Gal 2:20)。
References[+]
↑1 | この「はじめに」はベレシート、その中に全福音がコード化されていることは著書でも紹介している(☞「初めに神は」の秘密@YouTube)。 |
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- 引用聖句:2Tim 3:16;Rom 6:6-8;Gal 5:24-26;2Cor 10:4;Col 2:8;3:1-5 etc.
- 次回:2022年11月13日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
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今年のノーベル賞の受賞テーマの一つがエンタングルメント(量子もつれ)の立証だった。波動関数を共有するふたつの量子が時空間を超えて相関するというものであるが、これで局所的実在性が否定されたのだ。つまり時空間に存在するものであれば、相対性理論によって支配されるので、互いの情報は光速を超えて伝達することは不可能。ところが量子もつれの状態にある量子は高速を超えて互いに関係し合うことができることが証明されたのだ[1]このためアインシュタンインはSpooky(気味の悪い)減少だとため息をついた。
白いキリスト教神学の論争にカルバンVSアルミニウスなるものがある。救いは神の定め(確定論)によるのか、人間の自由意志によるのか(偶然論)と争って、互いに異端~とやりあっている愚かなテーマである。これについてはかつて再建主義の故富井氏とディスカッションしたことがある(⇒ログ)。
結論を言えば、判断不能。人間の認識能力には確定と偶然を識別することは不可能なのだ(⇒過去関連記事)。さらにいわゆる自由意志なるものが幻想であることも分かってきている。
では救いとは何だったのか。かつてこんな記事をモノしたことがあるが、さらに進んで議論したい。
エンタングルメントなる現象は確定していない2つの量子状態の重なりが観測によって確定するとするものだが、スピリチュアルな経験もまったく同じ。救われた状態と救われてない状態が霊的領域では重なりとなっており、私がフェイスした瞬間に救われた状態が私において確定する。フェイスは聖霊のプロンプトに私が応答した結果である。自由意志と思っているものは実は後付けなのだ。
われわれはキリストとスピリチュアルな波動関数を共有し、エンタングルメント(もつれ状態に)されている。よってイエシュアは言われた、「地で解くことは天でも解かれており(完了形)、地で縛るものは天でも縛らえれている(完了形)[2] … Continue reading」(Matt 16:19)。それは時空を超えたスピリチュアル・リアリティあるいはサブスタンス。YHWHのわざは天地創生のときより完成されている(Heb 4:13)。われわれは肉体にておいてはこの物理的な五感領域に生きているが、霊においてはすでにキリストとともに御座についている(Eph 2:5)[3]だからパウロは肉体的には離れている者を霊においてっ裁くことができたのだ(1Cor 5:3)。。まさにエンタングルメントである。
重なり状態にある量子は観測によってひとつの状態に確定する。それと同様にあらゆる可能性の重なり状態としてスピリチュアル・サブスタンスは存在しているが、それをフェイスはこの五感の領域において確定する。それがわれわれの経験である。
いま、信(フェイス)とは願われる実質(サブスタンス)、まだ観測されていないこと(プラグマ)の現出(エビデンス)である。-ヘブル11:1(私訳)
キリストとエンタングルメントし、御子の信(pistis)のうち(en)に生きるってこんな安楽はないでしょう。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信のうちで、生きているのである。-Gal 2:20(改)
邦誤訳の問題点はすでに指摘しているが、たとえば「洗礼」なる訳語も大変にまずい。これは単なる儀式だ。真理はバプテスマ、それは浸し込むこと。我々はキリストにインプラント(Gk.sumphutos)されたからキリストとひとつ(Rom 6:5;1Cor 6:17)。
そもそもフェイスは霊(2Cor 4:13)(☞過去記事群)、エンタグルメントによりキリストと私はその霊を共有している。「使徒信条告白~」なんてものは単なる式文に過ぎない。
かくして私たちはキリストとバイブレーションを共有しているだけでよいのだ(☞バイブレーションについてhこちらの記事群を参照)。
その時、聖霊は霊の感光またプロンプト(促し)を与えてくださり、それに応答する形(これを自由意識と思っている)で私たちが語り、また働くとき、天のサブスタンスが地に実体化する。まさに天になるとおり地にもなるのだ。このメカニズムはフォティーゾと言われることはすでに説いている。
キリストと私たちはその人間性、死と復活、昇天、そして着座を共有しているのだ。この事実をサタンは隠しておきたい。だから信仰に励め~、聖化~、奉仕伝道、献金、会堂建造、教勢拡大、日本民族総福音化の決起集会~と騒ぐわけ。ほとんど喜劇のレベルではあるが、以下自粛。

善と悪の領域は共にナチュラルな五感の領域、いのち(Zoe)の領域はスーパーナチュラルな霊の領域である。イエシュアが「わたしの羊は門なるわたしを通して出入りする」といわれる通り(John 10:9)、イエシュアというポータルを通ってこのふたつの次元に生きるデュアルな存在である。それはフェイスによって可能となる。

善と悪の平面からいのちの平面に跳躍すること、これがフェイス。そして霊のサブスタンスを五感領域において実体化する(substantiation)。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質)、まだ見ていないプラグマ(完成された事)のエビデンス(現出)である。-ヘブル11:1(私訳)

- 引用聖句:2Cor 1:20-22;Eph 2:15:3:18-20;4:13-16;23-24;Col 3:10 etc.
- 次回:2022年10月30日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質・実体)、まだ見ていないことのエヴィデンス(証拠・現出)である。-ヘブ11:1(私訳)
— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) October 20, 2022
※「こと」はpragma、その意味は「成し遂げられた事」である。

わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。-2Cor 2:10-11
神は人の内に霊を造られた(Job 33:4)。霊は内なる神の光。その霊は人の心の奥深くも知る。実は自分の霊は自分のことをよく知っている。が、人の心は歪んでいる(Jer 17:9)。その真実から逃れるために、実にいろいろな企てをする。自分が満たされていること、自分には信仰があることなどを、自分で証明しようとして・・・・。ああ、それ自体、自分の内なる空虚を証明しているではないか。そのような作為は、自分の真実から逃れるための哀しきもがきなのだ。自分が霊的に空虚であることを認め、あらゆる取り繕いを放棄して、真に頭を垂れた者は幸いだ。
聖書で「良心」(これは現代用語である)と訳された単語はsuneidesis、sun(with)+eido(percept)、つまり「共同知覚」だ。英語ではco-perceptionである。私の霊と御霊が共に証しすることだ(Rom 8:16)。岩波訳では「内奥の意識」と訳している。マラキ書では「霊の名残」とも(Mal 2:15)。それは聖霊と共なる知覚であり、霊の感覚である。よってヘブル書では「感覚により善と悪を識別する」とあるのだ(Heb 5:11)。感覚はもちろん生命現象である。
ちなみに、新改訳(訳のバイアスが多すぎる)ではpneumaをほぼすべて「御霊」と訳すが、pneumaが聖霊と明示されている箇所は20数か所であり、他は人の霊か聖霊かの判別が難しい。新共同訳は聖霊と思われるものを”霊”と表現しているが、それは訳者にとって「思われた」だけだから要注意。真理は、両者は区別ができない、のだ。
例えば、2コリント4:13(2Cor 4:13)の”spirit of faith”についてVincentは
Spirit of faith: not distinctly the Holy Spirit, nor, on the other hand, a human faculty or disposition, but blending both; faith as a gift of the Spirit of God.
と注解する。私の霊と聖霊がブレンドされていると。そもそもフェイスは霊、スピリットである。「使徒信条告白~、われはナントカを信ず~」などは単なる式文だ。霊的リアリティ(サブスタンス)を知覚(eido)し、また感覚(aisthētērion)すること、これが霊の機能であり、そのリアリティに沿って生きることがニュークリーチャーの標準。
そしてそれを外すことが罪、つまりハマルティア(的外れ)。それはいわゆる善悪とは関係ない。善を行ってもこの標準を外れるならば立派な罪である。そこでメタイノイア(思い改め)、すなわちマインドの方向を主に向かって変えることが求められるのだ。それはスピリチュアル・ターゲットに照準を据えることである。
主に結合される者は主とひとつの霊になるのである。-1Cor 6:17

この記事は面白い。映画”Son of God”の金髪で青い目の白人”Jesus”はウソである。そもそも白人が作り上げた虚構が白いキリスト教だ。哲学とシンクレティズムしていわゆるキリスト教神学をでっち上げた[1] … Continue reading。イエシュアはそもそもキリスト教の教祖などではない。
聖書には
神はヤペテ(白人種)を大いならしめ、セム(黄色人種=ユダヤ人など、イエシュアも)の天幕に彼を住まわせられるように。カナン(黒人種)はそのしもべとなれ。-Gen 9:27
とある。白人は元々ユダヤ人の聖書をあたかも自分たちのものであるかのように、”Judeo-Christianity”を看板に帝国主義・覇権主義をもって世界を植民地化し、搾取し、牛耳ってきた。今もその構造は続いている。
しかるに白人はユダヤ人をゲットーに閉じ込め、蔑み、迫害した。つまり彼らから聖書すら搾取し、自分たちの専売特許にしてしまっているのだ。が、日本人は彼らを保護したことは歴史の事実である。そしてユダヤ人も日本人との親和性を証ししている。
西洋史とキリスト教史はほぼ重なるし、世界史もそのダイナミクスの影響を受けている。日本はある面でこの白人の横暴に対して抵抗し、あの戦争でアジア諸国を彼らの植民地状態から解放した。ただ、彼らのマネをしてしまったのだ。だから彼らの手の上に乗せられ、その中で動かされて敗戦。
現代においてあらゆる政治経済の制度あるいはプラットフォームを白人が作っている。日本人はその上で踊らされているだけ。コンピュータのOSもTRON(無償)なる優秀なものがあったのに、WINDOWSやiOSに負けた(隠れて普及しているが)。オリンピックでも日本人が躍進するとたちまちルールを変えられる。
ところが日本人は白人とその文化・社会に憧れ、劣等感を感じつつ、SDGsやPCなどのスローガンに乗せられ、搾取されている。ギャンブルでも政治経済でもプラットフォーマー(胴元・仕掛け人)が必ず勝つのだ。ほんとこの国民は実にオメデタイ国民である。
白いキリスト教から聖書を取り戻すこと。そして霊的に覚醒すること。これがわたしが(白い)キリスト教からのエクソダスを主張している理由だ。
またこの記事も興味深い。いわゆる仏教と量子論の絡みについて述べている。サイエンスは五感の領域をいかに認識し、記述するかがすべてだ。これを定式化したものが物理法則。つまり現実世界の認識論、そしてモデル構築である。
フェイスが(キリスト教なる)宗教ではないように、仏教も本来宗教ではない。前者はスピリチュアル領域の認識(論)であり、後者はこの五感の領域の徹底した認識(論)である。「色即是空」などはまさに物理学そのものだ。残念ながら人文系の文系オツムではほぼほぼ理解不能であろうが。
かくして現代物理学をやっていると両者の世界観の共通性を意識するようになるのだ。たとえばこのサイトなどはまことに面白い。
下に紹介した物理と仏教のサイトにあった、華厳経の現代訳を紹介しましょう。道元の『正法眼蔵』はここでも何度も紹介していますが、「有時の巻」にも相通じます。
微細なる世界は大きい世界であると知り、大きい世界は微細なる世界であると知り、
少しの世界は多くの世界であると知り、多くの世界は少しの世界であると知り、
広い世界は狭い世界であると知り、狭い世界は広い世界であると知り、
一つの世界は限りない世界であると知り、限りない世界は一つの世界であると知り、
限りない世界は一つの世界の中に入ることを知り、一つの世界は限りない世界の中に入ることを知り、・・・
限りなく長い時間はほんの一瞬であり、ほんの一瞬は限りなく長い時間であると知り、・・・
異なる時間の中に異ならない時間があることを知り、異ならない時間の中に異なる時間があることを知り、限りある時間は限り無い時間であると知り、
限り無い時間は限りある時間であると知り、無量の時間は一念であると知り、
一念は無量の時間であると知り、一切の時間は無時間に入ることを知り、無時間はあらゆる時間に入ることを知ろう・・・
要するに仏典とは元々、自然あるいは世界をどう認識し、どう関わるかを提示する。ある意味で認識論のひとつなのだ。その際私たちの心が映す映像(世界モデル)を正確に構成しないで、自分の欲や野心で歪むことにより、苦が生じると言うわけ。その世界が無知蒙昧、偽りの世界。道元も<今、この時>の瞬間に生きること、すなわち<前後裁断>を提唱している。物理的には<今、この時>はまさにディラックのδ関数であり、それに対する反応がインパルス応答(グリーン関数)であり、人生はこのたたみ込み(convolution)なのだ。
悩み多き人は、インパルス応答の時定数が長く、いわゆる「尾を引く」人であり、自由を得ている人は、この時定数が短く、前後が裁断されている。それは「後ろを省みず、前を慮らす」の生き方。そして私たちの神は、永遠の”AM“である。まさに永遠の現在なる方。この方のうちに安んずること、これが私たちの人生である。かつて山谷少佐が指摘されたように(→記事)、「禅の真理契機を完成するキリスト」なのだ。キリストこそまことの実存、ディラックのδ関数の実体であり、その方に対する応答の畳み込みこそが、私たちキリスト者の「生」と言える。
References[+]
↑1 | いわゆる教会の歴史は啓示録に予言されている。ペルガモは結婚・結合の意味であり、世とのそれを行った教会だ。そこにはなんとサタンの座があるのだ! |
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今回のノーベル賞物理学賞は量子論におけるエンタングルメント[1] … Continue readingを実証した業績に対して授与された。
物理学の最先端では、神-日本的意味のではなく創造主-を意識せざるを得ないのだ。Michio Kaku氏もそう言う。ただし、彼らの神は理神論の神(スピノザの神とも言う)であり、受肉の神ではない。
かくして物理学の最前線では神=創造主=を意識せざるを得ないのだ[2]ここでID理論なる説が登場する。宇宙はあまりにも人間の生存にとって都合よく出来ていることから、Somothing … Continue reading。もちろんツァイリンガー氏が言う通り五感の領域を守備範囲とするサイエンスでは説明できない。しかし彼は、「自分は神秘主義者かもしれない。人は神を感じることができるが、神について多くのことを語ることはできない」という。
「愛する神をわれわれは発見できない。神は証明できない。説明できないものは多く存在する。例えば、自然法則だ。重力はなぜ存在するのか。誰も知らない。存在するだけだ」と説明。そして無神論者については、「無神論者は神はいないと主張するが、実証できないでいる」と述べた。
まことにそのとおり。生命と同様、神は説明する対象ではなく、わたしのいのちとして経験する存在なのだ。それはただスピリチュアルな力であるフェイス(信力)による。そのためにロゴスは物質化(受肉)されたのだ。

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです[3]この「知る」は知的に理解することではなく、経験すること。アダムはエバを「知った」と言う意味である。。-John 17:3
そして今や最後のアダムはいのちを与える霊として五感の領域に束縛されない存在となり(1Cor 15:45)、われわれのうちに生きておられるのだ。まことに-
わたしが生きるのであなたがたも生きる。-John 14:19
と言われ、また-
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。-Col 3:4
今はまだわれわれの霊、すなわち神殿のもっとも奥深くの至聖所に臨在され、その光がわれわれを通して現れるのであるが(1Cor 6:20)、来たるべき日にはもはや隠されることなく新エルサレムとして顕現される(Rev 21:16-24)[4]至聖所も新エルサレムも立方体であることに注意。そしてそのサイズは拡大している。。
References[+]
↑1 | エンタングルメントとは二つの波動関数を共有する量子の間ではその相関関係が光速を超えて”伝わる”と言う現象で、アインシュタインの相対性理論を破るように見えたことから、彼はSPOOKY(気味が悪い)現象だと言った。時空間を超えた現象としか思えない。 |
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↑2 | ここでID理論なる説が登場する。宇宙はあまりにも人間の生存にとって都合よく出来ていることから、Somothing Greatがインテリジェンス(知性)をもってデザイン(設計)したとするわけだ。ただし、このS.G.のアイデンティティについては不問のままである。 |
↑3 | この「知る」は知的に理解することではなく、経験すること。アダムはエバを「知った」と言う意味である。 |
↑4 | 至聖所も新エルサレムも立方体であることに注意。そしてそのサイズは拡大している。 |

すでに書いた記事群とかぶるかもしれないが、重要な論点なので繰り返しておく。前に次のような記事を書いた:
人類の悲惨はすでにYHWHエロヒムの型と様に創造されており、あとはいのちの木(非受造のZOE)の実を食すれば、ちょうど手の型と様に作られた手袋に実体なる手が入るように、アダムは完成されたはずだった。しかし蛇はその”すでに”に対して疑問を持たせ、善と悪を知ることによりYHWHエロヒムのようになれると誘惑したのだった。サタンは常に不足を訴える。対してスピリチュアル・リアリティに生きるフェイスは満足を得る。
キリスト教なる宗教はつねに、もっときよく、もっと善行をなし、もっと信仰に励み、もっと奉仕をし、もっと伝道し、もっと大きな会堂を建て、もっと、もっと・・・とニンジンを鼻先にぶら下げられた馬のごとくに煽るのだ。それはまさに善と悪の知識の木の道にある宗教マトリックスである。

モーセを通して律法が与えられたが、これも善と悪を知る道の上においてであった。それはアブラハムに種(単数形)の約束が与えられて430年後であり、その約束は律法により無効とされなかった(Gal 3:16-17)。すなわちYHWHエロヒムの意図は当初より、律法ではなく種=キリスト=にあったのだ。そのキリストはご自身の肉体を裂いて封鎖されていたいのちの木への道となられ(John 14:6;Heb 10:20)、フェイスする者はこの道へリープ(跳躍)する。すると律法ではなく、いのちの御霊の法則が働き、この新しい法が内在化されてそのうちに生きるとき、律法の要求は自ずと満たされる(Rom 8:2-4)。
ある人が言っていた:地獄への道は人の善意で舗装されている、と。この点、あのオウム事件で活躍した上祐史浩氏が面白い指摘をしている。
「ストイックな価値観・生活をしたいと考えている人は一定数いるが、しかし、今の若者たちがそんな修行に耐えうるかと考えると、やはり時代が変わり宗教の必要性は薄れているのだろう」
「人類の脳構造から、善悪の概念を考えすぎると、悪を正して善を行うという善悪二元論が生まれる。しかし、それは時に逆転して、戦争が正当化されてしまうことさえある」
「“自分が善人になりたい”という過度な欲求を持ちすぎない方が良いのだろう」
この「自分が善人になりたい」という過度な欲求こそキリスト教をはじめとする宗教の動機である。それはすなわち不足の感覚。自分の状態がどうであるか、これが神に受け入れられる測り縄と勘違いしているのだ。プロテスタントの根本的誤りは自分をセンターにおいて、「律法を行うことによるのではなく、御子を信じる信仰によって救われる」と説く。主語は誰か? そう、私である。よって常に自分の信仰、自分の正しさ、自分の信条、自分のきよさ、自分の忠実さ・・・と絶えず自分を外なる法(しばしば聖句)に照らして測り続ける。自分が恵みから落ちていることに気が付かないのだ。
恵みとはそれに値しない者が無代価で得ることができるものである。それは自分から意識が離れるときに働く。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。-Rom 5:15-21
ここには「私」の要素は全くない。ロマ書7章と比べてほしい。7章においてパウロは律法を行いたいとする思いの法則に従って私がしようとすればするほどできないと叫ぶ。ゆえに罪々を犯すのは私ではなく内なる罪であることを見出し、罪と死の法則に拘束されていることに気づく。この三種類のLawsにパウロは閉じ込められていた。そして彼は叫ぶ、誰がこの死の体から救ってくれるのか?と。
ついに8章に至り、彼はいのちの御霊の法則が彼を罪と死の法則から解放することを見出す。それ以降、彼の文章には「私」がどうのは出てこない。まさに私がどうのこうのではなく、法則が彼を引き上げるのだ。
私(セルフ)からの解放-道元はいのちのレベルこそ異なるが(彼はアダムのいのちのレベルである)、こう言っている:
仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
自己から離れ法に委ねることを心身脱落と言う。そして
人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
初信者は法を外に求めてその周囲をぐるぐる回るだけだが、法と一体となりその中に生きるようになるとき法がその人になってくれると言う。法の実体とはまさにキリストである。ゆえに―
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の(属格)信(フェイス)のうちに(en)生きているのである。-Gal 2:20[1] … Continue reading
かくしてパウロはキリストとエクレシアを同一視する。
そしてこう証しする―
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。-Phil 1:21
キリストのために生きるのではない。生きることそのものがキリストなのだ! それはいのちの木の路線にあってスーパーナチュラルに生きること(上図参照)。
この時、善と悪の感覚が洗練され、キリストの判断が私の魂のうちに再現する:
固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
-Heb 5:14
感覚はもちろん生命現象であり、これは上祐氏が指摘するように、しばしば倒錯へと至る善と悪の概念などではない。YHWHエロヒムの的を得た感覚による判断である。対して、たとえ人間的に善と見えるものであれ(例えばPCなど)、YHWHエロヒムの基準にハマらないものは罪である。人は肉によっても善をなし得るのだ。これがキリスト教を含む諸宗教である。
善と悪を知る知識の木の実を摂る誘因は、「神のようになれる」という蛇のささやきであった(Gen 3:5)。この誘惑は今日においても強い。カルトへの誘いもここにあることを上の上祐氏との対談相手もこう指摘する:
人間の深層心理や善悪二元論の盲点については、統一教会問題みならず現在の世界が抱えるさまざまな課題に通じるものがありそうだ。また、酒生氏は住職としての立場から「人間が自分自身を神だと拝ませる“偶像崇拝”にも問題点がある」と指摘。文鮮明や池田大作のようにカリスマ性と絶対的な権力を持つ創始者がいると「盲信・狂信の信仰に陥りやすくなる」と断じた。
この誘惑に対してニュークリーチャーであるわれわれはいかに対応すべきであろうか。回答はすでに明らかであろう:
わたしたちはYHWHエロヒムの型と様に従って創造されており、しかもいのちを与える霊となられたキリストが聖霊によって私の実質として内住され、すでにエロヒム属とされているのだ。
宗教の誘惑は「まだこれから」モード、フェイスは「すでに」モードである。Not-Yet-modeからAlready-modeへの転換こそ、まことのメタノイア=思い改め=である。

もともとアダム(人)はYHWHエロヒムの形と様に創造された(Gen 1:26)。エバはアダムの成分からビルドアップされたアダムの骨の骨、肉の肉だった(Gen 2:22-23)。両者は同じ成分をシェアするひとつの有機体であり(Gen 2:24)、【すでに】YHWHエロヒムの似姿だったのだ。後はいのちの木の実(I-AMの実体)を内在化させればよかった。人と創造主はひとつとなれたはずだった(Eph 5:32)。
が、蛇は善と悪の木の実を食べればエロヒムの【ようになれる】と誘惑した。【すでに】YHWHエロヒムが人をご自分の似姿に創造されていたのに、何か不足があるかのように示唆したのだ。こうして人類は蛇のウソを飲みこみ、偽のアイデンティティ(不足してる~と叫ぶあり方)に落ち、延々と知識を増大し(Dan 12:4)、「神のようになる」ことを追求している。
キリスト教なる宗教も同じ、つねに不足してる、まだ十分でない、もっと清くされ、奉仕伝道、信仰に励め~と煽られる。外なる「善と悪の物差し」で常に自分の不足を測り続けるわけ。道元も言っている、
「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」-正法眼蔵現成公案。
最初、法は外にありその周囲を回るだけだが、フェイスにより物差しは内にいのちの御霊の法則として内実化(Gk.ginomai;Hb.haya)される。いのちを与える霊となられたキリスト(1Cor 15:45)は私の霊と「ひとつの霊」としてブレンドされている(1Cor 6:17)。
もはや生きるのはわたしではない、肉(五感領域)にあって生きるわたし(ソウル&ボディ・ハイブリッド)は御子【の】フェイスの中で生きる(Gal 2:20)。イエシュアが生きるので私たちも生きる(John 14:19)。これがYHWHのエミュレータ(イミテートではない)になることだ(Eph 5:1;1Tim 3:16)。
フェイスのカギは御子に【対する】ではない! キリスト【を】信じまーすは分離状態、これがキリスト教。フェイスは御子【の】フェイスのうちに生かされる。これが一体化(Oneness)。「使徒信条告白~、我はナントカ・カントカを信ず~」なんて延々とやってるから明治時代からこのキ業界成長しないわけ。戦後GHQのバックアップでキリスト教は社会化されてすでに地の塩ではなくなってしまった。もはやお笑いでしょう。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実体・実質)、まだ見ていないことのエビデンス(証拠・現出)である。-Heb 11:1(私訳)
客体と主体は溶け合う。精子と卵子が一体になることはその型(タイプ)である。神と人がともに住む(Rev 21:3)。人が神殿そのものなのだ(Eph 2:21)。だから新エルサレムにはもはや神殿は不要(Rev 21:22)。[1]一部のキリスト教徒は新エルサレムを物理的都市と思ってるらしいが、子羊の花嫁なのだよ(Rev 21:2)、都市が花嫁になれるかな?それはYHWHの臨在そのもの(シェキナグローリー)、拡大した立方体であり(至聖所の形)、かつては幕屋や神殿の奥に隠されていたが、いまや隠されていないキリストの充満なるエクレシア(Eph 1:23)の完成体(前田護郎訳など)。祈りを象徴する香壇は新約では至聖所にあるのだ!(Heb 9:4、出エジプト30:6と比較せよ!☞幕屋の秘密@YouTube)。
取り損ねたいのちの木の実体として私たちのうちに内在化されたキリストとエクレシアの究極、YHWHと人の究極的Onenessの奥義である[2]現代物理学の用語でいえば、波動関数(バイブレーション)を共有することによるエンタグルメントだ。。かくしてエデンの園の二本の木々で始まった神と人類の物語は、新天新地において一本の木として完成するのだ[3]Rev 22:2、ここは「両岸にある」とあるが、木は単数形だ。。