
東方教会では「神が人になったのは人が神になるためである」とする。またある向きは「犬は犬を、猫は猫を生むように、神は神を生む」と言う。つまり「神の子は神である」と。おそらく、いわゆる正統神学のMCを受けているむきにはかなり認知的不協和を生む表現であろう。彼らの脳内言語マトリックスは
「神は唯一であり、父・子・聖霊の自存する区別される三位格にいます同じ本質を有するお方だ」
と定式化されている。ゆえに、「神が神を生む」は到底受け入れられないとなる。
ここで問題点はそもそも「神」なる単語である。原語はElohim(אֱלֹהִים)であり、それはすでに何度も指摘しているが霊的生命体の分類カテゴリーである。その最高位にいますお方が、三位一体にいますYHWH(יְהֹוָה)であり、この方こそが万物の創造主である。このYHWHに「アドナイ(主)」の母音を付けて「Jehovah(エホバ)」と読み、「主(LORD)」と置き換え訳をしているのが日英訳聖書の現状である。しかしこのYHWHは、もっとも高きエロヒムの固有名詞である。
神(エロヒム)はモーセに仰せになった。「わたしは主(YHWH)である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、主(YHWH)というわたしの名を知らせなかった。・・・」-Exo 6:2-3
そもそもアダムは体を土から構成され、鼻に吹き込まれたエロヒムの霊(neshamach)[1] … Continue readingによって生きる魂(nephesh)とされた(Gen 2:7)。が、その霊は罪のために死んだ(Eph 2:1)。
イエスを信じた私たちは「神の子」となる権利を得て(John 1:12)、霊が御霊によって生まれた存在だ(John 3:5-6)。その霊の中には聖霊が住まい(John 14:16)、同時に御父と御子が住まわれる(John 14:23)。こうして三にして一なるYHWHエロヒムが私たちを住まいとする(Eph 2:22)。この意味で私たちの霊はYHWHエロヒムの霊の分与を受け(1John 4:13)、エロヒムのいのち(ゾーエ)を得て、神的な質をシェアする神的な存在(2Pet 1:4)、あるいは神の子と言える。神の新創造(a new creature)である(2Cor 5:17)。
ここで「神」と訳された単語はエロヒム(Elohim)であり、それはホモ・サピエンス(現生人類)と同様の分類カテゴリーである。ホモ属(人類)にも様々な種が存在したのだ。同様にエロヒムにも様々の種類が存在する。(下図はDr.Heiserによる)

つまり「神の子は神である」とする命題は[2]一部のカリスマ系の人々もクリスチャンは「小さな神(little … Continue reading、正確には「エロヒムの子はエロヒムである」となる。が、YHWH(父・子・聖霊)ではない。これは例えば、人類である中村夫妻から生まれた子は人類であるが、中村夫妻(父と母)ではないのと同様である。その子は中村夫妻と同じ種としてそのDNAを継承し、人類の質をシェアする存在である。が、人格(パースン)は両親と異なる。
ただし、現経綸にあっては、霊においては新しい創造(エロヒム属ないしキリスト属)であり、YHWHを宿している存在であるが、私達の魂(思い・感情・意志)は旧創造に属する体の大脳とシンクロして働き、アダム属として経験した罪の痕跡・傷などを受けている。そのため、霊の内なるYHWHが魂を通して十分に表現されない。特に思い(マインド)が真理を拒絶し、主に敵対することが多い。
よって栄光から栄光へと御子と同型化されるためには(2Cor 3:18)、マインドがトランスフォームされる必要がある(Rom 12:1-2)。このトランスフォームの原語は”metamorphoo”であり、変貌の山で主が変貌されたのと同じ単語だ。神の栄光を現すためにはトランスフォーメーションが必要なのだ。そして肉体についてはもろに旧創造であり、これはかの日に瞬時に変えられる(1Cor 15:51)。これが神の子たちの現れ、究極の望みである(Rom 8:19)。
このように見ると、私たちの霊は神的存在(エロヒム属)であり、YHWHご自身が住まわれている。が、この霊はYHWHの霊を分けられたYHWHの住まいあるいは培地である。カトリックでは「受肉の延長」なる神学があり、神化(Theosis)と称する。東方ではもろ神化である。キリストは神・人(二性一人格なる方)とされ、そのパースンは父の懐にいたロゴスなる御子そのものである。私たちはその受肉されたお方と同型化される過程にあり、いずれ直接にお会いするときにはイエスに似る者とされるとある(1John 3:2)。「似る」は”homoios”であり、Strongによると”similar”である。つまり魂は御子のパースン(人格)そのものとされるわけではない。性質を共有するのだ。つまり、エロヒムではあるが、YHWHになるわけではない。
内なるキリストが語る言葉を私たちのマインドが把握して、私たちの口から語り出すとき、それはキリストのレーマを語り出すことになる。ゆえにその言葉は何かをなし得るのだ[3]このような理解と実行をWord of Faith運動として、一部の人々は異端だと断罪している。。癒し、しるし、不思議、奇跡などを(Mark 16:17-18)。私自身が自分の免疫系にイエスの名によって命じることによりこれを経験し、今や30年苦しんだ花粉症が跡形もなく消えた。この意味でクリスチャンは神的能力を得ている。事実、使徒行伝ではそのような証が満載であり、パウロのハンカチやペテロの影に触れるだけで病人が癒されていたとある。
ナチュラル(五感で知覚し得る物理的領域)とスーパーナチュラル(霊で知覚し得る霊的領域)の関わり。これは実に興味深い。ナチュラルな世界の法則を一旦停止して神が介入されることが奇跡である。対して癒しはすでに成し遂げられた十字架の業を適用することだ。もちろん聖霊が働いてくださるわけだから、これも神の介入があると言える。リベラルや高等批評などの立場ではとても認められないことであろう。私は別にカリスマ派や聖霊派を名乗っているわけではなく、あくまでもサイエンティストの立場から追求しているところなのだ。
【追記】生物学の分類体系を知っていればエロヒム属の意味も理解できるはずであるが、とかく牧師は視野狭窄と一般教養が欠如しているために話が通じない。そもそもホモ属も、現在はホモ・サピエンスが繁栄しているが、その他のホモ属が存在していたのだ。エロヒム属もホモ属も生命体の分類カテゴリーであることがわかると思う。あ、無里かな、彼らには(汗)
