iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
タグ: メタモルフォーシス

- 引用聖句: John 1:13;3:6;6:15;63;Rom 8:12;12:2-5;Gal 4:19;5:24;Ps 22:11;139:13 etc.
- 次回:2023年9月17日(日)
- 場所:NATULACK石川町元町店3F
- 時間:13:00-16:30
- プレイヤーMTG:しばらくお休み
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショップへ。

この論文はシンクロナイゼイション(波長の同期)の秘密を数学的に解いたとするものである。
複数の非線形振動子は引き込み現象により同期するようになる。心筋細胞も一つひとつでは勝手な周期で振動するが、集まるとある一定の周期で振動する。これが脈動を生む。
キリスト教では馬鹿の一つ覚えのごとくに「教団、教派の一致ぃ~」とかヒスるが、そんなものはフェイク。エクレシアは新生命体であるから、個々の肢体は多種多様でも、イエシュアの名の中に集合する時(ナントカ神学やカントカ先生の名ではないからね!)、互いの相互作用によりある波長のバイブレーションに同期する。もちろんイエシュアの波長である。
その時、個々の肢体のうちではメタモルフォーゼ(メタモルフォーシス)が進行する。古い細胞が新しい細胞=イマジナル・セル(ディスク)=を攻撃するのだ(古い要素と新しい要素の葛藤)。しかしイマジナル・セルが増殖する時、それはある新しい波長のバイブレーションに共鳴し、ひとつに同期するようになる。そしてついに古い細胞は中枢神経や筋肉を除いてどろどろに溶けるのだ(これが成虫になるための養分になる)。これが毛虫から変態した蛹の中で生じる。

続いて蛹の内側ではイマジナル・セルが活発に分裂増殖し、蝶の各器官を形成する。そして・・・ついに蛹が割れて、あの蝶が羽ばたく。栄光の瞬間である!(次の図はハエであるが・・・💦)

これはまさにニュークリーチャーたるエクレシアの増殖と分化による成長(メタモルフォーゼ)そのものである。それは蛹であるわれわれの古き体の内で霊から魂へと構成(モルフォー)されるキリストである。ゆえにエクレシアはエロヒムの増殖を増殖するのである(コロサイ2:19 原文)[1]邦誤訳でいろいろギロン吹っ掛けるのはやめよ。ぼくとディスカッションするのなら、せめて岩波訳か田川訳をどうぞ … Continue reading。
私たちも主によって携え上げられる時、一瞬にしてこの体は変貌する(1コリ15:52)。それは復活のイエシュアと同じ霊の体である(ピリピ3:21)。この希望こそ私たちの究極の希望なのだ!
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。-Heb 10:25
マラナタ!

霊的エンティティがわれわれのマインドにコンタクトできることは聖書の啓示するところである。
同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。-Gal 4:3
しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。-Gal 4:9
諸霊(ストイケイア)は私達のマインドに種をまき、それを思想に育て、実行化する。マルクスが使徒行伝(Acts 2:44-45)の記述からヒントを得て、共産主義を打ち立て、政治形態として実行し、1億近くの人々を虐殺したことは歴史が教えるところである。現在も一部の国々でこの政治形態は継続する。
昨日のTV番組で櫻井よしこさんが、中国は日本国内に警察を置き、諸々の情報を集めるとともに監視を行い、制空権、制海権のみならず、制情報権、そして制脳権を主張していると指摘していた。制脳権とは初めて知ったが、なるほどである。まさにジョージ・オーウェルの『1984』の世界である。
この世界ではビッグブラザーと呼ばれる独裁者が大衆を監視し、その統治下に素直に従えばいちおう食えるが、逆らうと、たとえそれが思考の領域においても、処罰される。
そのスローガンは『寡頭制集産主義の理論と実践』の各章の題名に従い-
- 戦争は平和である
- 自由は屈従である
- 無知は力である
つまり為政者側にとっての価値観であり、大衆はこの矛盾した命題を否応なく飲まされるのだ。4つの省により大衆は思考まで監視され、支配されている。その構成はまさにピラミッド型であり、上位の2%の指導者が大衆をコントロールする。
ここで注目すべきは、その支配の3つの手法である(以下WIKIより抜粋)。
- ニュースピーク (Newspeak、新語法)は、思考の単純化と思想犯罪の予防を目的として、英語を簡素化して成立した新語法である。語彙の量を少なくし、政治的・思想的な意味を持たないようにされ、この言語が普及した暁には反政府的な思想を書き表す方法も考える方法も存在しなくなる。
- ダブルシンク(doublethink、二重思考)は、「1人の人間が矛盾した2つの信念を同時に持ち、同時に受け入れることができる」という、オセアニア国民に要求される思考能力である。「現実認識を自己規制により操作された状態」でもある。
- ダブルスピーク(doublespeak、二重語法)は、矛盾した二つのことを同時に言い表す表現である。『1984年』作中の例でいえば「戦争は平和である」や「真理省」のように、例えば自由や平和を表す表の意味を持つ単語で暴力的な裏の内容を表し、さらにそれを使う者が表の意味を自然に信じて自己洗脳してしまうような語法である。他者とのコミュニケーションをとることを装いながら、実際にはまったくコミュニケーションをとることを目的としていない。
ダブルシンクにより2+2が5にもなり、さらに、歴史(過去)が常に書き換えられることにより、現実認識ができなくなる。心理学的にはダブルシンクやダブルスピークは認知的不協和と言われる。ヒトは自分の世界モデルや価値観に相反する認知をすると、内側に落ち着かなさを覚え、不安と緊張を覚える。二つのものにより心(特にマインド)が引き裂かれる状態である。
この不安と緊張を解消するためには、自分の側に間違いがあるとするか、その認知の対象が間違いであるとするしかないが、しばしば自分の思い、意志、感情を書き換えることにより、不安と緊張から解かれようとする。こうして認知の対象に自分を合わせていく。これがフェスティンガーの唱えたカルトなどによるマインドコントロールの原理である。詳細はこの論文をどうぞ。
ワクチンや統一教会にハマル人々も同じ心理状態である。当初得体の知れないワクチンや文鮮明に違和感を覚えつつも、自分の内面を書き換えることにより、相手に合わせるのだ。かくして一度ワクチンを打つと、たとえどんな副作用や障害が生じようとも、それを認めることはできなくなり、何度も自ら打つことになる。統一教会に献金や奉仕する人々も同じである。彼らは一度そちらに自分を誘導したために、方向転換(メタノイア)ができない。
実は、このような現象はいわゆる「正統キリスト教」においても起きていることである。彼らは神学用語の中に神を閉じ込めようとする。特にニッポンキリスト教において、「信仰」、「教会」、「牧師」、「悔い改め」、「恩寵」、「聖化」、「敬虔」などの単語により、聖書のオリジナルな真理は隠蔽される。そしてこの日本語の意味に基づいて思考が誘導され、そこにある種の価値観(意義)が付与され、集団において共有されるとひとつの宗教体系としてのニッポンキリスト教が構築される。究極的にそのような集団が何をなしたかはWW2当時の日本基督教団を見ればわかる。
そしてその世界の中で生きるほどに、その体系(マトリックス)に即したアイデンティティを確立し、同時に自己努力を注ぐほどにプライドが育つ。自らそのマトリックスに自分を馴らしていくわけである。いわゆる教派とか宗派なるタコツボ・キ業界の中のサブ・ユニットも同様のメカニズムで形成される。それは全体の相似図形としての部分、つまりフラクタルである。
中国の提唱する制脳なる手法は、まず言葉を統制すること、それにより思考を誘導する。邦誤訳を後にして聖書の純粋な言葉へと常にターン・トゥする必要があるのだ。ヘブル人とは渡る人。古いものを脱ぐ捨て、新しい領域へと絶えず渡りゆく人である。そのためには言葉を改めること。
いわゆる「聖化」と言われるプロセスは、マインドのトランスフォームから開始される(Rom 12:2)。昆虫が脱皮を繰り返して、蛹になり、いったん内部が溶解して、新しい姿へと変態し、ついにあの蝶の姿へと変わる。うちにロゴスが撒かれ、内在化されたエロヒム属のうちにキリストが構成され(モルフォー)、同時に私達の魂(特に思い)のうちに霊が染み込み(Eph 4:23)[1]原語は「思いの霊において新たにされる」。、私達の魂もキリストのそれと同型化されていく。これがメタモルフォーシスである。
References[+]
↑1 | 原語は「思いの霊において新たにされる」。 |
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極私的に口を酸っぱくして指摘してるこの単語。「悔い改め」と訳されるが、これがメンヘラを生み出す辛気臭いキリスト教を作り出す。ボクシはこれしかセリフがないのって感じで。TWで流れてきたが、ほお、と思ったので紹介しておきましょう。
調べたら2世紀の神学者テルトゥリアヌスがメタノイアを「思いの変化」と訳すのが最善と言っているのですね。
— びわ(新) (@sasuke32717042) October 6, 2022
神さまに触れられ視座が変わる→思いの変化。
それがどんなに素晴らしいか✨。
救われても視座が戻って自己中に見たり思ったりしてしまう時も、信仰によって視座を神さまに戻す事が出来
「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」なんて邦誤訳は自己矛盾と感じた方は言語学的にも鋭い感性を持っていると思います。そもそもギリシャ語「メタ-ノイア」の成り立ちを見れば「思い改め」って当然のことなのだよ。これをキリスト教が歪曲してきただけのことだ。
metanoeo: from G3326 (=meta) and G3539 (=noieo); to think differently or afterwards, that is, reconsider (morally to feel compunction)
Strong Concordance
「思いの霊において新たにされ・・・」-Eph 4:23(原語)。霊はマインドに浸み込むのだ。こうして魂のサブコンシャスのレベルまで書き換えられる(Rom 12:2)。

科学と宗教[1] … Continue readingの関係を議論するとき、人々はしばしば二極化した立場を取ります。 彼らは信じるか信じないかのスタンスを取ります。 多くの悲しみは、どちらか一方が間違っている、または無意味であると主張することから生じます。
実際、宗教と科学は重なっています。 それらは、人々の心、人生の選択、そして社会が直面する困難な道徳的課題の中で交差しています。 困難な生活の中でアイデンティティと目的の感覚を求めながら、何十億もの人々が多様な信仰に従っている世界で宗教の力を厳しく否定することは、ひどく素朴で、率直に言って残酷です.
いわゆるか科学万能の時代に「神」とか「霊」とかは迷信とする立場は本当の科学を知らない[2] … Continue reading。逆に聖書と科学は矛盾するといった聖書原理主義者は聖書の真の意味を知らない。いずれにしろ、われわれニュークリーチャー・エロヒム属は物理領域と霊領域の双方に生きる存在としてマージナルにしてデュアリティな者なのだ。主と同じに世にはいるが世のものではない(John 17:11-16)。
And no man hath ascended up to heaven, but he that came down from heaven, even the Son of man which is in heaven. –John 3:13
天から下って、天にいる者? そう、これがデュアリティ。量子ですら、あちらにあるし、こちらにもあるのだ。そして私たちは地上にいるが、同時にすでに―
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、-あなたがたの救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。-Eph 2:5-6
地上に生きるがすでにキリストと共に御座におる存在(これから天国に行くのではない)。キリスト教はこれからモード、フェイスはすでにモードである。
問題はこの”信じてること”が狂うと人生を失う。昨年コロナで亡くなった再建主義の富井氏は、生き方にはリスペクトするも、その信奉していた『再建主義』については狂気を感じていた。彼はまさに、何を信じて、何に殉じたのであろうか? ニッポンキ業界のボクシの教えとかマジ受けすると彼らと同じ末路を辿る。
純粋な御言葉を食べ飲みすること、キリストのボディコンシャスに生きること。
これが若さと健康の秘訣。つねにその”こと”=belief=を御言葉と照合するのを欠かさないことが大切である[3] … Continue reading。自らの思いを刷新し(Rom 12:2)、キリストに服させること。

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき・・・2Cor 10:4-6
これはロマ12章のメタモルフォーシスの成就である。
References[+]
↑1 | これは機械翻訳なので、本当は霊性とでもしたい単語だが、五感を超えた存在を扱うのが宗教との理解で書かれているので、「信仰」なる単語も含めてそのままにしておく。 |
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↑2 | ID理論などで分かるとおり、宇宙の法則の神秘や精緻なDNAの構造などを知るとき、誰かがデザインしたと思わざるを得ないのだ。サイエンティストの「神」はまだ理神論の神(スピノザの神)であるが、最先端では存在の理由を追求せざるを得ないのだ。 |
↑3 | ギリシャ語やヘブル語を母国語としていないわれわれには限界があるが、できる限り邦誤訳は避けて、原意をくみ取る努力をすることが大切である。最低限、英訳のKJVは参照すること! |

エンライトメントはブレインも変える-フォティーゾによるスピリチュアル・センシティゼイション(感光)
Capital-E Enlightenment は、人々が経 …
Capital-E Enlightenment は、人々が経験を逸話的に報告する方法と、それが脳をどのように変化させるかという点で注目に値します。光や色を見たり、音を聞いたりするなど、このタイプの悟りに関連する感覚がある場合、それは人がこれまでに経験した中で最も激しい経験の1つとして説明されます. そして、この強さは、感情を処理する大脳辺縁系と、時間、空間、自己の感覚を生み出す感覚情報を整理する頭頂葉に反映されます。
人々が悟りを体験すると、自我が失われると報告することが多く、科学的分析により、脳の活動がこの感覚を引き起こしていることが確認されています。啓蒙主義は通常、マザー テレサやブッダのような熱心な宗教的または精神的な個人に関連付けられていますが、あらゆる人生の歩みの人々が本質を変える出来事を経験する可能性があります。同様の体験は、LSD や幻覚キノコなどの薬理学的物質を使用して意図的に誘発することができます。
哲学的に言えば、「悟り」とはどういうことなのだろうか。ニューバーグ博士によれば、「悟り」とは眼鏡のようなものだという。私たちは生まれながらにして視力が悪く、矯正レンズのお世話になるしかない。この場合、「レンズ」は目ではなく脳に当てられる。
この記事は聖書とは必ずしも関係ないが、エンライトメントにより新しい視力を得るとブレインも変化するという報告だ。黙想などもブレインの回路を書き換える。
ましてYHWHのロゴスが開かれるならば、われわれのブレインはエロヒム属にふさわしいキャパシティーと思考回路を得ることができるようになる。
御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。-Ps 119:130
この時、私たちの魂(思い・感情・意志)のサブコンシャスのレベルまで書き換えが起きる。
そしてあなたがたはこの世と同じ姿かたちにされてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであり、そして〔神〕に喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2
このプロセスをメタモルフォーシスと呼ぶことはすでに何度も指摘している。例えば-
その開始点がこのエンライトメントだ。聖書的にはフォティーゾ。上の記事でも新しいレンズを得ることであり、エンライトメントした時には自己を忘れ、それまでとは違うessence-changing eventsを経験するとある。いわんや霊のサブスタンスをゲットすることにおいてをやである。一度、霊のサブスタンスをえるならば、あなたはnever ever be the SAME。
新しいスピリチュアル・ヴィジョンを祈り求めてください。まことにそれはライフチェンジングな経験である。それは霊というセンセーによって感知できる。
魂(Gk)の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。-1Cor 2:14
こうして私たちはキリストのマインド(思い)を100%活性化されるとき、キリストと同じ思考パターンで物事に処することが可能となる(1Cor 2:16)。ゆえにパウロはこう証言する-
わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。-Phil 4:13
なお、このマインドのトランスフォームは年齢には関係ないので参考までに。

FBで過去記事とある方のウォールからの拾い物を紹介しておこう。ボクシの専売特許、「悔い改めよ~」。これが曲者。ニッポンキリスト教の心気臭さはこの「悔い改め」に源があるのだ。
ハイ、わが愛車の「病気」でした。突如、エンジンルームから異音が響き出して、AUTOBACSで診てもらったら、絶望的な診断を貰った次第。要するにAUTOBACSでは手の打ちようがないと言うこと!
これがね、しばしば医療の場面でもあるわけ。嗚呼、ステージIV、もうダメだぁ、とね( ゚Д゚)
要するに言葉のトリック、聴いた言葉をそのまま受け入れてはならないのだ。所詮、人間の言葉。それを受け入れて、同意すると、アダム系マインドのマトリックスにスイッチが入る。で、出てくる回答はしばしばネガティブ。
しかし、私たちはキリストのマインドを持っている(1コリント2:16、これもキリストの「心」は誤訳!)。キリストのマインドがオンするとき、絶望や恐れなどはあり得ない。医者には不可能でもジーザスには可能。
あなたのマインドにキリストのマインドがエミュレートされるようになるのだ。かくしてマインドのメタモルフォーシス(トランスフォーメーション)が鍵となる(ローマ12:2)。
ちなみにわが愛車は20万キロのツワモノ。4WD、V6、3リッター。燃費は市街地で5キロ/㍑。とにかくキビキビとどこにでも行けてしまう(前のトーラスはデカくて不便だった)。写真は色違いの同型車(私のはシルバーメタ)。ハハ、もうカミさんと同じだね
・・・で、本日、無事退院しました。(了)
要するにマインドの使い方が間違っているわけ。この世にアダム系として生み出された古い私たちは自ずと世の価値観や考え方が刷り込まれる(心理学的にはオペラント条件付け)。これに従ったマインドの使い方が諸々の罪(sins)を産み出す。
そこで「悔い改めよ~」とやるわけだが、この原語である”metanoia”は、”meta”+”noieo”。”meta”の意味は「超」とか「高次」とか、いろいろあるが、「共に」や「伴って」の意味がある。”noieo”は”nous”からの派生で、その意味は「マインドを使う」だ。つまり「高次の、伴ったマインドを使う」ことである。簡単に言えば、高次のYWHWのマインドに共に・伴ってマインドを使うこと。そこで自分から主へと「マインドの向きを変える」ことになる。そこでDr.Lukeとしては思い改めとしよう。
ちなみにヘブル語ではこうある-

かくしてStrongによれば、メタノアイアとは
metanoeō
met-an-o-eh’-o
From G3326 and G3539; to think differently or afterwards, that is, reconsider (morally to feel compunction): – repent.
つまり、”repent”とは「悔い」て「改める」などの意味はまったくない。悔いたところで何も変化しないことはクルシチャンたちを見てれば分かることだ。思いを主の思いに沿わせて今までは異なる考え方をすることである。このときに、罪をも自覚するが、それは決して罪責感や悔いるものではない。聖霊が私たちのもろもろの罪をconvictionするとき[1]codemnationではないから注意すること。codemnattionは罪定めであり、サタンの得意なお仕事である。、私たちは実に客観的に自分の罪と向かい合うことできる。そして聖霊はすでにそれは十字架の血潮で洗い流されていること、つまり主の前では実質的にないことを確証される。
For sorrow according to God is producing repentance for unregretted salvation, yet the sorrow of the world is producing death.-2Cor 7:10 (CLV)
神に従った悲しみは悔いる必要のない救いのためのメタノイアを生み出し、世の悲しみは死をもたらすのだ。メタイノは思いを神に従わせることにより、いわゆる悔いる必要がないことは明白であろう。つまりすでにすべての罪々は血によって洗われ、清められていることを実体化する、いわばチャネルがメタノイアである。
この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。-Heb 10:10
すべての根拠はキリストの体がただ一度ささげられたことによる。私たちの何かには一切よらないのだ。ウォッチマン・ニーも、いわゆる内省や反省や自責は不毛であると言っている。それは自分の何かで自分を神に受け入れさせようとするアガキであり、自己救済の努力である。それらにより苦しむ、私の言うクルシチャンは延々とセルフのマトリックスの中で空転して消耗する。
ゆえにパウロはこう勧める-
そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって、形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであり、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2(岩波訳)
「形作り直され」すなわち「再構成」とはメタモルフォーシス。meta+morphooである。ここにもmeta(=沿って)、morphoo(=構成・形成される)の意味である。サブコンシャスのレベルから聖霊は私たちのマインドを再構成してくださるのだ。これにより神の御心を知覚することができるようになる。
思いの霊において新たにされ・・・。-Eph 4:23(原語)
思い(nous)の中に霊(spirit)がペネトレイト(浸透)し、再構成されることだ。
思いの表層で「われはナニを信ず~」とか、正統なナントカ神学やカントカ主義を唱えることではない。それは生命現象である。
蝶の幼虫はさなぎの中で一度どろどろに溶ける。そして新しく再構成、すなわちメタモルフォーシス(変態)され、あのまったく形状の異なる蝶へと変貌するのだ[2]ちなみに山での主の変貌もメタモルフォーシスである。。われわれも次のように約束されている-
愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。-1John 3:1
ここの「似る」とある原語は”homoios”、つまり性質と形態において似る存在である。Net Bibleではふたつの理解ができるとして次のように解説している-
(1) believers will really become more like God than they now are, and will do this through seeing God as he really is; or (2) believers will realize that they are already like God, but did not realize it until they see him as he is.
要するにキリストにおいて現れたYWHWのご性質と御心が、われわれにおいて再現するのだ。
私たちニュークリーチャーはすでにキリストのマインドを持っている(1Cor 2:16)。それをアクティヴにすること、それがフェイス。その過程はマインドにスピリットがペネトレイトすることによってトランスフォームされつつ進行する。その時、DNAさえもその傷が修復される(エピジェネティクス)。その入り口がメタノイアである。罪意識から義意識への転換こそ福音である。
For in it God’s righteousness is being revealed, out of faith for faith, according as it is written: “Now the just one by faith shall be living.”-Rom 1:17 (CLV)
なぜなら、神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。「義人は信から生きるであろう」と書いてあるように。(同、田川訳)
もっともらしくしかめっ面をながら、わたしは罪深い人間です・・・とやってる偽善者どもに騙されることなかれ。エクレシアはすでにニュークリーチャー、キリストの充満である(Eph 1:23)[3]繰り返すが、満ちておられる「ところ・場」ではない。充満そのものである!。

Biblical writers used words loaded with symbolic, abstract meanings that were well known in their culture. We miss all that when we insist words must mean what pops into our heads in our time and culture. pic.twitter.com/CftpeND5TP
— Michael S. Heiser (@DRMSHPhD) April 22, 2021
いつものDr.Heiserのツイート。御言葉は現代人の感覚で理解してはならないのだ。ましてや日本語マトリックスでの理解は致命的。
たとえば「良心」と訳される単語”suneidēsis”。”sun”(with)+”eido”(percept)の合成語。その意味は”co-perception”(Strong)、聖霊とパーセプションを共有することである。岩波訳では「内奥の意識」と訳している。
原語を変える必要があることはすでに指摘している。
われわれは残念ながらヘブル語やギリシャ語は母国語としていないゆえの限界はある(外なる言語)。が、内なる言語(ロゴス)を有している。それは聖霊によって臨在されるYHWHエロヒムのロゴス、いのちを与える霊となられたキリストである(1Cor 15:45)。このキリストのマインドをすでに持っているが(1Cor 2:16)、まだ古い魂(特にマインド)が障害となり、十分にその機能が発揮されていない。ゆえにマインドのトランスフォーム(メタモルフォーシス)が重要となる。
そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって、形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであり、そして〔神に〕喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-Rom 12:2

マインド(思い)はブレインと同期して働くが、ちょうどカメラのシャッターのようなもの。これが開いていないと、ここで霊的サブスタンスがブロックされて、霊にまで届かない。このような人は思いの中で延々と空理空論を振り回すことになる。霊はちょうど感光フィルム(今は感光素子)のようものである。霊的サブスタンスを霊に得たら、思いを用いて語り出す。これが写真の焼き付けと同様に、五感の領域に霊のサブスタンスを現出させることである(実体化、substantiation)。
かくして霊の人はYHWHエロヒムの意識を共有し、それを五感の領域に現出させるのだ。これが御心が天になるとおり、地にもなるようにの具体的内容である。主の祈りは式文ではない。

ヤバいね!なんか泣きそうになった。
中村 貴之さんの投稿 2013年9月15日日曜日
自分の実績とか功績とか、古いものを大事するようになったら、霊的歩みはオワル。痛みを伴うが、絶えず古いものを削られて、新しいいのちの芽生えを味わうこと。これがメタモルフォーシスだ。

私たちが見ている現実や世界観(パラダイム)は私たちの思い(ヌース;mind)の産物だ(☞プライベートリアリティはマインドが作る)。その中で悲喜こもごも人生が展開する。つまりあなたの経験している人生は自作自演なのだ。
うつ病の治療法である認知療法の創始者ベックが言っているが、私たちはみなそれぞれ認知の歪みを有している。これが個々の内的世界観(像)を作り上げるのだ。これは、したがって、リアリティそのものではない。私たちは教育、伝統、社会常識、科学知識などにより、さらに個別のノイズ(認知の歪み)を通して、個別の内的世界観を何気に構築している。それはマトリックスである。
これが人によって異なることからしばしば争いが起きる。例えば日韓の歴史認識の違いに基づく論争や争いはその典型である。極私的には神学などはその提唱者の精神病理の現れであると考えている。
さらに深刻なのは、しばしばこれが御言葉と対立するのだ。そのために神の国の現出を妨げる。「十字架を取る」とは(Luke 9:23)、この世界観を御言葉に従わせることだ。それは自我そのものを抹殺することではない。御言葉に対立する魂の深層心理レベルにおける要塞(霊感情観念複合体)を崩すことである。それから噴き出る御言葉に対立する諸々の思考や意図を拒絶すること。特に感情は思いと絡んで、それが意志決定を左右する。思いにこそ十字架を適用する必要がある。
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。-ローマ8:6-7
私たちの思いは神に敵対するか(=肉の思い)、神に服するか(=霊の思い)、その二者択一だ。思いを見張り、思いをキリストに服させること。これが十字架のパワーである。
わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ・・・2コリント10:4-5
またあなたがたが思いの霊において新しくされ-Eph 4:23(原文)
霊は思いの中にまで浸透する。これが私たちのアダム時代にあって構築された思いのマトリックスを再構成する。まことに
そしてあなたがたはこの世と同じ姿かたちにされてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形造り直され、〔その結果〕何が神の意思であり、善きことであり、そして〔神〕に喜ばれることであり、完全なことであるのかを、あなたがたは吟味するように〔しなさい〕。-ローマ12:2
マインドのリニューアルにより再構成がなされる。これはメタモルフォーシス、昆虫の変態である。毛虫から蛹になると、その内部は一度ドロドロに溶かされる。それが再構成されて蝶の姿を形造り、ついには殻を脱ぐ。この過程はわれわれの経るべき過程でもある。すなわち、<霊の再生⇒魂の再構成⇒体の変貌>である。

今日、占いまがいの個人預言とか世界情勢に関する預言とかが蔓延っている。中にも傾聴に値するものもあるが、大抵はいかがわしいものである。再臨の時期を預言し、見事に外れるケースすら出ている時代。本稿では預言の霊的機序を明らかにしたい(初出:リバイバル新聞2003年5月25日号掲載記事原稿)。
霊的真理や実行にはコインのように二面性、すなわち本質面と経綸(機能)面がある。預言は御霊と人の霊との関わり方と密接に関連し、その実行では人の霊に関する霊的知識と旧新約の相違を十分に理解する必要がある。
御霊の関わりの二面性
御霊の関わり方は旧新約で決定的な相違がある。旧約では御霊は人の上に(upon)、その職務の遂行のために経綸的かつ機能的に臨んだ。新約では内的ないのちとして内住される(in)。旧約では神の霊はある意味で、単に神の霊であったが、新約では人なるイエスの霊に住み人間性を経験した霊として、イエスのパースンとわざを証しする霊として下った。よって聖霊は「イエスの御霊」、「キリストの御霊」と呼ばれる(Acts 16:7;1Peter 1:11)[1] … Continue reading。
旧約では神は預言者たちに部分に分けて語ったが、新約では御子にあってすでに語った(Heb 1:1-2)。そして御子、すなわちロゴスはすべての信者のうちにある。よって神はモーセやエリヤではなく「これ(イエス)に聞け」と言われる(Matt 17:5)。この塗り油(原語)がすべてを教えるから誰からも教えてもらう必要はない(1John 2:27)。それぞれが直接に主を知るゆえに、互いに主を知れと言って教える必要もない(Heb 8:11)。あちこちの自称”預言者”の託宣(oracle)を求めてさ迷う必要はない。では新約の預言とは何か?
預言の本質面と経綸面
新約の預言の本質的機能はキリストの体の建て上げである。エバがアダムのあばら骨から建て上げられた(buid up;原語)ように(Gen 2:22)、私たちエクレシアもキリストの息(いのち)を吹き込まれ、御言葉が内的に組織されて建て上げられる。このいのちの発生分化の過程を霊的代謝あるいはメタモルフォーシスと呼ぶ。イエスが「わたしが話したことば(レーマ)は霊であり、いのちである」と言われたとおり(John 6:63)、預言の本質的機能はいのちなることば(レーマ)を解き放つことである(本質的預言)。
これに対して、例えば隠れた真実や罪を指摘したり、将来の事を知らせたり、勧告や警告の言葉、知恵や知識の言葉を与えることは機能的預言である。これは神の計画を進展させる経綸的機能を果たす。
預言の霊の見極め
預言(特に本質面)は語る人の人間性と切り離せない。預言の霊はイエスの証しである(Rev 19:10)。これはイエスに”ついて”の証ではなく、イエスのパースンそのものである。外来性の神の言葉を預って語るのではなく、御霊によって織り込まれたキリストご自身が私たちの人間性を通して内発的に語る。また預言の霊は預言者に服するから(1Cor 14:32)、人の自由意志を無視したり、トランス状態や変性意識状態で語られるものではない。これらはむしろ危険である。
預言の生成機序(メカニズム)
様々の状況において霊のうちにある重い霊的感覚(センス)が生じる。その重さゆえに神の前でうめきを覚え、霊のエキササイズがなされる。この時ある種の苦しみと葛藤を経験するが、これが深いほどその重要性を知る。
こうして祈りと黙想、また御言葉と対峙するうちに、あらゆる真理に導く御霊の照明の下でそれは徐々に熟して内的に言語化される(☞フォティーゾ)。ついにこれを外的言語として語り出す時、重荷も解放される。それまでの苦しみや葛藤が深いほどに、ことばに霊的エネルギーが蓄積され、また御霊の油も豊かに塗り込まれ、光と権威と力に満ちる。こうして語り手は解放され、任務を果たしたことを知る。
聞く側はそのことばに塗られたキリストの霊に触れ、単なる知識ではなく、光といのちに触れて潤される。霊は生き生きと躍動し、いのちの感覚が生まれ、解放感と平安、満足感と充足感が満ちる。このことばが内的に組織され、内なるキリストが形作られる。すなわち、本質的預言はメタモルフォーシス、あるいはスピリチュアル・メタボリズム(霊的新陳代謝)を触媒する。
経綸的な預言はあくまでも神の主権により神が適切な器に適切な時に適切な言葉を与えるのであり、この聞いた言葉を語り出すとき経綸的な預言となる。
霊と魂の分離の必要性
預言の言葉は魂の思いに去来する諸々の観念や表象とは明確に異なり、霊に響くあるいは映るものである(☞フォティーゾ@YouTube)。この識別には霊と魂の分離が必要である。神の言葉は生きていて魂と霊を分離し、種々の考えや思惑を露にする力がある(Heb 4:12)。預言者は御霊のメスである御言葉による霊と魂の分離手術を受ける必要がある。この手術には痛みが伴なうが、その痛みに比例して分離も明確であり、そのことばは澄み、光と洞察に満ちる。人々はそのことばの前で自分の真実を暴露され、神の御前にひれ伏すように導かれる。人の霊は自分のすべてを知り、同様に神の霊は神の深みを知るのである(1Cor 2:11)。霊に投影された霊的サブスタンスを魂のマインドで言語化あるいは映像化することにより、人間の言葉として翻訳し、五感の領域に神の意志やパワーを表出する。これが預言である。
語り出されたわたしの言葉は虚しく帰ることはない。必ず言い送ったことを成し遂げる。-Isa 55:11


心の貧しい人たちは、幸いである。
天国は彼らのものである。
(新約聖書・マタイによる福音書5章3節)心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものも持っていない人であろう。金もない、地位もない、体も弱い、知識もない、おのれにたのむ何もないがゆえに、ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たちである。
イエスのまなざしは、いつもこうした弱い人々に向けられていた。イエスの愛は、いつもこうした謙遜な人間たちに注がれていた。(三浦綾子『新約聖書入門』より)
この三浦綾子の文章[1]自己憐憫の投影であることは言うまでもなかろう。、すでに「心の貧しい者たち」の誤訳を指摘しているが、その後をあえて論じるまでもないが、はっきり言う。偽りである! パウロは苦難について何といっているか。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。-Phil 4:12
彼は環境や状況の犠牲者(Victim)ではない、それらを支配したのだ、つまり勝利者(Victor)として。彼はよく肉体のトゲ、つまり病気を抱えていたと言われる。が、病気ではない! 聖書は聖書で解釈する必要がある。トゲは「サタンの使い」だ[2]民数記(Num … Continue reading。それは彼の働きを阻害する存在なのだ。前にも書いたが、彼は直後にこう言っている:
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。-2Cor 12:10
キーワードは「キリストのために」だ。ここに病気はリストされていない。もし「弱さ=病気」であるならば、パウロはキリストのために病気に甘んじている?・・・意味不明だ。人はいわゆる病気や苦難において造り変えられるのではない。これは三浦綾子文学の世界だ。ヨブもそもそも彼のフェイスには穴が空いており(☞恐れは偽りの霊である-恐れこそを恐れよ!)、そこを敵に突かれたのだ。が、彼はあくまでも自らの義を主張した。これが彼の苦難を深刻化したのだ。
さて、パウロは言っている:
主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます[3]この「変えられ」の言語はmetamorphoであり、主が変貌の山で栄光に包まれて姿を変えられたのと同じ単語である。。これはまさに、霊なる主の働きによるのです。-2Cor 3:17-18
すなわち造り変え(メタモルフォーシス;トランスフォーメーション)は栄光の中でなされるのだ[4] … Continue reading。
栄光とは”Kavod”、その原意は「重さ」だ。神の栄光が望むとき、それは重い。その重さは素晴らしいエクスタシーをもたらす。その主の重いタッチが私たちを造り変える。決して歯を食いしばることによるのではない! 主ご自身ですら、喜びのゆえに十字架につかれたのだ[5]この個所の訳は共同訳では「喜びを捨て」とあるが、原意は「喜びのゆえに」だ。宗教のマインドによるフィルターがかかっているのだ。。十字架教の宗教の霊から解かれよ!
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-Heb 12:2
主の十字架は主の栄光だった(John 7:39)。神のみわざはすべて栄光の中でなされる。栄光の雲が臨むとき、それは私たちに主の臨在を経験させる。旧約の祭司たちのように立っていることができなくなる(1Kings 8:11)。その臨在のエクスタシーの中で、我を忘れ、聖霊が自由に働かれるとき、自然と癒しも起きているのだ。造り変えも、癒しも、すべてはこの臨在の雲、栄光の中の現象なのだ。どこに自分(セルフ)の信仰がどうのこうのと主張する余地があろうか。そもそも栄光においては自分(セルフ)は消え去るのだから。
三浦綾子に代表されるような宗教の霊の束縛から解かれよ!
References[+]
↑1 | 自己憐憫の投影であることは言うまでもなかろう。 |
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↑2 | 民数記(Num 33:55)に「もし、その土地の住民をあなたたちの前から追い払わないならば、残しておいた者たちは、あなたたちの目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨となって、あなたたちが住む土地であなたたちを悩ますであろう」とある。 |
↑3 | この「変えられ」の言語はmetamorphoであり、主が変貌の山で栄光に包まれて姿を変えられたのと同じ単語である。 |
↑4 | マリアが受胎告知を受けたとき、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言われた。この「おおいます」は”episkiazo”、主が変貌の山で雲がおおったのと同じ単語だ。つまりマリアの妊娠も栄光の雲の覆いの中で起きた奇跡である。 |
↑5 | この個所の訳は共同訳では「喜びを捨て」とあるが、原意は「喜びのゆえに」だ。宗教のマインドによるフィルターがかかっているのだ。 |

この記事は面白い。われわれが外界を認知し、認識し、構成する世界モデルは常に世の影響により無意識に書き換えを受けているのだ。これでね、ありもしない証言によって冤罪が起きるているわけ[1]ちなみに認知のバイアスと呼ばれる現象により、これが天使の羽と主張するニッポンクリもいるのだ。。
私たちは聖霊のメモリー(=ジーザスの記憶)でマインドを書き換えるわけ。マインドのトランスフォーメーション(メタモルフォーシス)。このとき神をエミュレートする。生きているのは私ではなく、キリスト。
We Christians are being re-wrote our mind with the memory of the Holy Spirit which is of Jesus Christ. The Holy Spirit reveals not Himself but Jesus to our spirit and remind us of Jesus’ words and deeds to glorify Jesus. Then we are being transformed into His likeness. We are not imitator but emulator of Christ, i.e. Christ living in us reveals Himself through our soul and body. It is the New Creature in Christ. We are Neo-Homo-Sapiens!!!
そしてあなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられてはならない。むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって造り直され・・・ローマ12:2

霊-精神身体医学(Pneumatic Pshycho-Somatic Medicine)の提唱
このところYouTubeで紹介している大脳生理学者Dr.Car …
このところYouTubeで紹介している大脳生理学者Dr.Caroline Leafの論(たとえば☞Mind-Body Connection)。実に興味深い。ニッポンキリスト教のいわゆる「自我を砕きぃ~」とか、「肉を十字架につけろ~」とかのキーキー声にすでに辟易している方も多いと思う。聖書はなんといっているか?
- 古い人はキリストと共に死んだ(完了形)
- キリストにある者は自分の情と欲と共に肉を十字架につけてしまった(アオリスト過去形)
とある。聖書箇所はそれぞれでどうぞ。「完了した!」とイエスも言われたであろう。が、なぜかクルシチャンたちはそれを自分で再現しようとする。死のうとすればするほど、自分が生きていることを感じてしまう。どうしたら自我が死ぬことができるのか、自我に死ぬことはいかに難しいか・・・・。ああ、できるわけがなかろうに!こうして無駄な時間と労力を消耗するのだ。
われわれは既に新しい創造とされた(完了形)!ニュー・クリーチャー、新生命体、エロヒム属(☞エロヒム属の誕生)。問題はこの肉体がまだ旧創造に属しており、従って大脳が贖われていないこと。だからマインドのリニューアルとトランスフォーメーションが必要なのだ。それは大脳のネットワークをも再構成する。古い価値観、感じ方、考え方、意思決定のあり方、そして行動が新しく書き換えられること。そう、プログラムの書き換えである。聖化とか言われるとたちまちキリスト教の価値観が入る[1]私も一応この用語を用いてはいるが・・・・。。いわゆるホーリネス強迫観念だ。
ここでもすでに紹介しているが、最近大脳生理学者にしてクリスチャンが御言葉と大脳生理学の橋渡しをしてくださっていることは大変に心強い。私も『霊精神身体医学』(☞人間の聖書的啓示と現代精神科学)を提唱しているが、御言葉をサイエンスというチャネルをとおして一般の方々や迷える子羊たちに提示したいのだ[2] … Continue reading。
いわゆる神学や宗教学の範疇から解放されよ!と私は口を酸っぱくして叫んできた。そのような流れが欧米では着々と起こされている。先駆けはニール・アンダーソンであると考えているが、彼らの基礎にはつねにウォッチマン・ニーがいる。彼の”The Spiritual Man“だ。それは神学でも宗教学でもない。人間学なのだ。ただし、神との関係における御言葉によるそれ。ヒューマニズムに基づくいわゆる人間学ではな決して決してない。
最近に知見では、トラウマ経験がDNAレベルで継承される。人類のもっとも悲惨なトラウマは神との分離とエデンの園からの追放だ。しかし、人類のもっとも至高の喜びは神との一体と神の国への招聘だ。前者はアダムにより、後者はキリストにより成就された。罪を犯すことがなんの努力も要らないように、われわれのマインドのトランスフォーメーションが進めば、義を行うこともごく自然となる。御霊はこの死ぬべき体にすらいのちを与えるのだ。究極の希望は体の贖い、しかしキリストの祝福を受け継ぐDNAを再構成されることにより、この体すらDNAレベルからの変革が可能である!あなたはこれを信じるか?と主は問わるのだ。
