iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ

私は聖書の真理は日本語で考えてはならないと繰り返し語ってきている。日本語マトリックスによるバイアスが生じるからだ。これでニッポンキリスト教なるタコツボができることは繰り返さない。使う言葉をシフトせよ!
このクリップは実に面白い。まさにはじめに言葉(ロゴス)があった(John 1:1)。言葉は私たちの経験を作り出すのだ。どの言葉を使うか、これがあなたの、そして私の人生を決定する。サンドラ・ブロック似の彼女は認知科学の研究者だ。日本語のトランスクリプトもあるので、ぜひご一覧を。
ちなみにこちらはDr.Lukeによるクリップ。ご一緒にどうぞ。

YHWHエロヒムは言葉=情報=によりすべてを創造された。すなわち生命は情報つまり言語である。その言語は4つの塩基配列。3つづつがコドンとして原則的に1つのアミノ酸に対応する。そしてアミノ酸の配列がタンパク質。
DNAの塩基はA-T(U)、C-Gとペアを作る。さらに相同染色体がペアを作る。必ず“連れ(Mate)”がいるのだ。まことにイザヤ書にあるとおり。聖書はキリスト教の経典でもないし、倫理や道徳の書でもない。【生命現象の書】である。すなわちスピリチュアル・サイエンスだ。聖書をキリスト教なるマトリックスから解放せよ!
主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ、主の霊が集めたものだからである。-イザヤ34:16
$$
-e^{i\pi }=1
$$
円周率とネイピア数と虚数単位は自然界を記述する数学の基本定数である。次のように1は分解できる。まさに三位一体を象徴する(☞iPAIの覚醒@YouTube)。これがわずかでも狂うと宇宙は崩壊するのだ。

マラキ書は旧約の最後の書であり、これ以降、ジーザスが来られるまでの約300年間、YHWHエロヒムの言葉は聞かれることがなくなった。その中の一節:
一つ神は、われわれのために命の霊を造り、これをささえられたではないか。彼は何を望まれるか。神を敬う子孫であるゆえ、あなたがたはみずから慎んで、その若い時の妻を裏切ってはならない。-マラキ2:15(口語訳)
この意味が理解できるであろうか? あたかも不倫をするなと言ったニュアンスである。新共同訳は
主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。
これも似たり寄ったりである。Hebrews Root Bibleにはこうある:
And has He not made you one (echad)? Yet the remainder of the Spirit is in him. And what of the one? He was seeking a seed of Elohim. Then guard your spirit, and do not deal treacherously with the wife of your youth.-Mal 2:15 (HRB)
この英文を訳すと、
”そして、彼はあなたがたをひとつに造ったではないか?彼の内にはその霊の残滓がある[1]アダムの罪の後、霊は死んだが、その機能である良心・直覚・交わりのうち、良心はかろうじて残滓として人のうちに残っている。。そしてそのひとつ[2] … Continue readingとは何のことか?彼はひとつのエロヒムの種を探し求めていた。ゆえにあなたの霊を守り、そしてあなたの若い時の妻をないがしろにしてはならない。”
マラキ2章は祭司たちに対する叱責である。そもそも彼らは唯一の父を持っているが、彼らは道を踏み外した(Mal 2:8)。人はYHWHエロヒムの形(phantom)と様(likeness)に創造されようとした[3]実際には形にしたがって創造されて、様はまだ得ていなかった(Gen 1:27)。様はいのちの木を採る時にその内実として得るはずであった。、神の一族であった(Acts 17:28-29 田川訳)。他の生物はみな「種に従って」造られたが、アダムはYHWHに型どって造られた(Gen 1:26-27)。加えてYHWHの息(neshamach)、つまり霊を吹き込まれた。この段階で他の生物とは異なる神的な存在であったのだ[4]Dr.Heiserは人は”Yahawehのimager”であると言っている。。
この上にさらにいのちの木の実を摂れば、YHWHエロヒムの意図は実現した。つまりご自身のいのちの増殖である。が、最初の人アダムは失敗した。これを回復したのが最後のアダム(=旧創造の終り)であり、第二の人(=新創造の初穂)であるジーザスだ。アダムはキリストの型である(Rom 5:14)。すなわちキリストはいのち(Zoe)の充満そのものであり、そのいのちをご自身がいのちを与える霊として(1Cor 15:45)、われわれに分かち与えたのだ(☞神のエコノミー-いのちのディスペンセイション)。このいのちとはまさにマラキ書の a seed of Elohimである。キリストこそがアブラハムに約束された単数形の種だった。
ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。-Gal 3:16
子孫の原文は単数形の”sperm”、すなわち精子、すなわちDNAである。YHWHエロヒムのDNAであり、これをもってご自身のいのちを地上に増殖することこそがYHWHエロヒムの当初の意図であった。ゆえに
すべての身体はこの頭から発して、筋と筋によって支えられ、組み上げられて、神の成長を成長するのである。-Col 2:19(田川訳;岩波訳の注)
何が成長あるいは増殖するのか? ここを他の訳はみな誤訳している! 成長するのはキリストの体、それはエロヒムの成長である! これは”a seed of Elohim”がわれわれの霊の内にインヒュージョンされたゆえである。まさにYHWHの遺伝子工学である。われわれの霊はYHWHエロヒムの霊を分かち与えられたもの。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。-1John 4:13
われわれ(の霊)は神のロゴスにより生み出された。
御父は、御心のままに、真理の言葉(ロゴス)によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。-James 1:18
ロゴスが内に植え込まれた者はエロヒムであると主ご自身も証しされる:
そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちはエロヒムである』と書いてあるではないか。神の言葉(ロゴス)を受けたうちに存在せしめれた(ginomai)人たちが、『エロヒム』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。-John 10:34-35
それはわれわれの霊である。ゆえにマラキ書ではあなたの霊を守れと言われるのだ。このヨハネの節に対してHRBは次のような栄光のコメントを与えている。
This psalm is talking about mankind’s great potential to become a literal child in the family of Yahweh (Rom 8:11-17) Psa_82:6
”この詩編はYahaweh家の文字通りの子とされるという偉大なる人類の可能性について語っているのである。”
中村家に生まれれば、ホモサピエンスとして中村族のDNAを継ぐ実の子である。ただし、両親とpersonは異なる。同様にYahaweh家に生まれるならば、エロヒム族としてYahaweh家のDNAを継ぐ実の子である。ただし、YahawehのPersons(=父・子・聖霊)とは異なる。何度も繰り返すが、エロヒムを「神」と訳し、Yahawehを「主」と訳すのが誤りである。これで日本語マトリックスに絡めとられて、ニッポンキリスト教なるタコツボが構築されることは繰り返さない。
われわれはエロヒムのシードをインヒュージョンされた新生命体である。エクレシアとはキリストの体であり、キリストの肉の肉、骨の骨(エペソの邦訳には落ちている)、この方の充満である(Eph 1:23)。すなわちキリストのいのちそのものであり、その増殖だ。エロヒムはキリストの体にあって増殖するのだ!(☞エロヒムの誕生と増殖@YouTube)
References[+]

TODAY’S CELEBRATION Nov 24, 2019:ロゴス・スピリット・コンプレックス
MSGタイトル:ロゴス・スピリット・コンプレックス 引用聖句: …
- MSGタイトル:ロゴス・スピリット・コンプレックス
- 引用聖句:Isa 42:5;Job 32:8;Mal 2:15;Heb 4:2 etc.
- 2019年12月8日(日)のセレブ(1日は懇親会のためありませんでした)
・場所:ワークピア横浜ユーフォニー
・時間:14.00-18.00 - プレイヤーMTG:ハロー会議室石川町元町(第二、四水曜日13:00-17:00)
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。

NEW DVD発売:『FAITH CAMP 2019 SEMINAR』の二回のレクチャーを編集した映像。YouTube公開のものに手を入れてます。定価3,000円。注文はオンラインショップにて。

聞いた御言葉(ロゴス)はブレインからハートにおり、ガット(腹)に落ちる(腑に落ちる)。いっぽう、聖霊はZOEとなり、われわれの霊から魂、そして体へとペネトレーションし、腹から川々となってフローする。この死ぬべき体にもいのちを与えるのだ。それは正統キリスト教神学などの問題ではない。

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川々(原文)となって流れ出るようになる。-John 7:38
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。-Rom 8:11

このビデオのスピーカーがクリスチャンか否かは不明であるが、言葉の能力について正しいことを語っている。言葉は創造する。我々の場合、霊であるフェイスを乗せるのだ。つまり、<ロゴス×スピリット=レーマ=Zoe>である。主は言われた-
わたしがあなたがたに話した言葉(レーマ)は霊であり、いのちである。人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立たない。-ヨハネ6:63
フェイスにより解き放たれた言葉は、必ずその実質をこの五感の領域に現出させる。まことにこの言葉どおりである-
このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。-イザヤ55:11
語りだされた言葉は単なる物理的サブスタンス(空気の粗密波;バイブレーション)であるだけではなく、霊的なサブスタンスを解放するのだ。それは霊のバイブレーション。
もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。 ‐詩篇19:1-4
響きとは弦、つまり振動(バイブレーション)である。物理的に観測されずとも、何かが交換されており、YHWHのバイブレーションが全地に満ちているのだ。われわれの霊はこのバイブレーションと共鳴(リゾナンス)し、そのサブスタンスをつかむ。これがシックスセンスであるフェイスである。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ観測されていないことの現出である。-Heb 11:1 (Dr.Luke訳)

TODAY’S CELEBRATION Aug 04, 2019:スピリット-リンビック・コネクション
MSGタイトル:スピリット-リンビック・コネクション 引用聖句 …
- MSGタイトル:スピリット-リンビック・コネクション
- 引用聖句:2Sam 22:27;Rom 8:9;Heb 4:12;John 3:34;Dan 4:13;7:15;Rev 4:2;Job 33:14-15;Acts 2:17;1Pet 1:23-25;James 1:21etc.
- 2019年8月11日(日)のセレブ :
- 場所:ワークピア横浜ユーフォニー
- 時間:14.00-18.00
- プレイヤーMTG:ハロー会議室石川町元町(8月14&28日13:00-)
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
Amazonにて電子書籍発売
聖書が啓示する人間の構成と霊的および精神的葛藤からの解放のための処方箋を提示する。葛藤の病理を心理学のレベルのみではなく、霊的レベルから解き明かす。本書を読まれた後は、あなたはネヴァー・ビ・ザ・セイム。根底から変革されるでしょう。

TODAY’S CELEBRATION July 21, 2019:サブコンシャスマインドの書き換え
MSGタイトル:サブコンシャスマインドの書き換え 用聖句: 3 …
- MSGタイトル:サブコンシャスマインドの書き換え
- 用聖句: 3John 1:2;Gen 1:2;2:19;15:17;Isa 30:33;Lam 3:55;Eph 4:23;Ps 104:30;147:18;Phil 3:15 etc.
- 2019年7月28日(日)のセレブ :
- 場所:ワークピア横浜ユーフォニー
- 時間:13.30-17.30
- プレイヤーMTG:ハロー会議室石川町元町(24日13:00-)
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
Amazonにて電子書籍発売
聖書が啓示する人間の構成と霊的および精神的葛藤からの解放のための処方箋を提示する。葛藤の病理を心理学のレベルのみではなく、霊的レベルから解き明かす。本書を読まれた後は、あなたはネヴァー・ビ・ザ・セイム。根底から変革されるでしょう。

よく言われる「聖書勉強」とか「バイブルスタディ」というお勤め。特に前者は日本語ではなく、おそらくカンコク系の用語だ[1] … Continue reading。とても好きになれない。なぜ?御言葉は読むというよりは聞くものだ。それも変な解き明かしとか解釈を入れず、そのままに、聞くこと。御言葉はいじるべきではない。
これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の言葉(ロゴス)とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう。 ・・・これは確実で、そのまま受けいれるに足る言葉(ロゴス)である。 -1テモテ4:6-9
たとえば、生まれつきの盲人の癒しでは、イエスは唾を吐き、泥をこねて、彼の目に塗り、シロアムの池に行って洗えと命じた。なぜ? その意味を問うことは不要。ただ、その時には主はそうされたのだ。そして大事な点は、彼が主の言葉を聞き、目が見えないままにそれに従ったこと。このイエスの言葉(レーマ)に自分を預けたのだ。これが鍵。聞いたことに従うこと。
鍵はイエスという存在=AM=、サブスタンスをとらえること。この方は癒すお方(Exo 15:26)。真実なお方(Deut 32:4)。ご自分の言葉を裏切らないお方(Num 23:19)。昔も、今も、永遠に変わらないお方(Heb 13:8)。信仰はそのサブスタンスをとらえる(Heb 11:1)。そして語り出すのだ(2Cor 4:13)。サブスタンスを語り出すとき、それはレーマとしてこの物理的時空間の中でわざをなす(Isa 55:11)。われわれは言葉を語り出すことにより、あるいは呼ぶことにより、地を従わせるのだ(Gen 1:28)。
よく言われる、「持っている者はますます豊かに・・・」の聖句には「聞く者は」が落ちている。「持っている者で聞く者はますます豊かに・・・」である。また主は言われた-
よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。-ヨハネ5:25
聞く者は生きる。なぜならサブスタンスであるフェイスは聞くことから生じるからだ。
したがって、信仰は聞くことによるのであり、キリストの言葉(レーマ)を聞くことによるのである。 -ローマ10:17
そのためには、まず右の耳たぶ(聞くこと)に、続いて右手の親指(行うこと)、最後に右足の親指(歩み)に血を塗っていただくのだ(Lev 8:23)。すると油(聖霊)が塗られる(Lev 8:30)。人は常に何かを聞いている。五感の音声だけでなく、思いの中の声をもだ。どの声に従うか、それがあなたの行動そして人生を決定するのだ。かくして主は言われた、
あなたがたは何をどう聞くかによくよく注意せよ、と。

さて、この聖句、岩波訳だと-
自らに備わった栄光と卓越した力によって私たちを召された方を、私たちが知ることにより、イエスの神的な力が私たちに生命と敬虔についてにすべてのことを与えている。この栄光と卓越した力によって、私たちには、貴い偉大な約束が与えられている。それは、これらにより、あなたがたが、この世界がもたらす、そして欲望がもたらす滅びから逃れて、〔イエスの〕神的な本性に参与するようになるためである。
さらに田川訳によれば-
我々をご自身の栄光と徳によって招き給うた方を認識することによって、生命及び敬虔へといたる一切の事柄を、その方の神的な力が我々に贈って下さったので、その栄光と徳によって尊く偉大な約束が我々に贈られたのであるが、それは、その栄光と徳によってあなた方が神的な質にあずかる者となるためでなのであれ、あなた方は此の世で欲望において朽ちることから免れるのであるが。
第一の「力」は”aretē”、意味は
From the same as G730; properly manliness (valor), that is, excellence (intrinsic or attributed): – praise, virtue.(Strong)
つまり、男らしさ、すなわち洗練さや徳。Thayerによれば
1) a virtuous course of thought, feeling and action
1a) virtue, moral goodness
2) any particular moral excellence, as modesty, purity
徳のある考え方、感じ方、行為を言う。第二の「力」は”dunamis”、
1) strength power, ability
1a) inherent power, power residing in a thing by virtue of its nature, or which a person or thing exerts and puts forth
1b) power for performing miracles
1c) moral power and excellence of soul
1d) the power and influence which belong to riches and wealth
1e) power and resources arising from numbers
1f) power consisting in or resting upon armies, forces, hosts
つまり魂の洗練性による力・能力であり、”aretē”とも重なる。単なるいわゆる力とかパワーではない。そこで続いて、「神の本性」あるいは「神的な質」に参与できるのである。この「本性」とか「質」とされているのは”phusis”、意味はStrongによれば
From G5453; growth (by germination or expansion), that is, (by implication) natural production (lineal descent); by extension a genus or sort; figuratively native disposition, constitution or usage: – ([man-]) kind, nature ([-al]).
Thayerでは
1) nature
1a) the nature of things, the force, laws, order of nature
1a) as opposed to what is monstrous, abnormal, perverse
1b) as opposed what has been produced by the art of man: the natural branches, i.e. branches by the operation of nature
1b) birth, physical origin
1c) a mode of feeling and acting which by long habit has become nature
1d) the sum of innate properties and powers by which one person differs from others, distinctive native peculiarities, natural
characteristics: the natural strength, ferocity, and intractability of beasts
まとめると「発芽による増殖・自然の生殖」また「事の性質・力・法則・秩序」である。ゆえに「神的な本性」とは「神から生み出された種の増殖とその力や法則」のことである。つまりエロヒム属の増殖である(⇒エロヒム属の誕生)。
神の増殖を増殖する。-コロサイ2:19(原文)
事実、Strongによれば”a genus”、すなわち「属」だ。エロヒム(Elohim)とYHWHの違いについてはすでに何度も指摘しているが、エロヒムは生物の分類のような一種の霊的生命体のカテゴリーを指す。Dr.Heiserによれば「領域(sphere)」である。対してYHWHは父・子・聖霊にいます最も高きエロヒムの固有名詞だ。その意味は「ある(I-AM)」あるいは「在」である。他のエロヒムはもちろんYHWHにより創造された(⇒神の新創造セミナーII)。
かくしてヤコブやヨハネはこう証言する-
主は意図して我々を真理のロゴスによって生み出し給うたのだ。-ヤコブ1:18(田川訳)
神から生まれた者はみな罪をなすことがない[1] … Continue reading。神の種がその者の中にとどまっているからである。だから罪をなすことはありえない。神から生まれたからである。-1ヨハネ3:9(ibid)
大切なのは生まれること。それは生命現象であり、われわれはYHWHエロヒムの霊のDNAを分かち与えられたエロヒム属である。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。-1ヨハネ4:13(新共同訳旧版)
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたはエロヒムである』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、エロヒムといわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)・・・-ヨハネ10:34-35
この「託された」と訳されている単語は”ginomai”で、Thayerによれば
1) to become, i.e. to come into existence, begin to be, receive being
2) to become, i.e. to come to pass, happen
2a) of events
3) to arise, appear in history, come upon the stage
3a) of men appearing in public
4) to be made, finished
4a) of miracles, to be performed, wrought
5) to become, be made
「あらしめられる」あるいは「なる」と言うべきであり、ロゴスがうちにあらしめられるようになった者たちはエロヒムである。ロゴスとは種、すなわち”sperma”、精子である。その本質はDNA。すべてはこのYHWHエロヒムのDNAが発現することによってなされる(Mark 4:26-29)。神のわざはわれわれのうちに生きるYHWHが私たちの魂と血肉とを通して現れ出ることによるのだ[2] … Continue reading。ゆえにパウロはこう証する-
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。-1コリント15:10
究極的にジーザスは言われた-
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。-ヨハネ14:12
それは内なる神を働き出すこと。これが恵みのわざである。敬虔(eusebeia)の奥義とは[3] … Continue reading、肉において現れる神である(1Tim 3:16)。これを初穂としてデモンストレーションされたのがジーザスその方である。
神に愛される子供として、神をエミュレートする者となりなさい。-エペソ5:1
ここは通常は「神に倣う者」とあるが、それでは人間の真似をする猿である(⇒生み出された子として神をエミュレートする)。いのちのレベルが異なる。エロヒムなるYHWHを人間のいのち(=アダム属のいのち)でどうして真似し得ようか。この聖句の意味は「生み出された子としてエロヒムをエミュレートする」のである。
それはちょうど無骨なWindowsマシンにおいてハイセンスなMacOSを走らせ、Macのソフトを働かせることができる。これをエミュレートと言う。われわれの肉(体-魂複合体)において、エロヒム属の霊のうちに住まわれるYHWHエロヒムが生きてくれる。私の魂と体を通してYHWHの思い・意志・感情が言動として表出されるのだ(⇒霊の機能と魂・体との相互作用について)。
人間ジーザスは100%父を現された(John 1:14)。ここの「現された」の原文は”exēgeomai”、意味は”to consider out (aloud), that is, rehearse, unfold: – declare, tell”(Strong)、”to lead out, be leader, go before”(Thayer)である。つまり父を導き出し、リハーサルしたのだ。これこそエミュレートの意味である。ジーザスの言葉と業が彼由来のものではなく、父のものであったように(John 14:10)、われわれの言動すべては、いのちを与える霊となられたキリスト由来のものである(1Cor 15:5)。そのために聖霊が与えられた-
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」-ヨハネ16:13-15
聖霊はジーザスの言葉とわざを私のうちで証しされる霊である(⇒聖霊のメモリー)。父と子の関係を、キリストと私の関係に平行移動すればよろしい。だからジーザスは言われた-
父がわたしを愛されたのと同じ程度にわたしもあなたがたを愛する。-ヨハネ15:9(修正は私による)
父がわたしをお遣わしになったと同じ程度に、わたしもあなたがたを遣わす。」-同20:21(同)
かくして聖書が啓示するのはキリスト教なる宗教体系などでは決してなく、十字架の死と復活を通し、アダム系人類のわれわれの死んでいた霊にご自分のいのち(Zoe)をインプラントし、新しいキリスト系人類として生み出し、そのいのちが私たちの霊のうちから魂、さらに体へと成長し、われわれを通して表現されることである。こうしてわれわれは地上におけるYHWHエロヒムのミラー(The Mirror Bible)あるいはイメージャー(Dr.Heiser)とされるのである。YHWHエロヒムはご自身のDNAを地上において拡大増殖されるのだ。これこそがキリストの充満たるエクレシアであり(Eph 1:23)、神のオイコノミヤであり(Eph 1:10)、神の国の拡大である。

- MSGタイトル:ギノマイの秘密
- 引用聖句:John 11:33;38;13:21;Luke 10:38;John 10:35;15:7;Matt 9:29;Rev 4:2;Mark 11:23;John 12:50;6:63;2Cor 13:3;John 16:13-15;Rom 4:17 etc.
- 2019年3月17日(日)のセレブ :
- 場所:ワークピア横浜ユーフォニー
- 時間:13.30-17.30
- プレイヤーMTG:ハロー会議室石川町元町(3月13日13.00より)
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。
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電子書籍化決定

イエスの誕生と死、そして復活が意味するものは何か?最初の人類アダムとエバの“失楽園”、ノアの箱舟、モーセによるエジプト脱出・・・数々の映画のテーマにもなる聖書の奇跡とイエスの生涯に新しい光をあてる。それらは現代人のわれわれとどんな関係があるのか?神は今もなお生きて働かれるのか?それを経験する鍵は?人類のロングセラー「聖書」の世界をよりあざやかにリアルなものとする挑戦的な書。

はじめにYHWHエロヒムは天と地を創造された。-創世記1章1節
はじめに言葉(ロゴス)があった。言葉は神であった。-ヨハネ1章1節
これらの聖句にはそれぞれ円周率 π とネイピア数 e がコード化されていることは前に紹介した(⇒Amazing!!! πとeが聖書に隠されていた!)。
YHWHエロヒムは言葉=情報=によりすべてを創造された。すなわち生命は情報つまり言語である。その言語は4つの塩基配列。3つづつがコドンとして原則的に1つのアミノ酸に対応する。そしてアミノ酸の配列がタンパク質。
DNAの塩基はA-T(U)、C-Gとペアを作る。さらに相同染色体がペアを作る。必ず“連れ(Mate)”がいるのだ。まことにイザヤ書にあるとおり。聖書はキリスト教の経典でもないし、倫理や道徳の書でもない。生命現象の書である。すなわちスピリチュアル・ライフサイエンスの書だ。聖書をキリスト教なるマトリックスから解放せよ!
主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ、主の霊が集めたものだからである。-イザヤ34章16節

ここに物理的時空間がある。キリストにある新人類である私たちはその中に物質からなる肉体(=五感のスーツ)を着て生きている。同時に霊的世界がある。私たちの霊には聖霊により御子と御父が住まい(John 14:23)、ジーザスは御父に開く門である(John 10:7-9)。この物理的時空間が普通の人(=アダムにある人)にとってのリアリティーであり、霊的世界などはほとんどSFあるいはオカルトとされる。が、実はこの世界がこの物理的時空間を形成するのだ。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。-Heb 1:3;11:3
「本質」はヒュポスタシス、「ことば」は共にレーマ、語り出されたことば、あるいは今語られつつあることば、だ。ロゴスはあえて言えば、「かつて語られた言葉」あるいは「書かれた言葉」と言える。つまり冷凍保存された言葉。が、聖霊が解凍するとき、今・ココにおける生の言葉として聞くことができる。永遠の世界が展開するのだ。これがレーマだ。
神が語れば、それは物質的世界の要素や事象を形成したり、変化したりする。生身の人間も水面を歩く。神はこの霊的世界からこの物理的時空間に介入されるお方。イエスご自身が神のサブスタンスの物質化(受肉)だったのだ。「見える世界」と「見えない世界」、あるいは「触れる世界」と「触れない世界」。あなたはどちらによりリアリティーを感じるだろうか。
ジーザスはナザレ時代の生活、すなわち30年間、普通の人間生活を送られた。ジーザスはこの30年間を、ただ無為に人として生きていたのではない。つねに霊的領域との接触にあって生きていたのだ。だから12歳ですでに自分の真の父を知っていた。彼の知識に律法学者も驚いた。それをどこから得たのであろうか? 霊的世界との関わりからである。家族からするとよほど不思議な子供だったと思う。
ジーザスは神のロゴスであり神のサブスタンス、その存在が神のフェイスにより、肉体化(物質化)された。同様に霊のサブスタンスがわれわれのフェイスにより物質化される。見えない世界が見える世界に介入するのだ。「見えない世界」と「見える世界」の接点に働くフェイス、すなわち願うサブスタンスとその現出の不思議さを深く感じる(Heb 11:1)。イエスが私たちに求めるところは、御心が天になるとおり、地にもなるように、だ。つまり「見えない世界」が「見える世界」に現れ出ることだ。そのために神は天を裂かれたのだから(Mark 1:10)。
クリスチャンはニュー・クリーチャー。ただの人ではない!(1Cor 3:3-4 [1]ここには「ただの」はない。「人ではない」が正確。われわれは人=ホモ・サピエンスではないのだ!)この二つの世界の狭間に生きる存在。クリスチャンが自身のアイデンティティーと居場所、そして権威と能力に目覚めたら、それは闇の王国にとっては恐るべき脅威であろう。だから、クリスチャンを目の前の世事や神学などで振り回して、その物質世界の日常性の中に幽閉しているのだ。この喩えの意味は明らかであろう。
イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」-Matt 13:3-9
物理的時空間の自然科学などの法則で生きるのか、霊的領域のフェイスの法則で生きるのか。実はこの法則を変更することはかなり心許なさを覚えるのだ。これまで慣れた縁(よすが)から手を離すことだから。ちょうど補助輪付き自転車から補助輪を外す時のように、だ。これは霊と魂の接点であるマインドによって決定される。マインドがトランスフォームされること。これはキリスト教の神学とか思想から自由だとか、自分なりのユニークな考え方や視点だとか、御言葉の解き明かしの切り口が新鮮だとか、そういったことととはまったく違う。それはあくまでも物理的時空間でのこと。鍵は霊的世界のサブスタンスを把握できるかどうかが問題なのだ。
これは終末を生きる私たちの緊急の課題であると思う。
この世の形に構成されてはなりません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、思いを新たにして自分を変えていだきなさい。-Rom 12:2(私訳)

信仰は神のレーマを聞くこと(Rom 10:17)、神のレーマには不可能はない(原語、Luke 1:37)。このレーマは一回性のものだ。聖書に深く精通し、霊的経験が豊富であることも時に罠になる。一回性のレーマを聞き逃す、あるいは聞けない、あるいは聞いても従わないとすべてがアウト。あえて言えば、フェイスとは一回性の美学だ。
その例がモーセだった。神と顔と顔を合わせて会話する彼が、「岩に命じよ」という神の言葉を聞きそびれたか、聞いても従わなかったのか、あるいは命じて水が出ると信じなかったのか[1]頑なな民に対して怒りを爆発させたためではあるが、それだけならばイエスも不信仰な弟子たちに怒っていることでは同じだ。、とにかく彼は岩を打ってしまったのだ(Num 20:7-11)。それでも水はほとばしり出たが、その不従順のゆえ、モーセは良き地には入れなかった。
理由は、以前の岩を打つと水が出た奇跡の経験が彼の思い(mind)にコンフォーム(形成)されていたからだ。彼は思いを新たにすることに失敗した。われわれの魂(知性・感情・意志)には慣性がある。ある一定の方向に向かうと方向転換が難しくなるのだ[2] … Continue reading。そのコンフォームされたフレームからはみ出る事象などには必ず抵抗感を覚える。現代でも死人が蘇る!? そんなのは古代の夢物語だろうとか。
マタイ10章(Matt 10:7-8)の命令はオリジナルな十二弟子限定であるとする人々がいる。が、マタイ28章にはこうあるのだ。
わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。-Matt 28:18-20
あるいはイエスのなした奇跡はすべて何らかの霊的真理を教えるための喩えであるとか・・・。これがニンゲンのマインド・オヴァー・ゴッドだ。
肉の思いは神に敵対する。-Rom 8:7
自己弁護や、聖書解釈、霊的意味付けなどで主イエスの業をニンゲンのマインドに収めることは大きな損失。聖書の言葉はそのまま受け取るに値するものだから。
この言葉(ロゴス)は真実であり、そのまま受け入れるに値します。-1Tim 4:9
聖書はすべて、神の霊感によるもの・・・-2Tim 3:16
神の霊感とは”theopneustos=thoes(神)+pneo(息吹き)”。そして神は今もレーマを語られる。レーマを聞くと、とにかく分かる。I know that I know ! しかもそれはしばしば私のマインドの枠を超え、逸脱し、あり得ないのだ。霊と魂の分離が起こる。この状態は受胎告知を受けたマリアのようにけっこう自分にとっては困惑あるいは不安を生む。なぜか? これまでのマインドのパラダイムから外れているから。
かくしてイエスが行かれたところ、語られるところ、御業をなされるところには、必ず大きな困惑と混乱と意見の対立が生じるのだ。エクレシアが真に神の国の出先機関として機能し出したら、これは世をこのように引っ掻き回すだろう。が、それが終末の福音のあり方である。あなたの街のお気軽な教会、いつでもいらしてください的な世に媚びる姿勢を悔い改めよ! 神のなされることはすべて世に対するチャレンジである!

これって、実にすごいことだ。ヤバイ! 天が五感の領域に介入しているのだ。
そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」-Mark 1:10-11
この「裂けて」の原語は”schizō”、スキゾフレニア(精神分裂病)のスキゾだ。天が裂ける!?そう、イエスが公のミニストリーに入る時、それまで人類に対して閉ざされていた天が裂け、御霊がこの地上に介入された。そのイエスは御父の最愛の子、喜びであった。ここでのポイントはこうだ。イエスは天と地をつなぐはしご、天の門(ポータル)、その上に天使が上り下りする(John 1:15)。そして私たちはそのイエスの内に置かれたのだ!
かくして神は私たちを見ない。イエスを見ている。これが私たちの得た祝福。神は私たちをご覧になるとき、あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶと言われ、満足されるのだ。神の満足がそのポータルを通して私たちに伝達される。祝福とは私たちの霊に反映される神の満足だ。このゆえに私たちは神の歓心を買うために努力したり、もがく必要はない。私たちはすでに天の門、天使が上り下りし、地の祈りを天にもたらし、天のサブスタンスを地に届ける。
天はすでに裂けている。裂けたままである。その裂け目を通して天のもろもろの祝福が私たちに流れ込む。なぜなら
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。-Eph 1:3
すでに祝福してくださいました! 現在完了形。つまりそれはすでになされ、今だに継続しているのだ。私たちはすべての霊的祝福を受けている! これが天の霊的領域におけるサブスタンス。これを自分の経験にするのが信(faith)[1] … Continue readingなのだ。アグレッシブにそれを味わおうではないか!
この天の裂け目から天の霊の実質、サブスタンスが五感の領域に流れ込む。それを受信するのは私たちの霊。霊は主の言葉、天の光、啓示を感光(フォティーゾ)する。マインドはカメラのシャッターのようなもの。マインドが開かないと霊に届かない。霊に写ったそのサブスタンスを語り出す。するとそれはこの五感の領域に実体化(substantiation)されるのだ。
根拠は、要するにイエスは言葉を語り出すことによりすべての病気を癒し、悪霊を追い出し、死者を蘇らせた。イエスは、「わたしの言葉(レーマ)[2] … Continue readingはいのちであり、また霊である」と言われた(John 6:63)。そして「信じる者もイエスと同じ業、さらに大いなる業をなす」と言われた(John 14:12)。ゆえに私たちも言葉を語り出すことによりイエスと同じ業をなし得るわけだ(2Cor 4:13)。
ここで批判者たちは、それではクリスチャンが「小さな神(gods)」になるではないかと指弾するのだ。イエスは神だからこそ、あのような業がなし得たとしているからだ。ところが御言葉にはこうあるのだ:
それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。-Acts 10:38
ここでは明らかにイエスは人として業を行ったと読める。すると私たちも聖霊と力を注がれ、神が共におられるならば、同じことができることになる。まして、イエスはご自分が父のもとに行くゆえに、同じ業、さらに大いなる業をなし得ると約束されている(John 14:12)。
かくして、私たちの語り出す言葉がイエスの言葉と同様に働くためには、信仰は希求するサブスタンスであるとあるとおり(Heb 11:1)、そのサブスタンスを語り出す必要があるのだ(2Cor 4:13)。そのとき、見えないそれがあばかれる(prove)、つまり時空間に現出する(Heb 11:1)。これがヘブル書の解くところである(Heb 11:3)。
この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。-1Tim 6:17

ここに物理的時空間がある。私たちはその中に物質からなる肉体を着て生きている。同時に霊的世界がある。私たちの霊には聖霊によりキリストが住まい、彼は御父に開く門である。この物理的時空間が普通の人にとってのリアリティーであり、霊的世界などはほとんどSFあるいはオカルトとされる。が、実はこの世界がこの物理的時空間を形成するのだ。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。-Heb 1:3;11:3
「本質」はヒュポスタシス(英語ではPerson)、「ことば」は共にレーマ、語り出されたことば、あるいは今語られつつあることばだ[1]ロゴスはあえて言えば、「かつて語られた言葉」あるいは「書かれた言葉」と言える。要するに何かを表現する固定的かつ客観的な言葉である。。神が語ればそれは物質的世界の要素や事象を形成する。生身の人間も水面を歩く。神は霊的世界から物理的時空間に介入されるお方。イエスご自身が霊なる神のサブスタンスの物質化(受肉)だったのだ。「見える世界」と「見えない世界」、あるいは「触れる世界」と「触れない世界」。要するに五感で感知できる世界とできない世界[2] … Continue reading。あなたはどちらによりリアリティーを感じるだろうか。
イエスは見えない神が五感の領域に実体化された存在。だからヨハネはグノーシスに対抗して、「よく見て触ったもの」とあえて強調している。彼はナザレ時代の生活、すなわち30年間、われわれとまったく同じ人間生活を送られた[3] … Continue reading。神が肉体を取った(=幕屋を張った)。これが受肉の奥義である。イエスというお方は神のサブスタンスの肉体化、なんという不思議なことではないか。
主の御使いは、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えた。マノアは子山羊と穀物の献げ物を携え、岩の上に上って主、不思議なことをなさる方にささげようとした。マノアとその妻は見ていた。すると、祭壇から炎が天に上るとき、主の御使いも、その祭壇の炎と共に上って行った。マノアとその妻はそれを見て、ひれ伏して顔を地につけた。主の御使いは再びマノアとその妻に現れることがなかった。マノアはそのとき、この方が主の御使いであったことを知った。マノアは妻に、「わたしたちは神を見てしまったから[4]旧約では受肉前のYHWHがみ使いとして出現する場面がよくある。ここの主のみ使いもYHWHご自身である。、死なねばなるまい」と言った。-Jud 13:18-22
むしろサブスタンスの存在する見えない世界の方により惹かれるようになった。あるいは「見えない世界」と「見える世界」の接点に働く信仰、すなわちサブスタンスとその現出の重要性を深く感じる。今回のメッセではポイントを現物に引き換えることをもって解き明かしたが、霊のサブスタンスはフェイスにより五感の領域に現出する(Heb 11:1)。イエスが私たちに求めるところは、御心が天になるとおり、地にもなるように、だ。つまり「見えない世界」が「見える世界」に現れ出ることだ。そのために神は天を裂かれたのだから(Mark 1:10)。
クリスチャンはニュー・クリーチャー。ただの人ではない!(1Cor 3:3-4 [5] … Continue reading)この二つの世界の狭間に生きる存在。クリスチャンが自身のアイデンティティーと居場所、そして権威と能力に目覚めたら、闇の王国にとっては恐るべき脅威であろう。だから、クリスチャンを目の前の世事で振り回して、その日常性に幽閉しているのだ。この喩えの意味が新しく開けている。
イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」-Matt 13:3-9
物理的時空間の自然科学などの法則で生きるのか、霊的領域の信仰の法則で生きるのか[6] … Continue reading。これは霊と魂の接点であるマインドによって決定される。マインドがトランスフォームされること[7] … Continue reading。これは終末を生きる私たちの緊急の課題であると思う。
この世の形に構成されてはなりません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、思いを新たにして自分を変えていだきなさい。-Rom 12:2(私訳)
今回のメッセでも語ったが、義人はポイントで生きるのだ! それは神の意識の領域に生きること。まことにスーパーナチュラルな経験だ。
References[+]
↑1 | ロゴスはあえて言えば、「かつて語られた言葉」あるいは「書かれた言葉」と言える。要するに何かを表現する固定的かつ客観的な言葉である。 |
---|---|
↑2 | われわれが「存在する」と認識するのは、例えば五感で感知できない電磁波でも、何らかの媒体(TV、無線、スマホなど)を通して五感で感知できる形にしたときに可能となる。これを五感による実体化と言う。 |
↑3 | イエスはこの30年間をただ無為に人として生きていたのではない。つねに霊的領域との接触にあって生きていたのだ。だから12歳ですでに自分の真の父を知っていた。家族からするとよほど不思議な子供だったと思う。そこでかつてとは違う意味でナザレ時代の彼の生活に関心を覚えるようになっているところだ。 |
↑4 | 旧約では受肉前のYHWHがみ使いとして出現する場面がよくある。ここの主のみ使いもYHWHご自身である。 |
↑5 | ここには「ただの」はないが、あえて付けておく。ホモサピエンスではないと言えばよいだろう。では何? ネオ・ホモサピエンス、新人類である。 |
↑6 | 実はこの法則を変更することはかなり心許なさを覚えるのだ。これまで慣れた縁(よすが)から手を離すことだから。ちょうど補助輪付き自転車から補助輪を外す時のようなものだ。 |
↑7 | これはキリスト教の神学とか思想から自由だとか、自分なりのユニークな考え方や視点だとか、御言葉の解き明かしの切り口が新鮮だとか、そういったことととはまったく違う。それはあくまでも物理的時空間でのこと。鍵は霊的世界のサブスタンスを把握できるかどうかが問題なのだ。 |


はじめに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。-John 1:1-2
この言はロゴス。神を表現する存在、もちろん御子である。ヘブル書では神のサブスタンスの現出と言われる(Heb 1:3)。見えない霊なる神たる存在をこの物理的時空間において肉体をとおして表現された。肉体は完全なる人。しかしそのサブスタンスは神。が、このお方はあくまでも人として生きられた。人であるから聖霊を注がれ、神が共におられたので、あれだけのわざを成し得た(Acts 10:38)。
神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。-Acts 2:22
イエスとは御子が地上に人としているときの名前である。神は人を通してご自身を証される。
神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。この敬虔の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、神は肉において現れ、”霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。-1Tim 3:15-16
ここはよく、「キリストは肉において現れ」とあるがTRでは「神は」である。「敬虔の秘められた真理」とは奥義であり。Vincentはこう指摘する:
The mystery of godliness is the substance of piety = mystery of the faith (1Ti 3:9).
すなわち、神のサブスタンスがフェイスの法則によって肉において現出することである。これはキリストが初穂として模範を示された。エクレシアの原則もまったく同じ。われわれの肉を通して神は現れる(☞神をエミュレートする)。フェイスはいわゆる日本語で言うところの信心とか信仰とは違う。それは神が創造のわざをなさるときに用いられたパワー、そのフェイスを語り出すことによって万物が存在するに至った。マルコ11章22節を「神に対する信仰を持て」と訳する傾向があるが、これは神のフェイス。ガラテヤ2章20節も「御子を信じる信仰」とされているが、御子のフェイス。つまりそれぞれ
神のフェイスを持て。-Mark 11:22
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子のフェイスによるものです。-Gal 2:20
ゆえに
義人はフェイスによって生きる。-Rom 1:17
普通、人は目によって生きている。視覚から得られる情報に基づいて物事を判断し、意思決定し、行動を起こす。教習所で言われる、認知→判断→行動というパタンだ。つまり視覚はひとつのパワーであり、大脳は自動的に世界の映像を構成する。いつも言うが、色はもともと存在しない。存在するのは電磁波なる物理的サブスタンス。そのある波長の領域のみを目が知覚し、視覚野に色が生まれる。これをクオリアと言うわけだ。われわれが内的に構成している世界の像はほんのわずかな物理的サブスタンスを用いているに過ぎない。
霊から生まれた私たちはこのような肉体に備わる五感の他に、霊によるフェイスを第六感として獲得した。このフェイスは物理的時空間を超えて機能する。だから二千前のイエスの死と復活にわれわれも与れるのだ。これ自体がスーパーナチュラルであろう。はっきり言うが、スーパーナチュラルを認めない者はフェイスを知らないことを自ら証明しているのだ。聖書を五感で読んで、ある者は文学的に、ある者は道徳的に、ある者は人生論的に、ある者は歴史書的に、オツムによって理解しているに過ぎない。それはフェイスではない!
イエスは神の国を地上にもたらした。神の国を現すためには何が必要であるか?語ること!
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。-2Cor 4:18
語ることは神の言を解放すること。もちろん自分の主義思想などではない。神の言だ。イエスはうちなる父の言を語り出した。すると死者が生き返り、らい病が癒され、聾唖が語り出し、足萎えが歩いた。神の言を語り出すとき、その人の周りにはオーラが生まれる。それは霊のバイブレーションであり、そのオーラに包まれているならば、つねに神の国を運ぶことになる。
人はそれぞれオーラを醸している。自分の問題や体調に拘束されている人は固く、冷たい雰囲気を醸す。暗い考えや希望のない思いに囚われた人はどんよりとぼんやりして、暗い雰囲気に包まれている。オツムで何でも処理しようとする人は神の国に参加するのではなく、傍観者的に見ているだけだ。自分が当事者であることを知らない。
セレブレーションでも真に霊が温められて、霊を解放している人は温かく、満ち足りたオーラを醸し出す。自分だけが恵まれたいと切望する人はかえって満たされない。なぜ? 自分を捨てないからだ(Luke 9:22-23)。あくまでもすべての基準は自分の考えであったり、感情であったり、体の状態であったり、つねに自分が物差しとなっている。そのようなセルフのカプセルに閉じこもる人は神の霊をも排除してしまっている。だから神のわざを受けられないし、したがって変化しない。
声を上げることを私は強調しているが、声と霊は密接に関係している。たとえばあなたが旦那や子供をしかりつける時を考えてみてほしい。「あんたぁ!なにしてんのよぉ!!!」と心の底から怒りをぶつけるとき、あなたは怒りの霊を解き放っている。セレブではおとなしく、とても恥ずかしくて声を出せませんとか言いつつ、借りてきた猫のような状態であっても、家族に対しては自由に霊をぶつけているのだ! わかります、要点が? 人は心にあることを口が語る。家族の中では無防備に何気におれるゆえに霊を自由に発散しているのだ。しばしばそれは神の霊ではないのであるが・・・。
だから、逆を考えてみればよい。私たちはキリストのマインドを持っている(1Cor 2:16)。そのマインドを発散するのだ。それが神の霊を解き放つこと。それは父なる神の言であるから、イエスがなされたと同じわざを成す。私たちが何かをするのではない。私たちの口を通して解き放されたれた父の言がわざをなすのだ。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。-Isa 55:11
私たちが神のロゴスを語り出すならば、それは神を語り出すことだ。なぜ?ロゴスは神だから!イエスがなされたことと同じ原則、メカニズムが働くのだ。ゆえにイエスは言われた
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。-John 14:12
神を語り出すこと。これが「御心が天になるとおり、地にもなるように」の実際である。神はあなたの口を支配したいのだ。そのためにあなたが自分のメンツや恥ずかしさやためらいなどを破り捨て、声を上げる瞬間を待ち望まれている。あなたが神のわざを得られないのは、はっきりという、自分を裂いていないないからだ。
自分を安全な場所に置いたまま、「イエス様、憐れんでください、癒してください」といったところでそれは働かない。イエスは盲人に歩いてシロアムの池に行けと言われたのだ。ペテロも小舟から一歩を踏み出した。コンフォートゾーンを抜けよ。あなたはそのリスクを負うか?と主は問うておられる。すべてはあなたの応答次第なのだ!

人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。-John 6:63
ここの言葉はレーマ。イエスが語り出したレーマは霊であり、命(ゾーエ)であった。かつて私は<レーマ=ロゴス+信仰=霊=いのち>と表現したことがある(+より×がいいかも)。何かを客観的に記述するロゴスに霊が乗るとレーマとして人を生かすのだ。メッセでも語っているが、たとえば、アナウンサーが正確に聖書を朗読しても、それは命を与えない。つまりレーマではない。まして癒しも奇跡も起きるはずもない。あるいは聖書の言葉を語っても、乗っている霊が違っていると、違和感を覚える。正しいことを語っていても、それは平安や安息を生み出すこともないし、命を与えない。
イエスのわざの鍵は内なる父の声を聞き、そのわざをそのとおりに行ったことにあった。イエスの霊(イエスは人としての霊を持っていた)は父の霊と完全にチューニングされていた。そしてその霊とともに父の言葉を語り出した。このレーマがあの数々のわざをなしたのだ。原則は私たちも同じ。内なる父の示される言葉を語り出すこと。これがイエスと同じわざをなし、それ以上のわざをなす秘訣なのだ。
言葉と霊。聖霊によってドライブされた霊を伴って語り出された言葉は霊的領域に波動を生じ、サブスタンスを生み出す。サブスタンスが時系列の中でこの世界に現出すると、私たちが五感で感知できるモノや事象となる。これが祈りがかなう瞬間だ。祈りはこの物理的時空間と霊的領域にポータルを開く。そのポータルが開くとき、私たちは祈りが生きている、通じている、あるいは手応えを感じる。きわめてタンジブルだ。またサブスタンスを語り出すとき、それが急所を突いたと感じることもできる。すると何かが起きるのだ。
現代は言葉が記号化されて、単なるラベルとされているが、ヘブル文化では言葉(dabar)は実体そのものである。日本の言霊信仰が近いかもしれない。クリスチャンが自分のうちにあるその潜在能力に目覚めることをサタンはもっとも恐れているのだ。現在のキリスト教の有様はとても主イエスが意図された信仰のあり方ではない。人の基準と、世の目を恐れ、世のマインドセットに服しているためだ。クリスチャンは世界をキリストの王権に服させる使命を帯びているのだ。終わりの時代、神は必ずこのような目覚めたクリスチャンたちを興されるであろう。そしてご自身の権威と能力とわざを託して下さる。

ボクシ:Dr.Lukeは語り出された言葉は無為に帰ることなく、言い送ったことを成し遂げる(Isa 55:11)と言うが、自分を神にするのか?
小生:では、あなたは誰の言葉を語っているのですか?
ボクシ:もちろん神の言葉だ。ボクシは神の言葉を取り次ぐことが使命だ。
この会話の本質、分かります? 彼の言う神の言葉とは聖書の文字。表向き聖書の言葉(ロゴス)を文字通りになぞるだけ。が、ジーザスは言われた、わたしの語った言葉(レーマ)は霊であり、いのちであると(John 6:63)。つまり言葉には霊を乗せる必要があるのだ。それがフェイスによって語り出された言葉、つまりレーマ。
神の国はロゴスにではなく、デュナミスにある。-コリント4:20
この時、語り出された言葉は神の霊が塗り込まれたレーマとして、言い送った通りを成し遂げる。ゆえに今週のメッセでも触れたがルカ17章にあるとおり、フェイスは僕なのだ。いわゆる”Word of Faith”が異端だ、カルトだとヒステリックに叫ぶセンセイたち、あなたがたは自己撞着していることに早く気づいて下さいな。

クリスチャンの間で聖書解釈に致命的な違いが出ることがある。一番典型的なのが、プレミレとポストミレだ。イエスの再臨が千年期の前か後か。つまり現在が千年期なのか、否か。これはかなり本質的な相違だ。なぜ同じ聖書を読んでいて、かくも真反対の意見の対立が生まれるのか・・・。実に不思議だ。
が、極めれば、マインドの構成のあり方の差に帰着するのだ。われわれのマインドがいかなるパラダイムにより、いかなるデータベースを構築し、いかなる物差しによって物事を測るのか。これにより感情が影響され、意志決定がなれる。同じ事態に立ち至っても、人によって行動がまちまちになるのだ。もし神の国の直接的介入を信じていなければ、ステージ4のガンになれば、ほとんど絶望だ。死を少しでも伸ばして、そのときを待つのみとなる。しかし神の国の介入を信じる者はステージ4のガンをも支配できる。
神は言われた、「地を治めよ」と(Gen 1:28)。「地」とはこの物質空間のことだ。最初のアダムはその権威を失ったが、最後のアダム(キリスト)はそれを終わらせ、第二の人イエスは天と地のあらゆる権威を得た。そのキリストのうちに私たちは置かれ、またキリストは私たちのうちにいます。神の国はロゴスにではなく、デゥナミスにある(1Cor 4:20)。その復活の力(デュナミス)がわれわれのうちに働くのだ(Eph 1:19-20)!
神の国はすでに、<今、ここに>現存する。私たちはそのリアリティーあるいはサブスタンスのうちに生きているのだ。そしてこれが私たちを通して流れ出るならば、私たちの行くところどこでも神の国が臨在するようになる。キリストはそのことをエクレシアに託されたのだ(Eph 1:21-23)。
神の国の現出があるところでは、ハンカチに触れただけで、あるいは影に触れるだけであらゆる病が癒され、悪霊が追い出された(Acts 5:15;19:12)。クリスチャンたちがそろそろ言葉遊びはやめて、真にこの神の国のデュナミスを追求し、それを証明するべき時が来ていると最近深く感じている。
マインドのマトリックスが異なる者同士がいかに議論したところで、同じ結論になるはずもない。再度、神の国はロゴスにではなく、デュナミスのうちにある。その証はサタンにとってはもっとも恐るべきこと。だからクリスチャンをして不毛な議論に閉じ込めておこうとするのだ。その力の現れこそ、終わりの時代に生きるわれわれの召命の本質である。
神の御旨にチューニングされるためには、思い(マインド)が作り変えられている必要がある。私たちのマインド(Gk.nous)がリニューイングされていない限り、霊的知識も洞察も得ることができず、成長が止まる。同じところをグルグル回るだけのクルシチャン生活に陥るのだ。この物理的時空間であれこれしても、霊的領域にタッチしていないならば、永遠の価値はない。目に見えるものはテンポラリー、目に見えないものがエターナルなのだから。
私的に言えば、マインドは霊と魂の接点だ。Jessie Pen-Lewisはこう言っている、”If your spirit is closed, it is because your nous is closed.(霊が閉ざされているのは、マインドが閉じているからだ)”と。WoF(Word of Faith)を拒絶する人はそのようなマインドの構造を持っているゆえ。癒しに抵抗を覚える人もそのようなマインドの構造を捨てないから。私たちは自分の魂を否み、特にマインドが御言葉によって再構成されるとき、霊的世界にタッチできるのだ。霊的世界のサブスタンスをつかんで、自分の経験とし得る。マインドが開かれていればいるほど、霊的世界も開けるし、その豊かさにも与れるのだ。かくして富んでいる者はますます・・・だ。