
神は礼拝儀式(イベント)を求めているのではなく、霊拝者を求めておられる[1]礼拝よりは霊拝の方が適切であろう。。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。-John 4:23-24
ワーシップとは、どんな音楽で、どんな風に盛り上げるかではないのだ。あるいは自分がどうのこうのでもない。盛り上げようとする試みは単なる音楽、肉的なもの。地の雑味が入る。正直、そのような”ワーシップ”を聞いていると頭が痛くなる。
真のワーシップは地上から盛り上げるのではない。天から降りてくるのだ。天のワーシップと共鳴し、ワーシップの霊が降りてくることを感じる瞬間がある。そのために、私たちのマインドをただジーザスにフォーカスし、霊を天のバイブレーションと共鳴するだけ。その時、自然と天のサウンドが地上のサウンドに投影される。そしてそれが再び天へと戻る。
ヤコブの梯子が天から地に向かってかけられたように、すべては天が主導権を持つ。地から盛り上げようとするものはあくまでも地の雑音に過ぎない。天からのワーシップが降りてくるのを待つ必要があるのだ。タテノリガチャガチャは雑音だ。自己満足の極致。演出や派手な舞台など人集めの動機がミエミエ。また「私は一人だったが、イエス様の愛を知った~」とか、それはアイマイミーマインの私小説に過ぎない。
わたしはおまえの騒がしい歌をやめさせる。おまえの立琴の音ももう聞かれない。-Eze 26:13
Dr.Lukeのスピリチュアル・メンターであったColin Urquhartは「ワーシップに究極的には、別に音楽は要らなくなる。ただジーザスにフォーカスせよ」と言っていた。私たちの霊に天のバイブレーションが響くとき、それはワーシップであり、神が求めておられる霊拝者の霊と魂つまり心が天と共振するのだ。私たちはそのような霊拝者による霊拝を追求している。