

ウエストミンスター信条第6章の3にこうある:
彼らは全人類の根源であるので、彼らから普通の出生によって生まれるすべての子孫に、この罪のとがが転嫁され、また罪における同じ死と腐敗した性質とが伝えられた。以下、聖書引用
この罪とは人類の始祖の罪であることは明白、いわゆる原罪と言われるものである。これを原罪継承説という。これによると生まれたばかりの赤ちゃんにも原罪が遺伝的に継承されており、もしその時点で死んだならば地獄に落ちるという結論が出る。
果たして聖書はそう語っているであろうか?
このような「すべての~」という限定記号(限量子)を含む文章を述語全称命題という。ウエストミンスター信条を論理記号で現すと、
●ウエストミンスター命題[1]論理学や数学において命題とは真偽が明確に判定できる文章または式などの言明を言う。:∀x∈人類, P(x)、where Pは『アダムの罪を継承する』(述語)(∀はすべての、任意の)
となる。
さて、一般に全称命題を論駁することは簡単である。一つでも反例(例外)を挙げれば良い。
順番に見ていこう:
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。-Rom 5:12
これは新共同訳であるが、①罪は世に入った;②罪により死はすべての人に及んだ。原文において、①の「入った」は”eiserchomai”=”eis(into)”+”erchomai(come;enter;pass)”、英訳では”entered into”である。②の「及んだ」は”dierchomai”=”dia(through)”+”erchomai”、英訳では”passed through”だ。日本語ならば「貫き通した」が適訳。
ポイントは、罪(単、ローマ7章の内住の罪)は世に入ったのであり、そのため死がすべての人に侵入したのだ。
そして後半の、「すべての人が罪を犯したから」は誤訳だ。ここの「から」と訳された原文は”epi”であり、その意味は”upon;on;over”、CLVでは”on which”、YLTでは”for that”、つまり「それゆえにすべての人が罪を犯した」が正解である。岩波版では「その際」としている。
新共同訳の因果関係を確認してみよう:アダムが違反した(原因)→そのために罪が世に入り→そのために死が全人類に入ったが、それは全人類が罪を犯したからだ(原因)・・・・原因が原因を導くと、おかしいであろう。
正しくは:アダムが違反した→そのために罪が世に入り→そのために死が全人類に入った→そのために全人類が罪を犯した、である。
つまり遺伝的に継承されているのは死である。死は無力の極地であるゆえに、神は時空間を超えて罪に抗せない人類をして罪を犯した、と見ているのだ。これを包括の原理と呼ぶ。
しかしここで大事な点はアダムの違反(いわゆる原罪)が生まれつき継承されているわけではない。包括の原理により全人類は罪を犯したと時空を超えてみられるが、個別には時系列の中で「アダム(原罪)からモーセ(律法)の間にもアダムの違反と同様に罪を犯したことがない者がいる」とある(Rom 5:14)[2]われわれキリストにある者は行いがなくとも神により義と認められている(Rom … Continue reading。ここで「アダムと同じ様で」とはローマ7章(Rom 7:17)にある内住の罪(単)を持たないでということである。なぜなら創造当初のアダムにはソレはなかったのだ。
お分かりであろうか? ウエストミンスター命題のように、もし全人類にアダムの罪が遺伝的に継承しているならば、この14節と矛盾することになる。「アダムの違反と同様に」とは内住の罪を持たないままにということに他ならないからだ。すなわちこの節そのものが上のウエストミンスター命題の反例となる。
以上でいわゆる遺伝的原罪継承説は偽りであると結論された。Q.E.D.
さて、パウロがローマ7章で説くところの「罪々を犯すメカニズム」はアダムの違反とは異なるものである。それはある時点で自分の意志で世にある罪(Sin)のそそのかしに従って罪々(sins)を犯し、ソレの侵入を招いてしまった後の葛藤を描いている。ここで重要なのは邦誤訳では訳し分けられていない「罪(Sin)」と「罪々(sins)」の単複の区別がカギとなる[3]邦誤訳は時制なども含めて、この辺りがまったくいい加減にされている。。
よく伝道の常套文句である「あなたは生まれながらに原罪を有している罪人だから悔い改めよ~」とヒスることにより、人々は反感を覚える。そんな自分の責任ではないことに対してイエス・キリストが十字架で死んでくれてもありがたみを感じないと。しかし、人々は自分の罪々を自覚しているし、良心も傷んでいるのだ。それはあなたがある時点で罪を選び取ったからだ、すなわちあなたの意志によるものであり[4]この意味ではエデンのアダムの経験が個人において再現されると言える。、そのためにイエス・キリストが十字架で贖いのわざをなしてくださったとわかれば、福音のありがたさを覚えるであろう。事実、私自身がそうだったから。
さて、ここでもうひとつの論点は律法との関わりである。まず大前提として、律法がなければ罪は世にあっても罪として認められないが(Rom 5:13)、死は人類を支配した(Rom 5:14)。これは罪刑法的主義に照らしても明らかである。そして異邦人には律法は与えられていない(Ps 147:19-20)。彼らにとっては良心が律法の代わりとなる(Rom 2:14-15)。
つまり生まれたばかりの赤ちゃんのように原罪も持たず、良心も目覚めていない者は罪に定められることはない。が、死には支配されている。そこでもしそのまま死んだら地獄行きといったキリスト教神学は偽りである。天国は彼らのものであるから。かくして冒頭にあるエゼキエル書の聖句とロマ書は整合性が取れるのである。