iDLE UTTERANCE
Dr.Luke的日々のココロ
タグ: 実体化



信(ピスティス)によって、この世(アイオン)が神の言葉(レーマ)によって造られたこと(フレーム化)、したがって見えるものは知覚しうるものから生じているのではないことを、私たちは理解している。-Heb 11:3(岩波訳、一部改)


この記事はおもしろい。われわれは常に時間を意識、時間に追われていると感じている。だが、現代物理学の最前線では時間は幻想であると言う。過去・現在・未来は共にあるのだ。
われわれのフェイスも時空間を超える永遠のNOW。創世記の「はじめに」は時間の端点だが[1]この「はじめに」はベレシート、その中に全福音がコード化されていることは著書でも紹介している(☞「初めに神は」の秘密@YouTube)。、ヨハネの「はじめに」は時空を超える。我々は世(時空連続体)にはいるが、イエシュアと同じに世のものではない(ヨハネ17:14)。このデュアリティを意識することが世に飲み込まれない秘訣。
キリスト教なども世に属する宗教にすぎない。エクレシアはキリストの充満(Eph 1:23)、エロヒムの増殖(Col 2:19)。それはフィジカルな時空間を超えるスピリチュアルな生命現象である。世で何かを達成しようとか、世で自分を建て上げようとか、もがくのはやめよ、それは病むだけだから。スピリチュアルなアイデンティティを確立すること。
この完成している永遠のスピリチュアルなリアリティーを<今・ここ>で実体化することこそがフェイスである。すなわちそれは永遠が時空間に切り込む瞬間ともいえる。
道元の時間論は前後ありといえども裁断せり。現在に生きること。これを鈴木大拙はやはり永遠が切り込むと表現している。ただし彼の永遠はわれわれの意味での永遠ではないが。意識の流れを言うのだ。さらさらと流れ、何物にも心を留めおくことのない状態である。心は何かに固着する時に煩悶するものだ。
ちなみに左脳の梗塞でその機能を失った脳科学者の体験についてはこちらを参照されたい。左脳はシーケンシャルであるが、右脳は一瞬ですべてを把握する。過去を悔い、未来を案ずるのは左脳のシーケンシャルな機能のためだ。この意味でフェイスするときには多分脳の機能にも何か特徴的な現象が出現するものと思われる。
かくして私たちがキリストのうちにインプラントされ、キリストがうちに生きる経験は、まさに<今・ここ>におけるリアリティーであり、それは永遠の領域において生きているともいえるのだ。なぜならキリストは今、いのちを与える霊として(1Cor 15:45)、<今・ここ>に介入してくださるからである(Gal 2:20)。
References[+]
↑1 | この「はじめに」はベレシート、その中に全福音がコード化されていることは著書でも紹介している(☞「初めに神は」の秘密@YouTube)。 |
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今年のノーベル賞の受賞テーマの一つがエンタングルメント(量子もつれ)の立証だった。波動関数を共有するふたつの量子が時空間を超えて相関するというものであるが、これで局所的実在性が否定されたのだ。つまり時空間に存在するものであれば、相対性理論によって支配されるので、互いの情報は光速を超えて伝達することは不可能。ところが量子もつれの状態にある量子は高速を超えて互いに関係し合うことができることが証明されたのだ[1]このためアインシュタンインはSpooky(気味の悪い)減少だとため息をついた。
白いキリスト教神学の論争にカルバンVSアルミニウスなるものがある。救いは神の定め(確定論)によるのか、人間の自由意志によるのか(偶然論)と争って、互いに異端~とやりあっている愚かなテーマである。これについてはかつて再建主義の故富井氏とディスカッションしたことがある(⇒ログ)。
結論を言えば、判断不能。人間の認識能力には確定と偶然を識別することは不可能なのだ(⇒過去関連記事)。さらにいわゆる自由意志なるものが幻想であることも分かってきている。
では救いとは何だったのか。かつてこんな記事をモノしたことがあるが、さらに進んで議論したい。
エンタングルメントなる現象は確定していない2つの量子状態の重なりが観測によって確定するとするものだが、スピリチュアルな経験もまったく同じ。救われた状態と救われてない状態が霊的領域では重なりとなっており、私がフェイスした瞬間に救われた状態が私において確定する。フェイスは聖霊のプロンプトに私が応答した結果である。自由意志と思っているものは実は後付けなのだ。
われわれはキリストとスピリチュアルな波動関数を共有し、エンタングルメント(もつれ状態に)されている。よってイエシュアは言われた、「地で解くことは天でも解かれており(完了形)、地で縛るものは天でも縛らえれている(完了形)[2] … Continue reading」(Matt 16:19)。それは時空を超えたスピリチュアル・リアリティあるいはサブスタンス。YHWHのわざは天地創生のときより完成されている(Heb 4:13)。われわれは肉体にておいてはこの物理的な五感領域に生きているが、霊においてはすでにキリストとともに御座についている(Eph 2:5)[3]だからパウロは肉体的には離れている者を霊においてっ裁くことができたのだ(1Cor 5:3)。。まさにエンタングルメントである。
重なり状態にある量子は観測によってひとつの状態に確定する。それと同様にあらゆる可能性の重なり状態としてスピリチュアル・サブスタンスは存在しているが、それをフェイスはこの五感の領域において確定する。それがわれわれの経験である。
いま、信(フェイス)とは願われる実質(サブスタンス)、まだ観測されていないこと(プラグマ)の現出(エビデンス)である。-ヘブル11:1(私訳)
キリストとエンタングルメントし、御子の信(pistis)のうち(en)に生きるってこんな安楽はないでしょう。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信のうちで、生きているのである。-Gal 2:20(改)
邦誤訳の問題点はすでに指摘しているが、たとえば「洗礼」なる訳語も大変にまずい。これは単なる儀式だ。真理はバプテスマ、それは浸し込むこと。我々はキリストにインプラント(Gk.sumphutos)されたからキリストとひとつ(Rom 6:5;1Cor 6:17)。
そもそもフェイスは霊(2Cor 4:13)(☞過去記事群)、エンタグルメントによりキリストと私はその霊を共有している。「使徒信条告白~」なんてものは単なる式文に過ぎない。
かくして私たちはキリストとバイブレーションを共有しているだけでよいのだ(☞バイブレーションについてhこちらの記事群を参照)。
その時、聖霊は霊の感光またプロンプト(促し)を与えてくださり、それに応答する形(これを自由意識と思っている)で私たちが語り、また働くとき、天のサブスタンスが地に実体化する。まさに天になるとおり地にもなるのだ。このメカニズムはフォティーゾと言われることはすでに説いている。
キリストと私たちはその人間性、死と復活、昇天、そして着座を共有しているのだ。この事実をサタンは隠しておきたい。だから信仰に励め~、聖化~、奉仕伝道、献金、会堂建造、教勢拡大、日本民族総福音化の決起集会~と騒ぐわけ。ほとんど喜劇のレベルではあるが、以下自粛。

善と悪の領域は共にナチュラルな五感の領域、いのち(Zoe)の領域はスーパーナチュラルな霊の領域である。イエシュアが「わたしの羊は門なるわたしを通して出入りする」といわれる通り(John 10:9)、イエシュアというポータルを通ってこのふたつの次元に生きるデュアルな存在である。それはフェイスによって可能となる。

善と悪の平面からいのちの平面に跳躍すること、これがフェイス。そして霊のサブスタンスを五感領域において実体化する(substantiation)。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質)、まだ見ていないプラグマ(完成された事)のエビデンス(現出)である。-ヘブル11:1(私訳)

いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実質・実体)、まだ見ていないことのエヴィデンス(証拠・現出)である。-ヘブ11:1(私訳)
— Luke Karasawa(唐沢治) (@Doctor_Luke) October 20, 2022
※「こと」はpragma、その意味は「成し遂げられた事」である。


ジーザスの愛にとどまるとき、希望が生まれ、希望は信(フェイス)にスーパーインポーズされ、それは願うサブスタンス。こうして信・希望・愛は有機的に五感の領域において経験し得るのだ。

フェイスする前は選びが確定か否かは決定不可能。フェイスした後は選びは100%確定する。すなわち実体化される。
現代物理学の最先端では物質の究極はバイブレーション。宇宙は2D(平面)に書かれた情報のホログラフィー。まことに聖書が言う通りなのだ:
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いて(原意:バイブレートして)いた。-Gen 1:2
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくてもその響き(原意:バイブレーション)は全地に/その言葉(情報)は世界の果てに向かう。-Ps 19:1-5
わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい、光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り、天上の宮の梁を水の中にわたされた。-Ps 104:1-3
いずれこの天は幕のように巻き取られてしまうのだ。
天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。-Rev 6:14

再度、私が愛読するDerek Princeを紹介しよう。

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。-John 10:9-10
Derekも言う通り、スーパーナチュラルに至るチャネルは種々ある。ニューエイジ[1] … Continue readingもそれらのチャネルを利用してスーパーナチュラル、すなわちスピリチュアル領域にアクセスする。むしろ、形骸化した宗教マトリックスに生きるキリスト教徒などより霊的感受性は高いと言ってよい。
が、真のいのち(ZOE)に至るポータル(門)はただひとつ、ジーザスである。この聖句はもちろんキリスト教でもよく使われるが、彼らがほとんど意識しない部分がある。それは「出入りして」だ。お分かりだろうか? きわめてアクティブな活動である。すなわち、この五感の領域と霊の領域を行き来するのだ!
今、フェイスとは願われるサブスタンス(実体)、まだ観測されていないことのエビデンス(現出)である。-Heb 11:1(私訳)
フェイスは、サブスタンス&エビデンス。サブスタンスとは霊的領域に存在し、エビデンスとはそれが五感の領域に現れることだ。われわれはこの物理的な時空連続体に生きるだけではない。霊の領域にもジーザスというポータルを通して入り込む。つまり、物理領域と霊の領域のデュアルワールドに生きているのだ。
「わたしはありてある」と最も高きエロヒムはモーセに対して御自身を現わされた。そしてその呼び名はיהוה(YHWH)。アブラハムらにはそのようには御自身を啓示されていない(Exo 3:14-15)。英語で言えば”I AM THAT I AM”。この後に”X”を代入することができるとメッセで語ってきている。Jehovah JireはYHWH・満たし、Johovah RaphaはYHWH・癒し・・・。
この”I AM”は הָיָה (HAYAH)、その意味は”to exist, that is, be or become, come to pass”(Strong)。つまり、存在・生成・活動である。「フェイスはI-AMの実体化である」とかつて私は書いた(☞『真理はあなたを自由にする』)。このI-AMをXとして、今・ここに「有らしめ・成らしめ・働かしめる」ことこそがフェイスである! ゆえに「わたしはある」(John 8:58)と宣言されたジーザスは言われた、「わたしの名にあって願うものは何でも与えられる」と(John 15:16)。
そして、ニュークリーチャーなるわれわれは、ZOEをインプラントされ、YHWHエロヒムの霊のDNAをインヒュージョンされたエロヒム属である。そのZOE、霊のいのちを、しかも豊かに受け、霊のサブスタンスとしての牧草を享受するのだ。まことにジーザスは霊・魂・体のすべてにおいてアバダントなライフに至る唯一のポータル、門である! [2] … Continue reading中でも魂の状態がカギであり、それはマインドのあり方によって規定される(Rom 12:2)。
愛する者よ、あなたの魂が繁栄(prosper)しているように、あなたがすべての面で繁栄し(prosper)、健康であるようにと祈っています。-3John 1:2
この夢芝居の舞台にいる間に、せいぜいアバンダント・ライフをエンジョイせよ!

日本語では「信仰」と訳されるこの単語、ギリシャ語では”pistis”、ヘブル語では”emunah”である(英語のアルファベットにしている)。信仰、すなわち信じて仰ぐ。これがニッポンキリスト教のマトリックスを生み出す原因である。あえて日本語を当てはめるとすれば”信”でよい。あるいは”信覚”、それはシックスセンスである。
われわれは物理的世界と五感(視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚)により接触し、五感の領域の実体(サブスタンス)を自分の経験として内的に実体化している。この結果、「色」や「臭い」などを主観的に経験する。このような意識の領域における経験された感覚をクオリアと呼ぶ。
元々「色」とか「臭い」などは存在しない。存在するサブスタンスは種々の波長の電磁波の振動であり、また様々の化学物質である。「色」や「臭い」はその各サブスタンスに対して感覚器が電気的にコード化したシグナルをブレインがデコード化し、それぞれのクオリアを生み出しているのだ。そのメカニズムは現代脳科学の最大の謎だ。
さて、この五感で感知できない存在、実体、サブスタンスがある。これが霊のサブスタンスであり、霊の領域にあるものである。霊のサブスタンスを感知するためにはわれわれの霊によるしかない。霊とは、ギリシャ語では”pneuma”、ヘブル語では”ruach”である。この霊が生み出す感覚、そう霊感というとちょっと先入観が邪魔するので、霊覚とも言うべき経験が信である(これからフェイスと呼ぶ)。
その定義はヘブル書に与えられている―
Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. -Heb 11:1(KJV)
ギリシャ語では―
εστιν δε πιστις ελπιζομενων υποστασις πραγματων ελεγχος ου βλεπομενων
遂誤訳すると―
である/いま/信は/願われている/実体/事柄の/証拠/まだ見られていない
となる。ここでVincentによると-
Faith (πίστις)
Without the article, indicating that it is treated in its abstract conception, and not merely as Christian faith. It is important that the preliminary definition should be clearly understood, since the following examples illustrate it. The key is furnished by Heb_11:27, as seeing him who is invisible. Faith apprehends as a real fact what is not revealed to the senses. It rests on that fact, acts upon it, and is upheld by it in the face of all that seems to contradict it. Faith is a real seeing. See Introduction, p. 363.
このフェイスには定冠詞がない。つまり抽象的な感覚を意味し、必ずしもクリスチャンのそれを言うのではない。フェイスは五感に感知できないものをリアルなものとして感知する。たとえ、状況が矛盾するように見える時ですら。フェイスはリアルに見ることである。
Substance (ὑπόστασις)
See on Heb_1:3 and see on Heb_3:14. On the whole, the Rev. assurance gives the true meaning. The definition has a scholastic and philosophic quality, as might be expected from a pupil of the Alexandrian schools. The meaning substance, real being, given by A.V., Vulg., and many earlier interpreters, suggests the true sense, but is philosophically inaccurate. Substance, as used by these translators, is substantial nature; the real nature of a thing which underlies and supports its outward form or properties. In this sense it is very appropriate in Heb_1:3, in describing the nature of the Son as the image or impress of God’s essential being: but in this sense it is improperly applied to faith, which is an act of the moral intelligence directed at an object; or a condition which sustains a certain relation to the object. It cannot be said that faith is substantial being. It apprehends reality: it is that to which the unseen objects of hope become real and substantial. Assurance gives the true idea. It is the firm grasp of faith on unseen fact.
サブスタンスとは実体的な存在であり、外的な存在や属性の根底に存在する事物のリアルな実体である。それはリアリティを感知する。その見えない希望の対象がリアルかつ実体的なものであるとして。確証が本当の意味を提示する。それは見えない事実の堅く把握することである。
Evidence (ἔλεγχος)
N.T.o. Quite often in lxx for יָכַֽח, to reprove, rebuke, punish, blame. See Pro_1:23; Wisd. 2:14; Sir. 21:12. See especially on the kindred verb ἐλέγχειν, Joh_3:20. Rend. conviction. Observe that ὑπόστασις and ἔλεγχος are not two distinct and independent conceptions, in which case καὶ would have been added; but they stand in apposition. Ἔλεγχος is really included in ὑπόστασις, but adds to the simple idea of assurance a suggestion of influences operating to produce conviction which carry the force of demonstration. The word often signifies a process of proof or demonstration. So von Soden: “a being convinced. Therefore not a rash, feebly-grounded hypothesis, a dream of hope, the child of a wish.”
確証(エビデンス)は実体(サブスタンス)に実際には含まれるが、さらにデモンストレーションする力を運ぶ確信を生み出すために働く影響力を示唆する。
Of things (πραγμάτων)
Πρᾶγμα is, strictly, a thing done; an accomplished fact. It introduces a wider conception than ἐλπιζομένων things hoped for; embracing not only future realities, but all that does not fall under the cognizance of the senses, whether past, present, or future.
事柄(プラグマトン)とは、厳密には、達成された事柄である。それは過去、現在、未来のものであれ、五感の領域にあるものではない。
かくして、フェイスとは五感を超えたシックスセンスであり、物理的実体ではなく、霊の実体(サブスタンス)を感知する能力であり、かつそれを現実化(エビデンス)する機能である。ゆえにフェイスとはサブスタンス&エビデンスとなる。
ロゴス&スピリットの相互作用により、われわれは五感では感知し得ない領域のサブスタンスを内的に実体化し、それを経験し、享受することができる(☞フォティーゾ)。大事な点はフェイスとは願われる実体である。あなたは病気を願いますか?貧困を願いますか?願わないのであれば、それらを拒絶せよ!主は言われる―
わたしの名にあって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名にあって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。-John 14:13-14
イエシュアとは「YHWHがわが救い」の意味。イエシュアの名にあってとは名の中で、つまり名は客体ではなく、私とひとつなのだ。われわれはI-AMにより定義されたpeculiarな民(Tim 2:14)。YHWHエロヒムは「ありてある」。その原語は”HAYA”であり、あらしめる、在る、BE、だ。英語では”I AM THAT I AM”。この後にあなたの願う”X”を代入することができる。癒し、豊かさ、など。するとI-AMがソレにHAYA(BE)して下さるのだ。
ゆえにわれわれの最高位のエロヒムの名は―
Jehovah Rapha=癒し主なるYHWH;Jehovah Jira=満たし主なるYHWH;・・・
となる。かくしてイエシュアの名を呼び求める者はすべて救われる(Rom 10:13)。呼ぶことは御名を実体化すること。つまりその方が、今・ここに在る(I-AM)。この方があなたの願う救いとなる。ゆえにイエシュアとはYHWHのフェイスと言えるのだ。
何か個々にあれこれ求めるのではない。この方を求めるのであれば、そしてこの方が今・ここに在れば、あなたの願うそれとなって下さる。パウロは言う―
それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。-2コリント5:16
「肉によって」とは五感によってである。五感ではなく霊によって知ること。なぜ?
最後のアダムはいのちを与える霊となった-1Cor 15:45
からである。肉体をもって復活されると同時に、物理的に制限を受けない霊の存在となられたのである。この存在は私たちの霊のうちにI-AMされる。ゆえに-
フェイスとはI-AMの実体化である
Dr.Luke:『真理はあなたを自由にする-ファクターXの再発見』

天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくてもその響き(qav)は全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。-詩編19:1-5
この”qav”とは「弦」であり、「振動」であり、すなわち「バイブレーション」である。世界に満ちているバイブレーションである。現代物理の最前線では宇宙は10次元+1次元(時間)であるとする。今、我々が五感で経験している世界は3次元+1次元であるから、残りの次元はどうなっているのか?この超弦理論では小さく丸まっているとする。これをカラビ・ヤウ空間と呼ぶ。

この種々の波長(振動数)をもつバイブレーションの和として波束というものができる。これは波であり、粒子のようなものである。光子も電子も、人が観測していない時には波として振る舞い、観測すると粒子としてふるまうと言う性質をもっている。つまり観測は波動を粒子として固定化するのだ。

芸術においても画家がある場面である瞬間に感じた感動あるいは”自然の震え”を、一度画家の脳内において咀嚼・解釈し、その結果をカンバスの上に絵具で表現する作業が絵画であると考えている。つまり自然との相互作用で心に生じたバイブレーションをキャンバスに固定化するわけだ。コローは「目でも心でも解釈する」と言っている。この過程を少し数学的に表現すると、次のようになるかと思われる:
すなわちある自然の場面で画家の内面に広がる感動関数をg(t)としよう。これは画家の個性によってそれぞれである。そして自然界から時間の関数として入力される刺激をx(t)とすると、画家の内面で起きる反応としての出力は
$$y(t)=\int x(\tau )g(t-\tau )dt$$
と書ける。この関数g(t)はインパルスに対する反応であり、インパルス応答あるいはもっと一般的にグリーン関数と言う。カントの純粋経験とも言えるかも知れない。で、この積分を数学的にも「畳み込み積分(Convolution)」と言う。つまり現在の反応y(t)は過去τ時点から現在までの反応の畳み込みなのだ!
かくして絵画とはリアリティそのものではなく、画家の伝達関数によっていわば歪みが入った上で表現されたものとなる。実はこの畳み込みはある意味で人生の方程式と言えるわけで、仏教的には「因果応報」の、聖書的には「撒いたものを刈り取る」方程式である。
芸術の場合、この表現y(t)をさらに、鑑賞者が脳内に入力する。そして鑑賞者のグリーン関数によって修飾された形で彼の内面に反応y'(t)が生じる(微分の意味ではない)。すなわち少なくとも二回の畳み込みが行われているわけだ。よってそれはリアリティそのものでももちろんなく、画家の経験そのものでもなく、かなりワイドなスペクトルをもった波紋であるが、鑑賞者の中にとにかくその波紋が生じる。
このように私たちの芸術経験は、波動の共有とも言えるわけだが、もっと一般的に現実そのものが波動であるとするサイトを発見した。題して「現代物理と仏教を考えるページ」。作者は早稲田の理工学部を出たバリバリの物理学者。マックスウェルの方程式の解そのものが、たたみ込み積分なわけで、要するに波動こそが実存の究極であると主張する。
ちなみにわれわれが感覚する「色」は元々ないものだ。あるものは種々の波長の電磁波のバイブレーションのみ。そのバイブレーションが目と大脳の視覚野において「色」として感知される。まさに「色即是空」。こういった大脳が作り出すモノをクオリアと呼ぶ。そしてこのクオリアがどうやって生み出されるのかは現代脳科学の最大の難問である。
例えば、これは感動したが、ニュートンの運動方程式
$$F=m\frac{dv}{dt}$$を波動性から導いている(→こちら)。要するに<力=質量×加速度>だ。古典物理学ではこれは天下り的に与えられる。私も何故だと、高校以来考えてきたが、誰も解説してくれなかったし、自分でも分からなかった。ところがこの方は次のように解き明かしてくれた:ハイゼンベルグの不確定性原理により、位置と運動量には
(hはプランク定数)の関係があり、エネルギーと時間についても、
$$\Delta E\cdot \Delta t = h$$すると
$$\Delta x\cdot \Delta p=\Delta E\cdot \Delta t$$$$ \frac{\Delta p}{\Delta t}=\frac{\Delta E}{\Delta x}$$極限を取ると、
$$\frac{dp}{dt}=\frac{dE}{dx}$$ここで
だから、ニュートンの運動方程式が出る。つまり物質の波動性から、その不確定性を極限ゼロにした理想の形としてニュートンの運動方程式が出るのだ!
かくのごとく、いわゆる粒子の物理学は波動の物理学に吸収される形となり、世界は波動モデルとして認識される。また波動の伝播と受信が私たちの生である。そしてこのサイトの作者は華厳経と現代物理学の究極の姿の一致を予想して、例えば、ここでも何度も紹介しているデリバティブのブラックショールズ方程式の華厳構造を指摘する。
現代物理学と仏教の共通性はあの大槻教授も指摘しているところ。
科学の本質は『般若心経』にあり!大槻義彦教授は気づいてしまった・・・
サイエンスでは、この記事の朝永教授の指摘通り、いかにして(HOW)には答えることができるが、なぜ(WHY)には答えがないのだ。
科学と信仰(by Dr.Luke)
このメタを繰り返すと無限後退性という無間地獄に至る。それは発狂である。創造主なる存在は究極のメタ言語(ロゴス)であり、この方を受け入れる時、無間地獄から解かれるのだ。
フェイスによって、わたしたちは、この世界が神の言葉(レーマ)によってフレーム化され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。-ヘブル11:3
レーマとはバイブレーションそのものである。観測が量子の波動を固定化するように、フェイスはこのバイブレーションを固定化(実体化)する。
そしてこの方から発出してサイエンスに戻る時、安心して自然法則と対峙することができ、創造の神秘を観賞できる。まことに-
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。-ローマ1:20
とあるとおりである。

地を治めることは、それぞれの領域の法則に基づくものだ。勝手に祈って、確信したところで、それはしばしば空振りとなる。こうして神様は祈ったのに何もしてくれない~と、ぼくの言うポセイドン・アドベンチャー・メンタリティに陥るのだ。それが三浦綾子などの文学の根底に潜んでいる。しばしばヨブ記の解き明かしを聞くとその人の本質が分かる。
聖霊派あたりはしばしばスーパーナチュラルの意味を取り違えている。金歯・金粉・天使の羽根~とかね。ペテンコステやヘンテコステは主の御名を貶めるだけ。ほんとに迷惑な連中だ。油撒き事件もだったが。

サマリヤの女に対して主はいわれた:
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。-ヨハネ4:23-24
この訳はいかにも宗教としてのキリスト教のものである。Vincentは次のようにコメントする:
Spirit (πνεῦμα) is the highest, deepest, noblest part of our humanity, the point of contact between God and man (Rom 1:9); while soul (ψυχή) is the principle of individuality, the seat of personal impressions, having a side in contact with the material element of humanity as well as with the spiritual element, and being thus the mediating element between the spirit and the body.
The phrase in spirit and in truth describes the two essential characteristics of true worship: in spirit, as distinguished from place or form or other sensual limitations (John 4:21); in truth, as distinguished from the false conceptions resulting from imperfect knowledge (John 4:22).
True worship includes a spiritual sense of the object worshipped, and a spiritual communion with it; the manifestation of the moral consciousness in feelings, motions of the will, “moods of elevation, excitements,” etc. It includes also a truthful conception of the object. In Jesus the Father is seen (John 14:9) and known (Luke 10:22).
Thus the truthful conception is gained. He is the Truth (John 14:6). Likewise through Him we come to the Father, and spiritually commune with Him. No man can come in any other way (John 14:6). To worship in truth is not merely to worship in sincerity, but with a worship corresponding to the nature of its object.
人の構成は体・魂・霊。体は物理的サブスタンスを五感を通して実体化あるいは主観的経験とする。電磁波である光は目により、音波である音は耳によりといった具合である。魂は精神活動、わたしの意識の中核であり、体を通してインプットされた世界の像(電気信号)を主観的に経験する。

対して霊はもっとも深い部分であり、主との結合にもたらされたわれわれは、霊が再度生み出された者である。それはエロヒムの霊の分与であり、同じDNAを共有している。この霊こそが霊のサブスタンスであるYahawehエロヒムを実体化する。これがシックスセンスとしてのフェイス(Heb 11:1)。この霊によってこそ、Yahawehエロヒムを知ることができる。これが永遠の命である(John 17:3)。
「まこと」と訳された言語は”aletheisa”、それは究極の実存の実体・実質である。Yahawehエロヒムこそがあらゆる存在の究極であり、このI-AMなる存在が物質化されたお方こそがジーザス。この方のみが父に至る道、門、ポータル。そこでVincentはこう結論する:
To worship in truth is not merely to worship in sincerity, but with a worship corresponding to the nature of its object.
私たちはI-AMなる存在のうちに生み出され、その存在は私たちのうちにいます。その本質に従ってワーシップするのである。それは霊のサブスタンスそのものであり、よって霊拝である。しかも、主は言われる:今であると。この今とは時空間の中におけるそれではない。永遠の領域、永遠のNOWであり、そこにこそ究極の存在者I-AMがおられる。私はこの「ありてある」方を、在とお呼びしたい。かくしてフェイスとは在の実体化である!

再建主義の富井氏のこの記事も、彼らの「信仰」の本質を明らかにしているので採録しておく。
新生とともにクリスチャンの肉(生まれながらの性質)に起きる変化は、復活も、聖化も、すべて「法的」であり、「実際的」ではない。
聖書に「クリスチャンになったら生まれながらの性質は『実際的に』変えられ、聖くなった」と記されていない。
性格が変わったりするのは「聖霊による」という点は同意だ。が、富井氏においては、Yahawehエロヒムの三一性も、法人と同様の契約的なひとつであり、現在は契約的にキリストが天地の全権を得ており、クリスチャンも契約的に再生され、父と子は契約的にそのうちに住むとする。
かくのごとく、彼の聖書理解のフレームは「契約的」VS「実際的」であることはすでに分かった。私の理解は「経綸的」VS「本質的」、あるいは「善悪路線」VS「いのちの木路線」である。


そして彼の論に対しては次の聖句を挙げれば、御言葉自身が論破してくれる。
いま、フェイスとは願われることのサブスタンス(実質)であり、まだ見ていないことの現出(立証)である。-Heb 11:1(私訳)
現在キリストはいのちを与える霊(1Cor 15:45)として、霊のサブスタンスであり、実際的に私たちのうちに聖霊によって住まわれる。聖霊は霊のリアリティを実体化するお方、すべて時空間を超えた永遠のサブスタンスは聖霊にあって実体化されるのである。これがフェイスである。
フェイスとはI-AMの実体化である。-Dr.Luke
追記:古い人と肉の違いや、再生の意味は、人間の構成が体・魂・霊からなることを認めないと理解不能となる。富井氏は一時、この三つの構成を認めていたが、その後、無視しているようである。

ニッポンキ業界の「君は愛されるために生まれた」、「愛こそすべて」、「愛・アイ・あい」と叫ぶ病理を極私的にはラヴ・オブセッションと呼んでいる。常にそう叫んでいないと不安なのだ。なぜ?
それは愛のサスブスタンスが実体化されていないからだ。Yahawehエロヒムの愛は霊のサブスタンスであり、それは魂の感情において実体化され、さらにボディのハートにおいて経験的に感じることができる。このとき、ブレイン-ハート・コネクションがカギとなる。生理的にも良い神経伝達物質やホルモンが分泌されて、体の状態も健やかにされるのだ。
われわれのフェイスは「我はナントカを信ず~」といったお題目ではない。またバルトのような空理空論の言葉遊びでもない。それは実体であり、実質であり、五感の領域に現出する(=感覚化)ものである。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ見ていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)
上のビデオはニューサイエンスのGregg Bradenの説く最新のサイエンスにおけるブレインとハートの関係に関する知見である。まことにサイエンスは聖書を後追いしているのだ。
では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。-ローマ10:8-9
Dr.Lukeのクリップも参照のこと。

いま、フェイスとは願われるサブスタンス(実体化)、まだ見ていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)
株式売買は株券というブツを売買する。安く買い・高く売る、あるいは高く売り(空売り)・安く買い戻す。いずれにしろ、株価の波動の高低差がゲインとなる。問題は売買のタイミングである。株価の波動をつかんで、それに乗ること。つまりサーフィンである。
これに対してオプション取引はブツではなく、権利を売買する。ある株式(原資)を、ある価格(権利行使価格)で、ある期間に(限月)売買する権利を、ある値段(プレミア)で売買するのだ[1]プレミアの決まり方はこの記事では省略する。。それはあくまで権利であって、市場参加者の脳内の約束(プロトコル)である。
例えば、A社の株が現在1,000円とする。1か月後に1,100円で買う権利(コールオプション)を100円で買ったとする。実際に1か月後に1,500円になったとすると、1,100円で買う権利を行使してA社株を買い、ただちに1,500円で売れば400円のゲインとなり、プレミアを引いて300円の実質益を得る。
売り手はプレミア100円を得るが、1,500円のA社株を1,100円で売らなくてならない(義務)ので400円のマイナス。プレミアを相殺して300円の損失となる。これを図にするとこうなる:

もし株価が900円に下がっていたら、買い手は権利を放棄するだけでよいから、プレミアの100円の損失。売り手は何もしなくてよいからプレミアの100円の利益となる。つまり、買い手は最大損失はプレミア分のみだが、株価が上がるにつれ、売り手の損失は拡大する。
売る権利(プットオプション)の場合は、例えば現在A社株が1,000円だったとして1か月後に900円で売る権利を100円で買ったとする。実際、1か月後に株価は500円になったとすると、500円で株を買って900円で売ればよいから、400円のゲインとなり、プレミア100円を引いて300円の利益となる。
売り手は500円の株を900円で買わなくてはならないから(義務)、400円のマイナスで、プレミアと相殺しても300円の損失となる。図にするとこうなる:

プットの買い手は株価が下がるほど利益となるが、上がった場合は権利を放棄すればよいから損失はプレミアの100円だけ。売り手は何もする必要ないのでプレミアの100円の利益となる。この場合も、買い手は最大損失はプレミア分のみだが、売り手は株価が下がるほど損失は拡大する。
このようにオプションは単なる約束事を売買するだけ。そして限月が来れば、その権利を行使すると利益あるいは損失が実体化する。約束事はいわばマトリックスであり、目に見えない脳内のサブスタンスである。それを実体化して、現実にマネーに変えることで利益/損失が物理的に現出するのだ。
まさにフェイスである!
われわれにはすでに聖書(御言葉)というYHWHのマインドにある約束事(プロトコル)を記載した契約書を所有している。すなわち聖書である。この中にある私の有する権利・義務関係の中にニュークリーチャーである私は生かされている。問題はこのプロトコルの網構造=マトリックス=を知り、いつ、どのように、何の権利を行使すれば/義務を果たせば、何を得られるのかを知ることが必要である。
多くのクリスチャンがこのマトリックスを知らず、したがって自分の権利を行使することもできず、したがって益を得ることがないのだ。ひたすらあの放蕩息子の兄のようにガンバッて父に仕えるだけ。だから帰ってきた弟が父のもてなしを受けると不満を漏らす。が、父は、お前はつねに私と共におり、私の持っているものはすべてお前のものであるのに、と諭す。これがキリスト教なる宗教のマトリックスに生きる人の様である。彼らの口からは常に不満がもれるのだ。
対する弟は自分の悲惨を認め、本心に立ち返り、ただ豊かな父の心のマトリックスに入ったのみである(☞ゴッド-マトリックスに生きる)。あとは全自動で話が進む。息子である以上、父の資産を享受することは当然である。これがフェイスに生きる者の有様であり、彼らは自分の状態や努力によらず、父のマトリックスに入るのみでその益を享受できる。
まことに信じた者は自分のわざをやめて安息に入るのだ(Heb 4:3)。見えない領域にある永遠のサブスタンスをわれわれはすでに得ている。それは主がご自分の血によって買って下さった権利=オプション=であり、われわれはその権利の行使をするのみなのだ。その時、利益が実体化される。ゆえにそのコツを知った者はますます豊かにされるが、持たない者は・・・以下略!
エペソ書などの神の御計画と言う訳が問題である[2] … Continue reading。「計画」と訳された原語は「オイコノミア」、すなわち経済である(☞神のエコノミー-いのちのディスペンセーション-)。その元は経世済民。富の分配と管理、そして増殖である。だから主は言われた、わたしが戻るまで商売(オキュパイ)せよ、と(Luke 19:13)。それは宗教ではない。リアルなオプション取引である!

再建主義はカルバン神学を基礎として、ポスト・ミレに立っている。つまり現在はすでに千年期であり、御国の建設のために邁進すべしというスタンスである[1]この点において、再建主義者は天皇をトップにした統一された世界すなわち八紘一宇の建設(大東亜共栄圏)と親和性があるのだろう。。サタンの手先であるメーソンやイルミナティによる世界統一政府樹立を阻止し、欺かれているディスペンセイションを粉砕し、モーセ律法によるキリストの国を打ち立てることが彼らの人生の意義である。ゆえに次のような発言になる-
瞬間に創造できる神が、なぜ世界を6日で創造されたのか。
http://www.millnm.net/cgi-bin/wwwboard.cgi
それは「人間の労働のフィールドだから」である。
世界は、労働の場、作業場として建設された。
6日働いて1日休むシステムは、労働のそれである。
神は人間を労働のために創造された。
人間は、神の命令にしたがって作業をし、神的文明を築き上げる責務を負っていた。
そして、その作業を完成したら、報酬を与える予定であった。その報酬とは、自分が耕した農地、自分が獲得した利益である。
神は、アダムが完全に神の命令にしたがって労働したら、その労働した分を全部、アダムに「永遠に」与える予定であった。
アダムにとって、人生とは、報酬を受け取るための労働であった。したがって、「人生は楽しむためのもの」という認識は基本的に間違っている。
人生の主要な意味は「労働」である。
神のために財やサービスを生産することである。
果たして御言葉はこのようなことを啓示しているだろうか?
パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの-1コリント3:22
信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。-ヘブル4:3
すでにニュークリーチャーたるわれわれは時空間の存在をすべて所有していると書いてある。そして信じた者は自分のわざをやめて安息に入るのだ(Heb 4:10)。主はご自分の血で買い戻して下さったすべての嗣業をわれわれに相続させ、それを楽しめと言われるのだ。
すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」-ルカ15:31-32
どうも再建主義者はこの放蕩息子ではなく、「こんなにあなたのために働いているではありませんか、なのに・・・」と不満を訴えた兄のスタンスで生きているようだ(Luke 15:29)。御父は、わたしの持っているものはすべてお前のものなのだと言われるのだが・・・・。
われわれが労するのではない[2] … Continue reading。フェイスによるエルゴンが労するのだ(Col 1:29;James 2:22)。それはフェイスとエルゴンのシナジー効果だ。フェイスはわれわれの僕だ。YHWHエロヒムの霊のバイブレーションに共鳴したわれわれの霊から語り出された言葉(レーマ)は、必ずその言い送られたことを成し遂げる(Isa 55:11)。
フェイスは”おあづけ”状態の犬のようなものではない。これから頑張ってゲットするのではない。すでに得ていることを実体化することだ。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス(or 実体化)であり、まだ見ていないことの現出である。-Heb 11:1(私訳)
「まだまだ」モードから「すでに」モードへのシフトである。われわれはそのフェイスの実を収穫して楽しむのだ。満ち足りよ! 楽しめ! そしてこれは来るべき千年期の前味わい、フォア・テイスティングである。そのために聖霊が手付金として与えられたのだ(Eph 1:14)。ゆえにわれわれはセレブレーションにて喜び祝うのである。
人を豊かにするのは神の祝福であり、人の労苦は何も加えない。-箴言10:22


フェイスは霊的領域の諸々のサブスタンスを実体化する―それこそがフェイスの機能である。-W.ニー

もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。-ヘブル4:3b
地上に住む者で、天地創造の時から屠られていた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。-啓示録13:8(Dr.Luke改)
霊的リアリティーは時空間を超える。フェイスはその永遠のNOWを今・ここに感光し、定着させる(実体化)。Darbyはヘブル11:1をこう訳している:
Now faith is the substantiating of things hoped for, the conviction of things not seen. -Heb 11:1

これはオモシロイ。まあ、一般的な反応でしょうね。カギは何度も言うけど、B/Sのつながり。

で、同じことをクルシチャンもやってるのね、富を持っているのに現金化できない。昔、NYのホームレスが餓死したんだが、彼の唯一の財産の紙袋の中には株券がどっさりあったそうだ。換金できなかったわけ。フェイスもMMTも同じことなのだ。
パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、すべてはあなたがたのものである。-1コリント3:22
すでに所有しているサブスタンスを五感の領域に現出させること、これがフェイスだ。
いま、フェイスとは願われるサブスタンス、まだ見ていないことの現出である。-Heb 11:1
なぜ、私がMMTをこれだけウリにするかと言えば、それはフェイスそのものだからだ。
