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Dr.Luke的日々のココロ
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マーレー・クオート:”肉の卑しさこそ御霊が働く領域である”(エウセベイアの奥義)-1テモテ3:16
アンドリュー・マーレー:『キリストの御霊』第20章より 天地創 …
アンドリュー・マーレー:『キリストの御霊』第20章より
天地創造のみわざにおいて、神の霊は自ら暗黒と生命のない混沌とした事物をおおい、その生かす力によって、命と繁殖の力をお与えになりました。それらのものが神の霊によって生かされたのちにのみ、神の言葉はこれに形を与え、私たちが今見るような命と美の各様の形状を呼び出すことができたのです。
人間の創造においても同様で、地のちりによって造られた体の中に吹き入れられたのは霊であって、人はこれにより生きたもの(原語・魂)となりました。そのようにイエスの人格においても、その肉体は御霊の働きによって備えられ、御霊によってイエスのからだは再び墓の中からよみがえりました。
私たちにしても同様で、肉体は御霊によって神の宮とされ、キリストの肢体とされたのです、私たちは聖霊を、物質の弱さから遠くへだたった神的な存在とばかり考えやすく、その働きが自分で物質的なものと結合し、これを霊化し、完全な最高の型である霊体にまで至らせることであるのを忘れています。
御霊の働きについてのこの見解は、あがないの事実において彼が占めている位置を理解する上において重要です。このわざには聖三位一体の各位にそれぞれ定められた特別な位置があります。
御父においてはすべてのものの創造者である見えない神を知ることができます。
御子によって神は見える姿で現れて私たちに近づきました。イエスは神の姿なのです。
また、御霊によって私たちは内住の神を持つことができました。神の力が人のからだに宿り、そのうちに働いて、御父と御子が私たちのために持っているものを与えてくださるのです。
肉の弱さと卑しさ、そうです、肉の卑しさこそ御霊が働く領域です。個人ばかりでなく、教会全体としても、御父の定められたもの、御子の得てくださったものを肉に宿しているキリストの手足である者たちの中に実現するのは、ただ、聖霊の不断の仲介と活動によるのです。
まさにここに説かれていることは、敬虔の奥義である。
肉の卑しさこそ御霊が働く領域です-これはなんという憐れみ、恵み、そして励ましであろうか。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。-Phil 2:6-8
ゆえにこう招いてくださるのです:
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。-Heb 4:15-16
そしてこの究極の約束があります:
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。-Phil 3:21
今、私たちが経験することができる奥義は―
行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。敬虔の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、神(ビザンチン写本)は肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。-1Tim 3:15-16
文脈を見れば、「神の家=生ける神のエクレア」について語っており、その説明として、「敬虔の奥義」を定義しているのである。この「敬虔」と訳された単語は”eusebeia”であり、日本語で理解してはならない。聖句は聖句で定義すること。すなわち、エクレシアとは敬虔の奥義であり、神が肉において現れることである[1] … Continue reading。

フローな状態。それは努力せずに努力がなされる。つまり自分の意志の力とは関係なく、物事が成し遂げられる状態である。意識が何ものにも執着することなく、さらさらと流れている状態。人の苦しみは心が何かに粘着あるいは固着することにより生まれる。そこで信心銘にいわく、
至道無難、唯嫌揀択
それが揀択(ケンジャク)。道を究め、難を逃れるには、ただ事の善悪や損得を離れること。何物にも心を留めないことだという意味。主も言われる、野の花を見よ、空の鳥を見よ、彼らは何も努力せずとも天の父が着飾り、養ってくださっている、と。アダムは善と悪を知ったことがその罪の本質だったのだ。
神の栄光に与ること。それは善悪を知る知識の木の路線ではなく、いのちの木の路線に跳躍すること。神のエコノミーの鍵はいのちにある。このいのちの次元の理解と経験がないと、あのややこしい不毛な神学論争に落ちるわけです。ナチュラルな五感の領域とスーパーナチュラルな霊の領域にイエシュアというポータルを通して出入りする経験である。

私たちの召しは失っていた神の栄光に与ること。私たちの務めはこのいのちを流し出すこと。ガリラヤ湖のように水が流れ込み、それが流れ出ること。この霊的いのちのフローが滞ると死海と化します。かくしてクリスチャンが煮詰まってしまい、死海のように硫黄の悪臭を放ちます。腐ったクリスチャンは不信仰の者たちより扱い難くなります。塩気を失った者は人に踏みつけにされ、しかも自分がいかなる状態にあるかも分からなくなり、ただ悪臭を放ちます。かくして死海のように自分の中での堂々巡りで妄想と欲求不満だけを膨らませるわけです。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川々(複数形)となって流れ出るようになる。-John 7:38
ニッポンキ業界の聖霊派のように、「聖霊様の充満~、油注ぎ~」ってヒスるのはやめよ。主のわざはインサイド・アウト。うちなるいのちの流れが私たちを通して溢れ流れ出ることだ。

続き:
かくして自己のメンツに拘りつつ頑なに自分を主張する人はあまり幸いな地上の去り方をしていない。握りしめるといのちを失う。何も持たずフリーハンドで生きること。
聖霊は風のように赴くままに吹く。何かに拘泥することはそのスピリチュアル・バイブレーションに共鳴できない。風の吹くまま、柳の如くにしなやかに生きる、今後ますます必要となろう。

父:「だから、欲しいものを言ってみよ」。
子:「ぼくは自我を十字架で砕きます」。
父:「そうではなく、具体的に欲しいものを求めなさい」。
子:「ぼくは自分を否みますから、ぼくの信仰を認めてください」。
父:「あなたはわたしの子であり、わたしの持っているものはすでにすべてあなたのものなのだ」。
これがキリスト教なる宗教のマトリックス、ニッポンキ業界での典型的場面である。
ニュークリーチャーはYaHaWeH家のエロヒム族、それは愛による親子関係。キリスト教は自分の信条やあり方の”正しさ”をもって自分をアピールし、受け入れられようとする。そこには不自然な緊張関係が生じ、甘い愛の交わりがなく、殺伐とした渇きを深める。
フェイスはすでにいにしえにおいて成し遂げられた完成した御業にあって、完全とされた私(の霊)と父との甘い交わりを享受する。その霊の交流は魂の感情にも触れて、内側は甘美な感覚により油塗られ、深い平安と安息、歓喜に満ち溢れる。ブラザー・ローレンスはこう証しする(☞神の愛に満たされたい時に):
外部の仕事をしている時には、神を思うことを妨げられてしまうこともあります。けれども神からの新鮮な思いが私の魂をおおい、神の臨在の烈しさに私の魂は熱く燃やされ、大声で叫び歌い、舞い踊りたくなるほどです。私は祈りと学びのために密室に静まっている時よりも、かえって普通の仕事をしている時の方が、もっと強く神との結びつきを感じます。
ブラザー・ローレンス:『敬虔な生涯』CLC

聖霊が来られるとき、わたしたち(=父と子)も私たちの霊の中に内住される(John 14:23)。聖霊だけが来られているのではない。聖霊は父と子の内住をもたらし、交わりを可能にする。この意味で、私たち(の霊)は三位一体の交わりに参与できるのである。私たちは神性に参与するものであるから(2Pet 1:4)。
私たちの霊は至聖所であり、新約の現在はつねにその恵みの座(=契約の箱)にタッチすることができる。なぜなら私たちは御子に包まれ、御子にあって御父に接近することが可能とされているからだ。
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。-1John 1:3

TODAY'S CELEBRATION Dec 22, 2019:イエスのパースンを実体化する聖霊
MSGタイトル:イエスのパースンを実体化する聖霊 引用聖句:H …
- MSGタイトル:イエスのパースンを実体化する聖霊
- 引用聖句:Heb 11:39-40;John 14:7;14:17-21;16:13-15 etc.
- 2020年1月5日(日)のセレブ(12月29日はありません)
・場所:ワークピア横浜ユーフォニー
・時間:14.00-18.00 - プレイヤーMTG:ハロー会議室石川町元町(25日13:00-17:00)
- セレブレーションのライブ録音DVD:希望者にお分けできます。1ヶ月分、3,000円(原則4DVD);あるいは希望のタイトル1枚1,000円にて。ご注文はオンラインショッピングにてどうぞ。あるいはメールにもOKです。

NEW DVD発売:『FAITH CAMP 2019 SEMINAR』の二回のレクチャーを編集した映像。YouTube公開のものに手を入れてます。定価3,000円。注文はオンラインショップにて。

聞いた御言葉(ロゴス)はブレインからハートにおり、ガット(腹)に落ちる(腑に落ちる)。いっぽう、聖霊はZOEとなり、われわれの霊から魂、そして体へとペネトレーションし、腹から川々となってフローする。この死ぬべき体にもいのちを与えるのだ。それは正統キリスト教神学などの問題ではない。

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川々(原文)となって流れ出るようになる。-John 7:38
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。-Rom 8:11

なんとかのことば社の雑誌の特集で、現代における聖霊の働きを議論するとかの特集があった。議論する? もはやこの時点で意味不明だ。聖霊はオツムで扱う存在ではないし、そもそも聖霊は神たるお方であり、不遜なこと極まりない。

聖霊は腹から川々(複数形!)と流れ出る(John 7:38)。腹からだ! 聖霊が来られるとき、父と子も内在される(John 15:23)。聖霊派の、父が天に、その右に子、地上は聖霊様といった図は三神論である。「聖霊様油注ぎ~」の人たちとは一線を画していることは繰り返さない。
神の霊は私たちの霊から、思いに、感情に、意志にペネトレーションする。染み込むのだ。
思いの霊において新たにされ・・・。-Eph 4:23
ここを「心の底から」とか訳すのが通常であるが、「思いの霊において」である。つまり魂の機能である思い(マインド)に霊が浸透するのだ。これによりマインドのリニューアルがなされる。
そして、さらに御霊は私たちの死ぬべき体にすらいのち(Zoe)を与える(Rom 8:11)。われわれの体の個々の細胞にまでそのいのちはペネトレーションする[1]マインドのあり方によってDNAですら影響を受けることはサイエンスの教えるところである。。こうして私たちの若さは若返って鷲のように空に昇る。
聖霊派のように外側の現象を求めることは敵の霊のつけ入る隙を与える。神の業はつねに内側から外側へ、インサイドアウトだ。なぜならわれわれの心がすべてを生み出すからだ。プライベートリアリティーは心の反映である。
かくして霊のうちから始まる聖霊の業は魂へとペネトレーションし、体へと至り、腹から川々と流れ出る[2]精神医学的にも精神状態は内臓感覚として反映される。最近では小腸の健康と若さや精神衛生と密接に関係していることが分かってきている。。悩みや葛藤は心の塊を生じる結果だ。これに霊が絡むと、私の指摘する霊感情観念複合体が構築される。聖書では要塞だ。これはいのちのフロー(流れ)をブロックする。健康はつねに流れている心、ハートフローがカギである。
だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。-ピリピ3:15
ここにある「考える」と訳された単語の原意は横隔膜だ。つまりブレインの表層的意識で思いめぐらすのみでなく、ハートへと下ろし、さらに腹へと下ろしたとき、それは納得できる。いわゆる腑に落ちる状態だ。このときサブコンシャスマインドの書き換えが起きている。これまでのアダム系のアレコレの思念や思惑で生きるのではなく、キリストのマインドが活性化される(1Cor 2:16)。私の考えはキリストのそれであり、キリストの思いが私の思いとして反映し、再現される。ゆえに100%御父によって受け入れられる。
父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。-ヨハネ11:41-42
このフェイスの告白は私のものとなる。このときこのみ言葉が実現する。
わたしを信じる者はわたしのなしたわざをなし、さらにおおいなるわざをなす。-ヨハネ14:12

聖霊派では聖霊とは力を与える存在。だから「主の名によって悪霊よ、出ろ~」とかやる。祈りに念が籠ってる。しかし聖霊はまず第一にイエスを証しする霊である。
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。
しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。-John 14:16-21
そして-
その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。-John 16:14
聖霊は単に神の力ではなく、本質的にはジーザスを証しする霊である[1] … Continue reading。ゆえにキリストの御霊、イエスの御霊と呼ばれる。ジーザスが私のうちに生きるので、私たちも生きるのである。かくしてキリストは私たちのいのちである。
あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。-Col 3:3-4
かくして神の国はいのちとしてのキリストであり、キリストこそが神の永遠のご計画である。ゆえにマルコ書にあるとおり。
神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。-Mark 4:29-29
一方で神の国は力(デュナミス)による統治である。御心が天になる通り、地にもなるように、と。天のリアリティーを地上に現出させること。それは再建主義のいわゆる統治主義ではない。あくまでもいのちにある統治だ。
もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。-Rom 5:17
罪により死が支配して、人々をその恐れの中に束縛している地上に、いのちをもたらし、死をも支配すること。
イエスは・・・こう命じられた[2] … Continue reading。「・・・行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。-Matt 10:7-8
これはキリスト教なる宗教の拡大ではない。むしろキリスト教は神の国の現出を阻害している。あれこれの神学や伝統や儀式などによって。神の国はロゴスのうちにはない。ドュナミスのうちにこそある。あれが正しいこれが間違っていると不毛な論議する現在のキリスト教、一方でなんでもOK、神に至る道はイエスの御名に限らない、モスレムと同じ神を礼拝している・・・・。
ある人が言っていた:
けだし名言。
彼は御父を100%現わされた。彼の言動こそが天の御心である。私は白いキリスト教と呼んでいるいわゆる西方の正統神学なるマトリックスは天のマトリックスとは別物である。それはダイナミックな神の国のいのちの躍動そのものである。
そして
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。-Heb 13:8
References[+]
↑1 | かの『聖霊様、おはようございます』で一世を風靡したベニー・ヒンは自分の教えの誤りを悔い改め、聖霊を単独で求めることは誤り。ジーザスを呼び求めれば聖霊が働く。聖霊は「ジーザス・アンリミテッド」だと言った。これは実に同意である。かつて『リバ新』で論説委員をしていた際、私が主張していたことである。まことに「聖霊派の聖霊知らず」である。 |
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↑2 | この命令は12弟子に対する限定的なものとするむきがある。しかし、マタイにはこうある「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」つまり使徒たちからすべての民に継承されるのだ。 |

よく聖霊派辺りで言われる「主のご臨在」。彼らにとってそれは何を意味するのだろう。聖霊様の油注ぎ~、聖霊様の充満~、そしてタテノリガチャガチャ音楽で踊り、叫ぶこと。金粉が舞ったりや金歯が生えたり、天使の羽が降って来たり・・・。これがソレであろうか?
ヤコブはヤボクの渡しで神(YHWH)と格闘した(Gen 32:25-32)。神は彼の自前の力の源である腿の番を打った。それでもヤコブは祝福を求めると、神はそれに応えた。ヤコブは神の顔を見たのに生きていると言って、その場をペニエルと呼んだ[1]このゆえに自分の最も自信のある部分を神のタッチ受けて砕かれる経験をペニエルの経験と称する。。ぺ二ーとは顔、エルは神、すなわち「神の顔」だ。同時に名前をイスラエル[2]“he will rule as God”の意。転じて神のプリンス。と変えられる。その経験の後、ヤコブはそれまでの独立自存の彼ではなく、ビッコを引く者とされた。ついに晩年の彼は杖に寄りかかりつつ神を礼拝した(Heb 11:21)。この姿をウォッチマン・ニーは「一服の美しい絵を見るようだ」と評している。
旧約聖書の中で神の臨在(presence)と訳されているヘブル語は”paniym”、その意味は「顔」なのだ。そのまま”face”と訳されている個所も多い。ダビデは常に御顔を常に求めている。そして神の霊に包まれることと御顔を向けられることを同義としている。
どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。-Ps 139:7
2014年12月のあの経験で見たこと・聞いたことは幻覚なのか妄想なのか。とにかく私はその後右足がマヒして、2週間ほどビッコを引いていた。ボディにはかなりの自信があった私だが、ある意味その自信は打ち砕かれた。もうジョッグもできず、GYMにも行けず、一生このままか・・・と、自分の弱さに直面し、自己のコントロールがまったく効かない状況に置かれた(→自己における死について)。が、その中で、自分が何もなし得ない状態にあって、中等度難聴の右耳の癒しと右足のマヒの癒しを続けて経験した。
さらに神が手で感じられるようになった(Php 4:5)。外界の景色を見ても、神の臨在、つまり御顔を感じるのだ。常に御顔を前においている感覚。モーセは神と顔と顔を合わせた者とされたが(Exo 34:29-34)、クリスチャンもその特権、否、それ以上の栄光に与れるのだ(2Cor 3:16-18)。もちろんイエスの血のゆえに。加えて臨在(presence)と訳されているもうひとつのヘブル語は”ayin”、原意は「目」だ。つまり臨在とは神の顔であり、神の目が置かれる状況(Deut 11:12)、栄光とはすでに述べたとおり、重さの意。それらに与ることができるのがクリスチャン、なんと幸いなこと。
かくして私たちはキリストのうちにおいて、神の霊のお包みの中に生きている。つねに神の聖にして、安らかな、そして新鮮な霊の息吹の中で文字通り呼吸をしている。これが祈りである。意識して言語化することも勿論あるが、言語化されずともわれわれの絶えず霊は祈っている。肉体の呼吸は常に無意識に行われているが、時に意識して深呼吸するのと同様である。まことに霊が開かれると、霊的ディメンジョンにタッチすることが可能となり、その領域にあるあらゆる豊かさを享受することが可能となるのだ。



GYMにてスイミングをする際、体重と体脂肪を測定する。現在、それぞれ69.5キロ、10%台後半。ホントはもう少し絞りたい。最近は1,800Calレベルを意識している(もちろん楽しむときは目一杯だが・・・)。高タンパクを意識して、炭水化物はできるだけカット、が、油断すると増える。
ちなみに息子が勤務するある超大企業では昼食代手当が毎日2,000円だとか・・・。はぁ、何食ってんの?って感じだが、人間、食いたいだけ食うと体はぶよぶよになるばかりでなく、老化も進む。スピリチャアルにも鈍くなるし、ブレインも低下する。俳優の榎木孝明氏が30日間の不食を行った際、食べないと感受性が高まり、頭脳も冴えると証言していた。聖書でも断食を勧めている。
このボディは霊(spirit)と魂(soul)を入れる容器に過ぎず、いわゆる物理的サブスタンスと接触し、五感によって支配されている。現代人は五感の奴隷になっていると言える。つまり五感で感知する世界のみがリアリティーと思い込んでいるのだ。五感のカプセルに幽閉されている。
霊の機能であるフェイスは五感を超えた世界をリアルなものとして経験できる。つまりシックスセンスなのだ。映画『スターウォーズ』のフォースはバイブルのフェイスのパクリ。フォースによって遠くを見ることも、未来を知ることもできる。これは元々フェイスのパワーだ。末期のガンすらも癒される。フェイスの覚醒。これ、終末を生きる人類の究極のテーマ。それは聖霊とわれわれの霊の相互作用による。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。-ローマ8:16
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。-ヨハネ16:13
ここで大切な点は、今回のメッセでも語ったが、霊と魂の切り分けがなされること(Heb 4:12)。このとき霊は五感(魂)の波動を受けることなく、臨在を常に楽しみ、聖霊の声を明確に聞くことができるようになる(☞霊と魂の分離について)。
ちなみに五感に縛られない生き方は老子も言っている(第五十二章)。
其の兌(あな)を塞(ふさ)ぎ 其の門を閉じれば 終身勤せず
其の兌を開き 其の事を済(な)せば 終身救われず
人間の身体にある穴を開きっぱなしにし、その感覚を貪ると心身は消耗するが、それらをふさげば健やかに生きることができる、というわけ。まずは食を支配すること。争いはすべて食を巡ることが原因なのだ。資本主義も共産主義も、一見高尚な思想体系に見えるが、元を正せば、いかにして食うか、が起源。
対してイエスは言われた―
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。・・・ 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。-マタイ6:25-27

これは大脳生理学者であり、クリスチャンであるDr.Caroline Leaf氏のFBよりのいただきもの。次の解説がついている(翻訳はGoogleあたりでヨロシク!)。
When life gets tough just breathe! Controlling your breathing not only helps increase the flow of oxygen to your brain, it dissipates cortisol which will help you relax. Breathing deeply sends a message to your brain to calm down. Deep breathing also stimulates the parasympathetic nervous system, which promotes a state of calmness. Remember: You control your brain. Your brain does not control you!
長生きは長息。禅の基本は調息、調身、調心。生物界の一般則として、呼吸数(心拍数)と寿命は反比例する。禅の高僧の呼吸は2-3回/分になる。吐く息を長くするのだが、これがどれだけすごいか、やってみればわかる。ちなみにぼくは25M潜水を何本できるかチャレンジしているが。
霊的にも祈りは呼吸なのだ。別に「この小さき祈りを・・・」と形式ばったセリフを言わずとも、私の霊は常に呼吸している。霊とは息だ。ニッポンキ業界のクルシチャンたちはほとんど呼吸ができないから。呼吸している人としていない人はすぐにわかるものだ。
聖霊はジーザスの息である(John 20:22)。ジーザスから離れて「聖霊様~」ってやってる人、あなたの受けている霊はほんとに聖霊なの?あのベニー・ヒンですら悔い改めたでしょう(☞最近のベニー・ヒンの聖霊論)。
呼吸のコントロールにより副交感神経を活性化するとリラクゼーションができるが、これがテロメアを伸ばすのだ。瞑想も有効。われわれの場合は御言葉を思い巡らすこと。
いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/
主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。-詩編1:1-2
若さと健やかさ、そして豊かな繁栄。御言葉にはそれを実現するパワーがある✨


日本語という言語の曖昧さは良く知られている。例えば、あなたは次の節をどう理解しているだろうか?
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。-John 15:9
イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。-John 20:21
ここの「ように」は”kathos”、Thayerによると
Thayer Definition:
1) according as
1a) just as, even as
1b) in proportion as, in the degree that
父がイエスを愛したと同じ程度に、また父がイエスをつかわされたと同じ程度に、イエスは私たちを愛し、私たちをつかわすのだ。これ、マジで受けるとやばい。つまり父との子の関係がそのままイエスと私たちの関係に平行移動しているわけ。イエスは自分からは何もできず、父の言葉を語り、父のわざをなした、と証した。それにより弟子たちは驚き、またイエスのアイデンティティーを示すためであった。
私たちはどうか。聖霊が来られるとき、イエスのものを受けて、イエスの言葉を語り、イエスを証すると言われる。そのイエスは父から受けているのだ(John 14:15-26)。つまり私たちのうちでイエスが語り、またなすわざを私たちも行うのだ。ゆえに、私たちはイエスと同じ業を行い、さらにそれ以上のことをなす。なぜ? イエスが父の元に行くからだ(John 14:12)。イエスはダイレクトに父から受けて、聖霊により私たちに伝達する。
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。-John 14:10-12
“Just AS JESUS”-この節の意味は絶大である。

W.ニーによる”The Spiritual Man“の続編とも言える書。アダムはもともと神に似せて、神の様に創造され、地と生物を統治する能力を得ていた。彼の堕落以前の能力は、現在の私たちの能力と比すると、ほとんどスーパーナチュラルなのだ。が、堕落によってその能力は魂のうちに封じ込められた。これがある種の人々においては肉体の制限を破って出現することがある。これがいわゆる超能力だ。私たちには、ある種のスーパーナチュラルな現象と見える。いわゆるしるしや不思議を追求するクリスチャンも、これらの魂の潜在能力による現象を、聖霊によるしるし・不思議と混同する向きがある。
W.ニーはここで警鐘を鳴らす。クリスチャンにとってのしるし・不思議はあくまでも私たちの霊を通して聖霊が働かれる結果であり、自分の魂の潜在能力が発揮された結果ではないと!前者は新創造から生み出されるものであり、後者は旧創造のものに過ぎない。しかもしばしばサタンがその手助けをしている。サタンは再生されたクリスチャンの霊にはタッチできないため、魂に働きかけて、その潜在能力を煽る。その目的は、神に頼りつつ、神の栄光を求めるのではなく、自分の栄光を追求すること。もっと言えば、自分を神とすること。サタンの根本的動機はそこにあるのだ。
今日、終わりの時代において、いわゆるしるし・不思議、さらに奇跡などを求める傾向がどんどん強まり、実際にその現れもこれまでになく頻度を増す。しかし、この霊による現象なのか、魂による現象なのか、この識別がきわめて重要なのだ。まことに反キリストはこの魂の潜在能力によって大いなる業をなすのだから。ここでも鍵は、霊と魂の切り分けにあるのだ(Heb 4:12)。
私がこのところ強調しているスーパーナチュラルは、もちろん魂を否むことによる霊からのもの、それは聖霊による。その聖霊の働きを阻害するのがむしろ魂のマインド(思い・知性)なのだ。だから、マインドのトランスフォーメーションが重要になる(Rom 12:2)。それは十字架によるのだ。すなわち魂の能力をあえて否むこと(Luke 9:22-23)。最近、Dr.Lukeはやたらとスーパーナチュラルを連発して、危ない傾向に入っていると思われる向きがあるようだが、私は根本を外していない。私が求めるスーパーナチュラルは新創造のもの、つまり霊からのものであり、魂の超能力によるものではない。表層的な判断はなさらないようにお願いしたい。
そもそも、「霊の再生」にしろ、「聖霊の内住(もちろん父と子も)」にしろ、「体の変貌」にしろ、すべてはスーパーナチュラルな現象なのだ。元より聖書はスーパーナチュラルな世界を提示しているのであって、それを物理的時空間において五感だけを頼りに解釈したり、御言葉を”解き明かし”たりするために、真理が毀損されるのだ。かくして三浦綾子や遠藤周作の彼らのマインドにはまる文学の世界に矮小化、あるいは歪曲化される。時には神学化も。
スーパーナチュラルな神はすでに天を裂いて、地に介入されている。神の国のサブスタンス(実体)がすでにこの物理的時空間に介入しているのだ!(Matt 12:28)私たちの霊は神の国へのポータルであり、私たちはイエスというポータルを通して、出たり入ったり、つまりこの物理的時空間と霊的世界を行ったり来たりすることができる存在なのだ。つまり神の国と地との狭間に存在する、新しい創造、ニュークリーチャーなのだ!

「聖霊様の油注ぎ、油注ぎ」と強迫観念的にソレを求め、タテノリのガチャガチャサウンドをがなり立てる様子は、ある種、バアルの祭司たちの様を彷彿とする。
彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。・・・真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。-1列王記18:26-29
その様を私はかねてより「リバイバル音頭」と呼んでいた。今後、否、すでにニッポンキ業界は大いなる偽りに堕ちる/ている。かのベニー・ヒンですら、「聖霊様、聖霊様」は過ちであると悔い改めた。聖霊はジーザスを証しする霊、「ジーザス・アンリミテッド」だと。キリストは今どこにいますのか?
今こそ、外なる何かではなく、内なる塗り油[1]これ自体が邦訳は誤訳。「注ぎの油」ではない!の教えるとおりに、キリストに留まる時なのだ。外なる現象を追いかければ必ず欺かれるであろう。内なる声を聞くこと。フェイスは聞くことによるのだから。
–御霊と人の関わりについて―油注ぎと油塗り-
–油注ぎと油塗りについて


よく「イエスの名によって祈ったのにそのとおりにならない」と言う人がいる。彼らはとんでもない誤解をしているのだ。それは単なるラベルではない。ジーザスのパースンの中で祈ること。もっと言えば、ジーザスがあなたを通して祈るのだ。だから真に御名によって祈るならば、百発百中。そのために聖霊が与えられた。彼はジーザスの言葉とわざを、つまりジーザスのメモリーを私たちのうちに実体化してくださるのだ(John 14:26;16:13-15)。ジーザスが生きるので私たちも生きるのだ(John 14:19)。ゆえに聖霊は今や、イエスの御霊とかキリストの御霊と呼ばれる(Acts 16:7;Rom 8:9;)。ここでも父・子・聖霊のダイナミクスがカギとなる。彼らはバラバラの存在ではない。有機的に調和の中で機能するのだ。まことに
神のフェイスを持て。-マルコ2:20
生きているのはもはや私ではなく、キリストである。今、肉(=体+魂)にあって生きている私は、私のためにご自身をささげてくださった御子のフェイスによって生きている。-ガラテヤ2:20