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フェイクの時代を生きるコツ

上のウォッチマン・ニーの言葉にもあるが、バビロンの本質はフェイクである。黙示録の見せるバビロンには政治経済的側面と霊的宗教的側面があるが、現代は共に混合して壮大なバビロンが全地球を覆い尽くしている。もうこの10年近く言い続けているが、現代は壮大なフェイクの兆候を見せられている時代だ。"911テロ"をアメリカ政府調査報告書どおりに信じている人々には、その"信仰"をあえて否定するつもりはないが、あまりにもナイーブだ(英語の意味ですよ、辞書を牽いて下さい)。

これはキリスト教も同じ。キリストはキリスト教の教祖でもなければ、創始者でもない。キリストとキリスト教の相違を見抜けない人は、現在のまた今後のクリスチャンの振るい分けをクリアできないだろう。彼らのナイーブな"信仰"は容易に頓挫する。キリスト教は、それ自体が壮大なフェイクに過ぎないのだ。よって現ニッポンキリスト教に生息する自己実現のために信徒を搾取する牧師たちも、また彼らの悪行をヒステリックに告発する自称被害者側も、それ自体がキリスト教の病理の兆候であり、所詮はフェイクに過ぎない。共に病理を抱えている。

これはいわゆるボランティアとか福祉現場でよく見られる現象であり、仕える側も仕えられる側もしばしば同じ病理を抱えているのだ。だからその関係はきわめて複雑かつ奇奇怪怪なものとなる。イジメっ子とイジメられっ子も、DV夫と妻なども同じ。彼らはその病理的関係において、実は自己確認の作業をしているだけなのだ。そして延々と強迫反復的にそれを繰り返す。自分の病理に気がついた人はそこからの解放の手がかりを得るが、共に自分が何をしているのか、また求めているのかすら、なかなか理解できないのだ。と言うより、その病理がアイデンティティの中核にあるゆえに、それから解放されることは自己喪失を意味するため、そこからの解放を、実は自分自身が阻止するのだ。互いの関係において束縛され、また相手をいたぶり、また逆に怒りなじることにより自己確認をしているのだ。何と言う狡猾な自己欺瞞!

かくてフェイクはどこまでいってもフェイク。キリスト教の虚しさに気がつき、自分のまことの必要に目覚めて、そこから離脱し得た者は幸いだ。リアリティはキリストご自身なのだが、これを知ることはオツムが神学や理屈で充満したキリスト教の住人たちには存外困難なことのようだ。キリスト教会とエクレシアの相違にもぜひ気がついて欲しい。自己欺瞞を抱えたニッポンキリスト教は今後互いに食い潰しあって内部崩壊し、メルトダウンすることだろう。否、すでにそれが始っている。その中に束縛されたエクレシアに対して、私はしつこく警鐘を鳴らし、そこからの離脱を勧めてきた。が、そろそろ私の役目も終わりつつあるように感じている。

私は今後、否、これまでどおり、私に与えられた資質と資源と時間などを用いて、許されるだけ人生を楽しむことに熱中したいと願っている。・・・と言うわけで、今朝もβ-エンドルフィンとセロトニンをたっぷりと堪能した次第。で、驚いたのが、蜘蛛の業。実は昨日蜘蛛の巣の支点となる糸をいじわるにも切っておいたのだが、何と今朝はちゃんと修復されている!?蜘蛛の神経回路(ニューロンはさほど多くはないだろう)はどのように空間認知をし、どのようなアルゴリズムで糸を張り、また修復するのだろう。これは実に驚くべきこと。自分の悲惨の中でも自分の正しさと自己の義を頑なに主張するヨブに対して-

主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。

わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。

基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。天の法則を知り/その支配を地上に及ぼす者はお前か。誰が鴇に知恵を授け/誰が雄鶏に分別を与えたのか。

Dr.Luke的には「誰が蜘蛛に知恵を授け、誰が雄蜘蛛に分別を与えたのか」とつぶやいた今朝であった。小さな当たり前のことに感動できるならば、あらゆるところに神の良き御心を見て、神が私たちを楽しませ、喜びを備えてくださる方であると知ることができる。

追記:『文藝春秋十月号』の記事「一度は田舎に帰って畑をたがやそう」で元東大医学部教授の養老猛司先生がこう言っておられる:

 一日一回、十五分でいいから、ムシでも木の葉っぱでもいい、人間がつくったものではない自然を観察してみてください。たとえば葉っぱは、お互いが陰にならず、日照時間が最大になるように並んでいることが分かります。
 人間がつくっていないモノや事象にもそれなりの意味があって存在している。それを眺めるところから、人生の問題へのヒントを見つけることもできるんじゃないでしょうか。そういう生き方・考え方が、精神的・時間的なゆとりを生んでいくのだと思います。

養老先生はその著書『唯脳論』で分かるとおり、徹底的な物質還元主義者ですが(精神現象一元論者)、実はローマ書にある、被造物において知られている「神性」に触れているのですね。その先生が真の豊かさはGDPでは計れないとおっしゃっている。実に面白いことです。

 * * *

さて、話はがらっと変わって、最近、矢沢がイイっす。娘と競演のCM-『秋・豊かな時間編』。娘たちと酒を飲む楽しみ・・・。何だかかつての尖がったツッパリ、今は円熟のYAZAWAパパの気持ちがよーーく分かるDr.Lukeではあります^^V

Comment

meek

>その病理がアイデンティティの中核にあるゆえに、それから解放されることは自己喪失を意味するため、そこからの解放を、実は自分自身が阻止するのだ。

今なら、私にも理解できる思いがします。そして、逆から表現しますと、「真のキリストにあるアイデンティティを自らの中核に得るならば、すべてのフェイクから解放される道を得る。」とできるのではないかな、と思います。

私自身の体験では、バイブルカレッジ「御霊による成長」コースの心理テストをしてみた結果、あまりにも病んだ自分の結果に愕然としました。

しかし、同時に平安を感じました。それは、どんな結果が出たとしても、それは大脳の古い部分に残る痕跡に過ぎず、私の真のアイデンティティはそこには無い、と思えたからでした。

そして、この平安の土台に座しながら、現実レベルでの具体的な対応を為してゆくことができているように思えます。

最近、you tubeで、催眠術にかかっている人の表情を興味をもってみました。目の焦点があってなくて独特の表情ですね。催眠術にかかっている人は現実から遊離して、自己の心の内的世界の中を、術者の暗示にゆだねているように感じました。それはまさにフェイクなのだと感じました。

  • 2009/09/12 20:08
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Luke

おっしゃるとおりです。今日のニッポンキリスト教、リバイバル音頭を躍らせる側も、乗せられる側も一種のユーフォリア状態にあるわけです。辺縁系の偏桃核の興奮に対して前頭葉の抑制が効かない状態です。そしてこれはヒステリックに告発する人々も同じ。神の名と正義の仮面をかぶればニンゲンは何でもなし得ることは、キリスト教の歴史が証明するところです。その意味で現代も中世の暗黒時代とあまり変わりがないのですね。自分自身の病理に気がついた人は幸いです。

  • 2009/09/12 20:31
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zion

この業界(カルトも含む)で強かに生き残るコツは、付かず離れずです。
長老や役員に誘われても丁重にお断りすべきです。絶対に引受けてはなりません。

では、なぜ、籍を置いているか?
答えは単純。冠婚葬祭の時に困るからです。こう言う向きは結構多いですよ。

  • 2009/09/14 21:51
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